“太平洋戦争”が終わったのは国民学校初等科5年生の時だった。1876(明治19)年生まれの父が60歳、1886(明治29)年生まれの母が50歳、1935(昭和10)年生まれの私が10歳、末っ子の弟が5歳である。当時の家族にはこのほか20歳の兄(肺病で陸士をはねられ小学校の代用教員)と15歳の姉(女学校3年生)がいた(長兄は海軍軍人で未帰還、長姉は海軍工廠電気技師と結婚して佐世保在住)。弟は母45歳の子で、さすがに母乳が出ず、飼っていた山羊の乳で育った。山羊は一日一升(1.8㍑)の乳を出してくれたから、弟だけでなくわれわれもその恩恵に浴したものだ。
1941(昭和16)年、「国民学校令」制定で「尋常小学校」が「国民学校」となり、6歳の私は「小学生1年生」ではなく「国民学校初等科1年生」になった。この改正で義務教育の年数が6年から8年に延長され、国民学校初等科6年、高等科2年となる。旧制中学への受験は初等科6年からと変わらなかった。
敗戦の日はとても暑かった。「玉音放送」はその日の夕食時、陶磁器会社で働いていた父や小学校の教員だった兄から家族に伝えられたように思う。田舎のことだから、戦争に負け、戦争が終わったことで、家族に大きな変化があったわけではない。都会とは違い、それだけ日常が「平穏」だったということだろう。ただ、戦時中から続く食糧難はより厳しくなった。敗戦が事実として認識されたのは、間もなく米軍の車両が県道を往来するようになってからだ。子供たちは米兵の笑顔に釣られてこわごわ車に近づき、ガムやチョコレート、缶詰などを貰った。その「未知なる美味」が“敗戦”の実感を教えてくれたのかも知れない。
禁止されていた「ベース・ボール」も、敗戦で復活した。翌年、6年生になるとソフトボールのチームができ、以前書いたように、私たちの田舎チームが県大会で準優勝した。そして次の年は中学への受験が待っているはずだった。ところが1947(昭和22)年3月31日、国民学校初等科(これ以降「小学校」となる)を卒業すると、従来の国民学校に併設して「新制中学校」が誕生し、私たちは無試験で全員が入学、その第一回生になったのである。
戦後のいわゆる六・三・三制が始まるわけだが、現在の高等学校が発足するのは翌1948年4月で、旧制中学2年生以下の生徒は暫定的に後身高校の附属(新制)中学の生徒となり、3年生は後身の高等学校へ進級し、旧制中学卒業者のうち希望者は後身高校へ編入した。これは1941年、旧制中学の修業年限が5年から4年に短縮されていたため、新制高校三年制に合わせる措置だった。このように当時の学制改革は革命的だったため当事者たちをひどく戸惑わせた。私の場合、「小学生」の体験がない珍しい世代である。「国民学校令」で発足した「国民学校初等科」の第一回入学生で、この「国民学校令」の廃止と同時に「新制中学校」第一回生になったからである。
2006(平成18)年、安部内閣は「教育費本法」を全面的に改定した。改定の過程で行なった「タウンミーティング」では、改定賛成者をあらかじめ選んで登壇させ「ヤラセミーティング」との批判が上がったが、自民・公明与党の賛成多数で成立した。改定で論点となったのは「道徳教育の重視」「愛国心の強制」「内心の自由の侵害」「憲法改正への布石」などで、すでに成立していた「国旗・国家法」による学校現場への「日の丸・君が代」強制とあいまって、「復古主義」の台頭が一層強まるとの懸念が示された。
「思えば遠くへ来たもんだ」という歌があったが、1876(明治19)年生まれの父は、明治維新からわずか20年の時期にこの世に生を受けているわけだから、父の生を含めて現在の自分を見つめ直すと改めて「遠くへ来たもんだ」と感慨深くなる。それにしても、一時期「戦争」の時代があったとは言え、民主主義の世になって平和な教育環境のもとで育ったことを心から感謝せずにおれない。この感謝の気持ちをこれからの世代に伝え残すことがわれわれの役割だろう。小沢昭一さんは言う。
<戦争は急に始まるものではない。なんだか知らない間にだんだん戦争へ向かって行く。くさいなと気付いたら早くその芽をつまないといけません。100年後の人にもやっぱり、戦争は駄目と言いたい>(本ブログ07.11.11『同じ“小沢”でも“小沢昭一”はエライ!』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20071111)
石原慎太郎が支配する東京都教育委員会の「日の丸・君が代」への異常な執着は、小沢さんが言う「くさい芽」の典型だが、摘み取ろうとしてもどんどん大きくなってゆくばかりのようだ。新憲法制定の前に公布された「教育基本法」を読み直してみるのも、「くさい芽」を摘み取る一助になるかも知れない。
1941(昭和16)年、「国民学校令」制定で「尋常小学校」が「国民学校」となり、6歳の私は「小学生1年生」ではなく「国民学校初等科1年生」になった。この改正で義務教育の年数が6年から8年に延長され、国民学校初等科6年、高等科2年となる。旧制中学への受験は初等科6年からと変わらなかった。
敗戦の日はとても暑かった。「玉音放送」はその日の夕食時、陶磁器会社で働いていた父や小学校の教員だった兄から家族に伝えられたように思う。田舎のことだから、戦争に負け、戦争が終わったことで、家族に大きな変化があったわけではない。都会とは違い、それだけ日常が「平穏」だったということだろう。ただ、戦時中から続く食糧難はより厳しくなった。敗戦が事実として認識されたのは、間もなく米軍の車両が県道を往来するようになってからだ。子供たちは米兵の笑顔に釣られてこわごわ車に近づき、ガムやチョコレート、缶詰などを貰った。その「未知なる美味」が“敗戦”の実感を教えてくれたのかも知れない。
禁止されていた「ベース・ボール」も、敗戦で復活した。翌年、6年生になるとソフトボールのチームができ、以前書いたように、私たちの田舎チームが県大会で準優勝した。そして次の年は中学への受験が待っているはずだった。ところが1947(昭和22)年3月31日、国民学校初等科(これ以降「小学校」となる)を卒業すると、従来の国民学校に併設して「新制中学校」が誕生し、私たちは無試験で全員が入学、その第一回生になったのである。
戦後のいわゆる六・三・三制が始まるわけだが、現在の高等学校が発足するのは翌1948年4月で、旧制中学2年生以下の生徒は暫定的に後身高校の附属(新制)中学の生徒となり、3年生は後身の高等学校へ進級し、旧制中学卒業者のうち希望者は後身高校へ編入した。これは1941年、旧制中学の修業年限が5年から4年に短縮されていたため、新制高校三年制に合わせる措置だった。このように当時の学制改革は革命的だったため当事者たちをひどく戸惑わせた。私の場合、「小学生」の体験がない珍しい世代である。「国民学校令」で発足した「国民学校初等科」の第一回入学生で、この「国民学校令」の廃止と同時に「新制中学校」第一回生になったからである。
2006(平成18)年、安部内閣は「教育費本法」を全面的に改定した。改定の過程で行なった「タウンミーティング」では、改定賛成者をあらかじめ選んで登壇させ「ヤラセミーティング」との批判が上がったが、自民・公明与党の賛成多数で成立した。改定で論点となったのは「道徳教育の重視」「愛国心の強制」「内心の自由の侵害」「憲法改正への布石」などで、すでに成立していた「国旗・国家法」による学校現場への「日の丸・君が代」強制とあいまって、「復古主義」の台頭が一層強まるとの懸念が示された。
「思えば遠くへ来たもんだ」という歌があったが、1876(明治19)年生まれの父は、明治維新からわずか20年の時期にこの世に生を受けているわけだから、父の生を含めて現在の自分を見つめ直すと改めて「遠くへ来たもんだ」と感慨深くなる。それにしても、一時期「戦争」の時代があったとは言え、民主主義の世になって平和な教育環境のもとで育ったことを心から感謝せずにおれない。この感謝の気持ちをこれからの世代に伝え残すことがわれわれの役割だろう。小沢昭一さんは言う。
<戦争は急に始まるものではない。なんだか知らない間にだんだん戦争へ向かって行く。くさいなと気付いたら早くその芽をつまないといけません。100年後の人にもやっぱり、戦争は駄目と言いたい>(本ブログ07.11.11『同じ“小沢”でも“小沢昭一”はエライ!』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20071111)
石原慎太郎が支配する東京都教育委員会の「日の丸・君が代」への異常な執着は、小沢さんが言う「くさい芽」の典型だが、摘み取ろうとしてもどんどん大きくなってゆくばかりのようだ。新憲法制定の前に公布された「教育基本法」を読み直してみるのも、「くさい芽」を摘み取る一助になるかも知れない。