Good News

その日の説教で語られる福音を、ショートメッセージにしました。毎週更新の予定です。

10月22日のGood News

2017年10月22日 | Good News
「主がなさったこと」(マタイによる福音書21章33〜44節)

『マタイによる福音書』には、ぶどう園のたとえがよく出て来ます。先週の日課(20章1〜16節)もそうでしたし、今日の日課の直前(21章28〜32節)も舞台はぶどう園です。そこには父親から「ぶどう園へ行って働きなさい」と命じられた兄弟が登場しますが、最初は反発した兄が後から考え直してぶどう園に出かけたのに対して、二つ返事で答えた弟は出かけなかった…とあります。このたとえ話しを聞いていたのは祭司長や長老たちでしたが、イエスさまは彼らに向かって明言されました。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとはしなかった」。

今日の日課のたとえ話しも、イエスさまが宗教指導者たちに対して語られたものです。「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て…」とイエスさまが語り出した時、聖書に詳しい彼らはすぐに『イザヤ書』5章の<ぶどう畑の歌>を思い浮かべたことでしょう。「わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった」。神が心を込めて創られたこの世界は、さながら神の愛であふれたぶどう畑。にもかかわらず、そこに住むことを赦され、豊かに収穫するよう期待された私たちがそこを荒れ放題にしてしまっているという現実…。それゆえ預言者は嘆くのです。「主は裁きを待っておられたのに、見よ、流血。正義を待っておられたのに、見よ、叫喚。」と。

イエスさまが今日語られたたとえも同様です。主人が丹精を込めて整えたぶどう園で繰り返される殺人…それでも主人はあきらめずぶどう園に僕たちを送り続けるのですが、ついには息子まで殺されてしまいます。イエスさまがこのたとえ話しに、ご自身の受難を重ね合わせておられることは確かでしょう。しかし、イエスさまは十字架の死から復活されるのです。まさに『詩編』にあるように「家を建てる者の捨てた石」が「隅の親石」となって用いられ、神のぶどう園はますます堅固に、豊かに成長していくのです。私たちもこの神のぶどう園で、喜びにあふれて共に働くよう促されています。たとえ現実の社会は私たちの罪で破れていようとも、そこで神のぶどう畑を耕すべく召されているのです。「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命のことばをしっかり保つでしょう。」(フィリピ2章15節)