イエスさまがカファルナウムの会堂で、人々に説教をされていた時のことです。「汚れた霊にとりつかれていた男」が叫び出しました。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」。「汚れた霊」とは、神が人間に注がれる「聖霊」に敵対するものです。別の箇所では「悪霊」あるいは「サタン」とも呼ばれています。私たち人間にはその正体がよく分かりませんが、イエスさまにははっきりと見えておられます。ですから、その霊に向かって「黙れ。この人から出て行け」と命じられました。イエスさまは、私たちがサタンに捕らわれしまうことを望まれないからです。
イエスさまを前にしては到底勝ち目のないサタンも、人間ならすぐにでも打ち負かせるとばかりに私たちの所に忍び寄ってきます。私たちが抗し難い悪の力というものが、私たちの周りには確かにはびこっているのです。神によって等しく「良し」とされ、創造された者同士あるにもかかわらず、受け入れあうことが出来ず、敵意や憎しみに駆られる私たち。お互いに払拭することのできない偏見とそこから生まれる差別意識。私たちのとどまるところをしらない貪り、搾取、抑圧…それらは、すべて「悪霊」「サタン」の望むところです。聖書では、私たちが神から離れてしまうことを「罪」と呼びますが、私たちの罪を呼び覚まし、増長させるのが連中の目論みなのです。それゆえ、私たちは日々、神にこう祈るよう教えられました。「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と。私たちが悪に捕らわれて束縛されることがないよう、私たちを悪からお救いください!と。
私たちは、日々、揺るがぬ信仰を持ち続けていたい!と願っても、時に弱く、くじけそうになります。悪の誘いに、負けそうにもなります。にもかかわらず、こうして教会に来ています。神の御言葉を聴くために、何はさておき教会に来ているのです。そんな私たちのために、イエスさまは心を砕き、祈ってくださる!罪に支配され、悪に染まりそうになる私たちの為に、イエスさまは「罪よ、悪よ。この人から出て行け」と命じてくださるのです。その愛の御業ゆえに、イエスさまは今日「権威ある者」と告白されているのだと思います。
私たちも今日、カファルナウムの人々にならって、このお方をこそまことの「権威者」と呼びましょう。私たちは間違っても、自分自身を「権威者」とすることのないように。また、イエスさま以外の誰をも「権威者」と呼ぶことのないように。私たちの救いのために、愛をもって十字架に架かられたイエス・キリストをこそ、ただ一人の「権威あるお方」と告白し続けて参りましょう。
イエスさまを前にしては到底勝ち目のないサタンも、人間ならすぐにでも打ち負かせるとばかりに私たちの所に忍び寄ってきます。私たちが抗し難い悪の力というものが、私たちの周りには確かにはびこっているのです。神によって等しく「良し」とされ、創造された者同士あるにもかかわらず、受け入れあうことが出来ず、敵意や憎しみに駆られる私たち。お互いに払拭することのできない偏見とそこから生まれる差別意識。私たちのとどまるところをしらない貪り、搾取、抑圧…それらは、すべて「悪霊」「サタン」の望むところです。聖書では、私たちが神から離れてしまうことを「罪」と呼びますが、私たちの罪を呼び覚まし、増長させるのが連中の目論みなのです。それゆえ、私たちは日々、神にこう祈るよう教えられました。「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と。私たちが悪に捕らわれて束縛されることがないよう、私たちを悪からお救いください!と。
私たちは、日々、揺るがぬ信仰を持ち続けていたい!と願っても、時に弱く、くじけそうになります。悪の誘いに、負けそうにもなります。にもかかわらず、こうして教会に来ています。神の御言葉を聴くために、何はさておき教会に来ているのです。そんな私たちのために、イエスさまは心を砕き、祈ってくださる!罪に支配され、悪に染まりそうになる私たちの為に、イエスさまは「罪よ、悪よ。この人から出て行け」と命じてくださるのです。その愛の御業ゆえに、イエスさまは今日「権威ある者」と告白されているのだと思います。
私たちも今日、カファルナウムの人々にならって、このお方をこそまことの「権威者」と呼びましょう。私たちは間違っても、自分自身を「権威者」とすることのないように。また、イエスさま以外の誰をも「権威者」と呼ぶことのないように。私たちの救いのために、愛をもって十字架に架かられたイエス・キリストをこそ、ただ一人の「権威あるお方」と告白し続けて参りましょう。