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本日の到着便 古代編 『埴輪論叢 』 2・3・6 

2015年06月06日 | 初期国家・古代遊記

                             ▲ 『埴輪論叢 』 6号 2007年5月 埴輪検討会 

 

本日の到着便 古代編 『埴輪論叢 』 2・3・6 

 

『埴輪論叢 』については5月31日に『埴輪論叢 4』 の目次構成と簡単な紹介をしたのだが、『埴輪論叢』は不定期刊で、かつ需要も多く、刊行に気づいた時には品切れで、ことごとく入手に失敗していた。ようやく、発刊から10年以上も経過し、また一部は増刷しているのか、古書店を探すと置いてある店が出てきた。

今年の6月の書籍購入予定を変更して、『埴輪論叢 』優先して、入手可能な号は押さえることに。

1号、5号を除く、今回は2号・3号・6号を入手。『埴輪論叢5』の入手はまだしばらくかかりそうなので、書庫に埋もれぬ前に、目次内容を備忘録として残す。

倭の五王と、5世紀古墳の検討には、埴輪は欠かせないし、大和・和泉・河内・三島(嶋)の王墓は未だそのすべてが、確定しているとは言い難い。古墳の形態と、僅かな遺物、そして一部公開された宮内庁所管の遺物だけでは、とても倭の五王の比定は困難である。

宋書・晋書・古事記・日本書紀・三国史記の文献に期待するのと同等に、あるいはそれ以上に

埴輪に、かなり無理な希望と期待がかかっているといってもよいのかも知れないなぁ。

かくいう私は、その無理な希望と期待を相変わらず持ち続けようと思っているのだが。

 

  ▲ 『埴輪論叢  2 』 2000年 5月 埴輪検討会

 ▲ 『埴輪論叢 2 』 目次

 

▲ 『埴輪論叢  3 』  2002年11月 埴輪検討会

 

▲ 『埴輪論叢  3 』  2002年11月 埴輪検討会 目次

小栗明彦 「全南地方出土の円筒埴輪の意義」が目をひいた。

全南地方新村里9号墳の甕棺が多数の埋葬を伴い、長期にわたる時期差があることから、小栗は副葬品のうち埋葬時期を明敏にあらわす蓋杯の編年をもとに、埴輪樹立を伴う新村里9号墳の編年をおこなった。明花洞、月桂洞1号例の埴輪と合わせ編年を下記の表のような編年案を提示している。

  ▲  小栗明彦 「全南地方出土の円筒埴輪の意義」 から 埴輪と蓋杯の年代の表 (16頁)

蓋杯と埴輪の形態・製作技法の検討から小栗は新村里9号墳は430年代を中心にした年代、明花洞古墳の埴輪は510年を中心とした年代、月桂洞1号墳の埴輪は530年を中心とした年代に比定している。

また、全南地方の前方後円墳についての理解については、「月松里型石室」を成立させた勢力のことに触れる。

月松里型石室」の副葬品には、在地のもの、百済系のもの、伽耶系のものが混在していること、そしてその中に埴輪を樹立する前方後円墳が存在することから、倭系を標榜する勢力であったと考えている。

「月松里型石室」古墳勢力が継体擁立勢力と関係を結び、百済の間を取り持つ支援を行ったことにより、倭における階層が相対的に高まり、一斉に前方後円墳を築造したと理解している。

また、韓国全南地方の前方後円墳は、5世紀後半~6世紀前半のものと一般的に理解されているが、5世紀後半にたどるという証拠はないとみている。

また光州月桂洞2号墳は、6世紀中葉まで下る可能性も指摘している。百済の遷都後、即、全南地方の百済の掌握ということでなく、今しばらく直接支配の及ばない地域もあったと小栗は考えている。

全南地方の前方後円墳の分布と埴輪の樹立は、その理解をめぐって多様な見解があるが、小栗明彦の理解は、前方後円墳以外の在地勢力との関係をも考察の対象としている。それ故、全南地域の多様で・微細な動きの把握に展望をもたらしているように見える。

 ▲ 小栗明彦 「全南地方出土の円筒埴輪の意義」 より (『埴輪論叢  3 』  7頁)

1990年代~2000年前後に、韓国で発見された、前方後円墳とその出土遺物をめぐって、研究会や、シンポジウムが数多く開かれたのだが、その後の展開はどうなっているのだろうか。

 

▲ 『埴輪論叢  6 』  2007年5月 埴輪検討会 

 

  ▲  『埴輪論叢  6 』  2007年5月

 

十河良和  「日置荘西町窯系埴輪と河内大塚山古墳」 

小浜 成   「Bb種ヨコハケの伝播過程からみた応神陵古墳の歴年代観」が気になる。

この論考の最後は、4.「円筒埴輪・須恵器からみた応神陵古墳の年代観」として、整理されている。

「応神陵古墳はBb種、ヨコハケや、Bc種ヨコハケが埴輪生産に本格的に導入されていることが確認できる最初の大王級前方後円墳」 (113頁)

「応神陵古墳の築造時、あるいは築造後でないと、他地域にBb種ヨコハケやBc種ヨコハケの埴輪は成立し得ないともいえる。」 (113頁)

「応神陵古墳の築造は遅くともTK73型式の段階には始まっていたといえ、あるいはそれを溯る可能性も十分に考えられるのである」 (113頁)

 「言い換えれば、応神陵古墳の築造時期の中にTK73型式の段階、遅くとも5世紀初頭頃を想定することは、かなり蓋然性が高いといえるのではないだろうか。」 (113頁)

 

 ▲ 小浜 成   「Bb種ヨコハケの伝播過程からみた応神陵古墳の歴年代観」 より (113頁)

 

十河は、『ヒストリア』 228号  「河内大塚山と「辛亥の変」」という特集でも寄稿している。

『ヒストリア』 228号2011年11月では

岸本直文   「河内大塚山古墳の基礎的検討」

十河良和  「日置荘西町窯系円筒埴輪と河内大塚山古墳 ー安閑未完陵説をめぐってー」

水谷千秋   「『記・紀』からみた大王陵とその改葬ー河内大塚山古墳と安閑天皇をめぐってー」

の3本の論考があり、考古学と古代文献史学が、どんな切り口で、接近を測っているのか気になってきた。

 

つづく

 

 

 

 

 

 

 



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