Good News

その日の説教で語られる福音を、ショートメッセージにしました。毎週更新の予定です。

1月6日のGood News

2013年01月06日 | Good News
「まことの光に導かれ」(マタイ福音書2章1~12節)

新しい年、2013年が始まりました。今年の元旦から使おうと思って準備していた毎年カレンダー「大好き北海道」の最初の頁(1月1日)をめくると、地球岬の初日の出の写真が載っていました。太平洋の沖合から日が昇る様は、たとえ写真でも何かしら神々しさを感じます。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」。本日与えられた御言葉(イザヤ書60章1節)が、聞こえてくるかのようです。

札幌教会では、クリスマス以降この年末年始にかけて、教会員の召天が相次ぎました。わずか1週間のうちに、なんと3人もの姉妹が神のみもとに召されて行ったのです。まるで、一人きりでこの世に別れを告げるのが寂しかったかのように、みなさん連れ立って神のみもとへと旅立たれて行かれました。3人の姉妹たちのご遺族の方々は、口を揃えて言われました。「クリスマスに続いてお疲れのところをすみません…」「新年早々からすみません…」と。いえいえ、そんなことはありません。人の肉なる命が尽きるという出来事は、人がどうこうできることではなく、神の御業なのです。だから、謝る必要などないのです。神は、その人にとってもっともふさわしい時を選んで、みもとへと招かれたのですから。私たちはそのことを信じて、愛する者を送り出すだけです。この世で肉をまとっていた者たちが、神のみもとでは決して朽ちることのない栄光の姿へと変えられることを信じて。

しばしば私たちは愛する者を見送った後、その人が夜空の星となって見守ってくれる…という風な言い方をすることがあります。ロマンチックな表現でいいなあ…と私も思うのですが、もちろん聖書にはそのようなことは記されていません。福音書に記されている唯一の星は、私たちを救い主イエス・キリストのもとへと導く星。はるばる東の異国から3人の博士たちをイエスさまのもとへと導いたしるべの星です。同じように3人の姉妹たちも、きっとその星に導かれて、イエスさまのみもとへと行かれたに違いありません。もちろん手には、捧げものを携えて。姉妹たちが、信仰者としてこの世で歩んできたその証しを携えて。間違っても、手ぶらではないでしょう。というのも、信仰者は神のみもとに招き入れられる時、この世でどのような歩みをしてきたのか必ず申し開きをしなければならないのですから。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(第二コリント5章10節)

ひるがえって、私たちは今、ここで、主の御前に何を捧げましょう?主イエスによって赦され、救われ、永遠の命まで保証された私たちは、この世で生かされている間、何を捧げましょう?主から受けた恵みにふさわしく捧げる者でありたいと思います。



12月30日のGood News

2013年01月01日 | Good News
「安らかに去る」(ルカ福音書2章25~40節)

クリスマスの喜びのさなか、私たちの敬愛する姉妹たちが次々と神のみもとへ召されていきました。まず、先週26日にはM姉が、そして28日にはT姉が。悲しみに暮れておられるご遺族の方々のために、どうか皆さんも祈りをあわせてください。

本日私たちに与えられた福音書には、救い主の誕生を待ち望んでいた二人の老人が登場します。一人は、シメオン。「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」男性です。もう一人は、アンナという女預言者。彼女は「非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから7年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、84歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた…」とあります。二人とも、生まれたばかりの嬰児イエスを見て、喜びにあふれ、神をたたえました。

『ルカ福音書』には、シメオンが歌ったとされる賛歌が記されています。ご存知、私たちがいつも礼拝の最後に歌う「ヌンクディミティス」です。シメオンは、神殿に仕えた祭司でしたが、生涯歌心を失わなかったロマンチスト、芸術家でもあったのかもしれません。一方、アンナの方は預言者と言われるだけあって、「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」とあります。84歳という高齢になっても預言者としての務めを果たし、人々にまことの救い主キリストの誕生を証ししたのです。

この二人の老人が、私にはMさんとTさんとに重なって見えてならないのです。お二人とも病を得られてからも、自暴自棄になったり人に当たり散らしたりするようなことはなさらず、それを主の御心として受け止めておられました。そして周りの人々には感謝の言葉を述べながら、すべてを主に委ねて、主のみもとに召されていきました。まさにシメオンの賛歌にありましたように、お二人とも「今こそ、あなたはお言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」との信仰の確信をもって、「わたしはこの目であなたの救いを見たからです」という喜びに満たされながらの安らかな召天でした。

私たちにとって1年が終わるということは、誰にとってもまた1歳年を重ねたということです。しかし、聖書は、私たちが年を重ねていくごとに与えられる神の恵みの豊かさ、深められていく信仰者の姿を伝えています。そして事実、そのように年を重ねて主のみもとに召されていった近しい信仰の兄弟姉妹たちを私たちは知っています。やがて、彼らの後に続く私たちも、その時が来たら、「主よ、今こそあなたはお言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」と言えるように、「わたしはこの目であなたの救いを見た」と最後の瞬間まで言える信仰が与えられるよう、新しい年も祈り求めて参りましょう。



12月23日のGood News

2013年01月01日 | Good News
「神の祝福に包まれて」(ルカ福音書1章39~46節)

アドベントキャンドルに、すべての火が灯りました。今年もいよいよクリスマスがやって来ます。私たちを罪から解放するために、私たちにまことの救いと平和をもたらすために、私たちに死を乗り越えた永遠の命を与えるために、お生まれになられた神の御子。クリスマスは、その神の御子イエス・キリストが、人としてこの世に生まれてくださったことを感謝し、祝う日です。私たちが住むこの世界は、私たち自身の弱さと罪により、あちこちが綻び、破れ、暗闇に覆われています。しかし、その世界に一条のまことの光を照らすために、この世界を再び神の愛で満たし、結び、繕うために、神の御子御自身が生まれてくださったのです。ですから、私たちはこの日、きらびやかなクリスマスツリーやイルミネーション、豪華なプレゼントやおいしそうな食事のみに目を奪われるのでなく、イエス・キリストそのお方にこそ注目しなければなりません。暗く寒い家畜小屋の中で産声をあげた、そのお方に。家畜の匂いがしみ込んだ冷たい飼い葉桶に寝かされた、そのお方に。

先の世界大戦中、ナチスに捕らえられて獄死したルーテル教会の牧師ボンヘッファーは、1933年の待降節の説教の中で次のように語っています。「私たちのうちのいったい誰が、クリスマスを適切に祝うのでしょうか?それは、ようやくにしてあらゆる権力、あらゆる体面、あらゆる名声、あらゆる虚栄、あらゆる高慢、あらゆる頑さを飼い葉桶の傍らで捨て去る人たちです。それはまた、身分の低い者たちに味方し、神のみを高くあらしめる人たちであり、飼い葉桶の中の幼子の、まさに卑賤そのものの中に神の栄光を悟る人たちであり、マリアと共に次のように歌う人たちです。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」…。ボンヘッファーが説教の中で引用したこの歌は、有名な『マリアの賛歌』です。本日の福音書の日課の直後、『ルカによる福音書』の1章46節以下にあります。

キリストは、この世の誰よりも貧しく、小さくお生まれになられました。ですから、主は私たちのどんな貧しさも、小ささもご存知です。キリストは、私たちが担うべき罪の重荷のすべてを背負わされ、十字架につけられました。ですから、主は私たちすべての人間の罪を赦してくださいます。キリストは、死から復活しました。ですから、私たちは死に勝利する永遠の命が約束されています。私たちは、このお方をこそあがめ、喜びたたえたいと思います。他の誰によってでもなく、このお方によってこそ救われ、赦され、永遠の命が保証されていていることを絶えず告白し、讃美し続けたいと思います。マリアのように、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と。

クリスマスの喜びが、皆さんひとりひとりの心の内に沸き上がりますように。



12月16日のGood News

2013年01月01日 | Good News
「マリアの戸惑い」(ルカ福音書1章26~38節) 

アドベント・クランツに3つ目の火が灯されました。本日は、待降節第3主日です。来週になると4つのキャンドルすべてに火が灯され、クリスマスを迎えます。私たちの救い主となられるために、この世にお生まれになった神の御子イエス・キリストの降誕祭=クリスマス。そのクリスマスまで、あともう1週間です。

さて、本日の福音は、神の御子を自分の胎に宿すという使命を与えられた一人の女性の物語です。その名は、マリア。天使ガブリエルがマリアのところに使わされ、神からの御言葉を告げたこの物語は、「受胎告知」と呼ばれています。古今東西、多くの画家たちが作品のモチーフとして用いた題材でもあります。日本では、倉敷の大原美術館に所蔵されているエル・グレコの「受胎告知」が有名でしょうか?赤い衣をまとった素朴な顔立ちの女性が、天使ガブリエルの声に振り向いて、真剣な眼差しでそのメッセージに聴き入っている姿を描いたその作品を、私もかつて広島に住んでいた時、倉敷まで足を運んで見たことがあります。一方、レオナルド・ダ・ビンチが描いた「受胎告知」は、不思議な静けさと気品が漂った作品です。ダ・ビンチ20代の作品と言われていますが、遠近法を巧みに取り入れた構図と卓越した技法、そして作品から醸し出されている深い宗教性は、到底若者の作品とは思えません。普段は、イタリアのウフィツィ美術館におさめられているダ・ビンチのこの作品が、数年前、初めて東京の国立博物館で展示されるというので、出張の折に見てみました。作品が展示されている所に行きつくまでかなり待たされましたが、並んで待っただけのことはありました。暗い館内の中で、ダ・ビンチが描いたその「受胎告知」のところだけが、不思議と輝いていました。ダ・ビンチ自身の鮮やかな色使いにもよるのでしょうが、私は天使ガブリエルの後光が射しているような気がしてなりませんでした。このように、一口に「受胎告知」とはいっても、聖書に記されたこの出来事を受け止め、解釈する画家たちによって、その表現方法は大きく異なります。それらのうちのどの絵が正しく、どの絵が間違っているということではないでしょう。なぜなら、それぞれの作品が彼らのいわば信仰告白だからです。とするならば、私たち自身はどうこの出来事を受け止めるでしょう?天使ガブリエルがマリアに告げた神の御言葉を、私たちはどう聴くでありましょうか?そのことを考える前に、まずマリア自身がこの出来事をどのように受け止めたかということを聖書のテキストにしたがって見て参りましょう。

神の御言葉を携えてマリアのもとにやってきた天使ガブリエルは、開口一番、彼女に告げました。28節:天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。いきなり言われた「おめでとう」の言葉。何が、おめでたいのか?なぜ、私が恵まれた者なのか?唐突のことで、マリアにはさっぱりわけが分からなかったでしょう。聖書は、そんな彼女の様子を正直に記しています。29節:マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。天使が携えてきた神のメッセージを耳にしたマリアが、まず感じたことは「戸惑い」でした。「おめでとう」と祝福されても、「恵まれた方よ」と呼びかけられても、「主があなたと共におられる」と約束されても、マリアは戸惑い、「いったいこの挨拶は何のことだろう」と考え込んだというのです。確かに、ヨセフという愛すべき男性と婚約をしたということは、彼女にとって嬉しいことではあったでしょう。しかし、それはあくまで人間的なこと。この世における一人の女と男との出会いに過ぎません。そのような人間的な営みの中に、神御自身が介入され、天使を通じて御言葉を語られたということに、彼女は「戸惑った」のです。戸惑うマリアに、天使はさらに続けて、彼女の「戸惑い」を増幅させるようなことを言いました。30節:すると天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」。この天使の言葉を聞いたマリアは、即座に返答します。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。マリアがこう答えるのも無理はありません。実際、彼女はヨセフと婚約はしていたものの、結婚はまだしていなかったからです。ですから、まだヨセフを知っていたわけではなかったのです。結婚というのは、相手の心も体も魂も、全存在を知ろうとする営みに他ならないからです。そのような人間の営みを越えて、しかしこの日、マリアに神の御業が臨んだのです。私たちには理解もできない経験もできない仕方で、神の御業が一人のおとめを通じて起こった!そのことを、彼女がすぐに受け止められる筈がありません。「どうして、そのようなことがありえましょうか」。神からのメッセージに対するマリアの戸惑いは、不安と恐れを越えて、疑心へと変わりつつありました。そこで、天使は最後の御言葉を彼女に告げました。35節:天使は答えた。「聖霊があなたにくだり、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子をみごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう6ヶ月になっている。神にできないことは何一つない。」自分の身に起ころうとしている驚くべき出来事が-到底理解することも受け入れることも出来ないようなその出来事が-実は、聖霊の働きによるものであるということ-神御自身がなされる御業であること。今やそのことをはっきりと聞いたマリアは、一言こう答えました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。これまた「受胎告知」という神の御業にも等しい、驚くべきマリアの素直さ、従順、信仰であります。彼女は、天使が告げた言葉がすべて神の御言葉である、それゆえすべては神御自身が成されることである、と信じるに至ったのです。ある神学者は、彼女のこのような信仰を「マリアは耳から受胎した」と表現しています。マリアは、神の御子を宿すという御言葉をまず耳で聞き、そしてその御言葉を心で信じたがゆえに、御子の母とされたのです。はじめは御言葉に戸惑い、恐れ、耳を塞がんばかりだったマリアが、最後には御言葉を受け入れ、「わたしは主のはしためです。御言葉どおりに、この身になりますように」と、主にわが身を委ねたのです。マリアの信仰をこのように変えたのも、また驚くべき神の御業だったと言えるでしょう。

私たちの人生の中では、さまざまな出来事が起こります。ここ恵み野教会にとっても、然り。札幌教会の牧師として定年を迎えられ、2年前にここ恵み野教会に骨をうずめる覚悟で赴任してくださった重富克彦先生のこのたびの入院も、そうです。皆さんはこの突然の出来事に、戸惑っておられることでしょう。皆さんの戸惑いは、岡田牧師も、また私も同じくするところです。私たちの敬愛する重富先生が、恵み野教会の牧会委嘱者として5年間はめいいっぱい働いてくださるおつもりでいた先生が、お志半ばにして入院されるとは、誰も予想していなかったことでした。それゆえ私たちは、今ひどく戸惑い、狼狽し、嘆き、悲しんでいます。しかし、重富先生はおっしゃっています。これも、また神の御心なのだ…と。自分の心は、信仰のおかげで平安だから、何も心配しないように…と。その淡々と現実を受け入れていくお姿が、と同時にしっかりと信仰を持ち続けておられるお姿が、私にはマリアと重なってみえてなりません。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」。お見舞いに行く度に、先生が言われることはまさにこの言葉です。主の御心がこの身になりますように!主の御心が、恵み野教会にも現されますように!と、いつも先生は祈られています。その先生のために、私たちも祈りを共にしましょう。到底受け入れることの出来ない現実の前に、戸惑い、怒り、悲しみつつも、「わたしは、主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」「主の御心のままに成りますように」と主の御前で告白し、先生と共に祈り続けて行きたいと思います。(12月16日 恵み野教会での主日礼拝説教より抜粋)



12月9日のGood News

2013年01月01日 | Good News
「荒れ野で叫ぶ者」(ルカ福音書3章1~6節)

洗礼者ヨハネの登場です。ヨハネは、荒れ野の預言者です。ヨハネが洗礼を受ける為にヨルダン川までやってきた群衆に対して語ったメッセージは、旧約以来の預言者を彷彿とさせるものです。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」。いきなり「蝮の子らよ」と言われた人々は、おじけづいたでありましょう。しかし、これが預言者の役目なのです。人間はみな蝮のように、心の中に罪という猛毒をもった存在であることをまず知らしめることが、預言者の務めだからです。その罪という猛毒が、しかし悔い改めて神に立ち返ることによって清められ、赦され、あがなわれる。それを伝えんがために、ヨハネは敢えてそう語ったのです。これは、ヨハネ自身の言葉ではありません。彼は預言者ですから、神の言葉を取り次ぐ者です。すなわち、ヨハネは神御自身の言葉を語っているのです。

神の御子の降誕を待つアドベントは、「悔い改め」の季節です。典礼色も「悔い改め」を表す紫。新約聖書で「悔い改め」を意味する言葉「メタノイア」は、旧約聖書では「シューブ」-「立ち返る」と訳されている言葉です。何に立ち返るのか?然り、神に立ち返るのです。私たちの創造主であり、あがない主であり、救い主であられる神に立ち返る。私たちの生きる姿勢そのものを神の方へ変える。神が示される方向へと向き直る。それが「悔い改め」です。「悔い改め」は、単に自分の犯した罪を悔い、反省するという内向きなものではなく、私たちの罪を赦し、あがない、真の救いをもたらしてくださる神に私たちが向き直り、仰ぎ見るポジティブな信仰です。「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る」。旧約の預言者イザヤが語ったように、私たちがえぐってしまった谷を埋め、私たちが曲げてしまった道をまっすぐにしてくださるそのお方を仰ぎ見る-それが「悔い改め」です。洗礼者ヨハネが神の御言葉を取り次いで私たちに激しく迫っているのは、それなのです。

神の御言葉の成就は、この洗礼者ヨハネによって伝えられました。この世のまことの救い主、神の御子なるキリストが生まれるという喜びのメッセージは、この世の権力たちによってではなく、荒れ野の預言者によってもたらされたのです。神の御言葉とは、洗礼者ヨハネのように、この世の厳しい荒れ野のただ中にあっても人に頼らず、神にのみより頼み、常に神と相見えようとする人に臨むのです。洗礼者ヨハネだけが、選ばれたのではありません。そう、私たちもまたヨハネに続いて、その一人となることが期待されているのです。荒れ野にたたずむ宣教者の一人として、私たちも日ごと悔い改め、この世にしっかりと立ちながら、御言葉を伝えて参りましょう。