「まことの光に導かれ」(マタイ福音書2章1~12節)
新しい年、2013年が始まりました。今年の元旦から使おうと思って準備していた毎年カレンダー「大好き北海道」の最初の頁(1月1日)をめくると、地球岬の初日の出の写真が載っていました。太平洋の沖合から日が昇る様は、たとえ写真でも何かしら神々しさを感じます。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」。本日与えられた御言葉(イザヤ書60章1節)が、聞こえてくるかのようです。
札幌教会では、クリスマス以降この年末年始にかけて、教会員の召天が相次ぎました。わずか1週間のうちに、なんと3人もの姉妹が神のみもとに召されて行ったのです。まるで、一人きりでこの世に別れを告げるのが寂しかったかのように、みなさん連れ立って神のみもとへと旅立たれて行かれました。3人の姉妹たちのご遺族の方々は、口を揃えて言われました。「クリスマスに続いてお疲れのところをすみません…」「新年早々からすみません…」と。いえいえ、そんなことはありません。人の肉なる命が尽きるという出来事は、人がどうこうできることではなく、神の御業なのです。だから、謝る必要などないのです。神は、その人にとってもっともふさわしい時を選んで、みもとへと招かれたのですから。私たちはそのことを信じて、愛する者を送り出すだけです。この世で肉をまとっていた者たちが、神のみもとでは決して朽ちることのない栄光の姿へと変えられることを信じて。
しばしば私たちは愛する者を見送った後、その人が夜空の星となって見守ってくれる…という風な言い方をすることがあります。ロマンチックな表現でいいなあ…と私も思うのですが、もちろん聖書にはそのようなことは記されていません。福音書に記されている唯一の星は、私たちを救い主イエス・キリストのもとへと導く星。はるばる東の異国から3人の博士たちをイエスさまのもとへと導いたしるべの星です。同じように3人の姉妹たちも、きっとその星に導かれて、イエスさまのみもとへと行かれたに違いありません。もちろん手には、捧げものを携えて。姉妹たちが、信仰者としてこの世で歩んできたその証しを携えて。間違っても、手ぶらではないでしょう。というのも、信仰者は神のみもとに招き入れられる時、この世でどのような歩みをしてきたのか必ず申し開きをしなければならないのですから。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(第二コリント5章10節)
ひるがえって、私たちは今、ここで、主の御前に何を捧げましょう?主イエスによって赦され、救われ、永遠の命まで保証された私たちは、この世で生かされている間、何を捧げましょう?主から受けた恵みにふさわしく捧げる者でありたいと思います。
新しい年、2013年が始まりました。今年の元旦から使おうと思って準備していた毎年カレンダー「大好き北海道」の最初の頁(1月1日)をめくると、地球岬の初日の出の写真が載っていました。太平洋の沖合から日が昇る様は、たとえ写真でも何かしら神々しさを感じます。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」。本日与えられた御言葉(イザヤ書60章1節)が、聞こえてくるかのようです。
札幌教会では、クリスマス以降この年末年始にかけて、教会員の召天が相次ぎました。わずか1週間のうちに、なんと3人もの姉妹が神のみもとに召されて行ったのです。まるで、一人きりでこの世に別れを告げるのが寂しかったかのように、みなさん連れ立って神のみもとへと旅立たれて行かれました。3人の姉妹たちのご遺族の方々は、口を揃えて言われました。「クリスマスに続いてお疲れのところをすみません…」「新年早々からすみません…」と。いえいえ、そんなことはありません。人の肉なる命が尽きるという出来事は、人がどうこうできることではなく、神の御業なのです。だから、謝る必要などないのです。神は、その人にとってもっともふさわしい時を選んで、みもとへと招かれたのですから。私たちはそのことを信じて、愛する者を送り出すだけです。この世で肉をまとっていた者たちが、神のみもとでは決して朽ちることのない栄光の姿へと変えられることを信じて。
しばしば私たちは愛する者を見送った後、その人が夜空の星となって見守ってくれる…という風な言い方をすることがあります。ロマンチックな表現でいいなあ…と私も思うのですが、もちろん聖書にはそのようなことは記されていません。福音書に記されている唯一の星は、私たちを救い主イエス・キリストのもとへと導く星。はるばる東の異国から3人の博士たちをイエスさまのもとへと導いたしるべの星です。同じように3人の姉妹たちも、きっとその星に導かれて、イエスさまのみもとへと行かれたに違いありません。もちろん手には、捧げものを携えて。姉妹たちが、信仰者としてこの世で歩んできたその証しを携えて。間違っても、手ぶらではないでしょう。というのも、信仰者は神のみもとに招き入れられる時、この世でどのような歩みをしてきたのか必ず申し開きをしなければならないのですから。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(第二コリント5章10節)
ひるがえって、私たちは今、ここで、主の御前に何を捧げましょう?主イエスによって赦され、救われ、永遠の命まで保証された私たちは、この世で生かされている間、何を捧げましょう?主から受けた恵みにふさわしく捧げる者でありたいと思います。