カンザスシティ・アスレチックス(1963)自作Tシャツ
「カンザスシティ・アスレチックス」のキャップを購入したのでTシャツを自作。左胸の「A」のロゴは1963年のデザイン。(後に「A」のロゴは若干シンプルな形状に変更されている)→参照はこちら
※1963年までの「A」ロゴ
#6 チャック・エシージャン/Chuck Essegian(1964年にはNPB近鉄バファローズにも在籍。当時の登録名は「チャック・アシージアン」)
※1964年以降変更された「A」のロゴ
#20 ドン・ブッシュホーン
フィラデルフィアからカンザスシティに移転後も基本的には「青」主体のチームカラー(フィラデルフィア最終年の1954年から「赤」も加わる)だったが、名物オーナー・チャーリー・O・フィンリーの発案により、1963年からカラーテレビ時代に対応して、既成概念を破るド派手な黄色(公式には金色と呼称)のユニフォームを採用。黄色のユニフォームは一貫してビジター用だったわけではなく、1963年はホーム・ビジター兼用、1964年はホーム用として使用された。その後1965~1967年まではビジター用となる。
1963~1967年「カンザスシティ・アスレチックス」ユニフォームの推移
●1963年
●1964年
●1965年
●1966年
●1967年
1963年以降ノースリーブを採用しているのでTシャツで再現するのは少々無理があるが、個人的にノースリーブのシャツを着用する習慣がないので、敢えて無視した。
#19 バート・キャンパネリス(「A」のロゴは変更後のもの)
MLB時代は遊撃手だったが、マイナーリーグ時代の1962年8月に、フロリダステートリーグで投手として登板した時に左右投げを披露したスイッチピッチャーであった。1965年9月8日の対カリフォルニア・エンゼルス戦で史上初の1試合全ポジション守備を記録した。1番遊撃手で先発出場し、回ごとに二塁手→三塁手→左翼手→中堅手→右翼手→一塁手→投手→捕手とポジションを変え、珍記録を達成した。8回には自身初の投手を務め、2与四球・1被安打で1失点という内容だった。後に西武ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)の一軍守備・走塁コーチ(1987年)、二軍守備・走塁コーチ(1988年)を務めたことでも有名。
余談だが、小学生の時、カッコ悪いとは思わなかったが上下ブルーの西武ライオンズのビジター用ユニフォーム(1979~1995)は多少なりとも違和感があった。
#39 オレステス・デストラーデ
しかし、上記図の様にカンザスシティ・アスレチックスは既に1960年代に上下イエローのユニフォームが採用されていたし(オークランド移転後も1971年まで上下イエローユニフォームは使用された)、サンディエゴ・パドレスも1972~1973年まで、ピッツバーグ・パイレーツも1977~1984年まで共に上下イエローのユニフォームを、1975~1977年まではクリーブランド・インディアンズが上下赤のユニフォームを採用していたので、昔からMLBに精通していた人にはそこまで奇異には映らなかったのかもしれない。
クリーブランド・インディアンズの上下赤ユニフォーム #37 デニス・エカーズリー
NPBでも1973年に日拓ホーム・フライヤーズが、1976年に太平洋クラブ・ライオンズが上下同色のユニフォームを採用していた。
1973年 日拓ホーム・フライヤーズ
1976年 太平洋クラブ・ライオンズ
これらを見ると…上下ブルーの西武ライオンズなんて、全然マシのような気がする(笑)
※その他グッズはこちら
「カンザスシティ・アスレチックス」のキャップを購入したのでTシャツを自作。左胸の「A」のロゴは1963年のデザイン。(後に「A」のロゴは若干シンプルな形状に変更されている)→参照はこちら
※1963年までの「A」ロゴ
#6 チャック・エシージャン/Chuck Essegian(1964年にはNPB近鉄バファローズにも在籍。当時の登録名は「チャック・アシージアン」)
※1964年以降変更された「A」のロゴ
#20 ドン・ブッシュホーン
フィラデルフィアからカンザスシティに移転後も基本的には「青」主体のチームカラー(フィラデルフィア最終年の1954年から「赤」も加わる)だったが、名物オーナー・チャーリー・O・フィンリーの発案により、1963年からカラーテレビ時代に対応して、既成概念を破るド派手な黄色(公式には金色と呼称)のユニフォームを採用。黄色のユニフォームは一貫してビジター用だったわけではなく、1963年はホーム・ビジター兼用、1964年はホーム用として使用された。その後1965~1967年まではビジター用となる。
1963~1967年「カンザスシティ・アスレチックス」ユニフォームの推移
●1963年
●1964年
●1965年
●1966年
●1967年
1963年以降ノースリーブを採用しているのでTシャツで再現するのは少々無理があるが、個人的にノースリーブのシャツを着用する習慣がないので、敢えて無視した。
#19 バート・キャンパネリス(「A」のロゴは変更後のもの)
MLB時代は遊撃手だったが、マイナーリーグ時代の1962年8月に、フロリダステートリーグで投手として登板した時に左右投げを披露したスイッチピッチャーであった。1965年9月8日の対カリフォルニア・エンゼルス戦で史上初の1試合全ポジション守備を記録した。1番遊撃手で先発出場し、回ごとに二塁手→三塁手→左翼手→中堅手→右翼手→一塁手→投手→捕手とポジションを変え、珍記録を達成した。8回には自身初の投手を務め、2与四球・1被安打で1失点という内容だった。後に西武ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)の一軍守備・走塁コーチ(1987年)、二軍守備・走塁コーチ(1988年)を務めたことでも有名。
余談だが、小学生の時、カッコ悪いとは思わなかったが上下ブルーの西武ライオンズのビジター用ユニフォーム(1979~1995)は多少なりとも違和感があった。
#39 オレステス・デストラーデ
しかし、上記図の様にカンザスシティ・アスレチックスは既に1960年代に上下イエローのユニフォームが採用されていたし(オークランド移転後も1971年まで上下イエローユニフォームは使用された)、サンディエゴ・パドレスも1972~1973年まで、ピッツバーグ・パイレーツも1977~1984年まで共に上下イエローのユニフォームを、1975~1977年まではクリーブランド・インディアンズが上下赤のユニフォームを採用していたので、昔からMLBに精通していた人にはそこまで奇異には映らなかったのかもしれない。
クリーブランド・インディアンズの上下赤ユニフォーム #37 デニス・エカーズリー
NPBでも1973年に日拓ホーム・フライヤーズが、1976年に太平洋クラブ・ライオンズが上下同色のユニフォームを採用していた。
1973年 日拓ホーム・フライヤーズ
1976年 太平洋クラブ・ライオンズ
これらを見ると…上下ブルーの西武ライオンズなんて、全然マシのような気がする(笑)
※その他グッズはこちら