北海道新聞で不定期に連載している『路地裏の資本論』
地元以外ではあまりご覧いただけないでしょうから、ここに掲載したいと思います。お読みいただければ幸いです。
イザベル・ホランドの小説『顔のない男』は、メル・ギブソン主演、監督で映画化されて『顔のない天使』となった。過去に事故で生徒を死なせてしまい、自らも顔に傷を負った教師と、孤独な少年の物語は心に響いた。
政治の世界にも顔のない男は登場した。旧東ドイツの秘密警察シュタージの対外諜報部門を誰が操っているのか長い間謎であった。その男マルクス・ヴォルフは、名前も顔も知られていないが確かに存在している「顔のない男」であり続けた。かれらは、やむなく匿名性の存在になった。匿名性に逃げ込むことで、自分に及ぶ危害から身を守ろうとしたわけである。
ところで、この時代のわたしたちは誰もが顔のない男だ、と言ったら奇異に響くだろうか。現代における、顔のない男とは、個性の乏しい、凡庸な、いつでもどこでも交換可能な、誰もその顔を覚えていないような人間のことである。そんな人間がいるわけはないじゃないかと言われるかも知れない。
しかし、ツイッターやフェイス・ブックの中に登場する無数の匿名の人間たちは、もともと、本人と特定されるような顔も名前も持たぬ人格を選び取ったものたちである。ソーシャルメディアにおいて匿名で発言することに関する是非について、ここで論ずるつもりはないが、匿名の氾濫は現代を特徴づける現象であることに異論はないだろう。ソーシャルメディアにおいて、匿名であることのメリットとデメリットは、実名を晒すことのデメリットとメリットに対応している。つまり、顔を晒して発言をすれば、政治的な敵対者や嫉妬にかられたものから標的にされるという危険があるが、匿名ならリスクは減ずる。 逆に匿名の、いつでも交換可能なアバタ―(分身)が得た評判や栄誉は、実名で得られるような自尊心を満足させることはないだろう。顔も名前もないということは、自らの発言に対して現実的な責任を免れることが可能だが、責任を回避した分だけ「その他」一般として存在する他はないということでもある。
匿名の存在とは、インターネットの中にだけ存在しているわけではない。
都市空間の中で、商品とお金を絶えず交換しているわたしたち消費者こそは、まさにその匿名性において「消費者」になったといえるのではないだろうか。大量生産、大量消費が支配する市場のなかで、消費者はただの記号であり、数値でしかない。わたしたちは、市場に投入された商品がなければ生きられなくなっている貨幣運搬人である。
現代の消費者は、コンビニエンスストアの店頭で、会話もしなければ、ほとんど顔をあわせることもない。商品の金額がレジのモニターに打ち出されれば、その金額のお金を財布から出して商品を受け取るだけの存在である。
市場において、わたしたちが、顔と名前を取り戻すのは、皮肉なことに、クレイマーとして名乗りを上げたときだけなのである。クレイマーは要注意人物として顔と名前を識別される。
映画の中の主人公たちは、最後は顔を回復し、人間性を取り戻す。東独のスパイは、後にスパイ小説のモデルになった。わたしたち顔のない消費者は、どのようにして自分の顔を取り戻せばよいのだろうか。
かつて、町内の商店街で、毎日買い物をしていた人々は、匿名の消費者ではなかった。売り手はひとりひとりの顧客の顔色を見て、かれらが何を必要としているかを察知し、声をかけ合い、お互いの家族についての情報や、町の噂話を共有している顔見知りの隣人のひとりであった。わたしの母は、晩年足を引きづりながらも、同じ時刻になるとカートを押して商店街へ出かけて行った。母の死後、箪笥の奥から、封を切っていない下着や、洋服が沢山出てきた。
なぜ?とわたしは思ったが、すぐに了解した。母は消費者として商店街へ赴いたのではない。見たい顔がそこにあり、話しかけるひとがそこにいただけなのだ。