Good News

その日の説教で語られる福音を、ショートメッセージにしました。毎週更新の予定です。

8月28日のGood News

2011年08月29日 | Good News
「主よ、あなたでしたら」(マタイ福音書14章22~33節)

イエスさまが湖上を歩かれた物語です。舞台は、ガリラヤ湖。かつて漁師をしていた弟子たちも、よく知っている場所です。ところが、この日ばかりは勝手が違いました。先に向こう岸へ行くようイエスさまに言われ、舟を漕ぎ出してみた弟子たちでしたが、逆風のため進まないのです。普段は穏やかな湖が、この日ばかりは姿を変えて彼らを翻弄します。

疲労困憊した弟子たちに、さらに思いがけないことが起こります。なんと、イエスさまが湖上を歩いて弟子たちの所へ来られたのです。「幽霊だ」。恐怖のあまり叫び声をあげた弟子たちに、イエスさまはすぐに語りかけられました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と。イエスさまの声を耳にした弟子たちは、どんなに安堵したことでしょう。ペトロなんかはすっかり嬉しくなって、一刻も早くイエスさまの所に行きたくなったようです。「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いてそちらへ行かせてください」。思わず、そう口走ります。そのペトロの願いに対して、ひと言「来なさい」と答えられたイエスさま。マタイ福音書のみが伝えているイエスさまとペトロのやり取りです。

私は、このペトロの一歩を踏み出す勇気に、注目したいのです。なぜならその勇気は、一刻も早くイエスさまに近づきたいと願う信仰に、裏付けられていると思うからです。もちろん、そうやって一歩を踏み出した直後、ペトロは強い風に気がつき、「主よ、助けてください」と叫び、イエスさまから「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱責されてしまうのですが。しかし、そうだとしても、「主よ、あなたでしたら、そちらに行かせてください」と言った彼の言葉もまた、偽りのない心からの願いだったと思うのです。

私たちは、とかく目の前の過酷な現実を目の当たりにして、打ちひしがれ、うつむいてしまいがちです。それを変えられない自分の力の限界を思い知らされ、あるいは変えようともしない周囲のせいにして、事無きを得ようとします。しかし、それでは何も始まらない。むしろペトロのように、「主よ、あなたでしたら、あなたがそこにおられるのでしたら」、私に一歩を踏み出す力を与えてください、と祈り求めることが必要ではないでしょうか。失敗してもいい。信仰が薄くても構わない。いざとなれば、イエスさまがすぐに手を伸ばして助けてくださるのですから。さあ、勇気をもって、一歩を踏み出しましょう。



8月21日のGood News

2011年08月21日 | Good News
「すべての人が満たされて」(マタイ福音書14章13節~21節)

本日の福音書の日課は、イエスさまによって5000人もの人々が養われた出来事です。時は、夕暮れ。イエスさまの所に押し寄せてきた群衆が、空腹感を覚え始めました。弟子たちはイエスさまに進言します。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」。弟子たちの提案は、至極真っ当なものだと思われます。しかし、イエスさまの答えは意表をつくものでした。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」。弟子たちは、耳を疑ったことでしょう。えっ、我々の手でこれらの人々に夕食を?ここには、わずかにパンが5つと魚が2匹しかないのに…。弟子たちはうなだれつつ、ありのままに答えるしかありませんでした。しかし、イエスさまは「ここ」にこだわられます。人里離れた「ここ」に。5000人もの空腹の人々がへたりこんでいる「ここ」に。何も出来ずに無力感にとらわれている弟子たちが立ち尽くしている「ここ」に。「それをここに持ってきなさい」。そうして、驚くべき御業を示されたのです。

この福音書を書いたマタイの関心事は、5つのパンと2匹の魚を「ここに持ってきなさい」と言われたイエスさまご自身の御言葉にあります。弟子たちは、ここから去ることしか考えていませんでした。人里離れたこんな所には、何もない。自分たちも人々を養えるような蓄えは持ち合わせていない。つまり、ここには何もない、だから、ここを立ち去るしかない、と。しかし、イエス様はそうではありませんでした。「それをここに持ってきなさい」。あなたたちが十分とは思わないそれらのものを、ここに持ってきなさい!この私のところに持って来なさい!私たちにとっては取るに足らないとしか思えないものであっても、イエスさまはそれを想像もできないほどの豊かな恵みへと変えてくださるのです。

それゆえ、私たちもイエスさまのみもとにすべてを持っていきましょう。たとえ私たちにとっては、あまりに小さな、些細な、僅かなものであったとしても、すべてを益として下さる主イエスを信じて、主の御前にそれを差し出しましょう。たとえ自分自身の限界や無力さを思い知らされたとしても、そんな自分をそのまま主イエスに委ねましょう。その時、主は確かに働かれ、私たちのすべてを満たされるのです。



8月14日のGood News

2011年08月15日 | Good News
「天の国のたとえ」(マタイ福音書13章44~52節)

今日の日課のたとえ話しは、「天の国」の素晴らしさを語るものです。畑に宝が隠されている。その宝を見つけた人は、喜び勇んで帰り、持ち物をすっかり売り払って、宝が隠された畑を買う。あるいは、良い真珠を探している商人がいる。彼は高価な真珠を一つ見つけると、持ち物をすっかり売り払って、その真珠を買う。「宝」にせよ「高価な真珠」にせよ、それを見つけた人は、自分の持ち物をすっかり売り払ってまでもして、それを手に入れる。自分が大切にしてきたものを手放してまでも、手に入れたい「宝」。それが「天の国」には隠されているという話しです。

「宝」とは、イエスさまが語られた「福音」です。実にイエスさまは、私たちに福音をもたらすために、この世に来られました。福音は、私たちの罪を赦し、私たちに救いをもたらし、私たちに永遠の命を約束しています。その福音を信じる者が招き入れられる所が、「天の国」なのです。それは、空のかなたにあるのではありません。イエスさまの福音を信じる者の所に、既に「天の国」は来らんとしているのです。それゆえ、イエスさまは言われました。「天の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。

今や、天の国は近づいた。その証しとして、真の宝が、ここに埋もれている。私たちが手にすることのできる最も価値のある宝が、ここにある。イエスさまが語られる福音の中に、それがある。しかし、残念ながらそのことに多くの人が気付いていない。だから人々は、さほど価値のないものを宝だと思い込んで、それらを手に入れようと血眼になっている…。そのような有様を見て、イエスさまは今日このたとえを話されたのだと思います。

現代社会に生きる私たちもまた、多くのものを頼みとし、宝にしようとしています。より便利なもの、より快適なもの、より豊かな財力、いつまでも健康な体、広い知識、多くの名声、そして自分を愛してくれる人…しかし、それらが不意に取り上げられる-否、取り上げられるだけならまだしも、それらが時として刃を返すように私たちに襲いかかることさえある-ということに、私たちは気付き始めています。このような時代に、今、私たちが本当に求めるべきものとは、一体、何なのでしょう?私たちは、何をかけがえのない「宝」とすればよいのでしょう?その問いに対して、聖書は確信をもって一つの答えを提示しているのです。



8月7日のGood News

2011年08月08日 | Good News
「刈り入れの時まで」(マタイ13章24~30節) 

イエスさまが語られた「毒麦のたとえ」です。ある人が良い種を畑に蒔いた。ところが、人々が眠っている間に何者かがやってきて、畑の中に毒麦の種を蒔いて行った。芽が出てくると、良い麦に混じって毒麦も現れた。それを見た小作人たちが主人の所へ行って、毒麦を抜き集めてきましょうか?と進言したところ、主人は「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と答えられた…という話です。私たちはこの話を聞いて、毒麦が出て来たなら、ためらうことなくさっさと抜いてしまえばよいのに…と思ってしまいがちですが、このたとえ話に登場する主人は、なんとも大らかというか、気が長い!この主人が、神をあらわしていることは明らかです。

イエスさまは、なぜこのようなたとえを話されたのでしょう?それは、実際にたとえで語られたような「良い麦」と「毒麦」の対立が、イエスさまを慕ってやってきた人々の間にも起こりつつあったからではないでしょうか。自分たちは一生懸命イエスさまの御言葉に聴き従おうとしているのに、あいつらはけしからん!イエスさまの教えを全く分かってない!イエスさまが語られた御言葉とは、正反対の生き方をしている!まるで、毒麦のような連中だ!追い出してしまえ…と、自分たちこそ「良い麦」だと信じて疑わない人々たちの側から、早くも言われ始められていたのではないかと想像されます。

私たちは、いとも簡単に人を決めつけてしまいます。自分のことを棚に上げて、「あの人は駄目だ」「失格者だ」と。しかもたちの悪いことに、それを神の名において、キリストの名を借りて行ってしまう…しかし、それは決してやってはいけないことなのです。というのも、聖書によると、最終的に人を裁くことがお出来になるのは、神のみであられるからです。私たち人間には、他者を裁く権限は与えられていません。なんとなれば、人間は誰しも、例外なく罪人だからです。罪人が罪人を裁くことは、出来ないのです。

神は、願っておられます。毒麦が毒麦のまま成長するのでなく、良い麦へと変わることを。1本でも多くの麦が良い麦として成長し、収穫の時を迎えることを。そのために、神は待っておられる。刈り入れを、先延ばしにしておられるのだと思います。「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」。この神の愛と憐れみにあふれた御言葉に、私たちはどのように応えましょうか?刈り入れの時まで、どのように育ちましょうか?