耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

オバマ「核政策」に異を唱える日本政府!

2009-08-02 10:03:19 | Weblog
 8月に入って「原爆忌」が近い。この時期にとんでもない話が出回っている。オバマ大統領の「プラハ核演説」は、今年の「原爆忌」に大きな影響を与えているが、誠に信じがたいことだが、日本政府がオバマの「核政策」に異を唱えているというのだ。

 アメリカの「憂慮する科学者同盟(UCS)」の警告をUCSメンバーのグレゴリー・カラキーさんのメッセージビデオとして youtube にアップされたと、『池田香代子ブログ』で知った。“池田香代子”さんはドイツ文学翻訳家で『世界がもし100人の村だったら』(マガジンハウス)をわが国に紹介した人だ。詳しくはリンクの『ブログ』7月30,31日をご覧いただきたいが、まずグレゴリー・カラキーさんのメッセージをみてみよう。

 <米国は、外交政策の基本として、『核体制見直し(NPR)』に入っており、重要な局面を迎えている。米国は、9月から10月に新しい核政策を決定しようとしているが、米政府部内、国務省、国防総省、国家安全保障会議のメンバー、特にアジア専門家の間に、オバマ氏の構想に反対の人たちがいる。

 その理由は、日本政府の『懸念』。日本の外務省、防衛省など安保外交政策を担当する官僚が、『米政府が核政策を転換しないように』と訴えている。

 人類史上初めて核兵器の攻撃を受けた国の政府が核政策の転換に反対するのは、皮肉であり悲劇だ。日本国民は、オバマ氏の核廃絶ビジョンを支持する声をあげてほしい。>

 「米核政策の“チェンジ”へ、鍵を握るのは日本」:http://www.youtube.com/watch?v=itFI87hixy0


 いつものことだが、マスメディアはどこもこのことを報じていない。“池田香代子”さんが書いてくれた7月30日以降の記事をぜひお読みいただきたい。(パソコンの調子が悪く記事がうまく書けない。調子を整え改めてふれたい。)

 『池田香代子ブログ』:http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/
 

“松原泰道”老師、天寿を全うさる

2009-07-31 12:02:10 | Weblog
 “松原泰道”師が亡くなられた。『中外日報』は訃報を次のように伝えた。

<生涯現役で仏教伝道者として歩き続けた松原泰道氏(臨済宗妙心寺派龍源寺閑栖)が29日午前11時28分、肺炎のため死去した。百一歳。…
 
 明治40年11月23日、東京都生まれ、早稲田大学文学部卒業。岐阜・瑞龍寺専門僧堂で修行。臨済宗妙心寺派教学部長、全国青少年教化協議会理事、「南無の会」会長などを歴任。平成元年に第23回仏教伝道文化賞、平成11年に禅文化研究所の第1回禅文化賞(功労賞)受賞。

 昭和8年、大本山妙心寺の布教師に任命された。昭和11年1月、師父・祖来和尚の遷化に伴い龍源寺住職に就任。その翌年から全国各地へ巡教に出た。幅広い講演・著作活動や、喫茶店での辻説法で話題を呼んだ「南無の会」などで活躍し、遊行と説法に一身を捧げた。

 「和顔愛語」の人で、慈愛に満ちた人柄は多くの人に慕われた。現代人に仏教の要諦をやさしく説き、昭和47年に出版された『般若心経入門』(祥伝社)は仏教ブームに火をつけるベストセラーとなった。…>


 松原泰道老師については07年12月1日の記事(『“松原泰道”老師~最後の講話「百歳のプレゼント~願い」』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20071201)でも書いたので繰り返さないが、終始、伝道仏教に力を注がれた素晴らしい人だった。ここでは著書『般若心経入門』にある「叱らるる人うらやまし」という一文を引いて老師の徳を偲びたい。

 <「叱らるる人うらやましとしの暮」――という小林一茶の句が、最近とみに私の胸を打つ。NHKの教育テレビの宗教の時間で国文学者の高藤武馬先生や仏教学の石上善応先生と「俳句と信仰」のテーマで鼎談したときも、高藤先生が上記の一茶の句を紹介されて、すっかり共鳴して話がはずんだ。
 一茶は三十九歳で父と死別する。「寝姿のハエ追うも今日が限りかな」と一茶は、うちわの陰で涙ぐみつつ吟じるが、この句も上記の「叱らるる人うらやましとしの暮」に深い脈絡があるのが感じられる。

 一茶の父は、臨終の病床で、「ナシが食べたい」という。一茶は柏原から長野の街まで約30キロをナシを求めに走るが、四月末のことなので今と違い時季はずれのナシが入手できるわけがない。かれは、父の最後の望みを適えてやれなかったのを、どんなにか悔いたであろう。

 私も昭和11年の元旦に父を亡くした。当時、私は二十九歳だった。父の生前中の叱責や戒告を、それこそ馬耳東風に聞き流していたので、一茶の句がとくに耳に痛い。若くて強情な私に手を焼いた父は、嘆声とも小言ともつかぬ調子で、
 「叱られるうちこそ花と思え、人間はほかから小言をいわれなくなったら、もうおしまいだ。陰で笑われているのだぞ」とつぶやいたのが、どういうわけか父が死んでから40年以上も経過しているのに、今だに忘れられず、はっきり耳に残っている。本当に亡父のいったとおりだ、と今になって思い当たる。

 叱り手を失うのは、その人にとって不幸であるばかりではない。まさしく大きな危機である。当人が成長するか堕落するかの分岐点となるからだ。…>


 老師の業績を讃え、ご冥福を心から祈りたい。


 


「無頼派の名棋士」“藤沢秀行”さんを偲ぶ

2009-07-29 09:16:24 | Weblog
 去る5月8日亡くなった“藤沢秀行”。囲碁を多少ともかじっていれば知らない人はなかろう。まことに「破天荒」な人生を送った珍しい御仁だった。去る7月24日開催された「しのぶ会」を『毎日新聞』はつぎのように伝えた。

 <5月に83歳で死去した囲碁棋士の藤沢秀行名誉棋聖をしのぶ会が24日、東京都内のホテルで開かれた。囲碁ファンら約900人が、棋聖戦6連覇を果たすなど活躍した“無頼派”の名棋士を悼んだ。

 参加者は会場に並べられた碁盤の上に碁石を置く「献石」を行った。日本棋院の大竹英雄理事長は「愛され、慕われ、尊敬された大先生でした。その遺志を継いで、次の世代を育てていきたい」と語った。(金沢盛栄)>


 藤沢秀行名誉棋聖(1925~2009)は「しゅうこう(秀行)」さんと呼ばれ親しまれていたが、囲碁に関しては「鬼」のような人だったらしい。妻モトは夫を「勝負師」といい、そのすさまじい執念で数々のタイトルを手中にした。一方、自分の門下生を育てるだけでなく、多くの若手棋士の育成に力を注ぎ、さらに草分け時代の中国・韓国の碁界にも大きな影響を与え、隆盛の基礎づくりに貢献した。

 「しゅうこう」さんを有名にしたのは、豪放磊落な棋風のせいばかりではなく、盤外での酒、ギャンブル、借金、女性関係など「常識はずれ」の言動だった。いくつかのエピソードを フリー百科事典『Wikipedia』から拾ってみよう。

◆多額の借金を抱えていた時期の第2期棋聖戦で加藤正夫に1勝3敗と追い込まれ、第5局開始前には「負けたとき首を吊るため」枝振りのよい木を探しながら対局場に向かったという。この碁で藤沢は一手に2時間57分という記録的な大長考の末、加藤の白石を全滅させ気迫の勝利を収めた。
◆女性関係も派手で、愛人の家に入り浸って自宅に3年もの間帰らなかった。用事ができて帰らなければならなくなった際、自宅への行き方がわからず妻を電話で呼び出して案内させたという。
◆酔っ払ったら女性器の俗称を連呼する悪癖があり、小平と面会した際、あろうことかベロンベロンに酔っ払っており「中国語ではおまんこのことを何というのだ」と執拗に絡み、面会は途中で中止になった。
◆競輪が好きで、後楽園競輪で250万円を取り、それを花月園競輪で480万円にしたことがある。また、別の日に250万円の車券を一点買いしたが惜しくも外れ、競輪場で観戦していたときの金網を強く握りすぎて菱形にひしゃげてしまい、「秀行引き寄せの金網」としてその競輪場の名所になった。
◆戒名は自身が生前にきめていた「無明居士」。


 飲む、打つ、買うの三拍子そろったら大概、“人間失格”の烙印が押されるのが常識だろう。その常識を超えたところで生きたのが「しゅうこう」さんだった。個展も開かれた彼の「書」がその存在の領域の広さを物語っている。死を前に渾身の気力で書いたのが「強烈な努力」。下の二つの動画から「無明居士」の生前を偲んでみたい。

 
 「強烈な努力」:http://www.kiraku.tv/category/6862/movie/1/ILMKqYahfuY

 「秀行塾」:http://youtube1.e-lesson1.com/053huzisawasyuukou.htm

“どのように坐りかえてもわが姿”~高田保が評する「烈婦」

2009-07-27 09:32:55 | Weblog
 劇作家・高田保(1895~1962)が1948年12月から約二年半(538回)、毎日新聞に連載した随筆『ブラリひょうたん』に「烈婦」というのがある。川柳作家・井上信子(1869~1958:川柳界の大御所井上剣花坊夫人)を讃える一文だ。井上信子は、治安維持法違反で二度投獄、29歳の若さで獄殺された反戦川柳作家“鶴彬”(1909~1938)を支えぬいた人としても知られる。一文の中にもそのことにふれ鶴彬の「手と足をもいだ丸太にしてかえし」の反戦句を引いているが、鶴彬は特高に赤痢菌添加物を食べさせられたとの疑いがもたれ、29歳の若さで赤痢で獄死した。

 田辺聖子は、井上信子の「国境を知らぬ草の実こぼれ合い」を引いて次のように評している。

 <柔媚でやさしい句の姿の奥に、国境などをつくってせめぎ合う、おろかしくも悲しき人間を嘆ずる、批評精神がある。
  
   万歳の声は涙の捨てどころ 
   戦死する敵にも親も子もあろう

 という句などをやはり昭和12年に発表しているが、このころの社会状況は与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」の時代よりもっときびしかったのだから、まことに不逞なる勇気の老婦人といわねばならぬ。>(田辺聖子著『川柳でんでん太鼓』/講談社文庫)


 その井上信子を高田保は「烈婦」と題し、次のように書いた。

 <「世界情勢吟」と題して川柳一句をお取次ぎする。

  国境を知らぬ草の実こぼれ合い

 なんと立派なものではないか。ピリッとしたものが十七文字の中に結晶している。ところでこれがなんと、八十三歳のお婆さんのお作なのだ。驚いていただきたい。
 井上信子、とだけではわかるまい。が井上剣花坊の未亡人だといったら、なるほどと合点なさるだろう。「婦人朝日」誌上で紹介されていたのだが、こぼれ合う草の実こそは真実の人間である。真実の人間同士の間には国境などというあざといものはありゃしない。
 この草の実のこぼれ合いを眼の中に入れてないところに、世界の政治の愚劣さがある。侵略とか防衛とかいうが、一たびこの十七文字の吟ずるところに徹して考えるがいい。人間のあさましさ、百度の嘆息をしても足りぬことになるだろう。この句のこの味、もしもそっくり伝えられるものなら翻訳してもらって外国へも紹介したい。もう一寸早ければ、ダレスさんにお土産としてもって帰っていただきたかったところだ。
 八十三歳の老婦人にしてこれほどの「世界情勢吟」をするのだから、日本の文学者諸君はさぞかし、と外国人はおもうかもしれぬ。そうなるとしかしこれは一寸困る。日本文学というやつは大体が政治嫌いでしてと、いろいろ特殊な伝統を説明などして、依然安閑たる文壇風景を弁解しなくてはなるまい。ペンクラブへは代表を出すのだが、世界の他の文学者諸君とは生活がちと違うのである。
 だが、これからもなお「日本的」であっていいのか? もしも「世界的」にと明日を心がけるなら、やはり世界の問題へ目を向け頭を向け、草の実のこぼれ合うこまかい気を配って、文学は文学なりの「世界的発言」をせずばなるまい。税金の問題よりゃ戦争の方が実は却って身近の大事なのである。文芸家協会など、これに対してどう動いているのであろうか。
 井上信子老女史は、戦争中にも警察へ引っぱられたりしたのだそうである。「手と足をもいだ丸太にしてかえし」という句などがお気にさわったらしくと、今は笑っていられるのだそうだが、私などあの戦争中の自分を省みて恥ずかしくおもう。それだけに今度はもう自分を恥ずかしめるようなことはしたくないと考えている。だが老女史がその私の決心をからかうようにこう吟じられているのだ。

  どのように坐りかえてもわが姿

 老女史はこれを「最近の心境」として示されているのだが、女史の姿の変わらぬのは立派である。しかし私はぜひとも坐り直し別な姿にならねばならぬ。同感の士なきやいかに。
 私は久しぶりに「烈婦」という文字を、この老女史でおもい出した。>(インターネット図書館『青空文庫』参照) 


 井上信子の句「一人去り 二人去り 仏と二人」は先日、友人の死に際し「別辞」に引かせてもらったことを追記しておく。(なお“鶴彬”に関しては以前記事にしたが今見当たらない。)

「理想の政治」~“堯・舜の治世”の夢

2009-07-25 10:20:22 | Weblog
 グズグズしていた麻生太郎も、任期満了までわずかになってやっと解散にふみ切った。小泉純一郎の“舌先三寸”に乗せられておよそ4年、郵便局は無残に解体されて野ざらしになり、医療・福祉・雇用など庶民の生活を支える基盤も虫食いになってしまった。“劇場型政治”と評されるわが国政治風土のなかで、「踊る阿呆」な国民が多数派を占めた結果である。そろそろ目ざめてもよさそうだが、来月30日の投票で変化は現れるかどうか。アメリカの政治学者モンローは、政治は「時計の振り子」のように右に行ったり左に行ったりするという「法則」を説いたが、いま民主党へ振り子がぶれているのは、国民の覚醒によるのではなくこの「法則」に起因すると言えなくもない。


 しばし世俗を離れ、古代中国の伝説上の聖王で五帝の一人“堯(ぎょう)”の話をみてみよう。彼は「暦を作り、無為の治をなした。後を継いだ舜(しゅん)とともに後世理想の天子とされ、その政治は“堯舜の治”と称される。」(『大辞泉』)

 『列子』[仲尼篇]に「堯の譲位」としてこんな話がある。 

 <堯(ぎょう)は50年間も天下を治めてきた。だがよく治まっているかどうか、人民の支持をうけているかどうかわからなかった。周囲の者にきいてもわからず、役人にきいてもわからず、民間の士にきいてもわからない。
 そこで堯はおしのび姿でまちなかをあるいてみた。と、子供が歌をうたっている。
  ひとり残らずよいくらし
  自然のままにおこなわれ
  守る気なくても知らぬまに
  したがっている天の道
 堯はよろこんでたずねた。
「この歌はだれにおそわったのだね」
「ごいんきょさんから」
 いんきょにきくと、
「昔からの歌です」
 という返事だった。
 堯は宮殿に帰ると舜(しゅん)をよびよせて天下をゆずった。舜もことわらずにひきうけた。>

 【読み下し原文】
 堯、天下を治むること五十年、天下の治まれるか治まらざるかを知らず。億兆のおのれを戴くことを願うか、おのれを戴くことを願わざるかを知らず。顧みて左右に問うに、左右知らず。外朝に問うに、外朝知らず。在野に問うに、在野知らず。堯すなわち微服して、康衢(こうく)に游ぶ。児童の謡(うた)を聞くに、曰く、「わが蒸民を立つる、なんじの極にあらざることなし。識らず知らず、帝の則(のり)に順う」。堯喜びて問いて曰く、「たれかなんじをしてこの言をなさしむる」。童児曰く、「われこれ大夫(たいふ)に聞けり」。大夫に問う。大夫曰く、「古詩なり」。堯、宮に還りて舜を召し、よりて禅(ゆず)るに天下をもってす。舜辞せずしてこれを受く。(『中国の思想第6巻「老子・列子」』(徳間書店))

 訳者(奥平卓・大村益夫)は解説でこれを「理想の政治」といい次のように述べている。
 
 <天子が善政をしいている、という意識が一般人民にあるうちは、世のなかは、本当には治まっていない。人民が天子の存在を忘れ、法律を忘れて自由に行動しても、それが天の道からはずれていない、これが理想の政治だ。理想の政治が行なわれれば、天子はいてもいなくてもよい。また、誰が天子になってもよい。堯は天子である必要がないし、舜も譲られた天子の地位をことわる理由がない。>


 どんなにひどい為政者でも、夢のなかまで立ち入ることはできまい。せいぜい“堯・舜の治世”の夢でも楽しもう。

山崎豊子著:『運命の人』を読む~「情報犯罪」を繰り返す“国家”

2009-07-23 11:12:38 | Weblog
 山崎豊子著『運命の人』(文芸春秋社)全四巻を読み終え、なんだか空しい気がした。世界は「謀略」そのものに思えるのだ。佐藤栄作に関しては08年12月23日の記事(『“佐藤栄作”の「ノーベル賞」~“遠きは花の香近きは糞の香”』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/e/50cf2f04e1faaec3256cd3ad320de7e2)をご参照いただきたいが、小説『運命の人』は、当時の佐藤栄作首相が引退の花道としていた「沖縄返還」にまつわる「密約」をあばいた毎日新聞の西山太吉記者が主人公で、国家権力(最高権力者・佐藤栄作)の汚い手法で完膚無きまで打ち砕かれるジャーナリストの半生を描いている。

 いわゆる「外務省機密漏洩事件」は沖縄返還一年前に起こった。毎日新聞の西山太吉記者(1931~)が、「米側が支払うべき軍用地復元保障費400万ドルを、日本側が密かに肩代わりする」と記載した密約を暴露したのが発端。佐藤政権は、密約を隠蔽するため“国策捜査”なみの姿勢で臨み、「沖縄返還密約事件」を「外務省機密漏洩事件」にすりかえ、資料提供の外務省女性事務官とともに西山記者を逮捕、有罪にしたものだ。しかも、起訴状で「密かに情を通じ」女性を「そそのかした」と情報源をめぐるスキャンダルに仕立てあげマスコミを煽った。山崎豊子さんは「罪を裁かず、モラルだけを裁いた不当な裁判だった」と語る。


 当然のことながら西山記者は、情報源を明かさずいかにしてこの「密約」を社会に知らせるかに苦悩する。新聞には「沖縄返還」をめぐる日米交渉に関し長文の記事を書くが、ここでも「密約」の存在をにおわすに留めた。一面トップのスクープ記事を書きまくってきた敏腕記者西山は、入手した「密約」をデスクや政治部長に見せるが生記事にすることをあくまで拒む。自分が書けば情報源が特定され、迷惑がかかるのは避けられないからだ。思案の末、国会審議の場で取り上げさせる手段を選ぶ。この場面を小説では次のように書いている。

 <横溝は時折連絡してきては、電信文を欲しがったが、弓成は断わっていた。そして、最後の機会である予算委での連日の質問攻めにあっても、政府はのらりくらいで巧みに躱(かわ)し続けた。今日はもう3月27日、あと一日で衆院審議は終り、欺瞞は歴史の裏側に埋没して行く。
 そうはさせない……、弓成はぐいと唇を噛んだ。>

 横溝とは社会党(当時)の横路孝弘議員、弓成は西山記者である。情報だけは横路議員に提供していたのだ。このあと、弓成は部下の小森記者に「扱いを慎重に……、横溝は弁護士だから心得ていると思うが、気をつけて扱うよう弓成が念押ししていたと伝えてくれ」と言い添え、極秘文書のコピーが入った茶封筒を横溝に渡すよう命じる。これがつまづきの始まりだった。横路議員は極秘文書を頭上に掲げ政府を攻め立て、関連質問に立った爆弾男の異名をもつ楢崎弥之助議員(小説では奈良本議員)がこれを援護する。委員会は蜂の巣をつついたような騒ぎになり、ついに文書は外務省当局の目に止まることになるのだ。文書の出所が特定されるのに時間はかからなかった。女性事務官は上司に告白、その上司のすすめで警察に出頭してこの事件は裁判に移る。事件の発生源となった現在衆議院副議長の横路孝弘(民主党離脱中)は今に至るもこの事件に対する自己の公式見解を明らかにしていない。

 裁判がはじまり、国家による「密約事件」が「機密漏洩事件」にすりかわり、週刊誌のスキャンダル報道の主役になったのが女性事務官蓮見喜久子である。西山記者を悪者に仕立てる「告白記事」を書き、堂々とテレビに出演して自己弁護する。病弱だった夫もこれに加わる。『「密約」―外務省機密漏洩事件』(中央公論・1974)の著者澤地久枝は、検察に都合のよい証言を繰り返し、マスコミでの自己主張を続ける蓮見喜久子にインタビューを申し込むが実現しない。澤地は「ひ弱な女性」を演じる蓮見に厳しい目を向ける。

 西山記者の欠慮から、思わぬ展開を見せた事件の犠牲者である情報源の蓮見喜久子は気の毒な人だ。一方、マスコミの卑劣な誘いがあったにせよ、彼女の言動が裁判の結果を左右し、西山記者とその一族のその後の人生を惨憺たる事態に追い込んだ。しかし、三十数年を経てなおこの事件が大きな政治課題として語られるのは、国家権力のあり方を問う政治哲学にかかわるからだろう。それは、マスメディアのあり方を問うテーマにつながる。


 当時、『週刊エコノミスト』コラム「氷焔」で須田禎一は書いている。

 <“言論の自由を尊重するにはやぶさかでないが、それにはおのずから限度があるはず”と佐藤さんはおっしゃる。

 政府がきめる限度内に“自由”をおしこめることは、とりもなおさず言論の自由がふみにじられることを意味する。

  良薬は口に苦し。
  直言は耳にさからう。
  新聞記者はタイコモチではない。

 この単純な真理を理解できない為政者には、即刻やめてもらうほかない。


 “政府内に秘密のあることは、基本的に反民主主義的であって、官僚主義的誤りを永続させることになる。公けの争点を公開で討論することは、われわれの国の健康にとって肝要である”――
 米連邦最高裁のダグラス判事はベトナム秘密文書掲載の『ニューヨーク・タイムス』事件についての判決文のなかで、こう言っている。

 
 佐藤さんにお訊ねしたい、
 われわれの国の政治を“健康だ”とお考えになるのかどうか。
 
 (以下略)>(1972年4月18日号)


 この事件当時、佐藤栄作の「ノーベル平和賞」受賞の話が内々進んでいた。栄光の花道を汚す者たちを「粛清」しておく必要があったのだろう。もう一人の佐藤、起訴状に「密かに情を通じ」と書いた担当検事・佐藤道夫(のち民主党参議院議員)は、その起訴状を生涯自慢にしていたらしい。


 米国で機密文書が公開され、当時の外務省高官の「密約」証言があっても、政府はいまなお「関係文書」の存在を否定し続ける。山崎豊子さんは、いつものように徹底した取材で本書を書き上げているが、「外務省の取材はお手上げに近かった」と述懐する。だが、『沖縄密約~「情報犯罪」と日米同盟』(岩波新書)を書いた当事者の西山太吉氏やその他の関係者によって、この国が「国家犯罪」というシロアリによっていかに食い荒らされているかが明らかになりつつある。官僚組織の隠蔽体質は戦前戦後を通じ変わらず、ウソやゴマカシで世間を渡る異質の社会であることを国民はもう気付いている。ここで、山崎豊子さんの言葉を噛みしめたい。

 <私はこの物語を悲劇として描きました。この悲劇をもたらした国家権力に対する、強い怒りをこめたつもりです。>


 ついでに、関連年表を添え、ご参考までに西山太吉氏の動画発言をリンクしておいた。
 
◆1971年6月17日 
「沖縄返還協定」日米間で署名調印。
◆1972年5月15日 
「沖縄返還協定」正式発効。
◆1972年3月27日 
社会党の横道孝弘議員が外務省極秘電信を暴露。
◆1972年3月30日 
外務省の内部調査で、女性事務官(蓮見喜久子)は「私は騙された」と西山太吉記者に機密電を手渡したことを自白。
◆1972年4月4日
外務省職員に伴われて女性事務官が出頭、国家公務員法第100条(秘密を守る義務)違反で逮捕。
同日、同111条(秘密漏洩をそそのかす罪)で西山記者も逮捕。
◆1972年4月5日
毎日新聞は朝刊紙上「国民の『知る権利』どうなる」との見出しで、取材活動の正当性を主張。政府批判のキャンペーンを展開。
◆1972年4月6日
毎日新聞は西山記者が女性との情交関係によって機密を入手したことを知る。しかしこの事実が公になることはないと考え、キャンペーンを継続。
◆1972年4月15日
検察側は起訴状で「女性事務官をホテルに誘って密かに情を通じ、これを利用して」という文言で被告人両名の情交関係を強調、これがその後の裁判の行方を決めることになる。
なお、「密かに情を通じ」の文言を書いたのは、先日亡くなった当時の担当検察官・佐藤道夫元参議院議員(民主党)である。
毎日新聞は夕刊紙上で「道義的に遺憾な点があった」とし、病身の夫(元外務省職員)をもちながらスキャンダルに巻き込まれた女性事務官に謝罪したが、人妻との「情交」によって入手した情報へ世間の非難が集中、抗議の電話が殺到した。反響の大きさに慌てた毎日新聞は編集局長を解任、西山記者を休職処分にした。
◆1974年1月30日
一審判決。
女性元事務官は事実を認め、懲役6月執行猶予1年、西山記者は無罪の判決が下る。
検察は西山記者を控訴。
ここまでの過程で、核心の「密約」に関するマスメディアの疑惑追及は完全に失速。
草の根的不買運動と石油ショックで経営不振に見舞われた毎日新聞は、翌年に会社更生法適用を申請。
この年、佐藤栄作元首相が「核抜き本土並み」の沖縄返還を実現した業績が評価され「ノーベル平和賞」を受賞する。
◆1976年7月20日
二審判決。西山記者に懲役4月、執行猶予1年の有罪判決。西山側は上告。
◆1978年5月30日
最高裁が上告棄却。西山記者の有罪が確定。
◆2000年5月
琉球大学我部政明教授が「密約」を裏付ける米公文書を発見。
◆2002年
米国公文書館の機密指定解除に伴う公開で、日本政府が否定し続ける「密約」の存在を示す文書が見つかる。
川口順子外相は記者会見で「事実関係として密約はない」と答える。
◆2005年4月
西山記者が損害賠償と謝罪を求めて政府を提訴。
◆2006年2月8日
対米交渉を担当した当時の外務省アメリカ局長吉野文六氏が「返還時に米国に支払った総額3億2000万ドルの中に原状回復費用400万ドルが含まれていた」と述べ、関係者として初めて「密約」の存在を認めたことを『北海道新聞』が報道。
安部官房長官はこれを否定。
◆2006年2月24日
吉野文六氏が『朝日新聞』の取材に対し当時の河野洋平外相から「沖縄密約」の存在を否定するよう要請されたと証言。
これに対し河野氏は「記憶にない」とコメント。
◆2007年3月27日
「西山国賠訴訟」、一審で「損害賠償請求の20年の除斥期間を過ぎ、請求の権利がない」と「密約」にはふれることなく門前払い。
原告控訴する。
◆2008年2月20日
二審も敗訴。原告は最高裁に上訴。
◆2008年9月2日
最高裁が上告棄却。


 「沖縄密約訴訟―地裁判決後集会」:http://www.youtube.com/watch?v=A4I_7M13Q2I

 「国の密約に挑む―情報公開の闘い」:http://www.youtube.com/watch?v=Or1hC_Yubd4

“夏休み”~昔歌った『われは海の子』がなつかしい!

2009-07-21 08:43:59 | Weblog
 学校は夏休みに入って、子どもたちの姿が目立つようになった。今は遊びや勉強の施設も多いから、どこに行こうかと迷いながら夏休みを過ごすことだろう。敗戦前後に育った田舎に住む私たちの世代は、田畑の仕事を手伝うか、あちこちにある堤に友だちと泳ぎに行くか、大したことはできなかった。「九十九曲がり」という大きな堤があって、水辺に生えた松に登って飛び込むのがみんなの楽しみだった。上級生になると松の天辺から宙返りして飛び込む。水中からそれを羨望の目で見つめる下級生。里山に入り組んだ「九十九曲がり」に子どもたちの喚声がこだまする。夏休みに泳ぎは欠かせない日課の一つだった。

 海水が塩辛いことは、有明海に注ぐ塩田川下流に蟹(「ガニ漬け」用)獲りに行って知った。大人になるまで海で泳ぐことはなかったから、金田一春彦さんが著書『心にしまっておきたい日本語』(ベスト新書)であげる次の「唱歌」は、いい歌にちがいないが、残念ながら実感はない。それでも、この「海」を「山」と読み替えつつ気宇壮大な自然に佇む自分を見つめることは不可能ではない。


『われは海の子』  文部省唱歌

一 我は海の子白浪の
  さわぐいそべの松原に、
  煙たなびくとまやこそ
  我がなつかしき住家なれ。

二 生れてしおに浴(ゆあみ)して
  浪を子守の歌と聞き、
  千里寄せくる海の気を
  吸いてわらべとなりにけり。

三 高く鼻つくいその香に
  不断の花のかおりあり、
  なぎさの松に吹く風を
  いみじき楽(がく)と我は聞く。

四 丈余のろかい操(あやつ)りて
  行手(ゆくて)定めぬ浪まくら、
  百尋千尋(ももひろちひろ)海の底
  遊びなれたる庭広し。


 こんにちの海水浴風景しか知らない世代にはとても通じそうにない歌詞だ。どこかの漁村か海辺の町に住む少年を主題にして、雄大な自然に育まれる精神の尊さを詠っていると解されるが、今の子供たちはそんな環境に置かれてはいない。あすの「皆既日食」への子どもたちの関心は高いようだから、子供心の自然志向が消えたとも思えないが、“世知辛い”現代社会で育つ子どもに『われは海の子』の歌は縁遠いものだろう。


 金田一春彦先生は、この歌の作詞者に三人の名があがっているが未だ確定していない、と言い、次のように述べている。

 <さて、私が思うにこういう日本人に大きな影響を与えた文部省唱歌の作者を明らかにするのは今しかないのではなかろうか。私たち学者は『平家物語』や『太平記』の作者は誰か、といった研究に血眼になっているが、それは資料さえなくさないようにしておけば、十年先二十年先でも研究できる。
 しかし文部省唱歌の方は、作詞や作曲の事情を知っている人は明日にでもこの世を去ってしまい、永遠に謎になってしまうこともあるのである。
 私はあと五十年、百年の後に日本音楽の学者たちが、明治・大将の古い文献をあさって、『冬景色』の作者は誰かということを研究している人の姿が目に浮かぶのである。こうした研究こそ先を急ぐのではないかと思うのだが。>


 戦争の「語り部」たちの話も、ただいま現在生きているからこそ聞けるわけだ。われわれは現実がそのまま歴史のひとコマであることを見失いがちだ。金田一春彦先生の言葉は歴史研究の盲点を突いている。
  

伊藤千尋著『反米大陸』~米国による中南米凌辱の歴史!

2009-07-19 10:22:46 | Weblog
 7月1日の記事でもふれたホンジュラスのクーデターはまだ、解決の目途は立っていない。国連をはじめ米州機構はクーデターを一斉に非難しているが、アメリカのオバマ政権もこれに同調している。だがオバマは、セラヤ大統領の無条件復帰を強く求めるのではなく、既成事実化したクーデター臨時政府との交渉を優先する姿勢らしい。伊藤千尋著『反米大陸―中南米がアメリカにつきつけたNO!』(集英社新書)を読めば、今度の「人形劇」を裏で操っているのが誰かおよそ想像がつく。

 
 同書巻末にある次の年表をご覧いただくと、建国以来続くアメリカという国の「資質」がくっきり浮かんでくるだろう。歴史は決して「ウソ」をつかない。

【年表――アメリカと中南米の関係史】

・1823(アメリカ):モンロー主義宣言
・1833(アルゼンチン):暴動が発生し米軍がブエノスアイレスに上陸、二週間駐留
・1835(ペルー):革命に動き。アメリカの権益擁護のため米海兵隊リマ、カヤオを占領
・1836(メキシコ):テキサス共和国がメキシコから独立
・1848(メキシコ):米墨戦争に敗れたメキシコは国土の半分をアメリカに割譲
・1852(アルゼンチン):政変に際してアメリカの権益擁護のため米海兵隊が上陸、首都に駐留
・1854(ニカラグア):アメリカ外交官を侮辱した仕返しと称して米海軍が港を砲撃、破壊
・1855(ウルグアイ):政変に際してアメリカの権益擁護のため米軍が上陸
・1856(ニカラグア):アメリカ人ウォーカーが内戦に乗じて大統領に就任
   (チリ):大陸会議でアメリカの侵略に対する防衛を協議
・1858(ウルグアイ):政変に際してアメリカの権益擁護のため米軍が上陸
・1859(パラグアイ):米艦艇がパラグアイを封鎖
・1865(コロンビア):パナマに革命の動き。アメリカの市民の財産と生命を守るとして米軍が上陸
・1867(ドミニカ共和国):アメリカがドミニカの併合を図り失敗、サマナ湾を租借
・1868(ウルグアイ):暴動に際してアメリカの権益のため米軍が出動
・1873(コロンビア):パナマ地域の権益をめぐり米軍が出動
・1885(コロンビア):パナマ鉄道が運ぶアメリカ製品の免税化を要求し米軍が上陸
・1890(アルゼンチン):アメリカ領事館保護のため米海兵隊が上陸
・1891(ハイチ):米海軍艦艇がハイチ沿岸を封鎖、湾の譲渡を迫る
   (チリ):暴動に際して公使館保護のため米軍が出動
・1894(ブラジル):通商とアメリカの船舶を守ると称して米海軍がリオ・デ・ジャネイロに上陸
   (ニカラグア):革命に際してアメリカの権益擁護のため米軍が出動
・1895(コロンビア):武装集団の襲撃に対してアメリカの権益擁護のため米軍が出動
・1986(ニカラグア):政変に際してアメリカの権益擁護のために米軍が出動
・1898(キューバ):アメリカとスペインの間で米西戦争勃発
   (プエルトリコ):米海軍が占領
・1899(ニカラグア):米英海軍がカリブ海沿岸に上陸、一ヵ月駐留
・1900(プエルトリコ):アメリカがプエルトリコをアメリカの領土に編入
・1901(キューバ):アメリカがキューバ憲法にプラット修正を盛り込ませる
・1903(コロンビア):パナマ政権成立の動きに際して米軍が出動
   (ホンジュラス):政変に際してアメリカの権益擁護のため米海兵隊上陸
   (ドミニカ共和国):政変に際してアメリカの権益擁護のため米海兵隊が上陸
   (パナマ):独立。運河地帯の永久租借権獲得めざし米海兵隊が出動
・1904(ドミニカ共和国):革命の動きに米軍が出動
   (パナマ):叛乱の動きに米軍が出動
・1906(キューバ):革命の動きに米軍が出動、三年間占領
・1907(ホンジュラス):ニカラグアと戦争。米軍が出動し要地を占領
・1909(ニカラグア):ニカラグア左派の伸びを警戒して米海兵隊が上陸
・1910(ニカラグア):内戦に際してアメリカの権益擁護のために米軍が出動
・1911(ホンジュラス):内戦に際してアメリカの権益擁護のために米軍が出動
・1912(キューバ):アメリカの権益擁護のため米海兵隊が出動
   (ニカラグア):内戦の発生で米海兵隊がニカラグアを占領
   (ホンジュラス):アメリカの権益擁護のため米海兵隊が上陸
・1914(ハイチ):暴動に際して米軍が出動
   (ドミニカ共和国):反乱の動きに米海軍出動
   (メキシコ):米海兵隊がベラクルスを占領
・1915(ハイチ):米海兵隊が占領支配。1934年まで
・1916(ドミニカ共和国):反乱の動きに米軍が出動、24年まで駐留
・1917(キューバ):アメリカの権益擁護のため米軍が出動、22年まで駐留
・1919(ホンジュラス):革命の動きにアメリカの権益擁護のため米軍が出動
・1920(グアテマラ):内乱に際してアメリカの権益擁護のため米軍が出動
・1925(パナマ):ストに際して米軍が出動、多くの都市を占拠
・1926(ニカラグア):反政府暴動への弾圧を援助するため米海兵隊が上陸
・1933(ニカラグア):米海兵隊が上陸しサンディーノの革命運動を鎮圧
・1950(グアテマラ):アメリカに対抗するアルベンス政権が成立
・1954(グアテマラ):アルベンス政権がアメリカ支援の反政府軍侵攻で崩壊
・1959(キューバ):革命が成功
・1960(アメリカ):キューバへの禁輸を発表
・1961(キューバ):キューバとアメリカが国交断絶、ピッグス湾事件
   (ドミニカ共和国):アメリカがドミニカに経済制裁
   (アメリカ):ケネディ大統領が「進歩のための同盟」を提唱
・1962(キューバ):ミサイル危機。アメリカはキューバを海上封鎖
・1964(パナマ):反米暴動。パナマ政府がアメリカに運河条約の改定を要求し断交
・1965(ドミニカ共和国):革命の動きに際して米海兵隊4万人が出動、占領
・1968(グアテマラ):内戦の中、アメリカ大使が射殺される
・1969(南米諸国):各国で反米デモが続発
          ペルー、ボリビア政府はアメリカ系石油会社を接収
・1970(チリ):選挙により社会党のアジェンデ政権が誕生
   (ウルグアイ):都市ゲリラがアメリカ外交官を誘拐し射殺
・1973(チリ):クーデターでアジェンデ政権崩壊
・1977(アメリカ):カーター政権が発足。人権外交を展開
   (キューバ):アメリカとの緊張緩和。相互に代表部を設置
   (パナマ):アメリカと新運河条約に調印、運河返還が決まる
・1979(ニカラグア):サンディニスタ革命が成功
・1981(アメリカ):レーガン政権が発足
   (ニカラグア):アメリカが支援する反政府右派ゲリラにより内戦開始
・1982(アルゼンチン):フォークランド戦争。アメリカはアルゼンチンに経済制裁
・1983(グレナダ):米軍が侵攻
・1989(パナマ):米軍が侵攻。ノリエガ将軍を拉致
・1990(ニカラグア):内戦が終了。アメリカが経済制裁を解除
・1994(メキシコ):北米自由貿易協定(NAFTA)発効
          サバティスタ民族解放軍が武装蜂起
   (ハイチ):無秩序状態となりアメリカの権益擁護のため米軍が出動
・1996(キューバ):アメリカが制裁を強化するヘルムズ・バートン法を制定
・1998(ベネズエラ):チャベスが大統領選に勝利
・1999(パナマ):運河がアメリカからパナマに返還される
・2002(ブラジル):左派のルーラが大統領に当選
・2003(アルゼンチン):左派のキルチネルが大統領に当選
・2005(ウルグアイ):左派政権誕生
・2006(南米各地):チリ、ボリビア、ペルーで左派系政権誕生


 いまアメリカは、アフガニスタン、イラクを泥沼に陥れ、無辜の人民を大量虐殺している。かつての太平洋戦争は日本帝国の覇権主義が大きな要因であったにしろ、東京大空襲をはじめ主要都市の壊滅的な破壊と原爆投下による大量無差別虐殺も、上記年表が示す米国の伝統的「資質」と無関係ではあるまい。

 
 ホンジュラスのクーデター発生直後、キューバのフィデル・カストロが興味深い一文を記しているのが目に止まったので、ここに『禍福無門唯人所召』さんのブログをリンクさせていただいた。(無断引用をご了解ください)

 「クーデターに関するフィデルの考察」:http://memos-odawara.blog.so-net.ne.jp/2009-07-01

「いいかげん」さで“足利尊氏”よりウワテ~「バカタロウ解散」万歳!

2009-07-17 12:26:59 | Weblog
 麻生太郎の言動をみていると、これがわが国の総理大臣かとつくづく情けなくなる。都議選敗退後、自民党は末期的症状をみせているが、来週解散を予告した麻生太郎は、じいさんの「バカヤロウ解散」をもじって「バカタロウ解散」と揶揄されている。浪花節とも御詠歌ともとれる独特な話術で臆面もなく天下を語る姿は、作家・永井路子著『わが千年の男たち』(文芸春秋)に出てくる「右往左往の政治哲学・足利尊氏(1305~1358)」を髣髴させる。

 南北朝時代の主役だった足利尊氏とはどういう人物だったか。永井路子さんは、

 <尊氏ドノの人生は、まず、
「変節を気にするなかれ」
 というところから出発した。>

 という。「麻生財閥」の御曹司・麻生太郎の出発も、多分、そんなところだろう。南北朝のもう一人の主役は後醍醐天皇(1288~1339)だが、先ずはこのお騒がせ天皇について永井路子さんはこう書いている。

 <尊氏ドノと対照的なのは、後醍醐天皇だ。
「これまでの政治はまちがっとる!」
 という強い信念を持っていた。小手先の改革では追いつかない。そこで、
「根本的改革をやらねばならん」
 といよいよエスカレートし、結局、
「悪いのは幕府政治だ。幕府を倒せ」
 というところまでいってしまう。それも決して思いつきではない。当時の中国は宋の時代だが、その宋の政治についてもよく研究している研究家なのだ。だから、「政治はかくあるべし」
 という理想に燃えていた。その颯爽たる姿はなかなかカッコいい。行政改革とか言いながら、特殊法人の統廃合もろくにできない現状をみると、
「後醍醐サマよ、もう一度」
 などと言いたくなるが、こうした理想主義、理論武装は、じつは政治に禁物なのだ。ヒトラーの暴走の例を見るまでもなく意慾に燃えた政治というのは、とかく現実を見る目が不足しているのである。>

 後醍醐は敵対していた鎌倉幕府北条氏の所領をばっさり没収し、土地所有の安堵(保証)権を幕府から取り上げてしまった。これが裏目に出て新政策は全国に大混乱を巻き起こし、政争の結果、隠岐に流されてしまう。やがて隠岐を脱出した後醍醐は尊氏に敗れて「南朝」を建てるのだが、この天皇、どこか「郵政民営化」を強行した小泉純一郎を想起させる。


 さて尊氏だが、「北条が滅んだから、次は俺」と手を上げた。そして後醍醐天皇から追われたり、引っ付いたり二転三転しながら足利幕府を創りあげてしまう。永井さんは、「ええい、ままよ。やってみるか」の一手が成功したと言い、こう書いている。

 <尊氏ドノの無原則、妥協主義、いいかげんの例をあげればきりがない。
 勝利者として都に戻ってきてから、彼は、比叡山に逃れていた後醍醐に手をさしのべた。
「どうですか、こちらへお帰りになりませんか」
 今まで敵対していたのに妙な話だが、
「それなら帰ってもいいぞ」
 と仰せられたというから、後醍醐さんもふしぎなお方である。が、京へ戻ってみると、足利方に厳重な監視をつけられたので、
 ――これでは話が違う。
 と、憤慨した後醍醐は吉野に脱出してしまった。
 すると、尊氏、びっくりすると思いのほか、
「ご自分のほうから出て行かれてほっとしたよ。警備やなにか、大変だったからなあ」
 と、言ったという。なんとも妙な、いいかげんな話ではないか。>


 「いいかげん」さで引けをとらないのが“麻生太郎”だ。天下を取ってからの彼が、「理念」を持って実行した政策は皆無といっていい。アッチにふらふら、コッチによろよろ、必死に政権にしがみつき延命を図ってきた。

 「いいかげん」と言われる尊氏だが、実は、室町幕府を開いて20年間、政権の座にあったし、この幕府は実に230年も続いた。尊氏は、一年ももたない政権に恋々とする麻生太郎とは比較にならない存在だ。その意味で麻生太郎は、歴史上例を見ない「いいかげん」男ということになる。

 「バカタロウ解散!」万歳!

イノシシ侵入!大事な大事な「丹波の黒豆」やられる!

2009-07-15 10:31:40 | Weblog
 前回記事で「ゴボウ、上出来!」「百姓はやめられない!」と書いたあと畑に行ったら、イノシシが侵入して実ったカボチャを食べ、根付いたばかりのサツマイモと芽が出たばかりの丹波の黒豆を掘り返していた。いやはや!?


 カボチャが這っている金網の下から侵入:
             

 この侵入路は地主のおばさんの旧家の裏手だが、この辺はいつもイノシシがうろついていると聞いていた。3ミリのスチール・メッシュ(金網)で囲んだ柵の下部をいとも簡単に潜り抜け、収穫予定だったカボチャ2個とあちこちの若い実を食い散らしたうえ、根付いたばかりのサツマイモの苗を掘り出していた。

 サツマイモを掘り返している:
             

 口惜しいのは「丹波の黒豆」がやられたこと。昨年は蒔き時が早くて失敗したが、平戸に近い江迎町の黒豆農家から「7月7日の七夕に蒔きなさい」と教えられ、7日に蒔いてやっと芽が出たばかりだった。写真はまとめて蒔いたところで全滅!あと畑の周辺に条蒔きしたのがいくらか残った。

 掘り返された黒豆を蒔いた畑:
             


 早速、近くに住む甥に電話して応援を頼み、、太目の5ミリのスチール・メッシュを買ってきて補強した。下部を土に埋め込まないと侵入を防げないというから、出来るだけ隙間がないよう既設の柵に針金で固縛しておいた。作業をしながら甥との会話。
「イノシシがどっかから見とって笑っとるバイ」
「そんくらいではオレ様にゃ通じらんゾ、て言いよるやろナ」

 地主のおばさんは「電柵じゃないといかんじゃろうか」というが、高価でとても手が出ない。なんとかイノシシと知恵比べをしながら頑張ろう。

 「敵」はイノシシばかりではない。畑のずっと上にある甘夏が残っていたので、高バサミを持って採りに行ったら、カラスに全部食べられていた。熟したトマトも片っ端からカラスにやられる。昨日は鈴なりのミニトマトにキュウリネットを被せておいた。害虫の被害も避けられないが、イノシシ、カラスにはほとほと悩まされる百姓である。