Good News

その日の説教で語られる福音を、ショートメッセージにしました。毎週更新の予定です。

1月29日のGood News

2012年01月29日 | Good News
イエスさまがカファルナウムの会堂で、人々に説教をされていた時のことです。「汚れた霊にとりつかれていた男」が叫び出しました。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」。「汚れた霊」とは、神が人間に注がれる「聖霊」に敵対するものです。別の箇所では「悪霊」あるいは「サタン」とも呼ばれています。私たち人間にはその正体がよく分かりませんが、イエスさまにははっきりと見えておられます。ですから、その霊に向かって「黙れ。この人から出て行け」と命じられました。イエスさまは、私たちがサタンに捕らわれしまうことを望まれないからです。

イエスさまを前にしては到底勝ち目のないサタンも、人間ならすぐにでも打ち負かせるとばかりに私たちの所に忍び寄ってきます。私たちが抗し難い悪の力というものが、私たちの周りには確かにはびこっているのです。神によって等しく「良し」とされ、創造された者同士あるにもかかわらず、受け入れあうことが出来ず、敵意や憎しみに駆られる私たち。お互いに払拭することのできない偏見とそこから生まれる差別意識。私たちのとどまるところをしらない貪り、搾取、抑圧…それらは、すべて「悪霊」「サタン」の望むところです。聖書では、私たちが神から離れてしまうことを「罪」と呼びますが、私たちの罪を呼び覚まし、増長させるのが連中の目論みなのです。それゆえ、私たちは日々、神にこう祈るよう教えられました。「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と。私たちが悪に捕らわれて束縛されることがないよう、私たちを悪からお救いください!と。

私たちは、日々、揺るがぬ信仰を持ち続けていたい!と願っても、時に弱く、くじけそうになります。悪の誘いに、負けそうにもなります。にもかかわらず、こうして教会に来ています。神の御言葉を聴くために、何はさておき教会に来ているのです。そんな私たちのために、イエスさまは心を砕き、祈ってくださる!罪に支配され、悪に染まりそうになる私たちの為に、イエスさまは「罪よ、悪よ。この人から出て行け」と命じてくださるのです。その愛の御業ゆえに、イエスさまは今日「権威ある者」と告白されているのだと思います。

私たちも今日、カファルナウムの人々にならって、このお方をこそまことの「権威者」と呼びましょう。私たちは間違っても、自分自身を「権威者」とすることのないように。また、イエスさま以外の誰をも「権威者」と呼ぶことのないように。私たちの救いのために、愛をもって十字架に架かられたイエス・キリストをこそ、ただ一人の「権威あるお方」と告白し続けて参りましょう。



1月22日のGood News

2012年01月22日 | Good News
「主の招く声が」(マルコによる福音書1章14~20節)

本日の福音書の日課は、ガリラヤで始められたイエスさまの宣教の第一声を伝えています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。「時」と訳された言葉は、カイロス。それは、私たちが日常的に使う「時」ではなく、神が介入される決定的な「時」を現す言葉です。神御自身が、この世の救いのために、御子を遣わされるその「時」が来た!神がその御子によって、この世にあまねく福音をもたらされるその「時」が到来した!だから、今こそ悔い改めて福音を信じなさい!そうイエスさまは、人々に呼びかけられたのです。

私たちの「時」が流れるこの世界は、今どのような有様でしょうか?自然の脅威の前におののき、自己正当化ゆえに他者を裁き、そして自ら犯した罪の前にうなだれている…そのようにあちこちが破れ、綻びた世界に私たちは住み、それぞれの「時」をやり過ごそうともがいています。実に、私たちが住むこの世界という空間と時間は、私たちの小ささ、浅はかさ、罪深さで埋め尽くされてしまっているかのようです。しかし驚いたことに、そんな私たちの世界に神の「時」が満ちる!神が近づいてくださる!神御自身が私たちとかかわり、罪に満ちたこの世界を神の御国へ少しずつ近づけてくださる!というのです。

このイエスさまの呼びかけに応えた者たちが、弟子として従っていきました。まずはシモンとアンデレの兄弟が、次にゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが。「わたしについて来なさい」。このイエスさまの呼びかけにしたがって、彼らは網を捨て、あるいは家族を残して、イエスさまに従いました。言うまでもなく、イエスさまが招いてくださったからこそ、彼らは従っていったのです。「召命」とは、みなそのような出来事です。神から召され、声をかけられ、招かれるからこそ、私たちも神に従っていくことが出来るのです。私たち自身のあらゆる思惑や考えを越えて、神の招きと神の恵みが先行します。しかし、いくら神から招かれようとも、また神の恵みが約束されようとも、それに応えようとする「信仰」が私たちになければ、神の御業は起こらない。神の恵みと救いと赦しが、私たちにもたらされることはないのです。それゆえ、私たちに必要な唯一のものは、「信仰」です。神の恵みを恵みとして、救いを救いとして、赦しを赦しとして、そのまま受け取る「信仰」。たとえ自分がそれらを受けるにふさわしい器だとは到底思えないとしても、それでも神は与えてくださるのだ!という信仰。神は、この私を-この不完全で、不徹底で、愛が足りない私を-そのまま受け止め、憐れみ、赦しと救いと恵みを与えてくださるお方なのだ!という信仰。その「信仰」さえあれば、誰でもイエスさまの弟子となる資格があるのです。

さあ、4人の漁師に続いて、あなたもイエスさまについて行きませんか? 
 



1月15日のGood News

2012年01月16日 | Good News
「イエスの洗礼」(マルコ福音書1章9~11節)

今日の福音書の日課は、イエスさまが洗礼を受けられたことを伝えています。イエスさまが、私たちと同じように洗礼を受けられたということ自体、不思議なことなのですが、さらに注目すべきは、洗礼を受けたばかりのイエスさまがその直後、荒れ野に追いやられ、サタンからさまざまな誘惑を受けたことです。誘惑とは、試練のこと。他の福音書を読むと、イエスさまがどのような試練に遭われ、サタンから誘惑を受けたのかが分かります。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。「神の子なら、この神殿の屋根の端から飛び降りたらどうだ」。このように言ってサタンは、イエスさまを身体的にも、精神的にも、霊的にも追いつめ、信仰を奪おうと試みるのです。そのような試練の時、苦難の時、信仰を失ってしまいそうになる時が、洗礼を受けるやいなやイエスさまに訪れたということは、心に留めておく必要があります。つまり、私たちも洗礼を受けたからと言ってすべてがうまくいく、自分の願いどおりに事が運ばれる、試練や苦難や悲しみにもあわずにすむ…というのではないのです。むしろ、それらの試練を通して、神は私たちの信仰を鍛え、成長させられるのです。

イエスさまが洗礼を受けられた時、天が開け、聖霊が鳩のようにくだり、次のような声が聞こえてきました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」。この声こそ、父なる神の声だ!と、イエスさまはすぐに分かりました。この神の御声が、イエスさまの試練に満ちたその後の宣教活動と御生涯を支えるよすがとなったことは確かでしょう。「あなたはわたしの愛する子なのだよ」「わたしの心にかなう者だよ」。この世の父親は、なかなかこうは言い切れません。子が自分の思い通りにならない時、自分の願ったように成長しない時、「お前は全く俺のことがわかってない」「おまえなんか、もううちの子じゃない」と口走ってしまうことすらあるかもしれません。もちろん、それでも親としては子どもを愛しているつもりなのでが、その愛は完全ではなく、時として脆く、弱いのです。しかし、神の愛は違います。神の御子に対する愛は、その誕生の時も、洗礼の時も、荒れ野での試練の時も、困難に満ちた宣教活動の時も、そして十字架に架けられた時も、そして復活の時にも、揺るがず注がれ続けました。その神の愛を、御子御自身も片時も疑わず、受け止めました。今、この神の愛が、イエスさまと同じように洗礼を受けた私たちにも注がれています。然り、必ずしも神の御心に適う歩みができない罪深い私たちではありますが、それでも神は「あなたはわたしの心に適う子だ」「あなたはわたしの愛するかけがえのない子どもだ」と、呼びかけてくださいます。この神の愛なる御声を絶えず聞きながら、神の賜る試練をも甘んじて受けてまいりましょう。


1月8日のGood News

2012年01月12日 | Good News
「恵みに輝く星」(マタイによる福音書2章1~12節)

今日は「顕現主日」。イエスさまが、イスラエルの民のためだけにではなく、異邦人も含めた全人類の救いのために生まれたキリストである、というメッセージが語られる日です。

聖書によると、幼子キリストと初めて対面した異邦人は「占星術の学者たち」でした。原文では「マーゴイ」。占星術や医術を行っていた学者を指す言葉です。「学者」といえば聞こえはいいですが、平たく言えば「占い師」や「魔術師」の類いだったのかもしれません。だとすると、イスラエルの人々からすれば、最も嫌悪すべき対象でした。なぜなら、律法では占いや魔術の類いは一切禁じられているからです。しかし、神はそのような人をこそ真っ先に顧みられるお方です。事実イエスさまも、疎まれ、蔑まれ、虐げられているような人の所へ、まず足を運ばれました。

一方、彼らを現代の天文学者になぞらえる解釈もあります。だとすると、彼らはいわゆるエリートです。しかし、たとえエリートであったとしても、彼らは真理を希求するために旅立ち、星の導きを信じて、歩みを進めました。彼らは自分のテリトリーに安住し、そこで他者に君臨するのでなく、真実を求めて旅立つ勇気と謙虚さとをもっていたのです。

天文学者ではありませんが、宇宙飛行士の山崎直子さんが作家の瀬名秀明氏と「科学」について対談をしていた記事が正月の新聞に掲載されていました。彼女は、言います。「人間は決して万能ではない。全体像の中で、ここまでが限界という伝え方をすることも恐れずにいたい。わかってないことを謙虚に認めることが大事だから」と。現代のエリートの一人が、自分自身も含めて「人間は決して万能ではない」と言っている言葉に、私は感銘を受けました。本当に真実を希求する人というのは、このように自らの小ささ、不完全さを素直に認め、自分を相対化できる人なのだな、と。幼子イエスのもとをはるばる訪れた「占星術の学者」たちも、実はそのような人たちだったかもしれません。

「人間は決して万能ではない」。これは、そっくり信仰の世界にも当てはまると思います。信仰者は、決して万能ではない。信仰をもっているからといって、完璧な人間でもない。たとえ洗礼を受けたとしても、人は相変わらず罪を犯してしまうし、隣人を傷つけてしまうし、そうやって神さまを悲しませてしまう。だからそんな時、私たちは謙虚になって頭を垂れるしかない。自分の限界と罪の現実を素直に認め、隣人の前で、神のみ前で、告白すること-それなしでは、私たちは本当の信仰者とは言えないのではないでしょうか?

この1年、私たちも占星術の学者たちに倣って、自分のプライドや劣等感をすべてかなぐり捨てて、ただ主の御前にひざまずき、罪を告白し、罪赦された喜びの賛美を捧げる者として、共に信仰の旅を続けていきましょう。


2012年1月1日のGood News

2012年01月05日 | Good News
「主の恵みを告げる」(ルカ福音書4章16~20節)

本日、新年礼拝に与えられた福音書の日課は、イエスさまが人々の前でなされた最初の説教を伝えています。故郷ナザレの会堂で行われた安息日の礼拝で、旧約聖書の『イザヤ書』の巻物を手渡されたイエスさまは、その61章をお開きになって読み始められました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。と、そこまで朗読されると、イエスさまは聖書の巻物を閉じて、やおら説教を語り出したのです。21節「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時、実現した」と。聖書の御言葉が、実現した!御言葉が、単なる言葉で終わるのでなく、神の御業として実現した!まさに今日、「あなたがたが耳にした時」、実現した!と。

イエスさまが、そのように語り得られたのは、主の「霊」を宿し、主から「油」注がれたキリストだったからです。それゆえ、イエスさまはよく分かっておられました。主がどのような使命をご自分に託されたのか?ということを。然り、罪に捕らわれている人々を解放し、主の御心が見えなくなっている人々の目を開き、悪の力に押しつぶされそうな人々を自由にする-そうして人々に、「主の恵み」を告げ、もたらすこと。そのためにこそ、自分は遣わされたのだ!と。

過ぐる一年、私たちを襲った様々な災や苦難-それらは、私たちが犯した罪のゆえ、神が裁かれた結果である…と語る人がいました。確かに、ある意味そのように言うことも出来たでありましょう。とりわけ原発の事故は、人間のおごり高ぶりの結果、引き起こされたものだと私も思います。しかしだからといって、それが神の裁きである、と一刀両断に語るのはどうでしょうか。というのも、聖書が一貫して伝えている神とは、「裁く神」ではなく、「恵みの神」だからです。神さまは、私たちに恵みあれと望んでおられるのであって、私たちに罰をもたらすために君臨しておられるのではありません。だからイエスさまも、「恵みあれ」と告げる聖書の御言葉を引用しつつ、今日、御自身の使命について語られたのだと思います。主がわたしを遣わされたのは、人々に主の「恵み」を告げるためである!様々な事柄に捕らわれている人間を解放し、恵みを与える為に、わたしは遣わされたのだ!それゆえ、このわたしが語る御言葉に、今日、耳を傾けなさい!その時、主の恵みは、実現するのだ!あなたたちに、主の救いがもたらされるのだ!と。

この一年、たとえどのようなことが起ころうとも、主が私たちに与えられる恵みを確信しつつ、キリストが語られ、実現される御言葉に聞き従って参りましょう。 あ