IZUNOHANA’s blog

     後期高齢驀進中者の戯言

その後を・・・

2017-12-29 09:52:18 | この頃思う事

たった一つだけ咲いた「自然発芽のノースポール」の白い花・・・私のように孤高の清らかさ・・・えっ、それは違うって?
はいはい、分かっておりますです、そのようになりたい!という私の希望なのです。

 


 

想定内も想定内である「自転車による交通事故」に関し、多大なご心配を頂きお見舞いくださった皆様に、心からのお礼を申し上げます。

「停止線」を無視した私の一方的な違反行為による事故でしたが、お陰様で(と言うか、しぶとい身体と言うべきかで)右肘に軽い擦過傷と、骨には異常のみられない腰痛という状況です。

「道路交通法違反」という罪状で、事故現場で「現場検証」と「事情聴収」を受け「取調べ調書」なるものに署名捺印を致しました。
自転車で、3回違反をすると講習を受けるとか?乗れなくなるとか?との説明を受けましたが、「もう、自転車には乗りませんから、2度目の事故も3度目の事故もありません!」ときっぱり宣言したものの、果たして、自転車の無い生活には、どれ程我慢できるのかに不安はありますね、何せ、「ド・イナカ」と言ってもいい程、不便な地域に住んでいるのですから・・・
ま、それはさておき、その調書の最後でおまわりさん曰く、「こちらが全面的に非があるので、相手が受ける処罰に対し、穏便に図って貰いたいという気持ちはありますか?」という問いには、すぐさま「いいえ、事故の当事者として、法に則って正当な処遇をしてください(日本は法治国家でしょ・・・これは心の中でね)」と私は答えました。
事故の相手に対し、何も恨みつらみはないのは真実だが、だからと言って「罪は無し」というのでは泣ききれない・・・というやるせなさとウップンを晴らしたい気持ちの現れだろうか、それとも、我が罪を認めない傲慢さと相手に対しての思いやりのかけらもない人間だと言う証明か・・・
でも、オバサンとしては、このまま「はい、分かりました」と収めてしまうにはちょい不足感があって、おまわりさんに、「もう2度とこんな場面には出会わないでしょうから、記念にブログに載せます」と、私なりの了解をとりました。
まぁ、権威とのやりとりには、何かと納得に出来ない事もあり、一言ある私ですが、今回は、かなり素直に受け答えをしたというのは、やはり、「私が悪かった」という反省があったのだと思っていますよ。


今年は、体調やら精神面やらの不調で思うように動けなかった日々だったが、この事故が大事に至らなかった事で「厄払い」出来たと思う事にしたのですね。

ここまで書いている内に、ちょい腰の痛みが増し辛くなって来たので、とりあえず、「事故後報告」とさせていただきます。
頂いたコメントにお返事が出来ませんでした事をお許しください。
また、来年(もう三日後ですが)も、よろしくお付き合い頂けます様願っております。

皆様、どうかよいお年をお迎えください。

 


 


 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

想定内の想定外 !?

2017-12-24 11:15:44 | この頃思う事

「蝋梅」のふくよかな香りに引かれて見れば、まだ、たくさん付いている葉の下に、黄色の花が咲いていた

 


 

うそ~!まさか!何~!・・・と思う一方、あぁ、当然だな、なるべくしてなった・・・と、やけに冷静に納得していた自分が居たのが可笑しい。
そう、我がマイカー(チャリ)と軽自動車がぶつかったのだ。

衝突した瞬間とその後は記憶にあるが、衝突する直前が、全く、記憶から除外されている。
事故に遇うなんて、そんなものなのかも知れない・・・と、思っているが、これも逃避だろうか。
外傷は無い・・・と、事故した時点では分かっていたが、私の最大のウィークポイントである腰に衝撃を受け、全く、動けなかったので、とりあえず、救急車で運んで貰った。
その結果、骨には異常が見られないと診断され入院は免れたが、事故から3日目、以前、腰に痛みがあり、ペタペタと湿布薬を張り付け、立ち居振る舞いには不自由をしている。
ま、大事に至らなかった事は、私自身は勿論の事、相手の運転者にも、幸いであったと感謝している(やっぱり、神様にでしょうかねぇ)。

実を言えば、最近、マイカー(チャリだが)を使い続ける事に少し不安を感じるようになっていた。
そろそろ引き時だと決心していたけれど、腰痛には歩く事より自転車に乗る方が楽だったので、何となく、延ばし延ばしにしていたが、これで限界が来たとカンネンすべきかもしれない。
だから、事故に遭う事は「想定内」であったけれど、どこかで、「想定外」へと位置にずらしていたような気もする。
まだ、事故としては「一件落着」に至っていないけれど、そう引きずりたくないので、早めに解決する積りだ。

パソコンを使うのも、ちょいキビシイところもあって、また、少しの間は、養生時間が必要とお許しください。

 


葉が全部落ちると、寒空の中に黄金色の花が輝いてくるのが、楽しみである

 


 

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「歎異抄」にチャレンジした結果は?

2017-12-16 11:49:01 | この頃思う事

花の無い我家の庭で、細々ながら頑張っているのが、「赤い実・・・千両」です。

 


 

「歎異抄(100分で名著テキストから)」にトライしたのは、何時頃だったか・・・とりあえず、3回、繰り返して読んだ。
結論から言えば・・・やっぱり分からない・・・と言うべきか。

釈徹宗如来寺住職・相模大教授による、手取り足取りの解説は、

第一章・・・人間の影を求めて
第二章・・・悪人こそが救われる
第三章・・・迷いと救いの狭間で

読み進めながら、うんうん、そうだ!と、納得出来たつもりだったが、最終章に至った時、さて、何がどうしたと書いてあったの?と、私の脳細胞が、全く、纏めをする事が出来ないのだ。
結局は、「信心」という気持の無い者には、「暖簾に腕押し」状態なのかという思いもある。
(元著:歎異抄には、信心の無い者に読ませるなとの但書があるとか・・・)

だが、
第四章・・・人間にとって宗教とは何か
に至って、ふと、そう言うものなのか・・・と、ちょっと腑に落ちる(私にも理解出来る)一文に出合った。
恐れながらも、かいつまんで記述させて貰えば、

「現代社会では、技術の発達などで作業や家事が短縮され、現代人は余裕のある生活をしてしかるべきなのに、昔より、ずっと忙しく暮らしているのは何故か?
外在的時間をいくら余らせても、内在の時間が収縮しているから、気持は忙しくなる一方で、現代人の苦しみの原因と考えられる。
人間にとって内在的な時間を延ばす最大の装置は「宗教儀礼」であり、数十年も昔に亡くなった親族の法事を営む事で、大きな時間の流れに我が身を置く事ができる。こうして、内在時間は少しづつ延びる。
人類は状態が変わる度(成人式、結婚式、葬儀)に宗教儀礼をおこない、新たな権利を得たら新たな義務を生じる・・・この機能はこれからの日本社会を考える上にも考慮すべき云々」


私自身は、「宗教儀礼」は面倒だと感じているから、どちらと言えば、避けがちの暮しであると言える。
偏見的見解かも・・・を承知の上で、「信心」というのは「何か大きな存在に無抵抗的に依存するもの」と理解し、そのような選択をするから、宗教戦争が尽きないのだと解釈していた(勿論、今もその考えはある)。
内在的時間が延びるというのは、心が広くなり、物事に余裕を持って対処出来る・・・事と、私的に理解をした。
実際、私には、元著「歎異抄(親鸞の教えを直接受けた唯円が著したと言われている)」を読みこなす能力も資格もないと判明したが、第四章を読む事で、すこ~し、「信心」をする人を理解する方向が変わったようにも思えてきたし、若しかすると何時また、「歎異抄」にチャレンジ出来るかも知れないという可能性も残している。



いずれにしても、「ひたすら「信心」に集中できる人は、幸せなのかもしれない」を、読後感想として、ひとまず終読。

 


  ところ構わず芽を出して、庭のあちこちで実を付ける「万両」なのです。

 


 

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「意志を伝える」って難しい?

2017-12-11 11:53:18 | この頃思う事

 

我家の周りで繰り広げられる自然の営み(大げさなものではない)には、煌びやかさはないけれど、ほのぼのとした暖かな思いになれる風景がある。

 


 

友人から指摘された事で、ちょい違うけれどなぁ・・・と感じたのは、家(正確には姉の家)のイザコザに関して喝を下すのは貴方(つまり私が一番威張っているように見えるのかも)だろうと言われた事だった。
確かに、母が姉の手に負えなくなり、私が看る決断をしたのは私であり、その他の件でも、相談を受ければ単刀直入に意見を言いもしたが、私から、アアセイ、コウセイと口出しは決してしていないと確信できる(まぁ、無関心だとも言えるけれど・・・)。
その家その家に、的確ではないにしろ習慣とか考えがあるから、明らかに間違っていたとしても、当事者が結果に対峙する事が大事であって、「転ばぬ先の杖」は必要無いと考えているからだ。

でも、自分自身に関する事では、お伺いを立てたりしないでまず実行あり、その後に報告というのが常であるが、だから、一切、自分から頼って行くことは無い・・・自分では自立している(都合のイイ言葉だ)と放言している。


何故こんな話をしたかと言うと、20日付毎日新聞に載った投書を読んだからだ。

その内容をカイツマンデ言えば、介護施設に入居している姑に面会に行くと、毎回記入するカードがあり、詳細に記載された入居者との関係の中に「嫁」という欄が無いのだそうだ。
で、投書者は、その点に納得がいかないものの、本音を言って「変な人」と思われる事が嫌で黙っているが大きな不満がある・・・と言う(若しかすると、私の思い違いもあるかも)。

えっ、そんな事なら、窓口で「嫁という欄を設けてよ」って、言えばイイでしょ・・・と、私なら言いそうだと思った。
あらためて言う事ではないが、私は彼女を責めているのではないとご承知いただきたい。
私には「嫁」の経験がないけれど、そこまで遠慮する必要はないと思う(嫁の立場より性格かとも思う)。

己を「主張」すれば、その結果は必ず「責任」が伴うものだ。
「主張」ばかりで「責任」を放棄するならば、単なる「我儘」であり、何の人間的な魅力は感じないだろうが、只々、争う事を恐れて黙る事は、何事に関しても、決して得策とは思えない。
その窓口で、「いちいち書くのが面倒だから「嫁」の欄を加えて欲しい」と提案したら、良い結果が出るかもしれないし、出なくても元々だろう。
意外、世の中には簡単に解決することはある。

他人様への口出しは無用でも、自分に関しては大いに発言しようではないか・・・この提案は如何?

 

 


 

枯葉が目立つ竹藪に、一条の明かりが差し込んだような黄色の葉が清々しい

 


 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12月に入ったと言うのに・・・

2017-12-05 09:18:24 | この頃思う事

 日当たりの良い畑に植えてある「さざんか」の、白い花の命は短くて・・・2日も持たない。

 




どいう訳だったか、一日おきに予定があって気忙しい11月だった(と言っても、ただ遊んでいるだけだが・・・)。
12月の声を聞いたとたん、体中の筋肉が弛緩してしまって、何もしたくない。
まぁ、「毎度のナマケ病」と言ってもイイだろうが、熱中している筈の勉強(?)さえ、する気力が出ないのだ。
ただ、見るともなくTVのチャンネルを切り替えるのみ・・・

そんな時、三島に住む先輩友人から電話が入った。
「ねぇ、お茶の約束は何時だったけ?」と言うのだ。
「あぁ、12月に入ったら・・・って言ったけれど」と返事をしながら、もう12月だよと気が付き、「じゃぁ、明日はどう?お昼に駅で・・・」と、その場で時間を決めた。

当日、三島に出るならば、「三嶋大社」の近くに住む別の友人に届け物があったので(別に急ぎではなかったが、目的を強制的に付加しないと家を出られないのだ)、約束時間より早めに出かけ、友人宅を訪ねたところで先輩友人(今日は定期的検診で病院に出ている)から電話が来た・・・病院が混んでいて、約束時間より少し遅れる・・・と言う。
「じゃぁ、私は三嶋大社の傍だから、ついでに御参りをしてから行くので、急がなくてもイイからね」と答えた。

とは言うのもも、どちらかと言えば、神社仏閣に「御参り」する事が稀な私であり、今更、何を祈ろうというのか・・・我ながら呆れ気味で境内に入った時、ちょうと「厄年」の詳細が掛かれた看板が目に留った。
そうだ、来年は私の年(厄では無いが戌年で)だと思い出し、如何に年女であっても、まず初詣などする訳もない私なので、今、この機会に来年の「期日前初詣」をしよう・・・と思いたった。
僅かばかりのお賽銭に託し、「ま、来年も何とか過ごせますように・・・」と早口でお頼みするが、これで叶えられたら、神様の深~い御心に感謝感激である。

そんなこんなで、先輩友人と落ち合い、ランチとオシャベリを楽しんで、「今年もお世話になりました、来年も元気で過そうね」と別れたが、いやぁ~、何時になく疲れた!やはり、体がナマケたがっているようだ。
こんな調子の12月突入、う~ん、立ち直らねば・・・



   ←蕾から満開への経過が好きだなぁ・・・


 実は、この「さざんか」は、11月20日に撮影したもので、もう、花は殆ど終わってしまっている。

 


 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする