一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

最近の拾い読みから(78) ―『またぎ物見隊顛末』【その3】

2006-09-30 03:23:14 | Book Review
大岡昇平の「現代史としての歴史小説」(『歴史小説論』所収)によれば、現代の歴史小説の2類型は、
「A.過去の再現という、歴史の線に沿ったもの。
 この場合、近代的レアリズムは、場面と人物の再現について、歴史に協調的に働く。
 B.現代社会の諸条件では不可能な状況を、歴史をかりて設定し、人間のロマネスク衝動を満足させるもの。」
ということになります。

そして、具体的な歴史小説は、
「この二つの極の間に、無数の変種、中間種」
として存在するわけ。

それでは、この作品集『またぎ物見隊顛末』に収められた3編は、どうでしょうか。
「漢(かん)の武帝(ぶてい)の天漢(てんかん)二年秋九月、騎都尉(きとい)・李陵(りりょう)は歩卒五千を率い、辺塞遮虜(へんさいしゃりょしょう)を発して北へ向かった。阿爾泰(アルタイ)山脈の東南端が戈壁沙漠(ゴビさばく)に没せんとする辺の磽(こう)かく(「石」に「角」)たる丘陵地帯を縫って北行すること三十日。朔風(さくふう)は戎衣(じゅうい)を吹いて寒く、いかにも万里孤軍来たるの感が深い。漠北(ばくほく)・浚稽山(しゅんけいざん)の麓(ふもと)に至って軍はようやく止営した。すでに敵匈奴(きょうど)の勢力圏に深く進み入っているのである。」
というのは、中島敦の『李陵』の出だしですが、本稿前々回に引用した『またぎ物見隊顛末』に雰囲気が似ていないでしょうか。

『李陵』は史書を基にした漢文脈の叙事詩的文体です。
登場人物は、これまた錚々たるメンバー、漢の武帝、史家司馬遷や軍人李陵。

これに対して、『またぎ物見隊顛末』では、南部の斗内またぎの頭・大蔵、「抱(かかえ)の打手の与吉と勢子の多作」。
この一種荘重な文体と、登場人物とのギャップとが、そこはかとないユーモアを生んでいくのですが、それはともかく……。

ストーリー自体は、戊辰戦争中および戦後に、登場人物が巻き込まれる不条理なできごと、ということで、どの時代にも、庶民には起こりうること、という筆致で描かれています。
しかし、方言の導入について触れたように、全体の描写が近代リアリズムに貫かれていますから、「伝奇小説」ではない。

という結構、凝った文章と複雑な内容を持った小説となっています。

特に、第3編の「勝手隊救援隊始末」は、ラ・マンチャの「騎士」ドン・キホーテと、その従者サンチョ・パンサを思わせる主人公たちが、硬直化した藩制度・武家作法を行動で批判するという、なかなか面白い一編になっています。

それが成功しているのは、先程述べた、文体と登場人物とのギャップとが、藩制度・武家作法と登場人物とのギャップとに重なっていることにもよるのでしょう。

この項、了

最近の拾い読みから(77) ―『またぎ物見隊顛末』【その2】

2006-09-29 02:16:25 | Book Review
第二の問題は、「方言」の使用についてです。

大岡昇平の『歴史小説論』を借りるまでもなく、一般の歴史小説は近代レアリズムの手法で書かれています(「近代の歴史小説が、リアリズムの誕生と同時代であった」)。

そのような手法で書かれている『またぎ物見隊顛末』所収の3編には、舞台である南部藩の方言(正確に言えば、斗内村(青森県三戸町)近辺の方言と、南部藩の武士層の方言)が、多用されています(これに、『またぎ物見隊顛末』では南部マタギの職業用語)。

例えば、次のような会話文。
「南部方と秋田方が戦すると言(へ)っても、戦は侍がやるごとでやんすだえ。またぎが巻添え食うのは、どう考えても普通で無がんすな」

「戦え、とは言(へ)ってねえぞ。ただ、またぎの許しを戴いてきた者として、当然、こたびの討入りではお報いしねば、ということだえな」

これに対して、上級の侍となると、
「相分ったな? 分ったなれば早々に退散致せ。二度と恐れながらと申し出で、戯れ言を並べ立てたる場合は斬罪に処す!」
と、いわゆる時代小説の侍ことばとなります。

そのほかにも、地の文の中の、
「犬皮(せたそっか)」「山刀(ながさ)」「糧食網袋(ちむぜんぶくろ)」「鉄砲(しろびれ)」「熊(いたず)」
というのは、「またぎことば」でしょうが、
「尻込(おじょ)んだ」「苦労(せっちょ)」「零細(こまい)」「食糧(きしね)」
などは、方言をそのままルビで表しているのでしょう。

これらの例からも分るように、方言使用による、著者の一つの狙いは、先程述べたようなリアリズム手法における効果(リアリティを読者に与える)でしょう(ただし、ルビだけで処理するために、全面的に方言を取り入れているわけではない)。

しかし、一方では、次のような批評もありうるのでしょう。
「文章は悪く言えばやや生硬、良く言えば簡潔堅固、とにかく初めのうちは読みにくい」(井上ひさしの「第1回松本清張賞選評」)。

「若干の読みにくさが私には気がかりであった」(阿刀田高の「第1回松本清張賞選評」)。


この項、つづく

最近の拾い読みから(76) ― 『またぎ物見隊顛末』【その1】

2006-09-28 02:28:45 | Book Review
正確な書名では、「またぎ」が「けものへん」に「又」。
短編集のタイトルは、第1回松本清張賞受賞の作品から。
この1冊には、そのほかに「戊辰牛方参陣記」「勝手救援隊始末」が収録されています。

収録された3編とも、時代的、地理的な背景は同じ、戊辰戦争での南部藩と秋田藩との戦いで、それに第1編では「またぎ」が、第2編では「牛方」が、第3編では「御給人」(一種の郷士)とその郎党が巻き込まれるという設定(第3編は若干違って、「御給人」は自発的に参戦するのだが、郎党は止むなくそれに付いていくという形)。

ということで、小説で描かれるのは、戊辰戦争の最前線になった南部藩と秋田藩との藩境近辺の山岳地帯ということになります。
小生、この辺りに土地勘はないのですが、ほぼ今日の JR 花輪線沿線ということになるのでしょうか。

さて、小説の結末は、読んでいただいてのお楽しみとしますが、ここでは、小説の「仕掛け」および、方言の取り入れ方、独特のユーモア感覚について述べましょう。

第1編の「またぎ物見隊顛末」の冒頭から引きます。
「戊辰戦争が、会津から庄内、北秋田へとなだれこんで行った慶応四年夏のことである。
 羽州街道から逸れて二日目に米代川の枝流れの阿仁川を渡った三人は、川岸伝いに阿仁街道を目配せも油断なく阿仁前田に向けて急いだ。主戦場を離れたとは言っても敵国のただ中である。迂闊に村に入れば只事では済まないだろう。道の端に潜んで様子を窺ったが、敵方の侍の姿はまるっきり見えない。人足態の者共は足繁く往き来しているのだが、これまでの戦続きが嘘のような、信じられない静けさが村々を覆っている。」
実に不親切な冒頭です。
「戊辰戦争」「慶応四年」という語が、手がかりになっているだけで、地名は頻出するものの、この辺りについて知識がなければ、西や東も分らない。

けれども、これは、一種の「仕掛け」でもあるのですね。

突然戦場に送られたら、土地の人間であっても、即座には「西や東も分らない」し、どこで何が行なわれているかも定かではない。
ましてや、自分たちが戦っていることが、戦争全体の中でどのような役割を果たしているのかなどは、知る術すらない。

そのような、下級兵士(ともいえないような登場人物たち)のすこぶる不安な、ある種、不条理な感覚に読者を巻き込もうという「仕掛け」ではないのか、と小生には思われます。

それと同じような不条理さが、最後に主人公を襲って、思ってもみなかった結末を見る訳ですが、それは本編を読んでご確認ください。

この項、つづく


葉治英哉(はじ・えいさい)
『またぎ物見隊顛末』
文藝春秋
定価:1,100円 (税込)
ISBN4-16-314970-8

最近の拾い読みから(75) ― 『「大東亜民俗学」の虚実』【その4】

2006-09-27 02:05:18 | Book Review
松岡静雄(まつおか・しずお、1878 - 1936)。柳田国男の弟。
「日本人としてもっとも(多く)太平洋民族、ミクロネシアについての本を書いた」
と言われる。

前回述べたように、本書「第三章 『民俗台湾』の人々」「第四章 南溟の民族・民俗学」「第五章 幻の〈満洲民俗学〉」は、第一章、第二章とは、いささか趣を異とする。

台湾に関しては、もっとも早い時期に、その実地調査を行なった伊能嘉矩(いのう・かのり、1867 - 1925) との交友があったが、しかし、それは柳田が台湾の民俗に深い関心を抱いていた、ということではないようである。
本書によれば、
「彼(引用者註:柳田)自身は〈台湾〉というローカルな研究対象にあまり関心を示した形跡はない。(中略)柳田国男の台湾についての無関心ともいえる素っ気なさが、第二章で見てきたような彼と朝鮮との関わりのように、〈一国民俗学〉において、何か別のレベルで重要な事柄が秘められているような気がするのである。」
と述べ、その秘められた事情に関して、鈴木満男(すずき・みつお。政治人類学者。1926 - ) の
「〈山人〉と〈高砂族〉の併行関係をあげ、これが柳田の山人論が具体的に〈高砂族〉をモデルとして考えられたものではないかと推測している。」
という文を挙げて指摘。

しかし、この章での著者の関心は、文藝評論家らしく、中国趣味に走った植民地台湾在住の日本人文学者の文学界にあるようで、民俗学よりも、そちらに興味を移していく。

第四章は、ますますその傾向が強まり、ここでの主要な登場人物は、冒険家の鈴木経勳(すずき・けいくん、1853 - 1938)、柳田の実弟にして海軍軍人の松岡静雄(まつおか・しずお、1878 - 1936)、藝術家の土方久功(ひじかた・ひさかつ、1900 - 77)などとなる。

――まあ、柳田の実像を知る上では、松岡静雄との関係などは、興味深いものがあるのですが……。

第五章は、柳田を離れ、その愛弟子・大間知篤三(おおまち・とくぞう、1900 - 70) と〈満洲民俗学〉との関係、および関東軍や日本の傀儡政権と学問との結びつきに移っていく。

まずは大間知の次のようなことばが、〈大東亜民俗学〉の目標および内実として紹介されている。
「今日われわれ日本人は大東亜共栄圏内諸民族の盟主となったのである。われわれは率直生一本な日本的性格の特色を発揮するとともに、一方また諸民族の生活の実態、伝統、動向に通暁することも絶対的に必要であるという立場に立つにいたった。」

著者の、このことばに関する評は、次のようなもの。
「ここにはもはや『民族の内省の学』としての民俗学という理念も、安易な他の民族の民俗文化との比較や、他民族の文化への興味をも禁欲する『柳田民俗学』のストイシズムといったものもすでにない。植民地主義と連動した『民族学=民俗学』の異様に昂揚した情熱があるばかりだ。」

今さら、梅棹忠夫(1920 - ) や今西錦司(1902 - 92)、中尾佐助(1916 - )、川喜多二郎(1920 - ) の満洲やモンゴルで行なった調査が、「軍」や「官」にどのように負っていたかは申しますまい。

けれども、実用の学(工学や医学、応用物理学など)だけではなく、一見実利的には無用の学と思われる人類学や民俗学ですら、「一旦緩急アレバ」政治や軍事に取り込まれる(「義勇公ニ奉ジ」る)こと/それを要求されることを、記憶にとどめておく必要があるだろう。

この項、了

最近の拾い読みから(74) ― 『「大東亜民俗学」の虚実』【その3】

2006-09-26 08:20:18 | Book Review
柳田国男(やなぎた・くにお、1875 - 1962)
「日本民俗学の祖」と称せられる。

本書の「第2章 柳田国男と〈朝鮮〉」は、ほぼ柳田「一国民俗学」、ひいては現在の日本民俗学への批判となっている。

柳田と朝鮮との関係において、著者は、村井紀(むらい・おさむ、国文学者、1948 - ) の所説を借りて、次のように指摘している。
「柳田はその法制官時代に日韓併合に積極的に加わったという『負い目』があり、それが彼の内部において〈朝鮮〉への関心、研究を隠蔽、抑圧させることになった」
つまりは、
「柳田国男(とその弟子たち)が総督府の民俗調査に積極的に関わったということはなかったにしろ、それに反発したり、反対したという証拠はない。」
のである。

初期の柳田においては、「巫女考」(1911) に見られるように、
「漂泊の巫女と、流行神とはその出自を海外に、外国に持つということ」
を婉曲的ながらも主張していた。
「柳田国男は明らかにその一時期において、朝鮮の揚水尺とクグツとを、朝鮮のムーダンと日本の巫女とを〈比較〉して考えようとしていた。そしてこの場合の〈比較〉とはその共通点と相違点を分析的に、客観的に見較べるということより、それが同根であること、一方から一方へと関与、影響し、転移したものであることを証明しようとすることだったといってよい。」

にもかかわらず、柳田が他国民俗との「比較」の視点を捨て、「一国民俗学」の立場に固執するようになったのは、著者によれば、次のような事情があったとする。
「そこ(引用者註:クグツ渡来説)には皇室と被差別の起源の問題、そして渡来人と皇室の関係という日本史の最も微妙で複雑な問題が揺曳(ようえい)しているのである。比較民俗学の否定、一国民俗学の成立と山人論の放棄、非常民論から常民論への展開(転向)は、それぞれに絡み合い、重なりあいながら『柳田民俗学』を形成していったのである。」

そして、その「一国民俗学」という立場は、日本の民俗学界のみならず、朝鮮の民俗学界をも呪縛した。
「朝鮮民俗学が日本民俗学から学び、影響されたものがあるとすれば、こうした〈一国民俗学〉としての民族主義にほかならないだろう。小中華、すなわち中国文明の文化的植民地としての朝鮮が〈民族主義〉に目覚めた時、その地は日本という新興帝国主義国家の植民地となっていた。反日がイコール民族主義となり、〈比較民俗学〉の成立の可能性の高い日韓比較が、これまで日本においても韓国においてもはかばかしく行なわれなかったのは、まさにその〈一国民俗学〉としての同質性によるものであり、極言すればそれこそが柳田民俗学の遺産だったといってよいのである。」

以上が「大東亜共栄圏」における朝鮮民俗学のあり方であるが、「台湾」「南洋群島」「満洲」においては、状況がかなり違っている。

本書の記述もそれを反映し、民俗学からかなり離れた人物、鈴木経勳(すずき・けいくん、1853 - 1938)といった冒険家や、松岡静雄(まつおか・しずお、1878 - 1936)という柳田国男の実弟である海軍軍人、土方久功(ひじかた・ひさかつ、1900 - 77)という芸術家、などが主人公となってくる。

したがって、そこに射す柳田国男の「影」も違った形をもつ。

この項、つづく


「夕陽妄語」を読む。

2006-09-25 21:14:18 | Book Review
加藤周一が、「朝日新聞」夕刊の第4月曜日(あるいは最後の週の月曜日か?)に掲載しているエッセイが「夕陽妄語」です。

このエッセイ、政治や現在の社会情勢について触れると、常識的な判断が多く、とたんに面白くなくなるのですが、文化事象に関するものは、なかなか興味深いものが多く、注目に値します。

今回9月25日付け夕刊で触れている人物は、柏木如亭(かしわぎ・じょてい、1763 - 1819)、江戸時代の漢詩人で、市河寛斎(いちかわ・かんさい、1749 - 1820)の門下。
その詩文集『詩本草』に関する紹介と、内容についての評さまざまが、今回のエッセイの内容ということになりましょうか。
タイトルは「『詩本草』を読む」となっています。

さて、詩についてのあれこれは別にして、次のような一節に目を引かれました。

その前に「『詩本草』が探求したのは美味である。」との一文がありまして、)
「おそらく食物の味を決定する要素は、味を感じる側の条件(体調、習慣、文化、時代など)と、食物の側の無数の条件(温度、塩かげん、もっと微妙な多数の要因)との複雑な混合体であろう。」
したがって、「味の比較」は、「味の『好き嫌い』問題」になってしまい、「良し悪し」や「上下」の問題ではないことになる。

「しかし」と、ここでエッセイは転調し、
「料亭には値段の上下があり、市場の食材には正札がついている。その背景に、食物の味の個人的好みではなく、かなり多くの人々の『良し悪し』評価があることは明らかであろう。食物の味の上下は、必ずしも『好き嫌い』に還元されない。」
となります。

ここで勘のいい方はお気づきでしょうが、「味の評価」問題は「藝術の評価」問題に話が発展します。
「一方での『好き嫌い』還元主義と、他方での『良し悪し』客観主義――が、詩の評価や絵画の評価にもあらわれている」
とくるわけです。

小生は、ここに「詩の評価や絵画の評価」よりも先に、音楽の評価、とくに近現代音楽の評価というものを連想しました。
「何がその二面(引用者註:『好き嫌い』還元主義と『良し悪し』客観主義)をつなぐのだろうか。たとえば前世紀の前衛絵画は大衆の評価を分裂させた。そこには個人の好みの多様性がそのままあらわれている。しかしある程度まで絵画を見ることに慣れた人々の間では、かなり広い意見の一致がある。」
との指摘ですが、音楽の場合、「かなり広い意見の一致」も難しいのじゃあないか。
とくに、ロック、ポップス、クラシックとジャンルが分かれると、もうそこには互いをつなぐものもないような気がする(絵画の場合だと、これまでのジャンルの相違というものがあるのかしら)。

日本での音楽の場合、その原因は、近代化の過程でジャンルに階層性ができたからではないか、という思いもありますが、それはさておき、まだ考えるべきことが多いのは確かです。

柏木如亭に戻れば、最後に近いパラグラフ、
「『詩本草』には仏教の影はないし、儒教の色づけもない。その代わりに自らもとめた快楽の奥義をどこまでも追及する信念だけがあったようにみえる。その信念は、ほとんど勇気に近い大勢順応主義の徹底的な否定である。」

快楽追及における「勇気」とは、そのようなものなのでありましょう。

蛇足にはなりますが、このエッセイ、最後の「首相交代」に関するチクリとした皮肉は、ない方がよろしかったのでは。
文雅の地点から、世俗を撃つという「藝」は、それまでで充分に達せられていると思いますがね。

最近の拾い読みから(73) ― 『「大東亜民俗学」の虚実』【その2】

2006-09-25 02:55:53 | Book Review
今村鞆(いまむら・ともえ、1870 - ?)
『朝鮮風俗集』『人参史』などの著作がある。

歴史文献から民俗を探る、という方法を主としていた崔南善(チェ・ナムソン、1890~1957)および李能和(イ・ヌンファ、1868 - 1945)などの次の世代、孫晋泰(ソン・チンテ、1900 - ? ) や宋錫夏(ソン・ソッカ、1904 - 48) などは、
「原資料や現地調査に重点を置くようになった。これはむろんフィールド調査を重視する日本や欧米の民俗学の影響もあるが、朝鮮には調査研究を急がねばならない別の事情があった」。
というのは、朝鮮民俗学会が設立されたのが、1932(昭和7)年のことであり、これは日本の民俗学の始まりと約20年の時差があり、この時もう既に、朝鮮での「民俗文化」は大日本帝国の植民地統治下で失われつつあった。
「若い朝鮮人民俗学の学徒の嘆きは、単に『遅れてきた』ことの悲嘆ではなく、民俗学の対象としての〈民族文化〉に対する、その民族精神そのものが喪失されようとすることを嘆く声にほかならなかった。しかも、それは日韓併合を怨嗟、非難するものとしては決してあげることはできなかった。民俗的現象の消滅、資料の湮滅を嘆き、憂うる彼の声は、民族史、民族語、民族文化の将来を憂い、嘆く心情の込められたものであり、それは〈一国民俗学〉
と同義的な自民族のナショナリズムに対する哀悼の声だったのである。」

一方で、朝鮮総督府主導による「民俗調査」(本書では「植民地民俗学」という用語を使用している)もあった。
代表例が、今村鞆(いまむら・ともえ、1870 - ?) と村山智順(むらやま・ちじゅん、1891 - ?) である。

今村は警察官僚として、村山は総督府の嘱託として、それぞれ朝鮮の民俗調査に当った。
植民地での警察は、本国のそれよりも広範な役割を持ち、
「流言飛語の取り締り、迷信の撲滅、淫祠邪教の摘発、占いや素人療法、民間薬物に対する干渉など」
民俗学の対象となるものが、すなわち職務対象でもあったわけだ。
同様に、総督府も、朝鮮には因習的な「精神世界」(民間信仰の世界)があり、それは改善すべきものであると捉えていた。
村山の民俗学は、改善するための前提としての現状把握という意味をもっていたのである。

やがて、そのような調査を前提にして、
「民族主義的な精神や感情はもとより、民族語や民俗現象そのものの抹殺という方向へ進んでいった。だから、孫晋泰や宋錫夏においても、彼らの民俗学への志の底流には、やはり彼らの民族主義=反日精神が、屈折した表現ではあるが、脈々と流れていたということが可能であると思われる。」

それでは、このような状況を柳田国男はどのように見ていたのか?

この項、つづく

最近の拾い読みから(72) ― 『「大東亜民俗学」の虚実』【その1】

2006-09-24 03:52:59 | Book Review
柳田国男(やなぎた・くにお、1875 - 1962)が構想した日本民俗学は、あくまで「一国民俗学」で、各国の民俗を比較・対照による「比較民俗学」という視点を一種タブーとしていたことはよく知られている。

しかし、太平洋戦争で大日本帝国の勢力が広がる過程で「大東亜共栄圏」*というスローガンが唱えられるようになり、それとともに民俗学界の課題として「大東亜民俗学」という概念が立ち上がってきた(本書によれば、1943(昭和18)年刊行の雑誌「民俗台湾」所収座談会「柳田国男氏を囲みて」の副題「大東亜民俗学の建設と『民俗台湾』の使命」が初出とのこと)。
*「大東亜共栄圏」:太平洋戦争における日本のスローガン。欧米の植民地支配にかわって、共存共栄の新秩序をアジア地域に樹立すると称し戦争を正当づけようとしたもの。(『角川日本史辞典 第二版』)

「一国民俗学」を肯定する柳田のイメージで、この「大東亜民俗学」が次のようなものであったのは、当然であろう。
「日本という中心から放射状に広がる民俗学の研究の輪、すなわち東京の柳田国男邸に置かれた民俗学研究所を文字どおりのセンター(中心)として、日本の津々浦々の地元研究家、教員、好事家などを組織して、中央―周縁をつなぐネットワークを作り上げようという〈日本民俗学〉の組織図に近いものであった。」
したがって、「大東亜共栄圏」の内部の個々の民俗学は、
「〈日本民俗学〉を支える手足の役割を果たすものであり、それは自立した『頭』を持つべきものではない。柳田国男の言葉を意地悪く受けとめれば、そうした補助的な役割を期待するものであって、日本民俗学が日本人にとって持つ意味、自ら自身を知るという自己確認、自己覚醒という意味を台湾人自身に、朝鮮人、満洲人に与えるものではなかったのだ。それはもっぱら『どれ位我々日本人の持つてゐるものと近さがあるか』といった親疎の程度によって測られるものなのであり、日本民俗学を比較民俗学の立場から相対化するという視野を持つものではなかったのだ。」

一方、皮肉なことに、「民俗学」が「自ら自身を知るという自己確認、自己確認という意味を」持っている以上、「大東亜共演圏」各地の人びとにとっての「民俗学」も、その民族自身のナショナリズムへつながる契機ともなりうるものだった。

本書には、このような〈民俗学者=民族主義者〉として、朝鮮では崔南善(チェ・ナムソン、1890~1957)および李能和(イ・ヌンファ、1868 - 1945)が紹介されている。
彼らのナショナリズムは、
「古い侵略文化(中国文化=漢字、儒教文化)と、新しい侵略文化(日本文化、日本語文化)に対する二重の民族主義的文化による抵抗だった。」
のである。
けれども、これもまったく皮肉なことに、
「二項対立の世界の中では、対立する者は常にその敵対する相手に似てしまうという常識的な真理は、中国の中華思想と日本のエスノセントリズム(自民族中心主義)、さらにそれに対決する朝鮮ナショナリズムについても当てはまるといわざるをえない。崔南善のエスノセントリズムは、日本のアジア主義者、すなわち民族主義的であるがゆえに帝国主義者としてアジアに君臨しようとした日本人たちと、精神的に同調するものを持っていたのである。」

それでは、彼らに続く世代の朝鮮民俗学者たちは、どうであっただろう。

この項、つづく


川村湊(かわむら・みなと)
『「大東亜民俗学」の虚実』
講談社選書メチエ
定価:1,528円 (税込)
ISBN4-06-258080-2

最近の拾い読みから(71) ― 『「唱歌」という奇跡 十二の物語―讃美歌と近代化の間で』【その3】

2006-09-23 08:30:12 | Book Review
明治時代のリード・オルガン。
「唱歌」は、リード・オルガンやピアノといった
西欧から導入された楽器の伴奏で歌われた。

「唱歌」だけではなく、「歌」そのものが、「曲」(旋律+伴奏)と「歌詞(詩歌)」のほかに、その社会的役割(あるいは社会的イメージ)を持っている。

前回の例で、『蛍の光』は、「別れの歌」であると同時に、戦前期までは「愛国歌」でもあったことが分かった。
それが、戦後に3、4番の歌詞を切捨てることによって、「別れの歌」としてのみ、社会的役割が定着したわけである。

このような「歌」の意味のリセットは、いつも巧くいくとは限らない。

『君が代』の歌詞は、江戸時代までは、必ずしも天皇への祝ぎ歌(ほぎうた)とは限らず、主君や家長への予祝という機能を持っていた(いずれにしても、目下の者から目上に対しての祝ぎ歌であり、現代的な2人称としての「きみ」ではないことに注意されたい)。

それが1880(明治13)年に吹奏楽の編曲版ができて以降(本書の記述によれば、1893(明治26)年の「祝日大祭日唱歌」の規定が下されて以降)、は、江戸時代までの意味が一旦リセットされ、天皇への祝ぎ歌としてのみ扱われ(『君が代』の成立事情については、本ブログ「『君が代』と『日の丸』」を参照されたい)、
「皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきた」(「日の丸・君が代訴訟 判決理由(要旨)」より)
のである。

しかも、1番しか歌詞がないので、『蛍の光』のように、民主主義国家として不都合な部分をカットするわけにもいかず、
「なお国民の間で宗教的、政治的にみて価値中立的なものと認められるまでには至っていない」(同上)
わけだ。

つまりは、『君が代』は「教育勅語」(「教育勅語」に関しては、本ブログ「最近の拾い読みから(18) ― 『天皇と日本の近代』その1」以降3回分を参照のこと)と同様に、大日本帝国憲法体制と一体化しているため、「使い回し」の効く「歌」ではない。

一方で、『海ゆかば』(信時潔作曲)のように、「使い回し」が効かない「歌」だったために、今日ではほとんど耳にすることもない「歌」もある。
ちなみに、本書では『海ゆかば』に関して、
「一億総国民がこぞって天皇の御親兵となって死を誓った『大東亜戦争時代』のシンボルとなった歌」
との評価が下されている。

ことほどさように、「歌」は、社会的役割(あるいは社会的イメージ)を持っていることを理解されたい。

本書が指摘するように、『故郷(ふるさと)』(兎追ひしかの山…) などは、その社会的役割を微妙に変化させながら(歌詞と曲は変わらないのに)、今日まで歌い継がれる「唱歌」もある。

著者によれば、当初は、
 「外敵から守るべき『先祖の墳墓の土地』」
として意識されていた「故郷」は、
 「志なかばに散った多くの日本人への安らぎの歌」
から、今日では、
 「酷使され疲れ果てた人々の心に静かに語りかけてくれる歌」
として役割を果たしている、という。

時代を越えて「歌」が生き続けるためには、政治的な思惑によって延命が図られるのではなく、「歌」そのものが持つ力(ある意味での多義性も含む)が必要であるということではなかろうか。

この項、了

最近の拾い読みから(70) ― 『「唱歌」という奇跡 十二の物語―讃美歌と近代化の間で』【その2】

2006-09-22 03:10:57 | Book Review
「唱歌」の誕生に深く関わった
明治の教育行政家・伊澤修二(いざわ・しゅうじ、1851 - 1917)。

いうまでもなく、「唱歌」は「曲」(旋律+伴奏)と「歌詞(詩歌)」とから成っている。

したがって、「唱歌」の特性を考えるには、「曲」の分析も必要なのであるが、ここでは、あえて「歌詞」のみを取り出してみる(本書では、「曲」についての考察は「讃美歌」との関連が主であるが、日本の伝統的音階と「唱歌」の「ヨナ抜き音階」との関係について述べる必要がある)。
ちなみに、著者は、
「讃美歌に抗しうる歌を作るとき、日本人の昔からの智慧が働いた。それは肉を切らせて骨を切る、作戦であった。つまり、肉(旋律)は讃美歌のものを採用したが、骨(歌詞)は守ったのである。そうすることで讃美歌の全面進出を防いだのである。」
と述べている。

さて、「唱歌」の「歌詞」である。

代表例として、著者の挙げた『蛍の光』という「唱歌」を見てみよう。
この「唱歌」の旋律は、スコットランドの古い曲。それに R. バーンズが歌詞をつけて現在でも "Auld Lang Syne (オールド・ラング・ザイン)" として歌われていることは、よく知られているところ。

これが「唱歌」としては、
◯蛍の光 まどの雪
となり、現在でも、1番と2番の歌詞で、ことあるごとに歌われる。
ところが、当初、この「唱歌」には、3番、4番があった、と著者は指摘する。
それは、
◯筑紫のきはみ、陸(みち)の奥
 うみやま遠くへだつとも、
 その真心はへだてなく、
 ひとつにつくせ、国のため。
◯千島の奥も、沖縄も、
 八洲(やしま)のうちのまもりなり。
 いたらん国にいさをしく、
 つとめよ、わがせ、恙(つつが)なく。
という歌詞。
「三、四番はあきらかに、別れた後は愛国者として『日本の領土を守れ!』と檄を飛ばしている愛国歌である。」

また、韓国でも中国でも、同じ曲に違った歌詞がつけられ、愛国歌として歌われていた、著者は述べている。
そのような歌詞の背景をもった「唱歌」とは、どのような社会的存在だったのか、そして、現在ではどのような社会的存在なのか、に次は触れよう。

この項、つづく