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『国会炎上 1933年ドイツ現代史の謎』 3 国会議長公邸から国会議事堂へ通じる地下道はあった!

2013年05月07日 | ドイツ国会議事堂炎上・ヒトラー

ヒトラー・ナチス政権下で1933年2月27日に起きたドイツ国会議事堂放火事件において、最高裁の裁決は、オランダの青年ファン・デル・ルッペの死刑判決、ルッペ以外の、ドイツ共産党国会議員トルクラー、ブルガリア人共産党員ディミトロフ、ポポフ、タネフの3名、計4名は無罪。

国際社会と記者団たちが監視するなかで、終わってみれば、大々的な国際共産党の陰謀キャンペーンどころか、ヒトラー・ナチス国家自体の自作自演の陰謀を深くにおわせる三文芝居となってしまった。その後ドイツが第2次世界大戦で敗北し、戦後になるまで、真相は闇の中であった。

しかし戦後、思わぬところで、闇に一条の光が射す証言があった。事件当時国会議長公邸でボイラーマンだった人物の証言が出てきたのである。

今回は、このボイラーマンの証言について四宮の指摘をたどる。

元国会議長公邸のボイラーマン、ハインリヒ・グルーネワルトは、1967年春のテレビ放送で、35年昔の国会炎上をめぐる討論番組を見ていた。これを契機にして、

事件当時国会議長公邸地下の集中暖房室で、ボイラーマンだった時の体験を想い出し、詳しい体験記録を書き上げ、テレビ討論者の複数犯行論の人たちに人を介して、資料を提供したのだった。

当時の自分の職務、作業分野、施設や暖房装置の実情など、記憶と体験を綴ったものである。

グルーネワルトの記録は ホーファーの『国会炎上』 2巻1972年 にあり、 四宮は、これからの引用をしている。

 新築の議事堂1894 四宮前掲書より

国会議事堂の暖房装置

元国会議長公邸のボイラーマン、ハインリヒ・グルーネワルトの体験証言の前に

まず、国会議事堂の暖房装置の設置経緯を説明している。これを記しておく。

「もともと、建造の当初から、遠隔暖房の方式の計画をもって考案されていた。火災の危険に備えるとともに、石炭のの貯蔵・運搬や、そのための要員の作業のための空間を設けるという実用面ばかりではなく、建物の美観という面からも、施設に必要な高い煙突が国家の代表的な建造物の印象をそこなわないためという配慮があった。だから国会本館から、東より約100メーターの位置にボイラー棟を建設し、そこから熱せられた蒸気を太い、二本の導管を通じて、国会本館に送り込むという仕組みで、導管はボイラー棟から、すぐ地下トンネルに導入され、暖房係が管理や手入れのための通交が十分な空間をもったこのこの大地下道は、そこから一直線に国会地下へと貫通させる計画になっていた。

当初の計画は、敷地の関係で見送られていたのだが、それが具体的になったのは、1896年のことで、ちょうど国会の東正面、ゾンマー街と国会河岸通りの間に恰好な敷地が得られることになったからだった。

この敷地からすると、国会のための既設の、集中暖房用ボイラー棟は、ドロチーン街の方へ少し曲がり込んだ位置に当たることになるが、間もなくそこに接して、照明用の自家発電所も附設された。」 (Hofer,W,.国会炎上 2巻222)(四宮381-384p)

国会議長公邸

議長公邸が、こうしたボイラー棟や、発電所などを付属施設として、取り込んだ豪壮な総構えになったのは、その後1904年のことだった。公邸の建物自体は、ゾンマー通りまでぎりぎりにまで及んでいたが、構内はひろびろと北側のシュプー河岸通りに向けて庭園が開け、光と空気が存分にふりそそぎ、建築学的にも、申し分のないたたずまいだった。

本館の北側やや引き込んで車庫があり、その上階は、「宴会の間」 となり、、階段で、直接庭に通じていた。・・・

特に庭園が河岸通りに沿っていて、めぐらされた高い塀で、外部からの人目をさえぎっていたことは、言われている国会大火の前日あたりからのSA連中の出入りにも好都合だったに相違ない。

国会議事堂の当初から設計された、遠隔暖房装置は、ボイラー棟を起点として、国会に至る100メーター余の導管を導く地下トンネルの大部分が、議長公邸の新設・拡張とともに、その広大な構内に取り込まれてしまったわけだが、特にゾンマー通りの地下をくぐる直前で、その一翼棟の地下を中継点のように通したのは、もちろん国会と公邸とに共用するためだった。

ただ 利用時間が不規則で、寒い冬季でも必ずしも常時暖房を必要としない国会とは異なり、議長公邸の方には、寒季の常時暖房は当然の必要である。さりとて、公邸のためだけに本管を開けっ放しにもできないので、公邸用には、もう一つ特別な、温水暖房施設が取り付けられ、公邸地下は第二のボイラー室となり、トンネルとは幾つかのドアで連絡された。こうして、この公邸地下ボイラー室には、本管からの蒸気配給機のほかに、1000リットル・ボイラー1機と、別に小さいコークス炉が据え付けられた。さらに補充用に、隣のもう一つのボイラー室には、めったに使わない室、わけても、「宴会の間」などの暖房のために、特殊な温風装置も設けられていた。 (四宮 前掲書384p)

 

 ▲ドイツ国会議長公邸1階 平面図  黄緑色のマークの部屋が、2階宴会の間の真下にあたる。10 と数字が打たれたピンクの太い線は、国会議事堂にもつながっている暖房用のトンネル。修理管理用も兼ねているので、人が通交できる。公邸右下の矢印はこの地下道がこの図面の先(西隣)にある国会へとつながっていることを示している。(注 黄緑色・ピンクのシール添付はブログ主による)

(ホーファー『国会炎上』2巻220ー221頁) 四宮恭二 『国会炎上 1933年ドイツ現代史の謎』 382p~383p) (ブログ主 注 下の2階図面も、出所は同じ文献による)

国会議長公邸ボイラーマン ハインリヒ・グルーネワルト は、当時国会議長公邸地下の集中暖房室での体験を記録に留めた。

 

  ▲ 黄緑のシールを貼っている 4 と記されている部屋が 問題の「宴会の間」である。ここに警備員を装った人物たちが、国会炎上前から数日間にわたって潜んでいたと考えられる。このときのことが、戦後1967年、グルーネワルトにより証言としてもたらされた。四宮が指摘するように、2階の「宴会の間」は国会議長公邸の庭園から、階段を通して出入りすることが出来るのである。おまけに、庭園のシュプレー運河側の道路沿いには高い塀があり、公邸を指揮下に置く限り、外部からは見えることなく、人間を公邸内に導くことができるのである。ヒトラー政権下の国会議長は、プロイセン内相でもある、あのヒトラーの盟友ゲーリンクである。国会議長公邸であるから、公邸内の警備体制や人事にもヒトラー政権後大きく変更を施している。その裏工作と思われる一端も、13年もボイラーマン一筋で生きてきた、職人一徹の老グルーネワルトが証言している。

 

 ▲ 国会議長公邸・国会議事堂の位置図  

(前掲著書ホーファー『国会炎上』2巻220頁) 四宮恭二 『国会炎上 1933年ドイツ現代史の謎』 380p) 

 1 が国会議事堂  2 が国会議長公邸  3 ゾンマー通り   4 シュプレー運河

 

グルーネワルトの証言

 「放火犯人たちは、国会大火前の数日、または数週間にわたって、かなり準備行動をしたに違いない。なぜなら、守衛のアーダマンの言うことに、かれは深夜たびたびトンネルから、人の歩く物音を聞いたというのである。

トンネルの途中には、二本の水道管が、交差するように突き抜けているところがあり、そこを不注意に強く足で踏むと、物音は守衛詰所まで反響したらしい。そこで、守衛のアーダーマンはいったい夜の夜中に誰が地下道を駆け抜けるのかをかぎ出してやろうと思って、鉄板の下に何本かのマッチ棒を置くとともに、地下道が、国会地下室へ、通ずるドアにも、同じように糸を結びつけておいた。

翌朝彼が調べたところ、マッチ棒はぽきんと折れていたし、二つのドアに結びつけた糸はぷっつり切れていた。ところが不思議なことに、もう一つ、トンネルの起点であるボイラー棟との間の扉に仕掛けておいた糸だけは、いつまでも何ともなかった。

アーダーマンは、多分国会事務総長、ガレーには、報告したと思うが、私(グルーネワルト)にも話していた。そこいら中に、何となく不安が広がり、こうした観察は真剣に受けとられた。

もう一人の守衛も知っているが、似たような観察を話していたのを、私は知っているが、名前は今では思い出せない。

初め我々は泥棒が忍び込もうとしていたのだと思った。国会の図書室に深夜明かりがついているのを見たという者もいたし、本がいくらか無くなっているということも聞いた。後には、図書室に放火の「ための石油が隠されていた、という放しも聞いた。こんなことを繰り返ししゃべっていた国会事務職員、ノイマンとかいう一女性が、、最初に免職され、何年か後には、総統を誹謗したかどで、十年の懲役に処せられた、という話も後日知った。

見知らぬ警備員が何人か新たに入ってきたらしいのを知ったとき、アーダーマンはやっぱりトンネル内に何かあると考えた。時間交替でトンネル勤務につく同僚に対して、私も、 よく気をつけろよ と声をかけたことだった。その同僚の名を今思い出せないが、彼は火災後に免職された上、逮捕された。以来私は彼の姿を二度と見なかった。我々は彼をフルンキーと呼んでいた。

彼は共産主義者ではなかったが、関係組織のメンバーだった。姓はウィルモフスキーとか、ウィルコフスキーとか言い、名はアントンとか、ハンスとか言った。(ほんとうはJohannes Wittkowskiだった。)

ところが、ある証人の申し立てによると、このフルンキーは、共産主義者たちと結託して、火災を準備したというのである。彼ら共産主義者たちは、すでに火災の前から、彼に眼をつけていたことは明らかだ、というのだ。しかし、建物内には、いつもいぬ(刑事)がいた。

ヒトラー政権後、技術的な業務部門に急にずぶの新米が現れたので、このことは目立った。そのころ現れた警備員たちは、何かしらこれらの新米と結びついているらしかった。彼らはだから、フランキーに罪をきせて、ワイマール共和国が続いている間に、共産主義者たちが、随所に巣をつくっていたことを示そうとしたわけだ。

彼らは、二匹の蠅をいっぺんでひっとらえようとしたようなもので、アーダーマンの観察をトルクラー(ドイツ共産党国会議員)一味仕業に帰する一方で、暖房係は、共産主義者の犯罪に手を貸した、と言おうとするわけだった。

事実フルンキーは、警備員たちと本階の「接待の間」で、世間話をした交わしたことさえあり、また暖房が程よくきいているかどうか加減を伺うために上階に上りもしたという。このことを、同僚のクリューガーは私(グルーネワルト)に話した。

2月28日(国会炎上の翌日)私が国会に行き、もう仕事に就くに及ばぬことを知り、フルンキーが、今朝捕らえられたことを聞いたときは、われわれは雷にうたれたようにびっくりしたが、

フルンキーと交代で議長公邸の地下暖房室で働くことになっていた私の驚きはまったく格別だった。われわれ二人は二日交代で、「宴会の間」(Festsaal)の下の温風施設を受け持っていたので、、私は、ナチどもが、おそらくアーダーマンの観察と結びつけるつもりではないかを恐れた。その上、彼らは、トルクラーとも関係づけようとしていた。すでに28日に、私は同僚からトルクラーが国会火災について嫌疑をかけられていることを聞いた。彼は火災になる直前に、国会を立ち去ったらしいのだが、すでに人相書によって追跡されていた。

われわれの仕事場だったトンネルが、放火のため、悪用された証拠があり、しかもそれが真実だったとすれば、フルンキーと私にとっては危険なことになったわけだ。なぜなら、二人は、地下室とトンネルの中で、事実働いていたのだからだ。

私は当時すでに社会民主党員だったし、元議長パウル・ロェーベの世話で、国会で働かせてもらうことになったのだからだ。共産主義者のみならず、社会民主党員までもが、何とか国会火災に因縁をつけられないとはいえなかった。だから、フルンキーが、捕らえられたとき、私もやがて順番がくることを怖れた。誰もが、おののいていた・・・・・」 (ホーファー「、国会炎上」、213-215頁) (四宮386p~389p)

例の守衛、アーダーマンが、火災のまだ1日前のことだったが、フルンキーにあの糸の実験の話をしたところによると、われわれの働く地下室は、通ずる議長公邸のドアの糸は、またもや、ぷっつり切れていたという。アーダーマンは火災の当日も同じことを私に話した。彼は非常に不安におびえていた。彼は私に何か気のついたことはなかったかと尋ねたが、私は、ただ例の警備員たちのつぶやく声だけが、しょっちゅう聞こえると答えておいた。・・・・ところが、当日の27日の交代のときに、フルンキーはわたしに、前日アーダーマンからあれこれ聞いたこと(糸の実験の結果)をしゃべったが、彼はこのことを報告するにつけても、また警備員の存在について言うにつけても、真剣に興奮の様子だった。

アーダーマンは、すでに国会火災の前の数日にわたって、類似の観察を試みたのだった。アーダーマンは、ひとつ奴らをこの眼で覗いてやろうと、あとで聞いたことだが、彼はそれを事実やったらしかった。国会がついに炎上したことを私が聞いたのは、その後のことであり、同僚クリューガーが、フルンキーがすでに捕らえられたと伝えてくれたのは、28日の昼頃のことだった。何か共産党に関係があるという嫌疑からだったらしい。

こうなると、地下室や、トンネルの中を、しかもいつも夜中に歩いていた姿なき男たちこそは、ナチの腹心の輩たちであって、あれは、火災を起こす準備をしていたのだったということは、もはやまぎれもないことだった。

してみると、私たちボイラーマンが、26日と27日にかけて暖めてやらねばならなかった相手は、放火犯人たちだけだったということになる。

警備員ににつながる一件は、むろん誰も口にすることができなかった。フルンキーは、トルクラー(ドイツ共産党国会議員)の手兵で、暖房係になりすましていたのだ、という噂だった。しかしそのまやかしはみえすいていた。

暖房係ばかりでなく、守衛長のスクラノウィッツにしても、(国会)事務総長のガレーにしても、無言をきめ込むしかなかった。彼ら国会職員たちはみんながそれほど協力な圧迫の下にあった。彼らは、その職場を失うことと、悪くするとコンツ(強制収容所)ヘ送られることを、ひたすら恐れた。

国会職員たちは、みんな、口にこそださなかったが、、あの警備員に化けていた奴らこそは、放火犯だったに相違なく、またアーダーマン足音に耳をすませたり、糸の実験で検べてみたりした姿なき男たちこそは、放火計画の準備をしていたのだということをひそかに気づいていた。

私は、戦争の終わった1945年の夏、記憶のすべてをメモするとともに、例のフルンキーという男を見つけ出そうとした。彼は東ベルリンのどこかに潜んでいるに違いなかったが、私は、ついに見つけ出すことができなかった。・・・

・・・警備員について口にすることなどあめりにも危険だった。しかし(戦後の)今日だって、あまりいい気持ちはしない。

(守衛長)スクラノウィッツは、戦後私に言った、われわれの年金が、可愛いければ、われわれはできるだけ、あの事件については、もう口にしてはいけない、と。

しかし、私は、社会民主党党員として、最後には私の知っていることを言うのが私の義務だとほとんど五十年来考えてきた。私は、自分の職場のことばかりでなく、生命も恐れたのである。、私の職場の同僚、エルハルト・ツァイロンは、西ベルリンに住んでいて、今でもすべてのことを確認することができるはずである。

彼は私と同様に、議長公邸の地下室とトンネルには、安全な道と、あまり安全でないのが一筋とあって、前者を利用すれば、犯罪も犯されかねなかった、ということを詳しく知っているはずである・・・・・・・・」 (ホーファー『国会炎上』2巻215ー217頁) 四宮恭二 『国会炎上 1933年ドイツ現代史の謎』 389p~391p)

 

 次回は 『国会炎上 1933年ドイツ現代史の謎』   四宮恭二 1984 日本放送出版協会 の最終回 

42年後の現場検証 「国際委員会」 1975年  東ドイツ政府も加わった 現場での グルーネワルトの証言  

 近日中UP予定

 

続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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