Good News

その日の説教で語られる福音を、ショートメッセージにしました。毎週更新の予定です。

9月2日のGood News

2012年09月01日 | Good News
「人を汚すもの」(マルコによる福音書7章1~15節)

イエスさまと、ファリサイ派・律法学者たちとの論争です。事の発端は、弟子たちが手を洗わずに食事をしたこと。ファリサイ派と律法学者たちは、弟子たちを見咎めてイエスさまに尋ねます。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」。もっともな言い分です。衛生的な観点から食事の前に手を洗うことは、現代の私たちにとっても常識です。しかし、ファリサイ派や律法学者たちが問題としたのは、そのような理由からではありません。むしろ彼らは手を洗うことによって、自らの身も清められる-宗教的に清くなる-と考えたのです。普段の日常生活では異邦人と触れ合うことが多々あったので、帰宅するとそうやって身を清めたわけです。手だけでなく、使用する杯や鉢、器や寝台…までも。それが、先祖伝来の「言い伝え」だったからです。

しかし、イエスさまは彼らのそんな振る舞いを見て、バッサリ言われました。8節「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」。13節「あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」と。つまり、あなたたちは大事に引き継いで守って来た伝統や慣習に縛られて、かえって神の掟を忘れてはいないか?神の言葉を無視してしまってはいないか?と。イエスさまのこの指摘をファリサイ派や律法学者たちが真摯に受け止めることが出来たなら、彼らがイエスさまを十字架に追いやることはなかったでありましょう。

私たちの教会にも、信仰の先達者たちから受け継いできたもの、大切にしてきたものが多々あります。やがて百年の歴史を迎える教会が持つ伝統の重みというものを私も常日頃ひしひしと感じています。それらをこれからも大切にしていきたい、引き継いでいきたい、という思いは勿論あります。と同時に、それらを金科玉条のごとく不変のもの、絶対的なものとしてしまっては、神の言葉から逸脱してしまうことがあるということも肝に銘じておく必要があるでしょう。というのも、人間の行う業はたとえどんなに善きもの、価値あるもの、素晴らしいものに見えたとしても、そこには必ず汚れたもの-罪-が混じり込んでいるからです。だから、イエスさまは「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」と言われたのです。

神が与えたもうすべてのもの-私たちがその手で触れ、取り入れることのできるもの-は、すべて清いものであるゆえ、私たちは手を洗う必要はありません。私たちが洗うとしたら、他者と触れ合う手ではなく、自らの心の中です。どんなにきれいに装っても、私たちの心の中に巣食い続ける罪から決して目をそらすことなく、すべてを洗い清めてくださるお方に委ねて参りたいと思います。