ヒジュラ暦1427年シャアバーン(8月)8日 ヤウム・ル・ジュムア(金曜日) |
パッと見た感じは教会っぽくない。キリスト教的な装飾がまだほどこされていないためかもしれない。
はるかに規模が小さければ、白いおしゃれな教会という感じなのかもしれないが、とにかくデカイせいかギリシアの神殿風にも見えるし、多柱式モスクにも見える。彫刻や絵画などの装飾がほどこされて教会らしさを増してゆくのだろう。
個人的には「シンプル・イズ・ベスト」で、極力装飾をしないのもいいと思う。
一本一本の柱は、根本が6角形で上に行くに従って12角形、24角形、円形へと美しく変化してゆく。この柱が整然と並ぶだけでも十分に美しい。
「ユニ・セックス(男女の区別がないこと)」という言葉をもじるが、礼拝堂はこのままなら「ユニ・レリジョン(宗教の区別がないこと)」という感じになる可能性を秘めているのではないか?
キリスト教会なので、教会らしくなっていっても別に文句はないが、世界にひとつくらいは宗教の別を感じさせない巨大な宗教施設があっても良さそう。
どこかに小さなミフラーブでも作ってもらって、クリスチャンもムスリムも同じ場所で祈れたらなかなか素敵なことだと思うのだが(当然無理だろうけど)。
実はそんなマジメなことばかりを考えていたわけではなく、上を見上げながら「うっわぁー、巨大な高足ガニを下から見上げたみたいだな」などとくだらないことも考えていた。あばら骨のようにも見える。上の写真を見てそんな感じがしませんか?
天井の装飾がまたいろいろな花を連想させる。
ひまわりにも見えるし、ギリシア時代の装飾によく使われたアカンサス(ハアザミ)にも見える。また聖預言者ムハンマド(サッラッラーフ・アライヒ・ワ・サッラム)のシンボルのバラにも見えるし、仏教のシンボル蓮にも見える。
まったくそのように見えない人もいるかもしれないが、私にはいろいろなものが連想されたのである。そしてそれがまたユニ・レリジョンへの希望を感じさせる。
左の写真のように、資材がゴロゴロ転がっていて、「まだまだ工事中なんだなあ」ということを実感する。
しかし急ピッチで工事が進められているので、現在は入れないこの区域にも、あと何年かすれば入れるようになるのかもしれない。
その頃には、資材置き場も足場も無くなり、今とは違った姿を現すはずである。いつかそんな姿を見に、ふたたび訪れるのもいいかもしれない。
そしてサグラダファミリア自体が完成するのはいつなのか? それについてはまた次回に続く。
「当分」としてみてはどうかな。
いつかはきっとね。
「当分」としてみてはどうかな。
いつかはきっとね。
私もとても素敵なことだと思います。
当分、無理かな・・・でも、はでぃじゃさんのいうように
いつかはきっと。
私は写真からは骨みたいに見えました。
行ってみたいな。これもいつかはきっと。
宗教が違っても、ひとりひとりが、ただ天に向けて一心不乱に祈っていればそれでよいのだと思ふ。
左右を見渡して「なんじゃコイツ、信仰が間違っとる」と、けば立つから争いになるのでしょう、きっと。
「いつかはきっと」←とても良い言葉ですね。
確かにそのようにも見えました。完成したときは何に見えるのかな?
>「当分」としてみてはどうかな。
>いつかはきっとね。
ハリーファ・ウマル(アッラーの満悦あれ)が禁止しました。そんなこと解禁したら、中東のキリスト教会がムスリムだらけになって、キリスト教徒が礼拝できなくなります。
>>クリスチャンもムスリムも同じ場所で祈れ>たらなかなか素敵なことだと思うのだが
>私もとても素敵なことだと思います。
>当分、無理かな・・・でも、はでぃじゃさんの>いうように
>いつかはきっと。
こういう精神構造の人たちが欧州からアジアアフリカアメリカへ出かけて行って、さしてよいものでもない生活様式や宗教を押し付けたため、今も多くの問題が未解決です。
わが国でも戦中朝鮮で義務でもない創氏改名を朝鮮人に押し付けた下級官吏がおりました。
多くの宗教が異教との合同祭祀を禁じています。イスラームももちろんそうです。どうしてなのか、よく考えて見て下さい。
地獄への道は善意が敷き詰められている。
ご批評ありがとうございました。
おそらく同様の感想を持たれたムスリム・ムスリマの方は多いと思いますので、私の所見を記します。
>中東のキリスト教会がムスリムだらけになって、キリスト教徒が礼拝できなくなります。
本文中にもあるように、私が感じたのは「世界にひとつくらいは宗教の別を感じさせない巨大な宗教施設があっても良さそう」ということであり、それを中東や他の地域に拡大化したり、一般化することではありません。
スペインは、イスラームが約800年間根を張った地域であり、その上に現在のカトリック王国があります。
しかしイスラームの火は消えたわけではなく、スペインの中で少数派ながら共存しています。
そのような地域特殊性も考えて、この地にひとつくらいはクリスチャンもムスリムも礼拝できる場所があってもいいのではないかと思った次第です。
>こういう精神構造の人たちが欧州からアジアアフリカアメリカへ出かけて行って、さしてよいものでもない生活様式や宗教を押し付けたため、今も多くの問題が未解決です。
わが国でも戦中朝鮮で義務でもない創氏改名を朝鮮人に押し付けた下級官吏がおりました。
これは論理の飛躍ではないかと感じられます。
「こういう精神構造」といのはどのような分析かが不明ですが、少なくとも私が主張するのは「互いの価値観を認め合うこと」であり、価値観の押しつけではありません。
しかし、上記の文章には、価値観の押しつけの例が記載されているようです。
「平和論者が戦争を生み出す」式の逆説的な論理展開をするなら、まずは「こういう精神構造」についての定義をした方がよいのではないかと感じますけどいかがでしょうか?
>多くの宗教が異教との合同祭祀を禁じています
これについては、私の文章にあいまいさがあったようで反省しています。
私が言いたかったのは、合同祭祀ではなく、単に「同じ施設で祈ることができる」ということでした。
サグラダ・ファミリアはもちろんキリスト教会です。
しかし、ミフラーブがあり、教会として認めてもらえれば、ムスリム・ムスリマがそこで礼拝することが可能になります。
同じ時間に同じ形式で礼拝することは想定していません。
祈りの姿をノン・ムスリムにも見てもらうのは悪いことではないと思います。これはもちろん、これ見よがしに礼拝するということとは次元が異なります。
正統カリフ後のウマイヤ朝初期には、ダマスカスの教会の一部をモスクとして転用し、一時的とはいえ教会とモスクが同じ敷地に存在したこともありますし(現在はモスク)。
現在、世界宗教者会議にはイスラーム団体も参加しています。これは異宗教間の対話・理解・協力が必要な世の中だからでしょう。
そのような意味でも、違った時間と価値観を生きていても、同じ空間で礼拝ができるということは価値あることだと感じます。
もちろん、懸念が無いわけではありません。
違った価値観を持った同士が同じ場所に居合わせた結果、対立になることもあり得るでしょう。
イラクにしても、スンニー派とシーア派が同じモスクで礼拝したりして協力をしていたかと思ったら、一転殺し合いになる…ということもありました。
その意味で、スライマーンさんが「いろいろな危険性も考えずに、ノーテンキなこと書いて困った人たちだ」と批評するのももっともです。
その危険性があるからこそ私は「当然無理だろうけど」と書きました。
そして、はでぃじゃさんの「当分無理だ」にも同じような気持ちが込められていると私は感じ取りました。
どちらにしろ、サグラダファミリアはまだ完成していません。
歴史に思いをはせているうちに、なんとなくそう感じた…という程度のことでしたが、スライマーンさんのおかげで、自分なりに一歩突っ込んで考えるきっかけになったことを感謝します。
>地獄への道は善意が敷き詰められている。
地獄を恐れていますか。
それとも善意を恐れているのですか。
イスハークさんのブログですし、イスハークさんが必要と思われることのほとんどを仰っているので必要ないかとも思いますが、
世界が批評と悪意と怒りに満ちていると考えるのは、その逆に善意と美と真理のみに満ちていると考えるのと同様に間違っていると個人的には思っています。そうではなくて、批評もあれば賛同もあり、善意も悪意も、怒りも喜びも同時に全てがあるというふうに考える方が私は好きです。
ですからスライマーンさんのように考える方がいらっしゃっても不思議はないですし、おかげさまで小生のようなノーテンキ者も生きていられるというわけです。
>多くの宗教が異教との合同祭祀を禁じています。イスラームももちろんそうです。どうしてなのか、よく考えて見て下さい。
合同祭祀とは何のことか、あるいはスライマーンさんがどのような意味合いで仰っているのかが小生には分かりません。ムスリムにとって礼拝が禁じられるのはどのような状態を指すのか、お互いに理解の擦り合わせをする必要があると思います。あれは禁じられている、これは禁じられていると仰るのはその後にしませんか。
「当分」としてはどうかと申し上げたのは、「当然」かどうかは神ならぬ身の私たち人間には知り得ないことだからです。
これをご縁に今後ともよろしくご指導下さい。
一般化ではないとのこと。宗教者会議などで、「みんなで世界平和のために祈ろう」なんて集まりもありますね。特殊事例でたしかに存在します。私はこういった出来事には偽善と涜神しか感じません。しかし、こんなことよりも大切なことを。
「こういう精神構造」とは正しく「互いの価値観を認め合うこと」に他なりません。これは直ぐに「話し合えば分かり合えるはずだ」へと進んでいってしまいかねない可能性を包蔵しています。異なる価値観を持つ二つ以上の共同体間で「こういう精神構造」が要らん交流なぞはじめると、結末は、片方がもう一方を武力で弾圧する、あるいは完全に支配弾圧する、あるいは延々殺し合い。直ぐに「いや、うまくいっている場合もある」と反論があるわけですが、なんのことはない、軍事力警察力の覆いがかかって
いるからに過ぎません。
価値観の異なる人々がなかよくしていくには、
・相互不干渉
・軍事力の均衡
私たちが今日殺すことも殺されることもなかったのは、要らんちょっかいを出さなかったこと、そして我が国の自衛官警察官諸氏の勤務優良なること、この二つに尽きます。