耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

今日は“教育基本法”公布の日~私は“新制中学”第一回生

2009-03-31 11:45:28 | Weblog
 “太平洋戦争”が終わったのは国民学校初等科5年生の時だった。1876(明治19)年生まれの父が60歳、1886(明治29)年生まれの母が50歳、1935(昭和10)年生まれの私が10歳、末っ子の弟が5歳である。当時の家族にはこのほか20歳の兄(肺病で陸士をはねられ小学校の代用教員)と15歳の姉(女学校3年生)がいた(長兄は海軍軍人で未帰還、長姉は海軍工廠電気技師と結婚して佐世保在住)。弟は母45歳の子で、さすがに母乳が出ず、飼っていた山羊の乳で育った。山羊は一日一升(1.8㍑)の乳を出してくれたから、弟だけでなくわれわれもその恩恵に浴したものだ。

 1941(昭和16)年、「国民学校令」制定で「尋常小学校」が「国民学校」となり、6歳の私は「小学生1年生」ではなく「国民学校初等科1年生」になった。この改正で義務教育の年数が6年から8年に延長され、国民学校初等科6年、高等科2年となる。旧制中学への受験は初等科6年からと変わらなかった。

 敗戦の日はとても暑かった。「玉音放送」はその日の夕食時、陶磁器会社で働いていた父や小学校の教員だった兄から家族に伝えられたように思う。田舎のことだから、戦争に負け、戦争が終わったことで、家族に大きな変化があったわけではない。都会とは違い、それだけ日常が「平穏」だったということだろう。ただ、戦時中から続く食糧難はより厳しくなった。敗戦が事実として認識されたのは、間もなく米軍の車両が県道を往来するようになってからだ。子供たちは米兵の笑顔に釣られてこわごわ車に近づき、ガムやチョコレート、缶詰などを貰った。その「未知なる美味」が“敗戦”の実感を教えてくれたのかも知れない。

 禁止されていた「ベース・ボール」も、敗戦で復活した。翌年、6年生になるとソフトボールのチームができ、以前書いたように、私たちの田舎チームが県大会で準優勝した。そして次の年は中学への受験が待っているはずだった。ところが1947(昭和22)年3月31日、国民学校初等科(これ以降「小学校」となる)を卒業すると、従来の国民学校に併設して「新制中学校」が誕生し、私たちは無試験で全員が入学、その第一回生になったのである。

 戦後のいわゆる六・三・三制が始まるわけだが、現在の高等学校が発足するのは翌1948年4月で、旧制中学2年生以下の生徒は暫定的に後身高校の附属(新制)中学の生徒となり、3年生は後身の高等学校へ進級し、旧制中学卒業者のうち希望者は後身高校へ編入した。これは1941年、旧制中学の修業年限が5年から4年に短縮されていたため、新制高校三年制に合わせる措置だった。このように当時の学制改革は革命的だったため当事者たちをひどく戸惑わせた。私の場合、「小学生」の体験がない珍しい世代である。「国民学校令」で発足した「国民学校初等科」の第一回入学生で、この「国民学校令」の廃止と同時に「新制中学校」第一回生になったからである。


 2006(平成18)年、安部内閣は「教育費本法」を全面的に改定した。改定の過程で行なった「タウンミーティング」では、改定賛成者をあらかじめ選んで登壇させ「ヤラセミーティング」との批判が上がったが、自民・公明与党の賛成多数で成立した。改定で論点となったのは「道徳教育の重視」「愛国心の強制」「内心の自由の侵害」「憲法改正への布石」などで、すでに成立していた「国旗・国家法」による学校現場への「日の丸・君が代」強制とあいまって、「復古主義」の台頭が一層強まるとの懸念が示された。

 
 「思えば遠くへ来たもんだ」という歌があったが、1876(明治19)年生まれの父は、明治維新からわずか20年の時期にこの世に生を受けているわけだから、父の生を含めて現在の自分を見つめ直すと改めて「遠くへ来たもんだ」と感慨深くなる。それにしても、一時期「戦争」の時代があったとは言え、民主主義の世になって平和な教育環境のもとで育ったことを心から感謝せずにおれない。この感謝の気持ちをこれからの世代に伝え残すことがわれわれの役割だろう。小沢昭一さんは言う。

 <戦争は急に始まるものではない。なんだか知らない間にだんだん戦争へ向かって行く。くさいなと気付いたら早くその芽をつまないといけません。100年後の人にもやっぱり、戦争は駄目と言いたい>(本ブログ07.11.11『同じ“小沢”でも“小沢昭一”はエライ!』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20071111

 石原慎太郎が支配する東京都教育委員会の「日の丸・君が代」への異常な執着は、小沢さんが言う「くさい芽」の典型だが、摘み取ろうとしてもどんどん大きくなってゆくばかりのようだ。新憲法制定の前に公布された「教育基本法」を読み直してみるのも、「くさい芽」を摘み取る一助になるかも知れない。

3月28日から一週間~「世界同時の抗議ウイーク」?

2009-03-29 11:32:03 | Weblog
 「世界恐慌」の先行き不透明のなか、4月2日、ロンドンで「G20サミット」が開催されるが、今のところ有効な打開策は見当たらないだろうというのが大方の見方である。『北沢洋子の国際情報』は、マスメディアが報じない「世界の底流」を教えてくれるが、「ネオリベラリズム」に対抗する「反グローバリズム」運動を続けてきた勢力はここにきて注目すべき存在になっている。以前、本ブログで「中南米諸国の動きに要注目」の記事をいくつか書いたが、それがいよいよ現実味を帯びてきた。「反グローバリズム」から「反資本主義」に一歩踏み込んだ様相が読みとれるし、先進諸国とは「危機」のとらえ方が根本的に異なる点は見逃せない。

 すでにロンドンでは「G20サミット」への抗議デモがはじまっていると伝えられるが、これは貧富の格差を拡大させた現指導者たちへの「NO!」サインであろう。このデモへの参加を早くから呼びかけてきた「WSF」の動きは、今後の世界情勢を占う意味で示唆に富んでいる。長文だが収録させていただいた。



『ベレム世界社会フォーラムについて』(北沢洋子)

1.はじめに

 2009年1月27日(火)午後からデモ行進が始まった第8回世界社会フォーラム(WSF)は、ブラジル・アマゾン地域のベレム(人口140万人)で、2月1日(日)、5日間の討議日程を成功裡に終えた。(WSFが2001年1月に始まって、今年で9年目に当るので、「第9回」と呼ぶ人もいるが、昨年2008年は全世界一斉行動をもって一ヵ所の集まるWSF方式に代えた。したがって、正確には、今年のWSFは第8回である。)
 ベレムWSFの開催は次に述べる二つの理由から重要であった。第一に、2008年9月の金融危機の勃発以来、はじめて開かれたWSFであった。第二に、ベレムがアマゾンの環境危機を象徴する地であった。
 今年のダボスの世界経済フォーラムが、マスメディアの言葉を借りれば、「悪夢のはじまり」であったのに比べると、ベレムのWSFは「もう一つの世界は本当に可能だ」と言える。このコントラストは非常に印象的であった。たとえば、ダボスでは、ブラウン英首相が「危機は前例のないもので、解決の予想には確信がない」と嘆いてみせた。
 今回のフォーラムを主催したブラジルのNGO「ブラジル社会経済分析研究所(IBASE)」のCandido Grzybowski代表によれば、参加者数は133,000人、5,808の社会運動、NGO、市民社会組織が142ヵ国から参加したという。(アジアからは334団体)その中で「インターコンチネンタル青年キャンプ」の参加者は青年15,000人、子ども3,000人が含まれた。
 ベレムがアマゾンへの入り口の町であったことから先住民の参加は多かった。120部族の先住民が1,900人、さらに1,400人のアフロ系子孫が集まった。そのなかでベレムを州都とするパラ州からは80,000人、その他のブラジル国内からは30,000人、ブラジル以外の国からの参加者は20,000人であった。
 アマゾン地域はブラジル、エクアドル、ペルー、ボリビア、コロンビア、ベネズエラ、グアヤナ、仏領ギアナ、スリナムなど9ヵ国が国境を接している。すでに02年から05年にかけて「アマゾンWSF」が4回も開かれてきたことを忘れてはならない。これは別名「国境なき集会」と呼ばれている。
 ベレムWSFの2日目に当る1月28日、「Pan-Amazon Forum」として、一日中、アマゾン地域の問題の議論に当てられた。アマゾンの人びとにとっては、500年に及ぶ抵抗の歴史である。09年6月にPan Amazon countries Summitの開催を提案した。そして、2010年に第5回アマゾンWSFを開催することを決議した。
 会議場は、アマゾン連邦地域大学(Federal Rural University of Amazon-UFRA)の二つのキャンパスが当てられた。ここで2,000以上のワークショップ、セミナー、会議、集会が繰り広げられた。参加者の多くは、組織者、活動家、学者文化人、宗教者、労働組合、農民、エコロジスト、アーティストたちであった。
 ベレムWSFでの議論はもっぱら(1)グローバルな資本主義の危機と(2)地球温暖化の危機という二つの危機についての議題に集中した。彼らは、現在のグローバルな資本主義の危機と地球温暖化の危機が労働者、農民、先住民、女性、そして周辺化された人びとに与えるすさまじい影響を議論したのであった。このほか、多くの参加者を集めたのは、イスラエルのガザ爆撃の問題であった。
 今年は、これまでのWSFの議論にあった米国の反テロ戦争、ネオコン、軍国主義、宗教的原理主義などのテーマはあまり注目を集めなかった。
 WSFは、1月27日午後、ベレムしないで、100,000人のカラフルなデモでもって幕開けた。ダンスやドラムを鳴り響かせて、わずか4キロの道のりを何時間もかけ、にわか雨が降りしきる中をオペラリオ広場までデモ行進した。先住民たちのカラフルなパフォーマンスはアマゾン地域の環境の危機を強く訴えるものであった。
 フォーラムを取材するために2,000人のジャーナリストがベレムに集まった。

2.ラテンアメリカの5人の大統領の出席

 第一日目のデモと続くフォーラムでの議論の中で、ひときわ目立っていたのは、「ブラジル社会主義・自由党(PSOL)」と「土地なき農民運動(MST)」の活動家たちが振る赤い旗であった。そのなかで最も人気が高かったのはPSOLのHelosia Helena委員長とMSTのJoao Pedro Stedile議長であった。この二人は終始メディアに追いかけられた。
 第2の目を引いたショーはMST.Via Campesonaが主催した会議であった。MSTは、ベネズエラのチャべス、エクアドルのコレア、ボリビアのモラレス、パラグアイのルゴの4人のラテンアメリカの大統領を特別に招待した。この中に、ブラジルのルラ大統領が入っていなかったことは注目に値する。MSTはルラの新自由主義、反労働者政策に反対しているからである。
 MST集会の司会を務めたStedile議長は、ソフトな表現ではあったが、4人の大統領が十分に反ネオリベラリズムと闘わないことを批判した。大統領たちは、言い訳をするのに躍起となっていた。
 MSTの集会からは除外されたとはいえ、ルラ大統領は、4人の大統領とともに別の大規模なパブリック・サミットに出席することが出来た。こうして彼の不在がWSFで大きな注目を浴びることを免れた。
 ベレムのフォーラムに対して、ルラ政権は5,000万ドルの資金を提供した。そして、重要なことは、ルラがダボスの世界経済フォーラムではなく、ベレムのWSFに出席することを選んだ点である。ダボスにはルラの代りに、アモリン外相とMeirelles中央銀行総裁が参加した。
 リラ大統領は、WSFの最初から参加してきた。むしろ、WSFの創設者の一人でもあった。ルラはWSFを米国など伝統的な資本主義国を糾弾する場と見なし、「危機は彼らのものであり、我々ではない。今日の経済危機は途方もなく大掛かりな金融機関の規制緩和がもたらした結果だ」と述べた。
 2年後の次回WSFはアフリカでの開催が決まった。

3.はじめて統一宣言、決議を採択

 WSFは、02年1月、ポルトアレグレの第2回会議で採択された「憲章」を守ってきた。「憲章」はWSFを「議論するスペース」と位置づけ、WSFとしての統一決議や宣言の採択をしてこなかった。
 WSFは第5回、すなわち05年以来、いくつかのテーマごとに全体会議が設けられ、そこで毎日参加者が一つのテーマを集中して議論を継続することが出来るようになった。
 ベレムWSFでは21のテーマ別の集会(Assemblies)が設けられた。
 今回は、グローバルな経済危機の発生、それに対するラディカルな変革というチャンスが生まれた。さらに、今は議論するだけではなく、活動すべきであるということで、いくつかの「グローバルな行動デイ」が決議された。
 そこで、これまでのWSFの「憲章」のタブーを破って、21のテーマ別集会がそれぞれ統一決議、宣言を採択することになった。そして会議の最終日である2月1日午前中は、連邦アマゾン地域大学の広いキャンバスで、小雨の降る中で、21の集会か荒なる全体会議( Assembly of The Assemblies)が開催され、テーマ別の集会の決議、宣言が承認された。この主な内容は、

 ・途上国の債務帳消し
 ・銀行の国有化
 ・危機下の企業での賃下げを拒否
 ・気候変動と正義
 ・移住者の権利
 ・人種差別主義、外国人排斥、人権
 ・ジェンダー
 ・貧しい人びとのエネルギーと食糧の権利
 ・イラクとアフガニスタンからの外国軍隊の撤退
 ・先住民の主権と自治
 ・土地の権利、まともな仕事、教育、医療保護
 ・メディアと通信の民主化

 「グローバルな行動デイ」としては、まず、4月2日ロンドンで開かれるG20サミットに向けて、3月28日からはじまる1週間を世界同時の抗議のウイークと決定した。
 G20のメンバー国であるブラジル、アルゼンチンの両国首脳に対しては、WSFが要求する「IMF、世銀、WTOなどの国際機関の解体、もしくは大規模な改革」を4月2日のG20サミットで発言するよう要求することになった。
 また3月30日は、「パレスチナ人の土地の日」である。これは76年、占領地パレスチナ人蜂起の記念日である。WSFは、この日、イスラエルに対する貿易ボイコット、経済制裁、ダイベストメント運動(イスラエルを援助している企業への投資引き上げ)、イスラエルのガザに対する弾圧をやめさせる、真の平和交渉を開始する、などの行動決議を行なった。
 4月17日を「食糧主権の日」とすることが決まった。
 10月12日は、スペインの征服者がアメリカに到着した日である。この日を、世界中の「先住民の土地の権利」を認めるグローバルな行動の日と決定した。
 12月12日は、「気候変動正義のグローバル行動デイ」に決まった。

4.ベレムWSFについての識者の見解

(1)ベレムWSF直前、フィリピン大学のワルデン・ベロ教授がIPS通信のインタビューに対し「現在進行中の危機は、単に、金融の危機、ネオリベラリズムの失敗にだけ留まらない。これはグローバルな資本主義(生産手段)の危機である。」したがって、「我々のオルタナティブも、それを“社会主義”、あるいは“人民民主主義”と呼ぼうと勝手だが、要は生産手段の民主化、経済の民主化にある」と語っている。
 またベロ教授は、「社会民主主義の拡大などといったシステム内部でのオルタナティブに留まってはならない」、そして「オルタナティブの概念についても、これまで議論してきた正義、平等などといった共通の普遍的概念を再検討する必要がある」と述べた。
 また危機の中心地である先進国でも、「明確なオレタナティブを提起できなければ、フランス、イタリアに見られるように過激な右翼が台頭する危険性がある」。そのような状況のもとでベロ教授はドイツのDie Linke(左の人びと)を評価している。Die linkeは2007年6月、これまでの左翼政党が大同団結して出来た政党で連邦議会の53議席をもっている。Die Linkeは、ピープルスパワー、参加型民主主義を提唱している。
(2)バルセロナ自治大学で社会学のJosep Maria Antentas教授は、「ベレムWSFは、05年以来続いた反グローバリゼーション運動の停滞を抜け出し、政治的重要性を取り戻した」と述べている。Antentas教授は、「単なる反ネオリベラリズムでは不十分である。今こそ反資本主義を掲げるべきだ。そのためには戦略のシフトが必要である。」「オルタナティブの内容を深め、ラディカルにすべきだ。トビン税の導入、債務帳消し、タックスへブンの廃止などといったこれまで我々が提案してきた古典的な要求に、さらに新しい要求を加えるべきである。それは銀行や金融機関を民主的な公共のコントロールの下に置くといった要求である」と述べた。
(3)CADTMのエリック・トーサン(ベルギー)は、大会最終日に採択された「社会運動大会宣言」について次のようなコメントをしている。「宣言には、現在の危機を克服するためには、反帝国主義、反人種差別主義、反資本主義、フェミニスト、エコロジストとともに社会主義オルタナティブが必要である、と書いてある」「これは、ベレムでの、ネオ・ケインズ主義派と反資本主義派との激しい議論の結果であった」と評価している。彼は、資本主義との決別を経済成長主義、消費主義、商品化主義という毎日の生活の中で、どのように進めるか議論しなければならない」と言っている。
(4)ブラジルのLeandro Moraisは、テーマ別の各々の集会が問題の共通の理解と行動を行うことに貢献したことを認めながら、一方では、WSFには各集会が決議したグローバルな行動を調整することが出来る機構がない。行動はここの組織のボランティアに委ねられている。
 現在、多くの政治組織はWSFの役割を過小評価しようとしている。しかし、今こそWSFの役割を強化すべきである。残念ながら、ベレムでは「改革」か「革命」か。という古典的な戦略論争は決着しなかった。しかし、ダボス世界経済フォーラムが明らかになった今、社会運動が共通の行動戦略をもたねばならないことははっきりした。
 しかし、第1回のWSF以来、守ってきた「多様性」「対話」「相互尊重」の精神を忘れてはならない、と述べている。

5.いくつかの問題点

 2001年、ポルトアレグレに始まったWSFは、年を経るごとに参加者は増え続き、反グローバリゼーションの世界最大の集会であった。しかし、2005年のポルトアレグレ大会を境に、参加者の数も頭打ちになり、また反グローバリゼーションの声も色あせていった。
 それには、反テロ戦争、イラク戦争というもう一つの要因が加わった。また、「憲章」の定められているように、WSFは単なる「議論の場」に過ぎず、政治的オリエンテーションも行動の提起もなかった。そのため、「1年に1度の反グローバリゼーションのカーニバルか、左翼の一代政治イベントか」とまで言われた。
 ベレムWSFは、このような停滞を打ち破った。ベレムというアマゾンの町が開催地であったため、大勢の先住民の参加があった。また、世界の熱帯雨林の半分を占めているアマゾンの森林破壊という問題から、エコロジストたちが大勢参加した。
 WSFは、これまでの反グローバリゼーション運動が正しかったこと、グローバル資本主義経済がメルトダウンし始めている、という確信を強めた。したがって、グローバルな連帯のプログラムと行動が必要である。ベレムは大成功であった。
 しかし、はたしてベレムが最良の開催地であったかを疑うものもいた。気温は45度、湿度は98%、そしてスコールにしばしば見舞われた。
 会場となった大学の二つのキャンパスは皮を挟み、1マイル半も離れていた。そこに2,310の参加団体独自のセミナーが散らばってしまった。
 勿論、ナイロビのWSFのように商業化されはしなかった。しかし、ナイロビで問題となったように現地のブラジル人にとっては30レアルの入場料は高い。ナイロビでは闘争の末、無料になったが、ベレムでは最後まで現地の貧しい人は排除された。
 通訳の問題も大きかった。ベレムでは通訳がいなかった。WSFでは少なくともフランス語、スペイン語、ポルトガル語、英語の4ヵ国語の通訳が必要である。
 WSFで相互の理解がないことは致命的である。WSFには「バベル」という数千人の通訳集団がある。ブラジルの組織委員会がバベルに通訳を依頼したところ、600,000ユーロを要求したという話だ。組織委員会がこれを拒否した結果、こうなってしまった。

 『北沢洋子の国際情報』:http://www.jca.apc.org/~kitazawa/(「ベレム世界社会フォーラムについて」)

“ワカメ”獲りに出かけます~結果は後ほど…。豊漁でした!

2009-03-27 21:37:04 | Weblog
 畑仕事に手をとられていたら、“ワカメ”のことをすっかり忘れていた。友人から催促され、昨年の手帳を見ると3月10日に獲りに行っている。「潮見表」で調べると今日が大潮だったので、早速、友人と出かけることにした。場所は“渦潮”で名高い「西海橋」。佐世保港の干潮の時刻が14時58分だから、西海瀬戸の大村湾入り口はこれより多少遅れる。西海瀬戸の奥に位置する大村湾は佐世保港より約二時間(+175分)遅い。近海でも潮時は違うから、海の漁には手のひらサイズの「潮見表」は必携モノである。

 ここの“ワカメ”は潮の流れが速く、海水がいつも入替わっているからキレイだ。秘密の場所が一ヵ所あって、昔と比べれば少なくなったが、そこでは“赤貝”も獲れる。しかし、昨年からすると半月遅いから、船で獲って回る漁師が獲り尽くしているかも知れない。今日の潮位が7で、4月、5月のマイナス潮位ほど大きくないから、漁師が刈り獲ったあとに残っている“ワカメ”の「根株」も獲れるかどうか、行ってみなければ分からない。

 (続きは写真付きで後刻報告します)


 帰宅が18時近くになったのでアップが遅れたが、以下の写真で説明します。

 獲れたワカメを水切りのために干している:
 

 約20キロほどのワカメを入れた袋を、磯から急坂の木立の中を登って車まで(およそ150m)二回運ぶのだが難儀なこと。友人と「欲深いからナァ」と言いつつ、休み休み運んだ。近所にもおすそ分けしといたが、明日からしばらく陰干しして干上がったらビニール袋に収納しておく。一年分ぐらいあるだろう。


 獲れた赤貝:
 

 最近は少なくなったが、ここの赤貝は有明海のものと比べて断然味が違う。味噌汁一回分だが、自然の恵みに深く感謝していただきたい。


 仕掛けた網を上げている漁師:
 

 手前が赤貝を掘った砂場とワカメの獲れる磯である。西海橋周辺にはいくつかの穴場があるようだが、ここは随分昔から馴染みの場所で、あまり人が入らないからそこそこの収穫がある。年々歳をとって、運搬に苦労することを思うといつまで続くか覚束ない。


 磯から見た有名な「針尾無線塔」:
 

 太平洋戦争開戦の暗号「ニイタカヤマ ノボレ 一二〇八」を送信した電波塔として有名。一、二号塔が高さ135メートル、三号塔が137メートル。現在の新幹線トンネルや橋梁ではあちこちで剥落が起こっているが、1922(大正11)年完成のこの塔はいまなお健在。手抜きなし工事の証拠物件?


 新西海橋下から見た「渦潮」:
 

 写真奥の方に丸い渦が三つ見える。時刻が上げ潮に移った頃だから渦は小さい。4月、5月の大潮にはこの辺の海面は一メートル以上の段差をつくって流れる。潮位を調べてから「観潮」においでになれば、鳴門ほどではないが壮観な自然の働きがご覧いただけるはずだ。


 

「生活保護アパート」?~行政の犯罪が許せるか!

2009-03-25 11:30:43 | Weblog
 たびたび取りあげているが、今日は二十四節気“春分”の「次候」(「桜始開」)、つまり“七十二候”の第十一候である。“七十二候”とは中国古代の季節区分で、二十四節気を五日ごとに三区分し、それぞれに気象の動きや動植物の変化を示す短文を付したもので、現代でも使われている。江戸時代にわが国独自の文もつけ加えられた。

 【春分】(第10候~第12候)

・初候(3/20~3/24)=(日本)「雀始巣」(雀が巣を構え始める。
              (中国)「玄鳥至」(燕が南からやって来る)
・次候(3/25~3/29)=(日本)「桜始開」(桜の花が開き始める)
              (中国)「雷乃発声」(遠くで雷の音がし始める)
・末候(3/30~4/4)=(日本)「雷乃発声」(遠くで雷の音がし始める)
             (中国)「始雷」(稲光が始めて光る)

 これをみると、地理的条件が違う中国と日本では多少のずれはあるものの、古来、季節の気象に大きな変化はないことが分かる。


 さて先日、群馬県渋川市で発生した「老人収容アパート」の惨事は、きわめて悪質な行政による犯罪行為である。昨日の『JANJANニュース』で田中良太記者が「渋川惨事を招いた石原都政の21世紀版 姥捨て」と題し詳しく解説しているが、このNPO法人「彩経会」が経営するちょっと聞きなれない「救護静養ホーム」は、事業内容を「生活保護受給者入所ホーム」と自称していた。アパート業界では「老人アパート」とか「生活保護アパート」とか呼ぶらしい。田中記者は『朝日新聞』の記事として、東京都墨田区が生活保護者をばらまいていた先が茨城県109人、群馬34、千葉16、埼玉15、栃木9、神奈川8、富山2、長野・山形・香川各1だったと記している。

 詳しくは下のリンクをお読みいただきたいが、東京都の区市町村では「生活保護アパート」とみられる施設は建築確認申請の段階ではねられるという。生活保護費は国の支給だが、アパートなどの施設にかかる費用は自治体の負担となるからだ。生活保護者の各地へのばらまきにはこうした背景があるらしい。

 火災が起きた19日の直前、17,18日の衆参両院本会議では「東京五輪招致決議」が行われた。東京オリンピック・パラリンピック招致委員会はメーンスタジアム建設費(931億円)など都と国が負担する経費2269億円とはじいている。都は今後各年度予算で五輪施設整備基金計4000億円を積む予定という。「東京一極集中」によって税収が都に集中し、預金に当る基金は1兆円もあるらしい(田中記者)。道理で「新銀行東京」の一千億円を越える壮大な知事の無駄遣いも許されるというわけだ。

 田中記者の怒りの言葉。

 <そんなに豊かなのに生活保護の老人には「21世紀版姥捨て」システムが適用される。高齢者対策など「負の行政」と位置づけ、目を背け続けるのが石原慎太郎都政のやり口だ。その大方針があるからこそ、墨田区をはじめとする都下の区市町村が「高齢者切り捨て」にはしる。>

 『JANJANニュース』:http://www.news.janjan.jp/column/0903/0903239985/1.php

 なお、「東京五輪」にからむ石原慎太郎に関しては次のリンクをご笑覧あれ!

 「知的誠実さのかけらもない石原慎太郎都知事」:http://www.news-pj.net/npj/uchida-masatoshi/20090315.html


 実は石原行政は小泉純一郎の福祉切り捨てと連動していた。4月1日から介護保険の認定方法が変わるが、当事者でないと気がつきにくい法改正である。『しんぶん赤旗・日曜版』には具体例が示され、「サービス減は死活問題」と訴えている。石田一紀・京都女子大教授(介護福祉学)は解説する。

 <今回の要介護認定見直しで、ますます現実からかい離した認定結果になります。重度の人を切り捨て、内臓疾患や視覚、聴覚障害、認知症、孤老の人たちも実質的に介護保険の蚊帳の外に置かれていくことになります。…
 もともと介護保険は、アメリカの民間医療保険の手法を取り入れた制度です。民間医療保険は、患者を選別し、医療サービスも上限があります。
 介護保険も、要介護認定で対象者を選別し、要介護度ごとの支給限度額でサービスの上限を決めています。…
 一人暮らしで、はってトイレに行く人は「自立」で、家族が手助けする人は「一部介助」「全介助」になるのも不合理です。その人の生活や社会的関係を切り離して見ているからです。…
 今回のようなあからさまな給付抑制のやり方は、「介護の社会化」という介護保険の建前との矛盾をいっそう強めます。>

 「市場原理主義」者・小泉・竹中路線が生んだ矛盾が露骨に表面化しているのが“雇用”と“福祉”だろう。「海賊対策」とか「弾道ミサイル撃墜」など“憲法”不在の勇ましいことばかりに金をつぎ込み、“福祉”へのほんのわずかな金額を惜しんで切り捨てる「国とはいったい何か」。ここに外国との対比として格好の記事が目についたので引用しておく。介護保険もそうだが、この国がいかに米国に毒されているか、「本土」の新聞が伝えない沖縄の現状をみてみよう。

 
 『半主権国からの脱却を』

 <米軍嘉手納飛行場の爆音禍は度を越えている。宮城篤実嘉手納町長は先週、防衛省に出向き、基地の使い方を日米で調整・管理する「基地使用協定」の締結を求めた。これで4年連続の要請だが、政府は無回答を続けている。
 
 日本同様に米軍受入国のドイツ、イタリアは基地使用に国内法を適用させる協定を結んでいる。それをまねるだけでいいのだが、日本はなぜか後ろ向きだ。

 基地運用の改善を訴える中で、十数年も前から日米地位協定改定が叫ばれてきたが、日米両政府にその気はない。ただ、基地被害を細かく見た場合、嘉手納町が求めている基地使用協定が実現した場合、日米地位協定の改定がなくても実を取ることは十分可能となる。

 ドイツ、イタリアの例がそれを証明している。

 両国とも北大西洋条約機構(NATO)の地位協定によって、同盟国軍を受け入れている。日米地位協定を策定する際に下敷きにしたのがNATO協定であり、ほぼ同じ内容だ。違いは、独伊には地位協定とは別に基地使用に関する協定があり、基地施設を自国の法に基づき管理しているという点にある。

 独伊並みの基地使用協定を日本が締結した場合、嘉手納飛行場での軍用機飛行を含め、基地使用はすべて日本側の承認を前提とする。夜間離着陸の妥当性に日本も責任を負うことになる。普天間飛行場でオイル漏れが発覚した問題は、宜野湾市の職員が独自判断で基地内調査を実施する。

 主権国なら当然のことだ。

 ドイツはNATO協定を補足するボン協定を1993年に改定、基地に国内法を適用できるようにした。イタリアは1995年に「基地使用に関する覚書」を締結した。

 いずれも冷戦締結を契機に従来の軍事優先を薄め、生活者優位の基地提供に転換した。ドイツでは当時、基地のあり方に「半主権国家」との批判が高まり、国内政治が冷戦後の「平和の配当」を求めた。

 イタリアには排他的な米軍専用基地はない。米軍はNATOへ提供した基地の主要な使用者という位置づけだ。基地司令官の伊軍将校に管理が任されている。飛行場は運用時間を決め、一日の飛行回数や外来機の飛行を制限している。未明離陸は論外だ。

 アパートに例えれば、入居者(米軍)が周囲の環境を乱さないよう管理人を置けるかどうかの違いだ。入居の条件は国内法を遵守すること。

 日本政府には自ら管理する発想すらないのだろう。

 独伊両国が基地使用協定を強化したころ、日本は湾岸戦争への貢献が評価されなかった、と打ちひしがれていた。基地は沖縄など地域限定の問題とみなされ、現在もその見方は基本的に変わらない。

 新嘉手納爆音訴訟で福岡高裁那覇支部は、米軍に飛行差し止めを要求できない制度上の壁を認め、問題解決は「政治の責任」と指摘した。

 基地使用協定は日本の提供・管理責任を明確にする。沖縄だけでなく国全体で議論する価値はあるはずだ。>

http://www.okinawatimes.co.jp/news/2009-03-23-M_1-005-1_001.html

お伽話の『瘤取り爺』~麻生政権は「隣の爺」か?

2009-03-23 09:39:07 | Weblog
 北朝鮮は「“人工衛星”を打ち上げる」と国際社会に宣明したが、日本政府は「“人工衛星”ではなく“弾道ミサイル”だ」といっている。しかも、日本政府は“弾道ミサイル”の発射に備え、「低層圏で弾道ミサイルを打ち落とす地対空誘導弾PAC3を秋田、岩手両県へ配備すると同時に、迎撃ミサイルSM3を搭載したイージス艦“こんごう”“ちょうかい”(いずれも長崎県・佐世保基地所属)の日本海、太平洋での展開を検討している。米軍とも連携する方針だ。」(『西日本新聞』3月18日)そうだ。さすがに、軍事“狂国”アメリカの「ポチ」といわれる日本。「オオカミが来るぞ!」と叫んでいれば国民は怯えてなんでも言う事を聞くと思っているのだろう。

 日本の人工衛星打ち上げ技術はいまや世界有数の性能を誇るが、この技術が“長距離弾道弾”への転用がきわけて容易で、「北朝鮮」の同種技術レベルとは比べ物にならない高水準にあること、米軍と「北朝鮮」の軍事能力には大学生と幼稚園児ほどの差があり、日本はその米軍の庇護下にあって「北朝鮮」を脅威とみなす根拠がないことは軍事専門家たちの定説だ。命中精度の悪いことで評判の“PAC3”をお得意先・日本に売りつけたアメリカと、防衛費増強を狙う戦前回帰派族議員のタグマッチがこの騒動の真相だろう。それに連動した動きが「拉致家族」と大韓航空機爆破テロ犯の会見だった。

 かねて思うことは、独裁国家「北朝鮮」を刺激するばかりで実質的な話し合いをせず、どうして“拉致者”を取り戻すことができるかということだ。国家犯罪としての“拉致”問題が解決しないのは、「北朝鮮」とわが国がいまだに戦時体制下のままで、わが国による過去の“朝鮮人強制連行・強制労働”を含む両国間の懸案を外交交渉の俎上にのせ、国交正常化への努力を放棄しているからだ。

 「目には目を 歯には歯を」(『ハムラビ法典』など)というが、「恨みに報ゆるに徳を以てす」(『老子』)ともいう。戦争か平和かを問えば、誰もが「平和」と答えるだろうが、なぜか「目には目を…」という勇ましいアジテーションに人は乗りやすい。「死刑制度」賛成派の人びとがはまる陥穽はその象徴ともいえるだろう。アメリカ指定の「悪の枢軸国」(イラン、北朝鮮)論に盲従し、いたずらに危機を煽り立てる政府ご用達のマスメディアに踊らされない矜持を失ってはなるまい。要は、世界の隣人同士、どうしたら「仲良くできるか」を根気よく追及する以外に「平和」への道はないと、先日紹介した“伊藤明彦”さんは教えている。

 
 “世界恐慌”がいよいよ現実味をおびつつあるが、“恐慌”の発生源アメリカは中国を含む主要先進国に大幅な財政出動を促している。EUはこれ以上「おつき合いはできかねる」といっているようだが、日本の財務・金融大臣は即座に「Yes we can!」と応えたらしい。国内では雇用や社会保障をズタズタにしたあげく、基地移転費用の莫大な追加負担のみか、破綻同然の国へ何の担保もなく融資するような愚をかさねているわけだ。麻生政権をつらつら思うに、お伽草子『瘤取り爺』に出てくる厄介な“瘤”をひっつけられた「隣の爺」そっくりに見えてくる。


 お伽話の「瘤取り爺」は、「猿蟹合戦」や「一寸法師」あるいは「花咲爺さん」などとともに遠い記憶からよみがえるなつかしい話である。この類話は世界中にあるそうだが、わが国では『宇治拾遺物語』(鎌倉初期・15巻)が原典とされている。“槇佐知子”による現代語訳をみてみよう。なお、槇さんによれば「こぶ」と訓読する字は八種類あって(『諸橋大漢和辞典』)、各地に伝わる『瘤取り』の話では“瘤”と書いたり“癭”と書いたりしているという。古医学研究者の槇さんは、文献から「こぶ」の種別と病変、それぞれの特効薬など詳しく解説しているがここでは省略する。

 <昔、右の頬に、大きなミカンくらいの癭(こぶ)のある翁がいた。人前に出るのをはばかり、山で薪を取って生活していた。
 ある日、山へ行くと雨風がひどくなり、帰ることができなくなってしまった。ちょうど木の洞があったのでそこに入り、雨風がおさまるのを待ったが、ただ一人で心細さといったらなかった。怖ろしさにじっとかがんでいると、そのうちに雨はやんだらしく、遠くで人の声がし、がやがやと大勢の人間が近づいてくる気配がした。
 生き返った思いで洞から外をうかがうと、一ツ目の者や口の無い者、怖ろしい形相をした鬼たちが百人ばかりひしめき、爺がかくれている洞の前に焚火を囲んで車座になっていた。
 上座に座った大将らしい鬼のもと、二列に並んで陣どった鬼どもは、人間と変わりなく盃のやりとりをし、大将の鬼もすっかり酔い痴れていた。やがて下座の鬼から踊りだした。下手な者も上手なものもいる。
 爺は、まるで何かが取り憑いたように、ひとりでに踊りだしたくなった。一度は思い返して止めようとしたが、鬼たちの打ち鳴らす音曲に誘われると我慢できなくなり、とうとう木の洞から鬼の大将の前へ踊り出た。
 烏帽子を鼻に垂れかけた人間が、腰に手斧を挿して踊りだしたので、鬼たちはびっくりし、「いったい何者だ」と騒ぎだした。
 翁はそんなことにはかまわず、身ぶり手ぶりおかしく、身をくねらせ、足をかがめ、はやし声まで出してその場を舞台に踊りまくった。鬼たちは驚きあきれて翁の踊りに見とれた。
「長年、こんな遊びをしてきたが、まだ一度もこんな面白い者に出会ったことがない。翁よ、このような遊びには必ずやって参れ」
 鬼の大将はご機嫌であった。
「おっしゃるまでもありません。必ず参上いたしましょう。今回は急だったので、舞い納めのしかたも忘れてしまいました。このようにお眼にかなうなら、もっと静かに踊りましょう」
「よくぞ申した。必ず参らねばならぬぞ」
「大将。この翁は口でそういっても、来ないかもしれませんぞ。質をとっておいたほうがようございます」
 上座から三番目の鬼がいった。
「そうだ。そうだ」
「何を質にとるのがよいかなあ」
 鬼が口々にいいだす。
「そうだ。翁の顔にある癭がいい。癭があるのは福のしるしだから、それを取られるのは惜しいはずだ」
 大将の鬼は我ながらよいことを思いついたものだ――と満足していった。
 翁は「とんでもありません。目や鼻ならようございますが、この癭だけはおゆるしください。長年、身につけてきたものを、わけもなく取りあげられるのはご無体でございます」と、てを振って断った。
「このように惜しがるものだからこそ、これが一番よい。取ってしまえ」
 大将の命令で鬼が寄ってきて、「さあ、取るぞ」とねじって引っぱった。すると、ほとんど痛みもなく取れた。
「必ず、この遊びに参るのだぞ」
 鬼たちは暁を告げる鳥の声に、皆、去っていった。
 翁が顔を手でさわってみると、何年ものあいだ頬についていた癭が、あとかたもなくなっている。拭きとったようにつるつるになっていたので、木を伐るのも忘れて家に帰った。
 家で心配していた婆は翁の顔を見ると腰を抜かさんばかり驚いて、訳を尋ねた。 さて、隣には、左の頬に大きな癭のある翁が住んでいた。癭がなくなった翁を見て、
「いったい、どうして癭がとれたのですか。どこの医師が取ったのか、私に教えてもらいたい。私も、あなたのようになりたい」
「いや、医師が取ったのではありませんよ。じつはきのう、山でこんなことがあったのです」
 癭が取れてさっぱりした翁は、そのいきさつを身ぶり手ぶりで話した。
 詳しく話を聞いた隣の爺は、さっそく山へ出かけ、木の洞に入って鬼たちがくるのを待った。この前のように空がにわかにかきくもって夕立が降りだし、しばらくすると止んで、ほんとうに鬼がでてきた。
 車座になって酒を呑んで遊んでいた鬼が、「どこにいるのだ。翁は来ているか」とわめくので隣の翁は怖ろしくなり、ふるえながらよろめいて出ていった。
「ここに翁は参っております」
「おう! こっちへ参れ。早く舞え」
 鬼の大将の命令に、生まれつき不器用な翁はそのうえに怖ろしさが加わったので、みておれないほど下手くそに踊った。
 鬼の大将は「なんだ、なんだ。今度の踊りの下手なこと。前のときとは比べものにならん。質にとってあった癭を返してやれ」と手下に命じた。
 末座の鬼が「そおれ、大事な癭を返してやるぞ」と癭のついていない右の頬めがけて投げつけた。
 そのため、左右に癭のある爺になってしまったそうだ。人のことをうらやんではいけない――ということだ。>(槇佐知子著『日本昔話と古代医術』/東京書籍)


 『宇治拾遺物語』の結びは「ものうらやみはせまじきことなりとか」と「人のことをうらやんではいけない」教えになっているが、良かれと思って試してみたらかえって「厄介なものを背負い込んだ」俚諺とみることもできよう。まさに、鬼(米国)から「踊りが下手だ」と酷評されたあげく醜い「癭(こぶ)」をひっつけられた「隣の爺」の役回りを、麻生政権は演じているといえないだろうか。

ブッシュに投げた“靴”~傀儡政権が下した「懲役三年」の判決

2009-03-21 09:46:51 | Weblog
 記者会見に現れた“ブッシュ”に、「…犬め!…」と罵って靴を投げたイラク人ジャーナリストに対しイラクの裁判所は、懲役三年の判決を言い渡した。このジャーナリストの姉妹の一人は、傀儡政権のマリキ首相を「ブッシュを喜ばせるためなら、マリキは自分の妻だって進んで差し出すでしょう!」と激しく非難した。現地からの情報を『マスコミに載らない海外記事』から転載する。


 <バグダッドにおける12月の記者会見の際に、元アメリカ大統領ジョージ・ブッシュめがけて靴を投げつけた29歳のイラク人ジャーナリスト、、ムンタザル・アル=ザイディは、木曜日に三年間の懲役という判決を受けた。

 そもそも、アメリカの属国でしかない国の裁判所からこうした判決がでるのはすっかり分かりきったことではあるものの、判決は法外だ。ザイディの行為は犯罪ではなかった。本物の犯罪人ブッシュに対して、何百万人ものイラク人や何千万人もの世界中の人々が感じている、怒りと軽蔑の反映だった。

 ジョージ・ブッシュは、イラクは「大量破壊兵器」を持っており、アルカイダと協力しているという嘘をでっちあげたアメリカ政権を率いていたのだ。イラクのエネルギー資源と領土を巡って新植民地主義的支配を押しつけるだけの目的から、違法な侵略を彼は命じたのだ。百万人以上のイラク人の死と、イラク経済、社会機構の破壊をもたらした残虐な占領を、彼は五年半にわたって取り仕切ってきたのだ。

 ザイディの弁護士たちは、アメリカの侵略で、イラク中にまき散らされた惨事に対するジャーナリストの抗議を考量するよう、裁判長に訴えた。彼の弁護団長ディア・サーディはこう語っている。「彼(ザイディ)がしたことの背後には高貴な動機があります。占領国の大統領に対して、靴がなげられたのであって、アメリカがイラクを攻撃したような何トンものロケット弾や爆弾ではないのです。」

 ブッシュが、イラクで最後の記者会見に登場した際、ムンタザル・アル=ザイディは、アメリカ大統領が、犯罪から逃げおおせることに気がついていた。裁判の過程で、ブッシュの言葉と表情に刺激されて、靴を投げるに至ったのだとザイディは証言した。ブッシュはイラクにおける「進歩」について語り、イラク首相ヌリ・アル・マリキとともにする予定の楽しい晩餐にふれ、彼のウリである薄ら笑いをしたのです。

 先月、ザイディは、ブッシュの薄ら笑いを見たときに、怒りで切れてしまったのだと、法廷で証言した。

 「彼が話している間、心のなかで彼のあらゆる“実績”を調べていました。百万人以上が殺され、モスクの破壊と辱め、イラク女性に対する凌辱、毎日、毎時のイラク人に対する攻撃。

 「彼の政策のおかげで国民全員悲しい思いをしているのに、顔に微笑みを浮かべて話し、首相と軽口を叩き、記者会見の後で彼と晩餐をとる予定になっていると言ったのです。
 「本当です、あたりにはブッシュ以外誰も見えませんでした。他の何も見えませんでした。無辜の人々の血が彼の足もとから流れ出ているのに、彼はあんな風に微笑んでいると思ったのです。

 「そして、彼は晩餐をとるはずでした。百万人の殉教者を殺害した後で。この国を破壊した後で。それで私は、靴を投げつけることで、この感覚に反応したのです。心の中の反応は止めることはできませんでした。無意識にやったのです。」(2009年3月12日、イギリスのガーディアン紙に翻訳引用されたもの)

 これの抗議行動は「占領に対する自然な反応」だったものであり、「外国の首脳を攻撃した」罪で有罪ではないとザイディは申し立てた。靴を投げながら彼はこう叫んだ。「これがイラク国民からのお別れのキスだ。犬め!これは未亡人、孤児、イラク国内で殺された人々からのものだ!」

 これは、ブッシュが直面しなければならない最も厳しい罰は、ザイディが投げた靴だけであるという、アメリカや国際的な法制度に対する告発なのだ。政府も、オバマのホワイト・ハウスも、もちろん誰一人として、あるいは民主党も、ブッシュや、他のアメリカの首脳陣の起訴を要求していない。彼の共犯者、トニー・ブレアが率いたイギリス政府や、ジョン・ハワードが率いたオーストラリア政府も、責任をとらされることから免れた。連中は、大量虐殺したのに、文字通り罰せられずに逃げおおせてしまったのだ。

 ムンタザル・アル=ザイディに言い渡された判決は、法廷にいた彼の家族と支持者達の間に怒りを引き起こした。

 彼が牢に連れ去られる際、「英雄!」や「くたばれ、ブッシュ」という叫びが自然に沸き上がった。「くたばれ、アメリカ裁判所」と叫ぶ人々もいた。イラク政府とマリキ首相に対して激しい非難があった。ザイディの姉妹の一人は記者団にこう語った。「ブッシュを喜ばせるためなら、マリキは自分の妻だって進んで差し出すでしょう。」

 ザイディの家族は、この若者が虐待を受け、刑務所中で死ぬ可能性さえあるのではという懸念を表明している。彼の行為は、彼を、アメリカ帝国主義とそのバグダッド傀儡政権に対する、イラク人と、より広範なアラブ人による反対の象徴へと変容させた。

 新米イラク政府は、彼がブッシュめがけて投げた靴は、警察の試験で破壊されたと、主張するまでに至っている。もしも靴がザイディや家族に返還されれば、イラクで反米デモを呼びかけるための偶像になってしまうことを恐れたのだ。

 ムンタザル・アル=ザイディの20人からなる弁護団は、判決に対し控訴する予定だと発表した。判決に対する小規模な抗議行動が、イラクや中等の他の地域で行われた。ヨルダンの学生たちがアメリカ大使館の外で集会した。

 ザイディの判決は、イラクの数多くのモスクにおける金曜礼拝の最中に言い渡された。バグダッドでも人口密度の高い、主にシーア派の労働者階級が暮らすサドル・シティーでは、聖職者シェイク・スハイル・アルーイカビが会衆に対し、これは「アメリカによる占領に反対するイラク国民に対する判決です」と説教したとAP通信は報じている。シーア派の中心地であるクーファでは、シェイク・アブドル-ハジ・アル=モハンマダウィはこう語っている。「裁判官が、一体どのような法律に基づいて判決を出したのか不思議に思うばかりだ。この判決は、連中のご主人様を満足させるために出されたのだろうか?なぜ血も涙もなく、イラク国民を殺害しているアメリカ人を裁かないのだろう?」


 「力は正義なり」という傲慢な思想に取り憑かれたブッシュは、大量虐殺の罪を犯しながら国際社会から姿を消した。また、ブッシュの盟友小泉純一郎は「イラク侵略」が誤りだったことを国民に詫びるでもなく、イラク国民への謝罪の意も示さないまま政治の舞台から去ろうとしている。傲岸・厚顔なこれら政治家たちの従順な僕(しもべ)として無辜の民の「虐殺」に加担した国民は、自らの不明を深く恥じなければならないだろう。


 『マスコミに載らない海外記事』:http://eigokiji.justblog.jp/blog/2009/03/post-55aa.html

「前人未到、空前絶後」の仰天業績!~伊藤明彦さん逝く

2009-03-19 09:04:06 | Weblog
 “伊藤明彦”とは誰? と知らない人が多いだろう。長崎県に住みながらこの人の業績を十全に捉えていなかった自分の不明を恥じずにはおれない。「被爆者の声」ホームページは“伊藤明彦”さんの訃報を次のように伝えている。
 
 <伊藤明彦さんが、2009年3月3日午後9時34分、緊急搬送された病院でお亡くなりになりました。

 原因は、風邪をこじらせての肺炎。2日朝、朦朧とした状態で発見され、病院に搬送された後、集中治療室を出ることなく、ご兄姉に看取られて。
 言葉は出ないものの、身振りで筆記具を所望され、撮影したビデオを見て欲しい、との意を表されたとか。

 伊藤さんは、昨年秋より長崎に赴かれて、取材を続けていらっしゃいましたが、今年になり、体調が思わしくなく、いったん東京に戻っておられました。『暖かくなったら、また長崎に』とか仰っていました。

 生前より、献体の手続きをとっておられ、ごく近しい方々でお見送りの後、ご遺体は、献体に回ったそうです。よって、告別式などは行われないそうです。

      …・… …・… …・… …・… …・… 

 『リベラル21』というサイト(ブログ)で、ジャーナリストの岩垂弘さんが、「神から遣わされた『現代の語り部』」と題し、伊藤さんの生涯を振り返っていらっしゃいます。> 

 「長崎の声」:http://www.geocities.jp/s20hibaku/index.html

 この訃報のあとに、【CDの奥付より】として、伊藤明彦さんの言葉が収録されている。

 <人類は狩猟漁労採集経済時代、戦争をしていませんでした。
「農業社会」成立後、戦争を始めました。産業革命によって生まれた「工業社会」は、戦争によって殺される人の量と質を一変しました。殺される人の数は万単位から一千万単位に増え、その大部分を非戦闘員が占めるところとなりました。
 きわまった姿がヒロシマ・ナガサキに生起した地獄です。
 進行中の「情報技術社会」が、人間の殺し合いにどんな変化をもたらすのか、まだ判りません。しかし「工業社会」が残した核弾頭が、イスラエルを含む8ヵ国に2万8千650発程度保有されているというのが、21世紀初頭の現実です。
 すべての核兵器保有国は他国から核攻撃を「抑止」することを、保有の口実にしています。しかし本当の「抑止力」は、ヒロシマ・ナガサキの被爆の実相を、私たちが克明に、より具体的に知り、核兵器不再使用、核兵器廃絶の意志を固め、広げることの中にこそある。そう信じてこの作品を作りました。
 お聴きくださった方が、ご批判・ご感想のお便りをくだされば、嬉しく存じます。
               
                2006年1月28日  伊藤明彦  >

 「伊藤明彦(Wikipedia)」:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E6%98%8E%E5%BD%A6


 “伊藤明彦”さんの業績は、表現しようのない驚嘆すべきものだ。各界で業績のあった人への顕彰はさまざま行われ、それはそれなりにすばらしいことに違いないが、市井の一市民が「四十歳をすぎて妻無く子無く職無く家なき状態」で、「被爆者の声」を聴きあさり、万巻のテープにそれを収め関係機関に寄贈し続けたというのだから、仰天させられる。こんな人が同世代に存在したことを思うと、自分の人生がつくづく空しく感じられてならない。いつも愛読している『リベラル21』の岩垂弘氏の“伊藤明彦”さんを偲ぶ「神から遣わされた『現代の語り部』」(3月16日)全文を、“伊藤明彦”さんのご冥福を心から祈りつつ収録させていただいた。

 
 <人間にとって未曾有の惨禍となった広島・長崎の原爆被害の実相を伝え続けてきた元放送記者が亡くなった。3月3日に肺炎で死去した伊藤明彦さんである。72歳。彼こそ、核被害の実相を私たちに伝えるために神から遣わされた「現代の語り部」ではなかったか。

 伊藤さんは東京で生まれ、長崎市で育った。8人兄姉の末っ子だった。長崎に原爆が投下された1945年8月9日には8歳だったが、田舎に疎開していて直接被爆は免れた。が、8月下旬に長崎に戻ったので、「入市被爆者」である。
 早稲田大学第一文学部を卒業して地元の長崎放送の記者となる。入社8年後の1968年、「広島・長崎・ビキニで核兵器に被災した人たちを訪ねて、その時、見、聞き、体験したこと、その時以来、身の上におこったこと、感じ、考え続けていることを、その人たち自身の言葉と声で語ってもらい、それを録音に収録し、一部を放送する」(伊藤さんの著書から)ラジオ番組『被爆を語る』を企画し、これが認められて番組の初代担当者になる。
 番組のねらいは「最後の被爆者が地上を去る日はいつくるか。その日のために被爆者の体験を本人自身の肉声で録音に収録して、後代へ伝承する必要があるのではないか。被爆地放送関係者の歴史に対して負うた責務ではないか」(同)と考えたからという。
 6分間、週3回の小さな番組だった。が、6ヵ月で番組担当を降ろされ、佐世保支局に転勤となる。伊藤さんによれば、労働組合活動がさしさわりであったらしいという。翌70年、同放送を退職した。

 退職後の伊藤さんは、自力でこの作業を続けようと決意する。東京に出、民間放送関係者数人に呼びかけて「被爆者の声を記録する会」をつくり、とりあえず東京在住の被爆者を対象に聞き取り録音を始めた。1971年のことだ。
 その後、早朝・深夜の肉体労働に従事しながら広島、東京、福岡、長崎、東京と転居を繰り返し、この間、青森県から沖縄県までの被爆者を訪ね、それぞれの被爆体験をテープに収録した。結局、21都府県の被爆者約2000人を訪ね、その半分に断わられ、1002人の「声」を収録して作業を終えたのは1979年夏だった。すでに8年がたっていた。

 その作業は、並大抵のものではなかった。その一端を伊藤さんは自著にこう書き残している。
「私は福岡市で働きはじめました。新聞広告でみつけた時間給350円の仕事でした。午前6時半から9時半まで働きます。その間に朝食を食べさせてもらえます。9時半から夕方までが、被爆者を訪ねて録音を頼み、すでに頼んである人の録音を収録する時間です。午後7時、職場に帰って午後11時まで働きます。仕事がすむと、夜食の弁当が支給されます。そのまま職場に泊りこんで、翌朝の労働をむかえます。最初の1ヵ月は1日も休まず、2ヵ月目から週1回の休みをもらって、こんな生活を9ヵ月間続けました。博多駅の近くに借りた四畳半の部屋には、休みの日や、録音のない日に帰って、テープの整理をしたり、収録名簿を作ったりしました。この年と翌年は、大晦日の夜から元旦の朝まで働きました」(『未来からの遺言』、青木書店刊、1980年)
 要するに、被爆者を訪ね、話を聞く時間を確保するためにあえて定職に就かず、今でいうフリーター的な肉体労働で生活費や活動資金を稼いだのだった。

 伊藤さんはまた、こう書く。
「8年の流浪のあいだに、それまでの貯えも、前の職場の退職金もなくなってしまいました。衣類も着はたしました。八冬を火の気なしですごしました。東京から福岡へ転居するとき、駅の小荷物係で計ってもらった自分の全財産――わずかの本は姉の家にあずけてありましたが――が、人気力士・高見山の体重よりも軽いことを知って私は苦笑しました。さしあたりの生活において、自分より貧乏な被爆者にあったことが私はありませんでした。さいごには国民健康保険料も納付できなくなって、なん年も手帳なしでくらしました。恥をさらすようですが、40歳を過ぎて妻なく子なく職なく家なき状態が、作業を終ったときの私の姿でした。ただただ、録音テープだけが残りました」(同)
 このくだりを読むたびに、この作業にかけた伊藤さんの鬼気迫るような執念を感じたものだ。伊藤さんによれば、友人から常軌を逸していると評されたこともあったという。

 ところで、作業はこれで終ったわけではなかった。それから、収録した「被爆者の声」を広く人々に伝達するための作業が始まった。
 まず、代表的な「声」の録音を編集して複製したオープン・リール版「被爆を語る」シリーズ51人分52巻をつくり、全国の13ヵ所の図書館、平和資料館などへ寄贈した。これには1982年から3年を要した。
 ついで1989年には、カセット・テープ版「被爆を語る」シリーズ14人分14巻を制作し、92年までに全国944ヵ所の図書館、平和資料館などへ寄贈した。寄贈テープは累計で1万3660巻にのぼった。
 2000年には、原テープと二つの「原爆を語る」シリーズのマザー・テープ合わせて1034巻を国立長崎原爆死没者追討平和記念館準備室へ寄贈した。同感は2003年にオープンし、原テープは年次計画でCD化され、公開されている。
 さらに、2006年には、平和記念館に競うした原テープと長崎放送が収録してきた録音テープから抽出した被爆者の話から被爆の実相を時系列で再現した音声作品「ヒロシマ ナガサキ 私たちは忘れない」(CD9枚組み、8時間40分)を制作して、その複製764組を全国の図書館、平和資料館、平和研究所、平和運動団体、教員ら547団体・個人へ贈呈した。
 作業はさらに続く。伊藤さんは、これらCDに収録されている被爆者の声の一部を2006年から、『被爆者の声』のタイトルでネットで発信し始めた。インターネットの利用者が増えてきたことに対応した試みだった。http://www.geocities.jp/s20hibaku/
 「声」は文章化されているから、読むことができる。
 そのうえ、伊藤さんは、ボランティアの協力を得て文章化された「声」を英訳し、07年8月から、英語版サイトhttp://www.voshn.comをスタートさせた。英語での発信には「世界中の英語を理解する青年、特に核兵器保有国、なかでもアメリカの青年たちに被爆者の声を聴いてほしい」という伊藤さんの切なる願いが込められている。

 それにしても、伊藤さんが訪ね歩き耳を傾けた被爆者たちの「声」はいったいどのようなものであったか、伊藤さんは書く。
「きのこ雲からあらわれたのは金銭の要求者でも復讐者でもなく、核兵器廃絶、核兵器不再使用、絶対平和の提唱者でした。ひとびとがこのとき一心に祈ったのは人間のうえに、子どもたちのうえに、このような経験をくりかえさせないことだった。合掌したてのひらから祈りだされたものが平和憲法だったとわたしは信じています」(「原子野の『ヨブ記』」、径書房刊、1993年)

 伊藤さんが生涯を賭けて取り組んできた作業の到達点は、まさに前人未到、空前絶後と言っていいだろう。が、彼の最後の著作となった『夏のことば ヒロシマ・ナガサキ れくいえむ』(自費出版、2007年)は、次のような言葉で結ばれている。
「古希をむかえました。核地獄に堕ちた人類に助かりをえてほしい。その上で自分にできそうなことはこころみて死にたい一念。正しい仏法による衆生済度を願って、高齢をおして遠くインドへ旅立ったり、はるばる日本へやってきたりした、法顕、鑑真、真如のうしろにつき従って死にたい一念です。坦々たる大道をゆうゆうと歩む平穏幸福な人生も人生、達成至難な理想を胸に、老ドンキホーテとなって悪戦苦闘するのもそれなりの人生。後漢光武帝の武将馬援はこんなことばをのこしてくれています。『男児はまさに辺野に死すべきを要す……』」
 どうやら、古希を迎えて自らに人生を「被爆を聴き、伝えようとつとめた作業のために一生を棒に振ったかもしれない」と顧みた伊藤さんは、自らに鞭打ってなお作業を続けるつもりだったようだ。それは、どんな作業だったのだろうか。私は伊藤さんに伝えたい。「もう、あなたは十分に仕事をした。どうか安らかにお眠りください」と。

 私が核問題や原水爆禁止運動の取材を始めてから40余年になる。この間、広島・長崎の被爆者や、水爆実験によるビキニ被災事件の被ばく者の証言を聴く機会が多々あった。中には、終始臨場感に満ち、核被害の悲惨さ、残酷さ、非人道性をあますところなく伝えてやまない証言をする人がいた。まるで、原爆投下直後の被爆地で被爆の模様を聴くようだった。私はその度に慄然とさせられ、その完璧ともいえる証言に心を揺さぶられた。
 それは、もうテクニカルな話術の優劣といったレベルを超えているように思えた。それゆえ、こう思ったものだ。「これは、亡くなった被爆者たちの霊が、生き残った被爆者の口を借りて耐え難い苦しみや無念さを訴えているのではないか。あるいは、この人たちは、核被害の実相を人間に認識させるために神が人類に遣わした『語り部』なのではないか」と。
 伊藤さんもそうした『語り部』の一人だったのだ。私にはそう思えてならない。>

「おいしい水」の話~“活水器”にはご注意!

2009-03-17 08:32:56 | Weblog
 『東京新聞』Web3月8日「社説」は「血液型では決まらない」と題し、血液型と結婚を結びつけたテレビドラマが先月下旬、四夜連続で放送されたことにふれ、次のように伝えた。

 <またぞろ血液型性格診断がはやっています。単なる遊び心だからなどと擁護する人もいるでしょうが、差別や偏見、思考停止につながらないか心配です。…
 こんな血液型性格判断ブームを米誌「NEWS WEEK」電子版(2月1日号)が皮肉っぽく紹介し、こう指摘しています。
「日本では血液型は結婚相談所から職業の決定に至るまで決定的な役割を持ち、いかに科学的に反論しても歯が立たない。…
 血液型は血液中のタンパク質によるものであって、性格とは何ら関係ない。血液型性格論はえせ科学であり、その考えは人間理解の妨げになり、人種差別主義と同じようなものである。」>

 『東京新聞』:http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2009030802000070.html

 
 本ブログ2007年2月15日『はびこる“えせ科学”』(http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070215)でおよそ述べたが、公共放送の道義退廃はいわば「メタボリックシンドローム」(代謝症候群)状態と見てよかろう。天下に“えせ科学”を蔓延させている罪はきわめて重い。


 さて、“えせ科学”と言えば、最近こんなことがあった。身内の一人が、仕事が思わしくなくて辞め、新しい仕事をはじめると言う。どういう仕事か聞いてみると「活水器」の販売で、自分で使ってみて「持病の糖尿病にいいようだから決めた」らしい。それを聞いてピンと来たから「マルチじゃないのか」とただしたところ、ウヤムヤな返事だった。翌日、親類の甲君から「試しに使ってみてくれ」と言われ、その「活水器」を無料で取り付けてもらったとの報告。いやはや手回しがいい。甲君が言うには「取り付けたら何だか水がおいしい」そうだ。まったく情けない話である。

 その「活水器」は直接、既設の水道管に取り付けるもので、水流を利用して“アルカリイオン”水が作られるといい、本体価格は344,000円(取り付け費は別)。“えせ科学”の見本のような品物だ。早速ネット検索で調べてみたら、東京都が発信した次のような記事が見つかった。


『科学的根拠をうたった広告に注意!~「活水器」は水道水を変えるのか?~』

平成17年2月15日
生活文化局

 消費者の健康志向などを背景に、「磁気等を利用して水道水のクラスター※を小さくし、おいしい水に変える」など、一見、科学的な根拠に基づくかのような効果・性能をうたう商品が「活水器※」等の名称で販売されています。
 東京都では、こうした「活水器」について、景品表示法の観点から調査を実施し、表示に関する科学的視点からの検証を行いました。その結果等について報告します。

 ●「活水器」とは
  「活水器」は、浄水器(水道水の残留塩素除去機能を有するもの)とは異なるものである。
 浄水器は家庭用品品質表示法の指定品目で、JIS規格により性能試験方法が標準化されている。
 これに対し、いわゆる「活水器」については公に定められた規格基準が無く、その性能についての試験方法等は一般的に確立されたものは無い。「活水器」の価格は数万円から数十万円で、中には百万円を越える高額なものもある。また、悪質な訪問販売等によって「活水器」が販売されている例もみられる。

 ※「活水器」および「水のクラスター」の詳細については資料参照

1.調査・検証の概要
(1)調査対象:「活水器」に係る表示 5件(通販カタログ表示1件、インターネット表示4件)
(2)調査方法:事業者に対し、表示の客観的根拠等について法に基づく報告の徴収等を行い、事業者からの回答について、専門家の助言を得ながら科学的視点から検証を行った。

2.調査・検証結果の概要(詳細は別添資料参照)
(1)現時点で行われている試験結果からは、「水のクラスターが小さくなる」と結論付けることはできない。こうした中で、「水のクラスターが小さくなる」等と断定的に表示することは、客観的事実に基づいたものとは認められず、消費者に誤認を与えるおそれがある。
(2)「水がおいしくなる」などのさまざまな効果・性能については、クラスターが小さくなることとの関連性が不明確で、表示の根拠とされたデータは、関係者による食味試験結果や一部の利用者へのアンケート結果など、客観性が確保されているとは認められないものだった。
(3)インターネットを利用した通信販売事業者の中には、取扱商品に関する十分な情報や表示の根拠を持たないまま、表示を行っているものがあった。

 ※別添資料
 「活水器」の表示に関する科学的視点からの検証について

3.消費者へのアドバイス
 今回調査・検証した「活水器」の効果・性能表示は、一見、科学的な根拠に基づくように見えても、実際には客観的事実に基づくとは認められないものでした。
 「活水器」ばかりでなく、一見、科学的根拠に基づいたものであるかのような表示が多く見受けられますが、事業者からの情報だけをうのみにせず、多角的に情報を収集したり、東京都消費生活総合センターに相談するなどして、商品やサービスを合理的に選択するようにしましょう。

4.事業者に対する指導等
(1)表示を行った事業者に対し、景品表示法の遵守等について指導した。
(2)インターネット等の通信販売や訪問販売の関係業界団体に、販売事業者が表示責任者として必ず根拠を確認の上、客観的事実に基づいた表示を行うことなど、表示の適正化等について要請した。

5.今後の対応
 注意に従わない場合や、繰り返し違反を行うなど悪質な場合には、事業社名を公表する。

 「東京都の「活水器」検証結果」:http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2005/02/20f2f100.htm

 「東京都の「活水器」トラブル事例報告」:http://www.shouhiseikatu.metro.tokyo.jp/kurashi/0801/soudan.html


 これで明らかなように、「活水器」に科学的な効能などないわけだ。しかも調べてみると、既設水道管に取り付ける場合、水道メーターから蛇口までの間(メーターから約50センチが妥当としているらしい)に付けるのだが、当然のことながら水道局の認可が必要で、その「認可証」には「取り付け個所から蛇口までの水質に関し当局に責任はない」ことを記している。つまり、水道水の水質に関しては「活水器」の取り付けに同意した当人が負うことになるわけで、甲君はその点販売者からは何の説明も受けなかったという。

 いわゆる「マルチ商法」でも、消費者から一定の信用を得てリピーターを増やしている業者もあるようだが、「マルチ」が悪徳商法の手口になっている実態は変わらない。行政の取り締まりも必要だが、消費者自身が賢くならない限り「悪徳業者」は末永く生き延びていくだろう。

「北朝鮮」によく似た国はどこ?

2009-03-15 08:30:17 | Weblog
 一時期“御手洗富士雄”経団連会長の「キャノン」をめぐる巨額裏金問題が大きく報道され、この経済界のドンにも事件は波及しかねない様子だったが、「“小沢一郎”事件」が急浮上したのをきっかけにまったく影を潜めてしまった。これまでもたびたび同様の「珍現象」が発生し、権力側には巨悪の追及を雲散霧消させる仕掛けが用意されていることを、国民は否応なく学習させられてきたわけだ。それにもかかわらず善良な国民は、あたかも「オレオレ詐欺」に引っかかる老人のごとく、いともたやすく権力のワナにはめられ記憶喪失に陥る。

 ジャーナリストの田中良紹(よしつぐ)氏は、アメリカの知日家は「日本はきわめて異質な国で、北朝鮮によく似ている」と口をそろえて言うと証言する。次の動画(BS11)は3月7日放送だから、田中真紀子議員が「サンプロ」で発言する前日のものだ。明治維新以来続く日本の「官僚」支配にメスを入れる発言は、わが国の将来を見据える上からきわめて深い意味がこもっている。ご一見をお勧めします。

 “新党日本”の「にっぽんサイコー」より:http://www.team-nippon.com/team_nippon/cgi-bin/player.pl?channel=j_channel&order=1&mode=0&self=1


 さて、いずれも見逃しがちだが、われわれがいう「歴史」はこうした因子を数知れず含有することを記憶に留めるため、最近目についた記事を三つ収録しておく。

【その1】

<…元外交官の天木直人氏のブログが注目されている。天木氏は平成15年、レバノン駐在大使だった時「イラク戦争に反対」と外務省に公電を打ち、退官に追い込まれたとされる人物だ。外務省は「天木氏の退官は人事異動の一環」としているようだが……。

 天木氏によると、旧知のマハティール・マレーシア元首相から、オバマ米大統領あての公用書簡がメール送信されてきた。メールの真否はまだ確かめられていないが、在職中、欧米諸国向けに“正論”を唱え続けた元首相らしい。その内容を次のように紹介する=要旨。

(1)人々を殺すのをやめなさい。米国は目的を達成するために人々を殺すのが、あまりにも好きです。(2)イスラエルの武力行使を無条件で支持するのをやめなさい。イスラエルの武器・弾薬は、米国から供給されたものです。(3)イラクでは50万人の子どもたちが命を失いました。それとひきかえに、米国が手にしたものは何だったでしょう。(4)科学者や技術者に、残虐な新兵器の開発をやめさせなさい。(5)軍事産業にこれ以上の武器を作り、売ることをやめさせなさい。(6)世界の国を民主化しようとするのを、やめなさい。すべての国で民主主義がうまく機能するとは限りません。(7)金融機関という賭博を廃止しなさい。ヘッジファンドやデリバティブや為替取引をやめなさい。(8)京都議定書や、環境問題についての国際合意に署名しなさい。(9)国際連合に敬意を払いなさい。――このうちの一つでも二つでも実現することができたなら、あなたは偉大な大統領として記憶されることでしょう。

 天木氏が紹介するこのメールは、村上氏のエルサレム講演の趣旨に通じるものがある。選挙戦で核軍縮に言及したオバマ大統領に、先日の読売歌壇(岡野弘彦選)の次の一首を読んでほしいと願う。

 ・原爆を正義とおごる国がらをオバマ氏あなたも引き継ぎますか
                      千葉県 岩川 栄子 >
                  (『中外日報』3月10日「社説」)


【その2】

 <来日中のスティーブ・ゼルツアさん(レイバーネット米国)が、JR不採用問題の政治解決を求めて座り込んでいる国鉄闘争団・家族らを取材・激励した。この日国会前には、約100名の被解雇者を中心に計250名が座り込みを続けていた。マイクを握ったスティーブさんは「アメリカでも日本でも、民営化がもたらしたものは、公共サービスの破壊と労働条件の著しい悪化だった。ナカソネがNHKで堂々と“国労をつぶすために民営化をやった”と語っているが、これは労働法違反の犯罪行為である。ナカソネを犯罪者として逮捕し、刑務所に送るべきだ」と力強くアピールし、大きな拍手を浴びた。>
               (『レイバーネット日本』3月10日)


【その3】

 <駒村圭吾慶応大学・法科大学院教授(憲法学)が2001年に著した『ジャーナリズムの法理』の59頁に、今の市民に向けた強烈なメッセージが掲載されている。

 「批判精神・真実究明という使命を果たそうとするジャーナリストの緊張感を社会一般が理解することがどうしても不可欠になる。強い“番犬”を飼おうとすれば、飼い主にもそれなりの覚悟が必要になる。」

 ここでいう覚悟とは、何だろうか?

 駒村教授は、前提となるジャーナリズムの役割について次のように語っている。

 「批判精神・真実究明という使命は、ジャーナリストを規範の臨界に立たせる。善と悪、真実と虚偽、正統と異端などの判断の臨界に位置する機能であるからこそ、ジャーナリズムは“強い”のである。しかし、ジャーナリストが規範の臨界に立つということは、社会規範の破壊者として振る舞うことを意味しない。ジャーナリズムが規範衝突・義務衝突を来たしたとしても、それは批判精神・真実究明の観点から正当化されなければならない。一見すると市民感情を逆なでし社会通念を破壊するような報道を、ジャーナリズムは批判精神・真実究明という使命から正当化する責務を社会に負っている。」

 そして、駒村教授は、それゆえにジャーナリズムは、説明責任を引き受けなければならないという。

 ただし、社会が冷静に対応せず断罪し続ける場合があることを指摘し、そのような場合には、同業のジャーナリストが冷静に見守る必要があるという。

 「説明責任の遂行、ひいては批判精神・真実究明の使命の貫徹に不可欠なのは、ジャーナリズム全体がそのような使命を共有しており、そのような使命の遂行の努力を相互に尊重するという信頼なのではないか。
 義務衝突の中では法規範との衝突の場合、公権力は強制力をもって迫ってくるわけで、ジャーナリズムの相互信頼と結束が特に重要になってくる。しかし、法令という実定化された明確な社会規範に対する審判行為を擁護するのはなかなか難しい。」


 いまのマスメディアは、果たして、説明責任を果たしているだろうか?権力に襲いかかられる同業者につぶてを投げていないだろうか?

 そして、私たち市民は、ジャーナリストの義務衝突を考え、それが番犬の“強さ”につながることを理解することができているだろうか?

 ひるがえって、今回の小沢問題を理解することの難しさと重なるように思う。

 形式的とはいえ違法な献金を受けること、その金額から漂う利益誘導の臭い…それらを批判することは極めて容易だ。

 しかし、たとえば、日本経済団体連合会の2004年度の会員企業団体の政治献金は、自民党向けが22億2000万円であったのに対し、民主党向けはわずか6000万円、2006年の献金額でも、自民党向けの25億3000万円に対し、民主党向けは8000万円にとどまっていること、などを十分に理解しつつ、今回の事件を冷静に眺めることは、単に批判することよりもはるかに難しい。

 私たちがその難しい道を意図的に選ばない限り、私たちは表だけでも20億円以上を寄付する団体に支えられている政党を政権から引きずりおろし、透明度の高い政治を実現することはできない。

 いま、私たちの“飼い主”としての覚悟がまさに問われているし、報道機関にも番犬足りえる資格があるのかが、問われている。>
   (『情報流通促進計画byヤメ記者弁護士(ヤメ蚊)』3月11日)

“薬狩り”の時節~早くも福岡は桜の開花宣言

2009-03-13 13:18:07 | Weblog
 数日前からハクモクレンが咲きはじめ、昨日の天気で一気に開花した。この花が咲く頃は決まって雨風になるが、案の定、今日は朝から雨で午後は荒れるという。見事なハナビラもまたたく間に散り果てる。

庭のハクモクレン



 昨日は耕作地への生ゴミ投入、タマネギの草取りと追肥、イノシシにやられたジャガイモの再植え付けなど終日畑仕事に追われた。雨になればかならずイノシシが出てくるから、侵入路の補強は済ませたものの心配でおちおち眠れない日が続く。


 この時季は「摘み草」が年中行事の一つだが、昔は「薬狩り」と言った。

  おらの世やそこらの草も餅になる    一茶

 多分、この草は「ヨモギ」だろう。「ヨモギ」はどこにでも生える野草だが、今、伸びかけの新芽がういういしい。漢方では「艾葉(がいよう)」といい、腹痛や吐瀉、あるいは子宮や痔などの止血薬として用い、虫刺されや切り傷の殺菌にも効果があるという。言うまでもなく「艾葉」の「艾」はモグサのことだが、「お灸」に関しては以前くわしく書いたので省く。それにしても驚いたことに、福岡では今日桜の開花宣言が行なわれた。平年より13日も早いらしい。この様子では、鉢物の植木の植え替えや、野菜の種まきを急がねばならないだろう。