野散 NOSAN 散種 野の鍵 贈与のカオスモス ラジオ・ヴォルテール

野散 のさん  野を開く鍵 贈与のカオスモス 散種 混沌ー宇宙 想像的・歴史的なもののジャンルなき収蔵庫をめざして 

松川事件 中島辰次郎と戦後史の闇 『馬賊一代 謀略流転記』を読む その5

2014年01月21日 | 戦後秘史・日本占領期

                           ▲ 畠山清行  『何も知らなかった日本人』 祥伝社 2007

 

 ▲中島辰次郎 『馬賊一代 (下) 謀略流転記』  番町書房 1976

 

松川事件 中島辰次郎と戦後史の闇 『馬賊一代 下』 謀略流転記を読む その1では 中島辰次郎が著書で語った「松川事件」の回想のことを記した。 今回その5 では「松川事件に私はそれと知らず関係させられたと語った」1970年夏の記者会見に先立ち、畠山清行、アサヒ芸能記者とともに、松川事件の現場で記憶の検証を行いながら畠山に話したこと。松川事件に関わったという中島を除く6人のメンバーのことなどを中心に『馬賊一代 下』 謀略流転記には書かれていないこと、について触れる。 また10本以上になるという畠山清行の中島辰次郎インタビュー録音の要点(畠山の『何も知らなかった日本人』の中の中島証言要録)との相違とはなにか。現場をその時経験したものしかわからない事実というものが語られているのだろうか。

 

畠山清行の『何も知らなかった日本人』の著作の中で、松川事件の真相を語る記者会見のために、中島辰次郎・畠山清行・アサヒ芸能記者らは現場検証を1970年7月12日に行ったことを記している。

松川事件の現場に到着した中島辰次郎が1949年8月17日深夜、他の6人とともに行った作業はなんだったのか。現場検証で語った言葉を聞こう。

  ▲ 畠山清行 『何も知らなかった日本人』 祥伝社 2007 229頁より

 

 ▲ 畠山清行 『何も知らなかった日本人』 祥伝社 2007 (初版は1976年 青春出版社) 

畠山の上記『何も知らなかった日本人』や、中島の『馬賊一代下巻』の出版 が、アメリカのニクソン大統領のウォーターゲート事件の不祥事に端を発した、一連の疑惑追及で、CIAの行き過ぎた工作活動がアメリカ議会で追及され、暴露された時期にあたっていたことを指摘しておく必要があるだろう。

彼ら2人の出版の時期である1976年が、CIAの活動が表だって活動することを避け、なりをひそめていた時期にあたることは興味深い。中島は、米国が水面下実行しようとしていた南ベトナム要人への謀略工作に反対し、情報畑・工作畑から身を退く決断をしたとき、口封じに消されそうになり、書いて記録に留めようと決心したことを『馬賊一代』に記している。

日本現代史研究者・学者は、死の恐怖に怯えながら、乗り越えようと書かれたかも知れない中島のことばに、あらかじめ蓋をしているのではないだろうか。参考文献にすら二人の著書をあげていないことが多いのである。どうしてまず読もうとしないのだろうか。

松川事件無罪判決後に出版された比較的新しい松川事件関係書をぽつぽつ読み始めているのだが、研究者は謀略論・陰謀論に足をすくわれるのを恐れてなのか、その理由はわからないが、安全な消毒済みの一次的歴史資料にしか手をつけなくなってきているのではないだろうか、その懸念を強く感じるようになってきた。

「生き残って、最後に得をした者や勢力が犯人だ」 

社会の底辺からきこえてくるその微かな声に導かれて、うち捨てられたビラや、小冊子、風のたよりも歴史資料として精査・検証していくことができないだろうか?

資料や証言はもちろん括弧にいれ、すべて、疑ってみるべきであるが、また、一方、証言や手記をひとつひとつを精査するべきである。事実の一端が書いてある可能性もあるのである。無視された証言や流言にも留意する必要があるだろう。

 

中島   

「ーーー最初、私は継ぎ目板のボルトをはずした。土田に渡されたスパナは「固定スパナ」(広口と狭口の両方のはさみ口がついている長さ5、60センチのものだが、サイズがまったく合わない。それで、「こりゃア、合わないよ」 と土田にいうと、横から風間が、「自在スパナ」をだした。ところがこれも、手が痛くなるだけで、使い物にならない。そこで長さ5、60センチの「自在スパナ」を持っていた清水と交替し、カジヤ(バール)で犬釘を抜きはじめた。犬釘は、ハンマーで叩いて、いくぶんゆるめてあったので、バールの刃の方を、釘と枕木の隙間にハンマーで叩いてさしこみ、石をてこにして、足でバールの先端を踏むと、比較的かんたんに抜けた。私の抜いたのは4本で20分くらいかかった。

 ハンマーはちょっと形の変わったもので、いっぽうはハンマーだが、もういっぽうの端はマサカリの刃みたいな形をしていた。日本ではみなれないもので、これを2本ぐらい使った。カジヤは、5、60センチの長さで、いっぽう端は刃のような形をしていた。はずした継ぎ目板は、金谷川方向のものだったと思う。最初、松川寄りのほうをはずしにかかったが、途中でやめた。犬釘は金谷川から抜きはじめて、さん30本ほど抜いたと思う。(裁判記録では、「発見された犬釘は、38本」となっている。ー著者畠山)犬釘を抜いた線路の片方を10センチほどずらした。それだけのまことにかんたんなもので、それが終わると、道具やその他の遺留品の有無を、土田が念入りにしらべた。小休止した草むらでも、タバコの吸殻が落ちていないかをしらべ、道具箱をおいたり、ねころんで倒れた草を、きれいにおこして現場を去ったーーー」 証言34  (畠山 前掲書 233頁ー234頁)

 

この中島の現場での証言に対して、畠山は、過去に最初にインタビューしたときの録音テープの内容の相違を指摘している。

最初のインタビューでは、

線路を4、50センチずらした。

現場では10センチ。

継ぎ目板に関しては

現場に行く途中の車の中では

「松川方向の継ぎ目板をはずし、ねじりだしたのも松川方向の先端のように思う」

現場では

「はずした継ぎ目板は金谷川方向のものだと思う」

 

畠山が聞いた、中島辰次郎を合わせた松川事件工作者7名について(畠山『何も知らなかった日本人』より)

 

1 ミツダ(光田?)  当時27、8歳の米軍少尉で二世。通称ジョー。丸顔でがっしりした体格。背は167ー8センチぐらいで、いくぶんガニマタ気味。

2ツチダ (土田?)  25、6歳の米軍曹長の二世。通称ツーチー。細おもてで、やせ型。身長は光田よりやや低く、東京四谷の女性と結婚して、だいぶ後まで都内に住んでいた。

上記の2名は、中島がのちにキャノン機関員として、光田と土田と一緒に働いたので、よく知っているはずと、畠山は記している。

中島の『馬賊一代 下巻』の著者略歴には、「終戦後、中国軍の情報員となり、帰国後、GHQのG2、キャノン機関員、内閣調査室、韓国景武台機関などに勤務」と記している。

この経歴からして、中島辰次郎は 1、2 の光田、土田はよく知っていたことは間違いないだろう。中島の『馬賊一代 下』には山口淑子と密使イサム・野口追跡と題する章を設けて、左翼情報収集目的で、土田の運転で中島と組みになりイサム・野口夫妻をキャノン機関の5名で追跡したことが記されている。(中島『馬賊一代 下』216-236頁)

柴田哲孝著の『完全版 下山事件』 2007 祥伝社の巻頭写真ページの2ー3ページ目に亜細亜産業の社員旅行かとする集合写真が掲載されている。柴田はその中に写った集合写真から、ガーゲット機関の土山善雄と思われる人物を紹介している。

生前、中島辰次郎に、この写真を見せて、集合写真のうち名前のわからない人物に見覚えがないか、ぜひ確かめたかった。

亜細亜産業の社員旅行ではないかというが、キャノン機関のビクター・松井や、白州次郎かとする人物も紹介されている。なんとも不思議で壮観な写真なのである。

土田は細おもてでという記述があるが、確かに面長の人物が写っている。この人物が土田なのか。

土田善雄については柴田哲孝『完全版下山事件』祥伝社の243-244ページに紹介されている。長くないので引用しておく。

「土山善雄 北海道のガーゲット機関に所属するCIC軍曹。元CIAの宮下栄二郎が証言する「国鉄函館本線の浅里トンネルの爆破(未遂)を命じた人物」(土山善雄中尉)として知られ、昭和23年の夏頃にガーゲット機関のへのDRSへの移管と共に上京した。前述の鎗水徹が出入りしていた、あのDRSである。主に鉄道を利用した破壊工作のプロで、松川事件の実行犯としてもその名が挙がっている。最近この人物が亜細亜産業に出入りしていたことが確認された。」 (柴田哲孝『完全版下山事件』祥伝社2007年243-244ページ)

 ▲ 柴田哲孝 『完全版下山事件』 祥伝社 2007年

▲柴田哲孝 『完全版下山事件』 祥伝社 2007年 の巻頭写真2-3頁にある亜細亜産業の社員旅行の記念写真とされるもの

 ▲柴田哲孝 『完全版下山事件』 祥伝社 2007年 の巻頭写真2-3頁にある集合写真の人物紹介部分

柴田はこの集合写真を亜細亜産業の社員旅行の記念写真としている。の人物キャノン機関のビクター松井ではないかとしている。背が高く、額が広く眼光鋭いこの人物は、私(ブログ主)も、実質上キャノン機関を率いていたN.O.1のビクター松井であることは間違いないと思う。このビクター松井の前で肩をくんでいるグループが、キャノン機関やその連携グループの米国2世や、関連の日本人であるだろう。、上部層のウィロビー、キャノンの命を受けたビクター・松井の指揮下で動いたか、連携していた人たちと思える。柴田は7の人物土田善雄としている。畠山が中島から聞いた「細おもての顔」である。

3 カザマ (風間?) 52、3歳。中肉中背で長めの髪。びんには白いものがあった。英語は全く話せないらしく、なまりのない標準語で話していたが、ときどき神経質そうな表情をみせた。共産党関係者か?

4 シミズ(清水?) 34、5歳の、中背で肩の張った男。風間のきんちゃく的存在にみえた。

5 ノッペリ  名前のわからない二人の日本人の一人。32、3歳で背が高く、のっぺりした顔。朝鮮人くさくもあった。

6 角形  日本人。34、5歳の角張った顔の男で、身長は170センチぐらい。光田に似たからだつきをしている。

 

中島辰次郎は、この工作をした後、金谷川ー仙台ー立川ー東京 と往路で来たコースを戻り、しばらくは東京郵船ビルに軟禁されていて、、新聞雑誌を見る機会がなかったため、<ひょっとしたら、あれが松川事件ではないか>と疑いを持ち出したのは、事件後2年も経てからであったという。

1970年夏、松川事件の真相を語る記者会見を設定して、『アサヒ芸能』誌は会見を開いたものの、3大新聞には全く黙殺され、一部の週刊誌が否定的・懐疑的記事を載せただけで、この事件の真相を追求するメディアはまたたく間に消えた。

中島が、自分が関わった鉄道工作が、実は松川事件であったのを知るきっかけが実に面白い。中島は、自分の経歴にも記すように、戦前は日高機関で、中国で情報工作活動をして、敗戦後はG2-キャノン機関-内閣調査室という履歴を持つ。

したがって、情報収集・工作の仕事として、中島は『真相』という左翼系の雑誌の内偵・調査をしているうち、真相誌の斉藤記者と親しくなったのだと思われるが、斉藤記者と話しをするうち、金谷川の隣の駅が松川であることを知り、自分が関係した工作が実は「松川事件」であったことを知るのである。

「金谷川なら私も知っている」という 中島のことばに、『真相』の記者で、松川事件を調査していた斉藤記者は敏感に反応して、中島辰次郎が松川事件に関与していたことに気づき、また中島も事件後軟禁されていて、自分が参加した工作が松川事件であったことを知ったのだろう。

1949年8月14日、引き揚げ船での佐世保入港から松川事件工作まで、無駄な時間が全くないように見える一連の中島辰次郎の足跡は、1949年夏の三大鉄道事件での、政府高官の左翼謀略説の事件後間髪いれない発言に見られるように、相当前から用意周到な準備をともなう、セットとしての3大事件であったのではないか。作り話に見られるほど、用意周到に準備されていた故に、すべて虚言のように見えるのではないか?

中島辰次郎の松川現地調査での語りを 私は注目したい。

 

事件現場手前にあった鉄路に張り出した岩場の描写。

重たい道具箱を抱えて鉄路沿いに移動した語り

途中休憩した腰かけ石のこと

大槻呉服店が、複線工事のため事件当時あった場所から転居移転していたことの発見と戸惑い

今は使われていない旧金谷川小学校にある古井戸の発見、

ハンマーで叩いた後、バールで犬釘を引き抜いた作業手順

使用した道具の特徴の指摘、

これらの発言は、あらかじめ週刊誌記者や畠山清行を騙すために、事前調査したものではないように思える。

21年前の 記憶の底 からの ことばに 私は聞こえるのだが。

 

 ▲ ▼ 松川事件無罪確定以後すぐれた、松川事件の全容を扱う著書が数多く刊行され、また関係した多くの弁護士たちの著書も多い。その中で、この2冊はいまでも比較的入手しやすい、すぐれた書籍である。

また松川事件の全容、裁判過程の詳細な追跡、国民運動として盛り上がった支援活動などにも頁を割き、脅迫と威嚇による自供に追い込むことから始まった。犯行供述は、全て、威嚇による、偽りの自白を根拠としたもので、犯行に使われた証拠品もねつ造、調書なども後から差し替えするなど、警察・検察・裁判の一体化した構造が、この裁判で明らかになっている。

上の著書は伊部正之 『松川事件から何を学ぶか』 2009年 岩波書店刊 定価2500円+税

 

 ▲ 日向 康 『松川事件 謎の累積』 社会思想社 1992年刊 現代教養文庫 初版は1982年毎日新聞社刊

惜しくも社会思想社はいまはないが、初版の毎日新聞社のものを含めて、古書店には多く出回っているので、比較的容易に入手できると思う。

 

幸いに「諏訪メモ」の発見と、アリバイ証拠によって松川事件の被告らは全員無罪となった。

けれども容疑者逮捕後の脅迫・供述書改変、証拠物件変造、証拠物件隠蔽、報道メディアの追求力の脆弱さ・占領下の沈黙の内面化された国民心性など、極めて課題が山積していることが明らかになった事件でもあった。

もともと逮捕当時からアリバイがあると主張し、無罪であった被告たちが、無罪になったからといって、問題は解決したわけではない。

上の二著は、松川事件の全容を知るためのすぐれた著作であると思う。

けれども、予定の著作に与えられた枚数を超過してしまったのか、真犯人の追及については、少し触れるだけにとどまった。

裁判にかけられた、被告者たちは無罪であることは、明らかにしたのだが。

依然として、問題は残っている。

真犯人は誰か?何故に、どのような力が働き、事件の謀略が仕組まれたのだろうか。関連する下山事件、三鷹事件の未解決事件のほかにも庭坂事件、予讃線事件など未だに解明されていない事件が占領時代に頻発する。

これらの事件が解決できないまま、法治国家・まっとうな民主主義の独立国家と言えるのだろうか。占領時代は終結したと言えるのか。

占領下の事件であるということは、政治・行政・警察・司法・報道・出版など、規制と・隠蔽・策謀が渾然一体の世界であるということ。

当時存在したのはもちろん、民主政治 ではなく、オペレーション・占領統治である。

この中から、真実を探すのは、極めて困難な試みではあるだろうが、三鷹事件再審活動が再開されたように、松川事件の究明の第二幕 すなわち策謀工作の全容解明こそ、待たれるのであり、また必要なことだと考えられる。

 

上の二著の伊部正之 『松川事件から何を学ぶか』 2009年 岩波書店では、「第四章 松川事件の背景と真犯人」として また、日向 康 『松川事件 謎の累積』 社会思想社 1992年刊 現代教養文庫 初版は1982年毎日新聞社刊 の書籍では「終章」として、私も関心のある、「真犯人は誰か」また、「どのような勢力によってなのか」に触れている。

二人とも、私がブログで触れてきた「中島辰次郎」について、少しばかり触れているのだが、日向康「空言虚説」(日向康・456頁)

伊部正之「すでに明らかな事項をなぞった(学習効果)だけの可能性も否定できず、結局は彼の体験記(『馬賊一代』)を売り出すための売名行為だったのかも知れない。」(伊部正之・275頁)と、記述している。

二著が、松川事件法廷闘争の無罪確定以後の、松川事件研究書としては内容・質量ともに類書を越えた名著に属する著書だけに中島辰次郎という告白者の証言にやや冷淡で、少し結末がトーン・ダウンしているように私には見えた。

今後は、この二著の最終章から、一歩進めていかなければならないように思う。

 

この項 断続的に続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



最新の画像もっと見る