宇宙哲学の対話室

"宇宙"、"生命"、"人間"に関する問いかけと自然観察や奉仕活動について対話を繰り広げます。

「燦」新聞の座談会

2017-05-30 00:22:44 | 自己紹介
また1980年、大学4年の時のことを思い返してみた。「燦」というエネルギー関係の情報誌が、原子力工学を学んでいる学生、院生の座談会を企画し、私に座談会のお誘いがきた。確か東工大の先生に座長で、おそらくその先生が私の卒論指導の教授に声をかけてくれたらしい。 よく考えると私は電気工学科の学生で専門外なのだが、会談の内容が政府広報のようなありきたりな話にならないようにするために門外漢の学生が選ばれたのだ . . . 本文を読む
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マイクロマウス「電研2号」

2017-05-27 22:18:01 | 自己紹介
また1980年、大学4年の時のことを思い返してみた。私自身は直接関わっていないのだが、電気研究会の1年下の後輩たち(当時の3年生)がマイクロマウスの競技大会に出場したことを思い出した。 この大会は自走型のロボットを迷路で走らせ、通過タイムを競うもので、小型のロボットが迷路を走る様子がネズミの迷路抜けを連想させることから「マイクロマウス」とネーミングされたらしい。後輩たちは「電研2号」という名前のマ . . . 本文を読む
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記憶違い

2017-05-26 19:13:53 | 自己紹介
最近のブログを読み返していたら、4月3日の「プチフラワー創刊号」の投稿で、大学院の研究室(付属原子力研究所)にいて、昼食後に近所の本屋に立ち寄ったら、プチフラワーの創刊号(当時は季刊のため「春の号」)を見つけた、と書いた。 創刊号の発行は1980年の5月1日発行で、私は修士課程2年の時、と書いた。しかし年を勘違いしていた。1980年ならばまだ大学4年の時だ。原子力研究所にいたのは間違いないが大学院 . . . 本文を読む
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平日は講義漬け休日は英語漬け

2017-05-25 06:29:35 | 自己紹介
修士1年の時はとにかく大変だった。月曜日から土曜日の午前中まで毎日講義があり、土曜日の午後はテニスをしていた。研究所の敷地内に地域住民との親睦の目的でテニスコートがあり、たぶん無料で使えたのだと思う。研究所の職員も使っていた。大学院ができてからは大学共同利用の関係者も使えるようになったらしい。 研究所にいる時間が限られていたのにその大半は講義とテニスだった。当時は土曜日が半ドンだったので、テニス好 . . . 本文を読む
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唯一のアルバイト

2017-05-24 06:53:43 | 自己紹介
出張実験で小遣い稼ぎをしていただけでなく、大学院には成績優秀な学生に奨学金を支給する制度があり、原子力工学専攻には私一人しかいないので、自動的に10万円をもらうことができた。授与式があったのだがKUCAでの実験と重なり、式に出なく済んだ。 それでも夏はテニス合宿、冬はスキー合宿、という研究所だったので、資金を貯めるためにアルバイトを一回だけやった。 通信機器の工場で夜間に基板を作る作業だった。講義 . . . 本文を読む
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KUCAでの出張実験

2017-05-23 05:58:12 | 自己紹介
京都大学のKUCAには原子炉物理の実験講座だけでなく、大学共同利用の名目で原子力研究所の教授が出張して実験をしていた。院生の私は同行して、データ整理などをやらされた。当時はEXCELなど無く、グラフも手書きだった。 出張する時は大学院の講義が休講になるのと、食事代の手当てが手書きが出て、3食ともKUCAの食堂を利用して安上がりなので、かなりの小遣い稼ぎになった。 . . . 本文を読む
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KUCAでの実験講座

2017-05-22 05:15:11 | 自己紹介
原子力研究所での講義だけでなく、各大学の原子力工学専攻の大学院生を対象にした実験講座が京都大学のKUCA「京都大学臨界集合体」で行われていた。この実験施設は和歌山県の熊取にあり、講座の内容は原子炉物理の実験とレポートを提出するもので、一週間の日程で合宿をした。大学院生同士の交流活動という面もあったようだ。 私は否応なしにこれに受講したが、他の大学院からは選抜された学生が参加していたはずで、大学院に . . . 本文を読む
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私は全ての講義を受講する羽目になった

2017-05-21 01:03:46 | 自己紹介
研究所の近くに住むことにしたのは大正解だった。大学院の原子力工学専攻の一期は私一人なので、私が受講しないと講義が成立しない。 結局、私は全ての講義を受講する羽目になった。午前は朝9時から12時まで、午後は1時から4時まで水曜か木曜の午後は講義が無かった。土曜日は午前だけだった。原子力研究所は学生だけで作業することができなかった。私の修士論文の研究は4年の時の研究の続きだったのでほとんどコンピュータ . . . 本文を読む
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そこは研究所まで歩いて10分位だった

2017-05-20 00:00:05 | 自己紹介
研究所の近くの下宿を探すと言っても、もともと人家など無いところに研究所を建てたので、当時はアパートのような物件はありそうも無かった。 近くに団地はあったが、最寄りの駅は田園都市線のたまプラーザ。たまプラーザ駅からはその団地までバスに乗って20分、そこから歩いて5分位だった。小田急線の柿生の方が近かったが、柿生駅からのバスは本数が少なく不便で、歩くと30分位だったと思う。 比べたら柿生駅までの道沿い . . . 本文を読む
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研究所近くの下宿を探すことになった。

2017-05-19 00:00:00 | 自己紹介
大学の卒業式のことは全く覚えていない。父親から「皆ビジネススーツなのにお前ひとりだけ場違いな格好だった」と言われたことだけ覚えている。 大学院に入る前に原子力工学専攻の講義は原子力研究所の会議室で行われる、と言われていた。ところが、大学の学生課にはせいぜい世田谷区近辺の下宿かアパートしか案内が無かった。自分で研究所近くの下宿を探すことになった。 . . . 本文を読む
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原研チームは4位、私は1勝2敗の成績。

2017-05-16 23:38:02 | 自己紹介
私の目論見では準決勝で勝って、準優勝はいけるだろうと考えていた。ところが午前中の1試合目から次の準決勝まで昼食休憩で間があき、体が冷えてしまったことと、野球のグランドを正規の位置とそれと対角の位置で2面として使っていたのだが、1試合目は正規の位置でピッチャーマウンドの足場がよく投げやすかったのに、準決勝では対角の位置となりピッチャーマウンドの足場がぬかるんでいて、かなり投げにくかった。結局、フォア . . . 本文を読む
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研究室対抗のソフトボール大会の幹事を行う羽目になっていた

2017-05-15 23:57:08 | 自己紹介
4年の時のことで一番よく憶えているのは電気工学科の研究室対抗のソフトボール大会だ。当時、4年生と院生のチームでトーナメント戦を行うソフトボール大会が行われていた。前年の大会で原子力研究所のチームが優勝したため、私たちの代は大会の幹事を行う羽目になっていた。原子力研究所は川崎市多摩区(現在は麻生区)の王禅寺にあり、尾山台にある大学とは離れているため、他の研究室と連絡をとるだけでもかなりの手間だった。 . . . 本文を読む
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大学4年の時は時間に余裕があった

2017-05-14 23:17:48 | 自己紹介
今、振り返ると、大学4年の時は時間に余裕があった。大学での講義を受ける必要は無かったし、就職活動もなし、大学院には無試験で合格できたからだ。試験というと放射線取扱主任者の国家資格試験を受けたくらいだった。 卒論は数値計算のコンピュータプログラムを使った計算が主体の研究だった。熱中性子という放射線が物質中を透過する現象を輸送理論という数値解析の理論を使って、現象の分析・説明をするのだが、私自身は輸送 . . . 本文を読む
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「大学院を創った」と呼ばれる

2017-05-13 17:54:50 | 自己紹介
父親が再婚したのは離婚してから1年くらい後だったと思う。父が再婚すると横浜の緑区に居を構えたので、私は週末にそこへ行くことができるようになった。大学では私は4年になって付属原子力研究所に通っていた。 3年の夏頃には卒論指導の研究室を付属原子力研究所へ希望を出しており、電気工学科の中では希望する学生が少ない研究室なのですぐに内定した。また大学院進学も希望を出していたが、大学院の体制としては電気工学専 . . . 本文を読む
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弟の来訪そしてホテル・カルフォルニア

2017-05-11 20:17:58 | 自己紹介
春日部の実家が無くなってしまい。弟たちは母親の再婚相手の家に住むことになったが、私は父親に引き取られる形だったので帰る家がなくなってしまった。私は大学3年で東京の旧実家の離れにそのまま住んでいた。風呂とか洗濯とかどうしていたのだろうか?銭湯とかコインランドリーを利用したはずだが、この頃のこともほとんど思い出すことができない。 思い出せるのは月に1回、父が生活費を持って私のところに来たこと。日曜日は . . . 本文を読む
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