Good News

その日の説教で語られる福音を、ショートメッセージにしました。毎週更新の予定です。

7月21日のGood News

2013年07月27日 | Good News
「主の憐れみ」(ルカによる福音書10章25節~37節)

有名な『善きサマリヤ人』の話しです。ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われました。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去ります。そこへ、祭司が通りかかりました。おそらく神殿での務めを終えて、帰宅する途中だったのでしょう。すると、祭司は見て見ぬふりをして、道の向こう側を通り過ぎて行きました。次に、その場を通りかかったレビ人も然り。その人を見ると、道の向こう側を通って行ってしまいました。ところが、旅人のサマリア人は違いました。サマリア人は、そばに来るとその人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れ行って介抱したのです。そして、翌日になると、デナリオン銀貨2枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言いました。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」と。

話し終えられた後、イエスさまは律法の専門家に問いました。「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」答えは言うまでもありません。「その人を助けた人です。」律法の専門家も、そう答えざるを得ません。「そのサマリア人です」と答えられないところに、彼の忸怩たる思いがかいま見えます。彼からすれば、サマリア人は異邦人の血が混じった軽蔑すべき人々だったからです。だから、祭司やレビ人を差し置いてサマリア人がもっとも良き隣人となった!とは、言いたくないのです。

ひるがえって私たちは、イエスさまのこの『善きサマリヤ人』の話しを、どのように受け止めるでしょうか?ある人は、これを「例話」として聞くでしょう。信仰者がとるべき態度を教えられた説話としてこの話しを聞き、自分もこの善きサマリヤ人のように隣人愛にあふれた人になりたい!と思うでしょう。一方、この話をイエスさまによる「譬え話」として聞く人もいるでしょう。すなわち、罪に苦しみもだえる人間を見て憐れに思い、近寄ってくださったイエスさま御自身を譬えた話しとしてです。その場合、追いはぎに襲われて瀕死の状態に放置された人とは、他ならぬ私たち自身です。憐れに満ちたもう主は、そのような哀れな罪人である私たちの所においでくださり、癒しと、慰めと、救いを与えてくださるキリストということになります。

どちらの読み方が正しく、どちらかが間違っている-という判断はできません。イエスさまの話しというのは、私たちが限られた知識や理性によって解釈し尽くせるものではないからです。大切なことは、イエスさまからこの話を聞いた私たちが、「行って、あなたも同じようにしなさい」と促されていることでしょう。主の憐れみによって罪を赦され、あがなわれ、救われた者は、いずれにせよその恵みを隣人に伝える責任があるのです。



7月14日のGood News

2013年07月27日 | Good News
「決意を固めて」(ルカによる福音書9:51~62)

本日の福音書の日課は、イエスさまが受難と十字架の道を歩まれる覚悟を固められたことを伝えています。日課は、次のような御言葉で始まります。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(9章51節)「天に上げられる」とは、イエスさまが私たちの罪のあがないのために十字架に架かられ、死んで葬られ、復活して天に上げられる一連の御業を示しています。それら一切の出来事が起こる場所は、エルサレム。それゆえ、イエスさまはそこへ向かう決意を固められたのです。

エルサレムは、当時のユダヤ世界の中心地。壮麗な神殿とそれをとりまく宗教指導者たちがひしめく町でした。ファリサイ派、サドカイ派、祭司長、律法学者…いずれも宗教的権威を笠に着て、民衆を抑圧していた人たちです。外見上、当時のユダヤ地方はローマ帝国の属国に甘んじていましたから、宗教指導者たちもローマの支配の下にありましたが、実質上、そこに住む民衆の心と魂を抑圧していたのは、彼ら宗教指導者たちでした。神の御心を見失った律法の解釈と濫用によって、民衆に罪の束縛というくびきを負わせようとしていた彼らの教えは、イエスさまの福音とは真っ向から対立するものでした。なぜなら、福音は人々を罪の束縛から解放し、まことの赦しと自由を与えるものだったからです。

イエスさまの伝える福音は、人々を裁き、滅ぼしてしまうものではありません。然り、その福音に逆らい、敵対する者に対してでさえ!イエスさまが、御自身を十字架につけた者たちに対してさえも祈られた次の御言葉は有名です。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」そんなイエスさまでしたから、一行を歓迎してくれなかったサマリア人を見た弟子たちが「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と口走った時、イエスさまは弟子たちを戒められました。弟子たちのこの血気盛んな言動は、今日の第一朗読に登場したヨナにも通じるものがあります。ヨナは、自分の思うような宣教が出来ないことを不満に思い、ことあるごとに彼を預言者として立てた神に怒りをぶつけます。「こんなことなら、生きているよりも死ぬ方がましです。主よ、どうか今、わたしの命をとってください」と。しかし、そのたびに神はヨナを救い出し、優しく諭すのです。「ヨナよ、お前は怒るが、それは正しいことか」と。私たちは、実に正しくないことでも怒ります。否、自分では正しいと思っている--しかし、神の目から見たら明らかに正しくないことに対しても、怒りを発してしまう。恵みと赦しの神からすると、明らかにかけ離れた視点に立って、私たちは自己を主張し、弁解し、怒りを発してしまう…。イエスさまが十字架へ向かう決意を固められたのは、そのような私たちを含めて、すべての罪人を救いに与らせるためだったことを忘れてはなりません。



7月7日のGood News

2013年07月10日 | Good News
「十字架を背負って」(ルカ福音書9章18~26節)

有名なペトロの信仰告白と、それに続くイエスさまの最初の受難予告の場面です。イエスさまから、「あなたがたはわたしを何者だと思うのか」と尋ねられた弟子たちを代表して、ペトロが「神からのメシアです」ときっぱりと答えるのですが、その直後、イエスさまは御自身がこれから進まれる受難の道について語られるわけです。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。

「メシア」とは、元来「油注がれた者」という意味です。一国の民を導き、治める王となる者は誰でも祭司から油を注がれました。それゆえ、イエスさまがメシアであると告白されたとしても、そこには自分たちをローマ帝国の支配から解放してくれる強い指導者、革命家といったイメージしかなかったでしょう。弟子たちでさえ、然り。イエスさまがそうした人々の願望を一身に担ったリーダーとなってくれることによって、自分たちもまたイエスさまの側近として人々から称賛を受ける筈だ…という思惑があったでしょう。しかし、イエスさまはそんな弟子達や人々のメシア願望を打ち砕きます。そして、誰一人として想像することができなかったメシア像を提示されたのです。それは、人間の根源的な罪をあがなうために、たとえ自分が誤解され、苦しめられ、排斥されてようとも、十字架の道を歩むことによって真の救いを全うするというメシア像です。かつて旧約の預言者は、語りました。「その日、わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、ひとり子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」(ゼカリア書12章10節)イエスさまはまさに、私たちの罪のゆえに十字架を負わされ、刺し貫かれたにもかかわらず、私たち一人一人を愛の眼差しで見つめ、私たちのために祈り、憐れみの霊を注いでくださるメシアなのです。

このまことのメシアは、私たちがこの世で期待するメシアとはかけ離れています。外見華々しく、私たちにあらゆる利益をもたらす!と美辞麗句で説き伏せては、私たちに君臨しようとする偽りのメシアではありません。むしろ、この世の小さいもの、弱いもの、貧しいものに寄り添い、自らも小さく、弱く、貧しくなられ、憐れみと祈りを注がれるメシアです。他者の救いのためとあらば、自分が苦しみを受け、排斥され、殺されることも厭わない愛のメシアなのです。そのまことのメシアが、私たちに今日呼びかけられます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。私たちは、このお方に、このまことの救い主に、ついていこうではありませんか?この世の誰をもどんなものをも、自分のメシアとしてあがめないために。



6月30日のGood News

2013年07月03日 | Good News
「安心して行きなさい」(ルカによる福音書7章36節~50節) 

イエスさまが罪深い女を赦された物語です。それは、ファリサイ派に属するシモンの邸宅での出来事でした。シモンはイエスさまと一緒に食事をしたいと願い、家に招いたのです。当時、金持ちや土地の有力者が催す祝宴は公に開放されていたので、一般人も足を踏み入れることが許されていました。それで、女もこっそりシモンの邸宅に入ってきたのでしょう。ただただイエスさまにお会いし、その御前に跪きたい一心で。

この「罪深い女」が誰で、またどういう意味で罪深いのかまでは記されていません。先日、幼稚園の園内研修の際に見た『二人のマリア』という映画では、この罪深い女を「マグダラのマリア」になぞらえていました。福音書では、マグラダのマリアはイエスさまから7つの悪霊を追い出してもらった後、イエスさまに従って十字架まで見届けたことになっています。その「マグダラのマリア」と今日の福音書に登場する「罪深い女」とが同一人物であるかどうかはともかく、女が「罪深い」と言われているからにはそれなりの理由があったのでしょう。おそらく、身を売って生活をしていたのではないかと思われます。

この女の登場を、シモンが白い目で見ていたことは想像するだにありません。ファリサイ派から見れば、徴税人や遊女は罪人同然だからです。しかも驚いたことに、女はイエスさまのもとに近寄ると、その足を涙でぬらし始めたではありませんか。さらに、女はイエスさまの足を自分の髪の毛でぬぐうと、今度は足に接吻して香油まで塗ったのです。シモンは、思いました。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人かわかるはずだ。罪深い女なのに」。シモンが思ったとおり、イエスさまはすべてをご存知でした。この女が一体誰で、どんな人なのか、どんなに罪深い女なのか。だからこそ、女がするままにさせたのです!自らの罪を悔い、悲しみ、嘆くこの女をイエスさまはそのまま受け止めてくださったのです!女に、罪の赦しと救いを与えるために。「あなたの罪は赦された」。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。

私たちは、果たしてこの女のように自らの罪に嘆き、悲しみ、おののくことがあるでしょうか?主の御前に跪いて、涙を流し、赦しを願うことがあるでしょうか。むしろシモンのように自分の罪は棚に上げて、「この女は罪深い女なのに」と誰かを指差すことの方が多くはないでしょうか?第一の日課『サムエル記(下)』11章26節以下に記されていたダビデも、まさにそうでした。然り、私たちは他者の罪には厳しいものの、自分自身の罪にはなかなか気付かないものなのです。しかし、ダビデは偉かった!預言者ナタンに自身の罪を指摘されると、「わたしは主に罪を犯した」と悔い改めたからです。私たちもダビデのように、イエスさまの前で泣きじゃくった女のように、罪の告白が出来るでしょうか?