耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

“白石レンコン”~やっぱり一味違う

2008-08-31 09:28:11 | Weblog
 いま店頭に“新レンコン”が出ている。母が佐賀・白石町の出だから、特産品の「白石レンコン」は小さい頃からなじみが深かった。母の実家の裏には「クリーク」(小運河:白石平野には随所に点在する)があって、初夏にピンクの大きな花を咲かせ、秋口に蜂の巣のような実を結ぶ。その実の何ともふくよかな味が忘れ難い。白石への里帰りが頻繁だったのは、祖母が健在だった第二次大戦開戦前後の頃だろうか…。寒が来て堀上げたレンコンは身が締まって、煮物にしていただけばホコホコして味わい深い。いまの“レンコン”はホコホコ感よりサクサク感が勝るが、なんと言っても馴染みの「白石レンコン」が一番。時折、通りかかる地元の「ふるさと農産品市場」で必ず買って帰ることにしている。

 泥田から一本の茎がのびて咲く花を「清浄」なものとみて、仏教では蓮を象徴的にとらえ仏像や仏殿の造形に取り入れている。釈迦牟尼如来像や観世音菩薩像などの仏像はいずれも“蓮肉”“蓮弁”に座しておられる。諺に「蓮の台(うてな)の半座を分かつ」とあるが、“死んでからも一緒に極楽に往生して、一枚の蓮の葉に仲よく身をまかせあって、幸せを分かち合うということで、生きているうちはもとより、死後までも、行動、運命を共にするほどの仲をいう”(折井英治編『ことわざ辞典』/集英社)とある。類語に“一つ蓮(はちす)の縁”“一蓮托生”が挙げられている。蓮はこの世とあの世をつなぐ特別な意味を持った植物なのだ。また、レンコンにはたくさんの穴があいていることから「見通しの良い」縁起物としても知られている。

 
 蓮(ハス)はスイレン科の多年生水草、果実が蜂の巣に似ているのでハチスと呼んでいたのをハスと略称するようになったという。蓮は薬効の多い植物としても知られている。中国最古の本草書『神農本草経』には上薬(「無毒の不老長寿薬」で薬用人参・甘草などと同一)に収載され(参照:本ブログ『薬考』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070209)、花、実、房、雄しべ、根茎、葉、茎すべて薬用として重宝される。

 槇佐知子著『自然に医力あり』(筑摩書房)から用法と薬効を見てみよう。
●蓮の葉めし=鍋に水を入れて煮立て、塩を一つまみ入れ、細かく刻んだ蓮の若葉を茹でる。一たん葉を除いて茹で汁で御飯を炊き、蒸らす。蒸し上がったら先に除いておいた葉を混ぜ合わせると、風味のある蓮の葉めしができあがる。
●蓮茶=新しい葉を採り、、桶に水を満たした中に漬け、ときどき水を取り替えて二昼夜ほど置く。そのあとで陰干しにし、乾いたら刻んで袋に入れ、袋ごと陰に吊るす。これを運茶という。
 蓮の葉を漢方では「荷葉(かよう)」といい、めまい、腹くだし、むくみ、吐血、鼻血、子宮からの下血、血便などに効能があり、渇きをとめて唾液の分泌を促し、清熱解暑の作用もある。現代中国では、こしけや慢性子宮炎、夜尿症、男子の遺精などに用いているという。
●蓮の茎=茎の繊維で天寿国曼荼羅を織ったという中将姫の伝説があり、何トンもの大量の蓮の茎からとったわずかな藕糸(ぐうし:蓮の糸)で織った布がわが国でも復活した。
 蓮の茎は「荷梗(かこう)」といい、清熱解暑、通気作用があり、下痢や腸炎、暑気あたり、慢性子宮炎、こしけ、夜尿症、男子の遺精などに、煎じて服用する。またキノコ中毒の解毒にも効き、うるしかぶれには煮汁で洗浄する。
●蓮の雄しべ=煎じて飲むと、精力増進、唾液の分泌をうながし、顔色をよくし、血液のめぐりをよくする。
●蓮の花びら=揉んで腫物に貼ったり、陰干しにして貼ると、膿を吸い出し、痛みを止める。
●蓮の実=お粥や御飯に炊き込んだり、点心としてお菓子にも使う。
 腎臓や脾臓に効き、長く治らない下痢や婦人のおりもの、夢ばかり見る者、遺精などに良いという。ただし、便秘気味の人は、いっそう便秘するので食べない方が良い。


 晩秋になると熟しきった黒い果実は穴から飛び出す。飛ぶ前に採取して皮を取り除いて種だけを蒸してから陰干しにする。これが生薬の「蓮肉」(蓮子)である。鈴木昶著『薬草歳時記』(青蛙房)には「蓮肉」を配合した処方の「啓脾湯」「参苓白朮湯」「清心蓮子飲」などが紹介されている。

 民間療法として『漢方・鍼灸・家庭療法』(保健同人社)は次のような例を挙げている。
●鼻づまり・鼻血=ハスのおろし汁をまるめた脱脂綿にしみこませ鼻孔に入れる。
●高血圧=ハスの根をおろし、一日二回、一回にさかずき一杯をのむ。
●口内炎=ハスの葉の黒焼きを布につつみ、水にひたしてから、口にふくむ。
●神経痛=ハスの根の皮をとり、おろし金でおろし、、一日二回、一回さかずき一杯飲む。


 ちなみに「国宝の石仏」で知られる“臼杵の古代蓮”をリンクしておく。ハスの花や実がかわいい。

 「臼杵の古代蓮」:http://www.us.oct-net.jp/~sekibutu/hana.html
 

 

「平和の勇士」“伊藤和也”さんの死を悼む

2008-08-29 08:46:56 | Weblog
 まず次のニュースをご覧いただきたい。

 「You Tubeー多国籍軍の空爆…」:http://jp.youtube.com/watch?v=cq2yUZfAO_8

 アメリカがイラク侵略に先がけて行ったアフガニスタン侵略の現状である。「テロとの戦い」という虚妄の逸話をふりまき、民間人を日常的に虐殺しているのがアメリカとその同盟軍だ。こういう現状をわが国のマスコミは伝えようとしない。

 
 “ペシャワール会”現地代表の中村哲医師は、去る4月28日、明治大学での講演で「欧米流に金と武力を注ぎ込むことでなんでもできると思うのは間違いだ」と言い、さらに次のように述べていた。

 <アフガニスタンをテロの巣窟であるという人がいるが違う。(9.11テロ)実行犯の中にアフガン人はいなかった。タリバンは国粋主義者。他国に影響力を持つとは考えられない。…
 アフガン治安状態は、大統領が「カブール市長」と揶揄されるほど、現アフガン政府の支配は首都カブール周辺に限られているが、そこの治安も危なくなっている。…
 そんなことも知らずに自衛隊がノコノコと出て行ったらどうなるか。…今後は日本人というだけで襲われるようになる。(民間の)復興支援に限るべきだ。>(この記事は「Jan Janニュース」:http://www.news.janjan.jp/world/0805/0805298282/1.php

 今度の痛ましい事件は中村医師の予測が不幸にも的中したことになる。“ペシャワール会”ではすでにこの四月、半数のスタッフを帰国させ、今年中に全員を帰国させる予定だったという。20年以上にわたる支援を続ける中村医師らの声に、これまでの政府・与党は耳を傾けようとはせず、テロ国家アメリカの尻馬に乗って自衛隊の派遣に意欲的だ。(民主党の前原議員も自衛隊派遣に積極的!)


 “平和の勇士”として「憤死」した“伊藤和也”さんの“ペシャワール会”入会の際提出した志望動機全文を収録しておく。

 <「ワーカー(現地で働く人)志望の動機」

   伊藤和也

 私がワーカーを志望した動機は、アフガニスタンに行き、私ができることをやりたい、そう思ったからです。
 私が、アフガニスタンという国を知ったのは、2001年の9.11同時多発テロに対するアメリカの報復爆撃によってです。その時まで、周辺国であるパキスタンやイランといった国は知っているのに、アフガニスタンという国を全く知りませんでした。
 
 「アフガニスタンは、忘れられた国である」

 この言葉は、私がペシャワール会を知る前から入会している「カレーズの会」の理事長であり、アフガニスタン人でもある医師のレシャード・カレッド先生が言われたことです。今ならうなずけます。
 私がなぜアフガニスタンに関心をもつようになったか。
 それは、アフガニスタンの復興に関係するニュースが流れている時に見た農業支援という言葉からです。
 このこと以降、アフガニスタンに対しての興味を持ち、「風の学校」の設立者である中田正一先生の番組、偶然新聞で見つけたカレーズの会の活動、そして、カレーズの会の活動に参加している時に見せてもらったペシャワール会の会報とその活動をテーマにしたマンガ、それらを通して現地にいきたい気持ちが、強くなりました。
 私は、関心がないことには、まったくと言っていいほど反応しない性格です。
 反応したとしても、すぐに、忘れてしまうか、流してしまいます。その反面、関心を持ったことはとことこやってみたい、やらなければ気がすまないといった面があり、今回は後者です。
 私の現在の力量を判断すると、語学は、はっきりいってダメです。農業の分野に関しても、経験・知識ともに不足していることは否定できません。ただ私は、現地の人たちと一緒に成長していきたいと考えています。
 私が目ざしていること、アフガニスタンを本来あるべき緑豊かな国に、戻すことをお手伝いしたいということです。これは2年3年で出来ることではありません。
 子どもたちが将来、食料のことで困ることのない環境に少しでも近づけることができるよう、力になれればと考えています。
 甘い考えかもしれないし、行ったとしても現地の厳しい環境に耐えられるのかどうかもわかりません。
 しかし、現地に行かなければ、何も始まらない。
 そう考えて、今回、日本人ワーカーを希望しました。
              2003・6・15  >

 
 こんなにも優しい心をもった“伊藤和也”さんの無念に思いをいたし、心から哀悼の意を捧げます。

 参照:「JanJan動画ニュース『中村哲医師講演』」:http://www.tv.janjan.jp/0808/0808280691/1.php

“桜井ジャーナル”~「中国とアメリカの人権状況」

2008-08-27 10:15:26 | Weblog
 人はなんで歴史を直視しようとしないのだろう。日本が“15年戦争”に突入するきっかけは、旧満州での謀略(列車爆発事件)だった。ベトナム戦争のきっかけはトンキン湾におけるアメリカの謀略だったことは後に発覚、イラク戦争は「大量破壊兵器」の存在をでっち上げたアメリカ・イギリスの謀略戦争、これらの真実に目をつむってマスコミは「アメリカ大本営発表」をたれ流し続ける。

 イラクではすでに罪のない市民100万人が殺害されたとの情報もあるが、これは明らかにアメリカによる虐殺ではないのか。謀略によって他国を侵略し、傀儡政権を作って大統領を吊るし首にする。これは最大の他国への人権侵害でもある。その一方で、中国などの人権侵害を声高に非難する。かりに中国政府に問題があったとしても、アメリカに人権を論評する資格があだろうか。パレスチナに対するイスラエルの無法行為や核保有は黙認し、イランや北朝鮮を「テロ国家」と規定し核保有に難癖を突けて国際社会から排除する。アメリカのやり方をよく「ダブルスタンダード」などというが、軍事力で世界を支配し、「兵器で平和を希求する」狂気の理論に支配された国家とみるべきだろう。

 昨夜のNHK『クローズアップ現代』は、アメリカ発の世界経済危機を特集していたが、アメリカの経済危機が叫ばれると次の「戦争」が頭に思い浮かぶ。「戦争中毒国家アメリカ」の過去を知っているためだ。では、その次の「戦争」の危機はどこで作られているのか。最近のNHKニュースなどの報道から類推すれば、どうやらロシアを標的にしだしたように思われてならない。その辺の事情について“桜井ジャーナル”が示唆しているので収録しておく。


 「中国とアメリカの人権状況」

 <北京オリンピックが終わった。日本のマスコミはオリンピックをカネ儲けの材料としてあつかう一方、中国攻撃にも熱心で、複雑な対応をしていた。

 中国の人権状況がよくないことは言うまでもないが、中国よりはるかにひどい人権侵害を組織的に行い、国内外の民主的プロセスを破壊しているのがアメリカ、そのアメリカに追随している国が日本である。この事実について口を閉ざしている人間が中国を非難するのを聞くとき、人権や民主化ではない別の意図が働いていると思わざるを得ない。アフガニスタン侵攻以来、捕虜(アメリカ政府は「敵戦闘員」と呼んでいるが)に対する拷問は続き、CIA(中央情報局)は拉致事件も引き起こしている。アメリカ国内では監視システムが強化され、令状なしの盗聴が恒常化している。つまり憲法は停止状態にある。

 ベトナム戦争の時もそうだが、アメリカは少数勢力を利用することが多い。中国の場合、地政学的に重要な位置にあるチベットにアメリカが目をつけるのは当然だった。少なくとも1960年代にダライ・ラマたちがCIAから年間170万ドルを受け取り、メンバーがアメリカのコロラド州で軍事訓練を受けていることが明らかになっている。この当時、訓練を受けたチベット人が現在、指導的な役割を果たしていることは想像に難くない。

 戦後世界でもっとも人権を抑圧し、民主化を阻んできた国はおそらく、間違いなくアメリカである。もっとも大きな被害を受けてきた地域がラテン・アメリカ諸国。弾圧の象徴的な存在がSOA(アメリカ大陸訓練所)であり、ここは「死の部隊」を生み出してきた。

 この訓練所では反乱鎮圧技術だけでなく、狙撃の訓練、非正規戦や心理戦、情報活動、拷問テクニックなど教えていた。2001年にWHINSEC(治安協力西半球訓練所)へ名称変更しているが、訓練内容に変化はないと言われている。戦後、アメリカが行ってきた「テロ活動」の詳しい内容は拙著『テロ帝国アメリカは21世紀に耐えられない』を見てもらうとして、ここでは最近の出来事を振り返ってみる。

 最近、グルジア軍が南オセチアを奇襲攻撃してロシア軍と軍事衝突したが、この問題を考えるときコソボ紛争を忘れてはならない。ソ連が軍事侵攻していた時代からアフガニスタンの武装勢力は麻薬(主にヘロイン)取引で資金を調達していたが、その麻薬の多くはコソボ経由でヨーロッパに流れていた。このシステムを作り上げるうえでアメリカの軍や情報機関が重要な役割を果したことは言うまでもない。アメリカの情報機関は資金調達の手段としてベトナム戦争の時にヘロイン、中米での秘密工作ではコカインの取引を利用していたと報告されているが、アフガニスタンではヘロインだったわけだ。

 こうした潤沢な資金を利用してアルバニア系のKLA(コソボ解放軍)はセルビアに対する武力闘争を開始するのだが、「西側」のメディアはセルビア人による残虐行為を大々的に宣伝する一方、KLAの行為には寛容だった。「残虐なセルビア人」というイメージを広めるため、偽情報が流されたことも明らかになっている。その片棒を担いだ集団の一つが人権擁護団体「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」だ。

 こうしたプロパガンダで世論操作に成功した西側の一部勢力は1999年3月にNATOを使ってセルビアに対する空爆を実施、セルビア軍を排除することに成功するが、その後もコソボではセルビア人に対する迫害は続く。2008年2月にコソボは独立を宣言、アメリカをはじめイギリス、フランスはすぐに承認、ドイツや日本も続いた。これらの国々は南オセチアの独立を認めなければ筋が通らない。

 グルジア/南オセチアのケースで日本のマスコミは、グルジアの被害状況を大々的に報道する一方で南オセチアの情況にはあまり関心を示していないが、イスラエルとグルジアとの親密な関係も無視している。この件については本コラムですでに触れているが、今回の軍事衝突ではアメリカの関与以上にイスラエルの役割に注目する必要がある。グルジア/南オセチアの軍事衝突の背景にロシアとイスラエルの対立がある可能性は高い。この問題に関しては、拙著『アメリカ帝国はイランで墓穴を掘る』で触れている。

 はるか昔に「言論の自由」を放棄し、自主規制が骨の髄まで染みこんでいる日本のマスコミが日本やアメリカの権力者を刺激しすぎる話を避けるのは当然かもしれない。例えばイスラエルとグルジアとの関係などは、「保守系」あるいは「右より」とされる媒体だけでなく、日頃「アカ」とか「左より」と罵倒されている媒体や某機関誌も避けている。これが日本の現状だ。>

 「桜井ジャーナル」:http://plaza.rakuten.co.jp/31sakura/

“雷”が鳴るとなんで「クワバラ、クワバラ」か?

2008-08-25 08:46:01 | Weblog
 江戸川柳にこんな句がある。 

  蚊ややめてわずかの手間のそのらくさ   ~柳多留

 こんにち「蚊帳(かや)」と言っても、どれほどの人が知っているだろう。夏場、寝床に蚊帳を吊るのは子供の仕事だった。五歳違いの姉とふざけながら蚊帳吊りをした昔が懐かしい。お盆などには人が集るので三部屋に蚊帳を吊った。この句は、秋風が吹きはじめて蚊帳を吊る手間がはぶけ楽になったというのだが、蚊帳吊りの仕事を大袈裟に見立てたところに面白さがある。昔なら、そろそろ蚊帳もいらなくなる時節になった。

 ここ数日のまとまった雨で、畑の野菜も庭木も生き生きしてきた。猛暑続きでうんざりだったが、一気に秋に入った感じだ。昨日は旧暦の“処暑”、暦の上でも「暑さがやむ」時季で、七十二侯で“処暑”は次のようになっている。
・初候(第40侯):8月23日~27日
  綿柎開(めんぷひらく)=綿を包む咢(がく)が開く(日本)
  鷹乃祭鳥(たかがとりをまつる)=鷹が捕えた鳥を食べる(中国)
・次侯(第41侯):8月28日~9月1日
  天地始粛(てんちはじめてしゅくす)=暑さが鎮まる(日本・中国)
・末候(第42候):9月2日~6日
  禾乃登(かすなわちみのる)=稲が実る(日本・中国)

 参照:「処暑」:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD%E4%BA%94%E8%A1%8C%E6%80%9D%E6%83%B3


 気象庁によれば、この8月は落雷が異常に多かったというから、落雷による被害も少なくなかったことだろう。吉野裕子著『陰陽五行と日本の民俗』(人文書院)には『日本霊異記』にある雷の話にもとづく説が載っている。

 <昔、敏達(びだつ)天皇の御世に、尾張国阿育知郡片蕝(あゆちのこほりかたわ)の里に一(ひとり)の農夫(たつくるをのこ)有りき。作田(つくりだ)に水を引く時に、少細降雨(こさめふ)るが故に、木の本に隠れ、金の杖をつきて立てり。時に電(いかづち)鳴りき。即ち恐り驚き金の杖を(ささ)げて立てり。
 即ち、電(いかづち)、彼(そ)の人の前に堕(お)ちて、小子(ちひさこ)と成りて、其の人、金の杖を持ちて撞(つ)かむとする時に、電(いかづち)の言はく、「我を害(そこな)ふこと莫(なか)れ。我汝の恩に報いむ」といふ。其の人問ひて、「汝、何をか報いむ」と言ふ。電(いかづち)答へて言はく、「汝に寄せて、子を胎(はら)ましめて報いむ。故に、我が為に楠の船を作り、水を入れ、竹の葉を泛(うか)べて賜へ」といふ。即ち、電の言ひしが如くに作り備(ま)けて与へつ。時に、電言はく、「近依(よ)ること莫(なか)れ」といひて、遠く避(さ)らしむ。即ち愛(くも)り霧(きら)ひて天に登りぬ。然(しか)る後に産(うま)れし児の頭(かしら)は、蛇(へみ)を二遍纏(ふためぐりまと)ひ、首・尾を後に垂れて生る。…>(全訳注:中田祝夫『日本霊異記(上)』講談社学術文庫)

 概要は、一人の農夫が田に水を引き入れていると小雨が降ってきたので、雨宿りのために木の下に隠れて、鉄の杖を地面に突き立てて立っていた。そこに雷が落ちる。雷は小さな子供に姿を変えたので、農夫が杖で突こうとすると、「殺さないでくれ。恩返しはするから」という。農夫が「何を報いるのか」と聞くと、「あなたに子供を授けてやる。楠の木で船を作って水を入れ、竹の葉を浮かべてくれ」といった。農夫が言われたとおりにすると、雷は「私に近づくな」というと、たちまち霧を巻き起こして天に昇っていった。その後、生まれた子供の頭には蛇が二巻き巻きついて、頭と尻尾がうしろに垂れていた、というのだ。

 物語の続きは、十歳あまりになったこの子は比類のない力持ちで、朝廷にいる力持ちの王と力比べをして勝ち、その後、元興寺の鐘堂にでる鬼を退治し、その寺で出家、名を道場法師と号したという物語である。


 さて、この物語にはどういう意味がこめられているか。いつものように吉野裕子さんは「陰陽五行説」からこれを読み解く。(「陰陽五行説」に馴染みのない方は、次をご参照あれ。『陰陽五行思想』:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD%E4%BA%94%E8%A1%8C%E6%80%9D%E6%83%B3

 まず「雷」を五行(木・火・土・金・水)でみると「木気」(易八卦で「震」にあたる)、「蛇」も「木気」だから、この物語に蛇がでてくるのは「雷の申し子」とみたてたのだ。

 <木気の雷は、「金剋木」の理によって、金気に制圧される。そこで金の杖の前に落ちた雷は小さな子の姿になり、更に金の杖によって突かれることをひどく怖れる。それは死を意味するからである。この雷にとって、木気は同気、水気は「水生木」の理で相生関係。そこで雷は“木気”と“水気”をその「比和相生(ひわそうしょう)の祐気(ゆうき)」としてよろこぶのである。水を張った楠の槽と、その上に泛べられた竹の葉によって雷は天に帰ることが出来るというのはその意味であろう。…
 農夫のもつ金の杖とは、要するに農具であろう。「金の杖、即ち鋤(スキ)か」(岩波本『日本霊異記』注)という説もあり、柳田國男はこれを鍬(クワ)と解して、「桑原、桑原」の呪詞の起源としている。>(前出吉野裕子書)
 
 吉野さんは柳田國男説で言う「桑原」の「桑」は、五行では「木気」だから雷を招(よ)ぶ木で雷除けにはならないから、農具の「鍬(クワ)」を同訓の「桑」にあてて雷除けの呪物とし「クワバラ、クワバラ」の呪詞が生まれたと述べている。

 さらに、秋田地方の面白い雷除けの風習を紹介している。
(1)竿頭に鎌を結んで門口に立てると落雷しない。
(2)雷鳴のときには砥石を吊るす。
(3)雷鳴のとき、刃物を以て手足を切る真似をするとよい。
(4)雷鳴のとき、西にある桃の木を折って手拭をかぶせてふると止む。
(5)生後三日以内に雷が鳴れば、金属の名をつける。
(6)雷の鳴るとき生れた子には鉄の字をつける。
(7)生れてから一週間以内に雷が鳴ったら、金に因んだ名をつけないと丈夫にならない。

 今では笑い話に過ぎないこれらの「お呪(まじな)い」も、「陰陽五行説」の「金剋木」の法則に則った習俗だと知れば、「陰陽師」が政(まつりごと)の中枢で力を発揮していた時代の残滓を笑ってばかりはいられないように思われる。
 

今日は「遊行の聖(ゆぎょうのひじり)」“一遍上人”の忌日

2008-08-23 09:00:22 | Weblog
 今日は「遊行の聖」“一遍上人”の忌日である。“一遍房智真”は「踊り念仏」で知られているが、浄土教の中でも特異な位置を占めている。大橋俊雄は鎌倉仏教を時期的に次の三期に分類,
・第一期=法然(1133~1212)と栄西(1141~1215)
・第二期=親鸞(1173~1263)と道元(1200~1253)
・第三期=一遍(1239~1289)と日蓮(1222~1282)
 次のように述べている。

 <日蓮は1282(弘安5)年、一遍は1289(正応2)年に没しているから、鎌倉六宗のなかでは、もっともおそい、最末期の人である。法然と親鸞と一遍は、ともに救済の論理を念仏に求め、民衆に往生浄土の教えを説いたが、なんといっても100年の違いがあってみれば、教えの内容にも、教化の方法にも、また対象にしても相違があったにちがいない。>(大橋俊雄著『一遍と時宗教団』/教育社歴史新書)

 それにしても“一遍”の教義をつぐ「時宗」は、江戸初期まではかなりの勢力を保っていたらしいが、時衆が権勢との結びつきを強め民衆の味方でなくなって、浄土真宗本願寺「中興の祖」と仰がれる“蓮如”が現れたのを機に、時宗教団の大部分がこれに吸収され、教団の勢力は著しく衰微したという。大橋俊雄は「一遍や時衆が市民権を獲得したのは、戦後のことで、戦前出版の『日本仏教史』ですら、その名が記されていないものもあった」と言っている(『一遍上人語録』/岩波文庫)。今でも時宗のお寺は滅多に目につかないが、それはともかく純粋な求道者“一遍”に関する研究は決しておろそかにされてはいないようだ。

 
 “一遍”の魅力を一言で言えば「捨聖(すてひじり)」と呼ばれたことに集約される。命終(みょうじゅう)におよんで「一代の聖教皆尽(つき)て、南無阿弥陀仏になりはてぬ」と言い、所持していたすべての書籍を焼き捨てるという徹底ぶりだった。中村敬三は「一遍の時衆は家を捨て、親を捨て、自分の身を用のないものにしてしまった人たちの集まり」と言っている(『念仏聖の時代』/校倉書房)。さらに中村敬三は同書でこう書いている。

 <“一遍”は「念仏の機に三品あり、上根は、妻子を帯し家に在しながら、著せずして往生す。中根は、妻子をすつるといへども、住処と衣食を帯して、著せずして往生す。下根は万事を捨離して、往生す。我等は下根のものなれば、一切を捨ずは、定めて臨終に諸事に著して往生をし損ずべきなりと思ふ故に、かくのごとく行ずるなり」として、上根にあたるとみられる親鸞、中根のうちに入ると考えられる法然に対して批判的であった。>

 浄土宗を立てた法然、その門人の親鸞も同じ念仏者ではあったが、“一遍”が追慕したのは平安中期の「遊行上人」“空也”だったことはすでにふれた。(07.11.13『“捨ててこそ”~今日は“空也上人”の忌日』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20071113

 “一遍”は、法然上人らが浄土教布教で被った神祇不拝による迫害を避け、諸国遊行では「専ら神明の威を仰ぎて、本地の徳を軽んずることなかれ」と言って、多くの神社を参拝し、結縁したといわれ、「本地垂迹」の思想を素直に受け入れたとみられている。さらに“一遍”の念仏遊行で特異な点は「賦算(ふさん)」と「踊り」にある。「賦算」とは“南無阿弥陀仏、決定往生六十万人”と記した札を配ることである。この「賦算」は、“一遍”が熊野本宮の証誠殿(しょうじょうでん)に参籠して権現の次の啓示を受けたことによるという。

 <融通念仏すゝむる聖、いかに念仏をばあしくすゝめらるゝぞ、御坊のすゝめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず、阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と決定(けつじょう)するところなり。信・不信をえらばず、浄・不浄をきらはず、その札をくばるべし。>

 『語録』にも「…信・不信、浄・不浄、有罪無罪(うざいむざい)を論ぜず」と出てくるが、“一遍”は「決定(けつじょう)往生の信たらずとて、人ごとに歎くは、いはれなき事なり。凡夫のこゝろには決定なし。決定は名号なり。…」(『語録・下巻』)、つまり、浄土への往生を決めるのは自力ではない、南無阿弥陀仏という名号を称えることで決まるのだ、と説いて念仏札を配った。この念仏札についての大橋俊雄のたとえ話はわかりやすい。

 <法然は行を重視して命終(みょうじゅう)のあかつきまで念仏申しつづけることを要求したが、親鸞は弥陀の本願を信じさえすれば往生できるといって信を強調している。行よりも信という立場をとっている。しかし、信心がかたまり、念仏をとなえつづけたところで、往生できるという確証はない。浄土へ行こうとしても入口で、往生の条件にあっていないということを理由に、ことわられてしまうかもしれない。たとえ、電車に乗ろうとして改札口を通りぬけたとしても、キップをもっていなければ、不正乗車をとがめられるか、目的地についても改札口を出ることはできない。生きてこの世にいるあいだに、往生を保証してくれる人がいれば、という願いを受け入れたのが一遍であり、極楽往生を保証する念仏札を考案した。>(前出『一遍と時宗教団』)

 また札に「六十万人」とした典拠を熊野の証誠殿でつくった偈「六字名号一遍法 十界依正(えしょう)一遍体 万行離念(まんぎょうりねん)一遍証 人中上々妙好華(みょうこうげ)」にあるとしてこう解説する。

 <六字の名号は、あらゆるすべての仏の教えをおさめた、絶対の教えであり(六字名号一遍法)、現世に生きとし生けるものすべてが、善悪邪正もろともに、この名号の徳に照らされたとき、その身は本体と同一になるのだ(十界依正一遍体)。しかも、すべての修業は名号のなかにつつまれているのであるから、おのれのはからいをすて、名号さえとなえれば絶対不二の悟りを得ることができる(万行離念一遍証)。このようにして名号をとなえ悟りを得た人こそ、人間のなかの上上人であり、泥中から咲きでた清浄な白い蓮華の花のような、りっぱな心をもった人だといえる(人中上々妙好華)。>

 この偈を感得して房号を“一遍”と改め、賦算の旅に出ることになったという。

 「実物の念仏札」:http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/4718/kyozai/jishuu.html


 “一遍上人”の事業で特筆されることは、法然、親鸞に限らず、鎌倉仏教当時の布教域は一定の地域に限られていたのを、南は九州、中国、四国、北は関東、東北地域まで広範囲にわたっていることである。弘安2年(1279)9月頃、長野・善光寺を訪ね、その折、承久の乱で朝廷側についた“一遍”の叔父通末(みちすえ)の流謫地(るたくち)だった佐久郡伴野で、“空也上人”の先例にならって「踊り念仏」をはじめている。このとき修した踊り念仏が先例となり、「一期の行儀」となったらしいが、国宝の『一遍聖絵』巻8にはその図があるらしい。

 <『聖絵』によれば、このとき聖は縁側に立ち、食器の鉢をたたきながら音頭をとったらしく、前庭には十数人の道俗が、念仏房ともう一人の僧を囲んで、はだしで踊っている。食器を鉦(かね)に見立てているところをみると、あたかも今はじまったのだといった感じがする。…
 祖先のみたまをなぐさめる踊りは、昔から民俗行事として行われていた。その踊りに念仏がむすびついたのが踊り念仏であり、当初踊り念仏にはこれという決まった形式はなかった。念仏をとなえながら踊りさえすればよかった。念仏しながら踊ったとき、そこにエクスタシーが生まれた。成仏はおろか往生すら、民衆には認められていなかった当時、阿弥陀仏を念じ、念仏申す者は極楽浄土に往生できるといわれたときの喜びは、いかばかりであったろうか。…>(『一遍と時宗教団』)

 “一遍”の遊行教化の成果は著しいものがあったという。弟子の聖戒(一遍の弟)は「およそ16年があいだ目録にゐる人数25億1724人なり、其余の結縁衆は齢須もかそへがたく竹帛(注:書物)もしるしがたきものなり」(『聖絵』第三)と記しているといい、中村敬三は、

 <それは、一遍が「捨てこそ」といってすべてを捨て、徹底した強い信念にもとづいて精力的に教化活動を行った成果であったといえよう。
 すなわち、一遍の教化は、全国をまたにかけて遊行するひたむきな姿勢と、だれでも浄土に往生できると約束する賦算を手だてとしたこと、極楽往生を約束された喜びを、すなおに表現し、踊り念仏を行ずることによって人々と一体となったこと、また、多くの人々の信仰を集めているその地その地の一の宮神社に参詣し、民俗信仰との結びつきによって庶民と結びついていったことなど、一遍が独自の教化方法によって、浄土宗や浄土真宗とは比較にならないほどの勢いで、中世まれにみる大教団に膨れあがった…。>(前出『念仏聖の時代』)

 
 “一遍”の教化活動に威力を発揮した「念仏札」は、南北朝・室町前期に隆盛を誇った親鸞門流・仏光寺教団に、「名帳・絵系図」となって形を変えて出てくる。さらに下って本願寺の蓮如も「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号や「南無阿弥陀仏」の六字名号のお札を門徒に与え教線拡大に利用した。こんにち、神社・仏閣で売られているお札やおみくじも「念仏札」の異種とみてよさそうである。

 伊予国きっての豪族(水軍)の子として生まれながら、「承久の変(後鳥羽上皇と幕府方との闘い)」で朝廷側についた一族が、朝廷側の敗北で所領は没収、祖父等はことごとく流罪の身となった。父通広(みちひろ)は出家して難を逃れたが、“一遍”は10歳の時母と死別、まもなく出家させられる。波乱の生涯だった“一遍”が入滅したのは五十一歳。人生五十年の世とは言え、法然の八十歳、親鸞の九十歳に比べるといかにも若い。臨終に近い八月十日の朝について弟子の聖戒(弟)は書き残している。

 <もち給へる経少々書写山の寺僧の侍しにわたしたまふ。つねに我化導は一期ばかりぞとのたまひしが、所持の書籍等阿弥陀経をよみて、手からやき給しかば、伝法に人なくして師とともに滅しぬるかとまことにかなしくおぼえしに、一代聖教みなつきて南無阿弥陀仏になりはてぬ」(『聖絵』第十一)>

 「化導」(衆生を教化して導くこと)は自分一代限りだといい、持っている経の一部を書写して山の侍僧に託し、他の一切の書籍は『阿弥陀経』を詠んで、自分で焼いてしまったというのである。いま残っている『語録』は、師を慕う人々の記憶によって編まれた貴重なものとされている。

 国宝『一遍上人絵伝 巻七』:http://www.emuseum.jp/cgi/pkihon.cgi?SyoID=1&ID=w052&SubID=s000
 
 

“イノシシ”の出没頻繁になる

2008-08-21 08:52:10 | Weblog
 先日、浄土へ逝かれた“福岡正信”さんから「そんなことをガタガタ言うんじゃない!」と叱られそうだが、またイノシシに畑を荒らされた。去る4日にはサトイモの3分の2ほどを根元から折って、まだイモが入っていないと見たのか掘ってはいなかった。半月ほど経って、雨だったので一日置いた昨日の朝覗いて見たら、元気に成長したササゲ2株の根元を掘り上げていた。多分ミミズを探していたのだろう。1株はすでに萎れかかっていたが、植えもどして水をかけておいた。助かればいいのだが…。

植えもどしたササゲ:

 防除網を張っている奥の畑に行って見たらトウキビが全滅。今年は遅い植え替えで出来が悪かったが、二日前に10本ほど収穫してまだ20本は残っていただろう。イノシシは食べ頃というのをどうしてわかるのか、まことに不思議である。

食い倒されたトウキビ:

 今回は残っていたサトイモや落花生は襲っていない。侵入路も前回とは違って、本家が張っている電柵のそばを通って侵入した。

防除網の杭を倒して侵入:

 地主のおばさんに報告したら、「本家はサツマイモをやられたとよ」と言う。道路下の畑のことで、ここにも電柵は張っているが、イノシシが出るのは大抵夜間だから、昼間は電気を入れていなかったらしい。ところが昼間、通電していない電柵を越えてサツマイモ畑を荒らしているのだ。「敵もさるもの引っ掻くもの」である。侵入路には材木で杭を作って打ち込んでおいたが、これも気休めに過ぎないだろう。「人の髪の毛がイノシシ除けにいい」と田舎の同級生から聞いたから、知り合いの床屋から髪の毛を貰って、小さなネットに入れてあちこちにぶら下げていたが、何の役にも立たなかった。雨が降れば必ずやって来る。当分はイノシシに悩まされることだろう。

「自然農法」の提唱者 “福岡正信”さん逝く

2008-08-19 11:08:05 | Weblog
 去る16日、「自然農法」の提唱者“福岡正信”さんが95歳の天寿を全うされた。
 『わら一本の革命』という著書を読んだのは、たしか20数年前だったと記憶するが、かねて人体の「自然治癒力」を重視する東洋医学に関心を抱き、さらに熊本の菊池養生園診療所院長・竹熊宣孝先生の「食養生」などに触発されていたので、“福岡正信”さんの「自然農法」はすんなり胃の腑に落ちた感じがあった。

 それにしても当時でも、“福岡正信”さんは「奇人」の部類にあったのではなかろうか。その思想は現代文明の完全否定、なかんずく現代農法への挑戦とも受け取れたからである。しかし、地球規模で進む著しい環境の劣化を前にすると、どうやら“福岡正信”さんの理論に軍杯が上がりそうである。以下の話を参考にしてみて欲しい。

 
 <…実は先日放送されたNHKのテレビ(心の時代)ではちょうどこの辺りに座ってお話したんですが、なぜNHKがあえてここの影像を収録したかといいますと、十三年前に『大法輪』という雑誌に載った写真と現在の様子が全く違っていたからなんですね。
 つまり十三年前の『大法輪』に掲載された写真は「まるで広野の一軒屋」だったのに、いまはご覧のとおり「まるでジャングルそのもの」でしょ(笑)。わずか十三年の間にこんなに様相が変わってしまったということに、つまりMHKは興味を持ったということでしょうね。

 実際に十三年前のその写真を見れば信じていただけると思いますが、ぼくがこの山に入った当時、この辺りは雑木さえ育たないような不毛の土地だったんです。土は固い赤土でしたから、一本のミカンの苗木を植えるのにダイナマイトを使って穴を開けるしかなかった。それも、二本のダイナマイトを爆発させてやっと小さな穴ができるほど土が固かった。そんなわけで、この山は農園にすることなんてとても考えられないひどい土地だったんです。それが、わずか十三年の間にこんなにも変わってしまった。砂漠同然の山が、いまではまるでジャングルのように変身してしまったんですよ。…>

 どうしてこんなに変化したか、詳しくは次のリンクをどうぞ。

 「自然農法=福岡翁のメッセージ」:http://www.creative.co.jp/space/nature/farm/

 ここにでてくる話で、実際に野菜づくりをしていてひどく同感することがあるので抜粋しておく。

 <…よく害虫で畑や山林が全滅したなどといった話を聞きますが、害虫や病原菌というのは植物の寿命がきて、80%は枯れてもいい時にやってくるものなんじゃないでしょうか。
 つまり害虫がついた作物に被害が出るというんじゃなくて、実はもう弱りきって死期が近づいているからこそ害虫が発生してくるともいえるわけです。
 だから害虫というのは決して作物に被害を与える「原因」ではなく、むしろ「結果」であって、植物の健康度を教えてくれる存在であるのかもしれないんです。
 もっとわかりやすくいえば、自然から死ねと申し渡された時に害虫がきて片づけてくれる(笑)。…>

 “福岡”さんのおっしゃるとおりで、元気な野菜には虫がつかない。このことは私たちの『大地といのちの会』吉田俊道代表がつねに指摘していることで、無農薬、化学肥料無しの、いかに元気な野菜を作るかが会の目的でもあるのだ。つまり『大地といのちの会』の源流は“福岡正信”さんにあると言っても言い過ぎではない。今日の『西日本新聞』佐世保版によれば、『「宝物」の雑草 堆肥に』という見出しで、道路沿いで刈り取った雑草約十トンを貰い受け、『大地の会』の実験農場に運んで米ぬかや油かす、水などを混ぜ込んで発酵させ、半年後には約三トンの堆肥を作るという記事が出ている。『大地の会』の野菜づくりの基本を実践することで、ごみの減量化にもつながるとして注目されているわけだ。


 “福岡正信”さんの偉大な点は、凡人には到底及びもつかないその「自然観」にあった。どこか“老子”の「道観」を思わせる独自の思想は、たぐいまれな「実践力」で人々を圧倒した。食糧危機が叫ばれているこんにち、農協主流のわが国農政や関連企業は、「福岡流」の農作を決して容認しようとはしない。これを認めれば、農薬・化学肥料や高価な農機具の需要が激減し、自分たちの権益を失うからであろう。金にならないことはやらないのが「役所」なのだ。

 “福岡正信”さんが最後に出演したNHK「心の時代」の影像をリンクしておくのでぜひご覧いただきたい。「奇人」か「天才」かがよくわかる。

 「福岡正信 粘土団子 世界の旅」:http://u50urawa.hp.infoseek.co.jp/

“法然”と“明恵”~聖道門か浄土門か?

2008-08-17 22:26:02 | Weblog
 “明恵上人”の人となりについては前にも概要ふれたが、釈迦への異常な思慕、華厳思想の主体とされる「海印三昧(かいいんざんまい)」(一切の事物が映し出される、静かに動じない仏の心)への執注など、終生厳しい修行を続けたことでも知られ、町田宗凰は「比丘(びく)という言葉には、インド仏教以来の戒律を守る人という厳粛な意味が含まれているが、その資格を満たすのは、ひょっとしたら長い日本仏教史の中で、明恵ぐらいかもしれない」(『法然対明恵』/講談社選書メチエ)と言っている。

 一方、“法然上人”も13歳で比叡に入り、厳しい修行を重ね、43歳で浄土宗を立て、66歳の時、九条兼実の求めに応じて著したのが『選択(せんちゃく)本願念仏集』(略称『選択集』)である。この『選択集』を読んで書いたのが“明恵”の『摧邪輪(ざいじゃりん)』(邪(よこし)まな法説を摧(くだ)く)だが、“法然”の何が気に食わなかったのだろうか。“明恵”は『摧邪輪』の冒頭部分でこういっている。

 <…ちかごろ、ある上人がいて一巻の書を著作し、その書を『選択本願念仏集(選択集)』と名づけた。その書は、経典や論書の趣旨を惑わし、多くの人々を欺いている。その書は、極楽へ往生するための実践を宗(むね)としているのだが、かえって往生のための実践を妨げている。…>(責任編集・塚本善隆『日本の名著5・法然』/中央公論社)

 そして、さしあたって大きな邪悪な見解の過失を次の二点にしぼって提出するという。
一、菩提心を捨てる過失
二、聖道門を群賊に譬(たと)える過失

 菩提心とは「悟りを求めようとする心」(『大辞泉』)だが、これは仏法の基本理念とされている。「自力行を捨て、他力本願を“選択”する」“法然上人”は、この「菩提心」を自力行として無視したのだ。持戒僧“明恵”の怒りはもっともである。

 <菩提心は是れ諸善の根本、万行(ばんぎょう)の尊首(そんしゅ)なり。…仏道の種子(しゅじ)なり。…一切諸仏の菩提心を歓発するは、我も菩提心に依りて正覚(しょうがく)を成ずるが故に、衆生も亦た菩提心なくば成仏すべからざるが故なり。>(『摧邪輪』)

 他力本願の念仏を唱導する“法然”に、“明恵”は「菩提心こそが仏法の種(タネ)ではないか」と迫るのだが、町田宗凰は“法然上人”の次の言葉を引いて「ふつう他力本願のカテゴリーに入れられている専修念仏が、きわめて自力的な性格を帯びていた」とみている。

 <念仏に倦(う)き人は、無量の宝を失うべき人なり。念仏に勇みある人は、無辺の悟りを開くべき人なり。(「十二問答」)>

 この言葉から専修念仏に「自力行」のタネをみたのだが、たしかに『選択集』の第八に「念仏の行者は必ず三心をそなえなければならないということを説いた文」とあり、「三心」とは「至誠心(しじょうしん)」「深心(じんしん)」「回向発願心(えこうほつがんしん)」をいい、「この三心をそなえれば、必ず阿弥陀の国に生まれる」と言うのだから、“法然”は必ずしも菩提心を無視してはいなかったようにみえる。実は“明恵”も、この「三心」を菩提心と解釈していたらしいが、口称念仏に絶対の価値をおく“法然”の他力本願では、口称念仏そのものにすでに菩提心は含まれているとみたのだから、“明恵”の立場と明らかに異なる。

 次に“明恵”があげる「聖道門を群賊に譬える過失」だが、これは善導が説いた有名な「二河白道(にがびゃくどう)の譬喩(ひゆ)」が『選択集』で引用されていることによる。「二河白道の譬喩」とは、群賊、毒虫に追われる旅人の行く手に濁流と火焔におおわれた大河が横たわる。その河には幅四、五寸(約15センチ)の白い道があるだけだ。
 群賊に追われた旅人に東の岸から「心を決めてこの道をまっすぐ求めて行け。そこにとどまれば死ぬぞ」と勧める声が聞こえる。また西の岸から「汝、一心に心をかけて、すぐ来たれ。私はよく汝を守ろう」と呼びかける声がする。東岸の声は釈迦、西岸の声は阿弥陀仏とされている。旅人が心を決めてまっすぐ白道を十歩、二十歩進んだころ、東岸の群賊が「汝戻って来い。この道は険悪で渡り切れない。きっと死ぬことになるぞ。われらは悪い心をもって向うつもりはない」と呼ぶ声を聞くが、旅人はそれを振り切って西岸へ行き着き、「永くもろもろの難を離れて、善友あいまみえて慶楽やむことなきが如し」という話である。

 “明恵”はこの「群賊」が自力聖道門(既成の各宗門)に擬せられているとみたわけだ。もっとも“法然”は、『選択集』の冒頭で道綽の『安楽集』を引用して、火宅(迷いの世界)を抜け出す法に聖道門と往生浄土門の二つがあるが、「聖道門では今日の時代に、証得することはむずかしい。その理由は、一つは釈尊がなくなってから、はるかに時代が遠くなっていること、二つには体得すべき教理が深奥であるのに、いまの人は理解する能力があまりにも乏しくなっているからである」と説く。しかし、「華厳経」に立脚する持戒僧の“明恵”は聖道門の否定を許せないのである。

 ここからは寺内大吉説に依拠する。寺内大吉は「『選択集』と『摧邪輪』の字句を取り上げて成否の選別をこころみてもあまり意味がない」といい、華厳思想の復興を目ざし、華厳中興の祖とされる“明恵”の「華厳思想」に注目する。寺内大吉の解説は、仏教史を学ぶ上から貴重である。

 <ところで華厳思想が日本において一気に花開いたのは、天平21年(749)の4月であった。この国華厳宗の発祥たる奈良の東大寺(別称・大華厳寺)に巨大なビルシャナ仏の完成をみた時である。ビルシャナの原意は太陽であって、仏の智慧の広大無辺さと、その光明が遍(あまね)くゆきわたることを意味する。華厳の本尊物である。
 祈願主だった聖武帝は自身を「三宝の奴」と宣命して大仏の前にひれ伏した。
 前述したように、大仏鋳造の過程で財政労務に行き詰まった聖武帝は、これまで罪人視していた行基に大僧正位を贈り、配下の“ひじり”たちの力を借りた。だが大仏が完成した供養法会の折、行基はすでに他界していたが、在野教団のひじりたちは一人として招かれなかった。民衆とは無縁な存在に大仏を位置づけてしまったのだ。
 そればかりか東大寺に“戒壇”を設け、地方行政を司る国分寺の中央拠点とし、総国分寺とも称した。聖武自身は「三宝の奴」であろうが、国民は「天下の奴」となったのである。
 大仏建立の最終過程で全身をおおう金箔が入手できなかった。中国大陸からの輸入も資金難のため見通しが立たなかった。そんな折、奥州で大量の砂金が産出し、奈良へ送り込まれてきた。聖武帝は悦びの絶頂で、古歌を勅して感謝を表明した。その古歌とは、

  海ゆかば水漬(みづ)くかばね
  山ゆかば草むすかばね
  大君の辺(へ)にこそ死なめ
  長閑(のど)には死なじ

 聖武帝の創作ではない。軍事官僚たる大伴氏と佐伯氏の家歌だった。大伴家当主の家持(やかもち)は地方長官で越中に赴任していたが、これを知り感激して長歌を詠んでいる。>(寺内大吉著『法然讃歌』/中公新書)

 “法然”が存命だったら、“明恵”が目ざした華厳思想復興とは、「聖武帝という国権と強く結びついた華厳宗の復興だったのか」と必ず問うただろうと寺内大吉は言っている。

 “法然”と“明恵”の年齢差は40歳、“明恵”が『選択集』を読んだのは“法然”滅後半年が経っていた。貴族政治から武家政治への転換期で、政変・戦乱・飢饉・悪疫など混迷の世に生きた“法然”と比較的平穏な情勢下で自らを律することができた“明恵”。“法然”が「末法思想」にこだわったのも時代背景を抜きに論じられないが、これを全面的に否定する“明恵”の思想が生きた時代と全く無縁だったとも思えない。


 町田宗凰は「日本仏教史における法然の役割は、ちょうどキリスト教におけるM・ルター(1482~1546)と好対照をなす。…既存の宗教的伝統に根本的な懐疑の念を抱き、一つの大きな宗教思想の流れを最初に創りだしたという意味で、“日本のルター”はやはり法然である」といい、加えて「ちなみに、法然がルターなら、自然を愛し、山中で瞑想にふけることを無二の喜びとした明恵は、さしずめアッシジの聖フランチェスコであろう。“小鳥に話しかける”聖フランチェスコには、歴史の流れを変えてしまうほどの組織力はなかったが、彼の高潔人格は今も人々の心を打ちつづけている。明恵もまたしかりである」と東西宗教者を鮮やかに対比して見せる(前出書)。

 いずれにしろ、鎌倉仏教で傑出した二人の宗教者からは学ぶべきことが多い。
  
 

 

「学校では教えないアメリカ帝国のこと」~“ハワード・ジン”の卓論

2008-08-15 08:48:51 | Weblog
 アメリカの政治学者、社会評論家、劇作家として著名な“ハワード・ジン”(1922~)の『帝国か博愛か? 学校では教えてくれなかったアメリカ帝国のこと』と題する小論が目についた。“ハワード・ジン”は「マルクス主義、アナキズム、社会主義の影響を受け、1960年代から公民権運動や反戦運動の分野で活動してきた」(フリー百科事典『ウィキペディア』)という。現在ボストン大学名誉教授で、『民衆のアメリカ史』などの著書で知られている。

 敗戦の日にあたり、「世界秩序の撹乱者・アメリカ」を冷静に見つめ続けるアメリカ政治学者の言葉を収録しておく。誰の言葉か失念したが、“奪って益なく、譲って損なし”という。“ハワード・ジン”の思想の背景には、こんな格言が潜んでいるように思われる。世界の指導者たちに送りたい言葉である。


 『帝国か、博愛か? 学校では教えてくれなかったアメリカ帝国のこと』

 <占領軍がイラクとアフガニスタンで戦争を遂行し、世界のあらゆる部分で、軍事基地や企業が威圧している現在、アメリカ帝国主義の存在についての疑問など、ほとんど存在していません。確かに、かつては懸命に否定していた考え方は、高慢にも、外聞をはばからずに受け入れられるものとなったのです。

 けれども、アメリカ合衆国が帝国なのだという発想は、第二次世界大戦で、第8空軍の爆撃手としての兵役を終えて、帰国するまでは、全く思いつきませんでした。広島や長崎でぞっとさせられて、自分自身のヨーロッパ都市爆撃という「良い戦争」のけがれのなさについて見直し始めた後でさえ、そうしたものを、まとめてアメリカ「帝国」という文脈でとらえることが依然としてできませんでした。

 皆と同様、イギリス帝国やヨーロッパの他の帝国主義大国のことは知っていましたが、アメリカ合衆国も同じものだとは見てはいませんでした。戦後、復員軍人援護法のおかげで大学に行き、アメリカ史の授業を受けましたが、歴史の教科書には、「帝国主義の時代」という章がありましたが、その章は、きまって1898年の米西戦争と、その後のフィリピン征服について触れていました。アメリカ帝国主義は、わずか数年しか続かなかったように思えました。より広範囲な帝国、あるいは「帝国主義」時代、という考え方にまで到達するような、アメリカの拡張に対する包括的な見方というものはありませんでした。

 大陸を横切って進む行進を、自然で、ほとんど生物学的現象であるかのように表現している、教室にあった(「西部開拓」という題の)地図を思い出します。「ルイジアナ購入」と呼ばれる、広大な土地の買収の表現には、空閑地を購入したようなニュアンスしかありません。この領土には、何百ものインディアン部族が居住しており、今で言う「民族浄化」によって、彼らは殲滅させられるか、家から追い出されるかし、白人がそこに定住し、やがて「文明化」や、残忍な不愉快さを予感させる鉄道が行き来する、というような観念は皆無なのです。

 歴史の授業での「ジャクソン・デモクラシー」に関する討論も、アーサー・シュレジンガーJr.が書いた『ジャクソン時代』という人気のあった本も、「5つの礼儀正しい部族」に、ジョージアやアラバマからミシシッピを越え、西方への死の行進を強いて、その途中で4,000人が亡くなった「涙の道」については教えてくれませんでした。南北戦争についての論述で、リンカーン政権が黒人に対して宣言した「奴隷解放」を描いているのと同じ様に、コロラド、サンド・クリークにおける何百人ものインディアン住民の虐殺を記述しているものは皆無です。

 あの教室の地図には、南と西方には「メキシコ領割譲」と題する部分もありました。アメリカ合衆国が、メキシコの土地の半分を奪い、カリフォルニアと偉大なる南西部を入手した1846年のメキシコに対する侵略戦争にとって、これは重宝な湾曲表現です。当時使われていた言葉「明白な運命(Manifest Destiny)」は、まもなく、もちろん、はるかに普遍的なものとなりました。1898年の米西戦争の直前、ワシントン・ポストは、キューバの先を見通していました。「我々は奇妙な運命と向き合っている。ジャングルの中では、口の中で血の味がするように、国民の口の中では、帝国の味がしている。」

 大陸を横切る暴力的な行進、さらにはキューバ侵略さえもが、アメリカの利害として、本来の領土のことであるように見えました。結局、1823年のモンロー主義は、西半球はアメリカの保護の下にあるのだと宣言したのではなかったのでしょうか? しかし、キューバ侵略の後、ほとんど休む間もなく、地球の裏側でフィリピン侵略がおきたのです。「帝国主義」という言葉が、今やアメリカの行動にぴったりのように思えました。事実、この長い、残酷な戦争は、歴史の本では、手短に上っ面しか扱われていませんが、これによって反帝国主義者同盟が生れ、そこでウイリアム・ジェームズやマーク・トォエインは、中心人物となりました。けれど、これも大学では学べなかったことの一つです。

●『唯一の超大国』出現

 それでも、教室外で読書することで、歴史の断片から、大きな寄木細工を組み立て始めたのです。最初、全く受身の海外政策のように思えていた第一次世界大戦に至るまでの十年間が、今度は暴力的な介入の連続に見えてきました。コロンビアからの、パナマ運河地帯の奪取、海軍によるメキシコ沿岸砲撃、ほとんどの中米諸国への海兵隊派兵、ハイチやドミニカ共和国に派遣された占領軍。こうした介入の多くに参加した、数々の勲章を持つスメドレー・バトラー将軍が、後に書いています。「私は、ウオール街の使い走りだった。」

 第二次世界大戦以後の日々、私が歴史を学んでいた、まさにこの時期、アメリカ合衆国は、単なるもう一つの帝国主義大国ではなく、世界有数の超大国でした。核兵器の独占を維持、拡大すると決心し、アメリカは太平洋の孤島を占拠し、住民に退去を強い、島々を更なる原爆実験用の地獄のような施設に変えて行きました。

 回顧録『避難場所無し(No Place to Hide)』の中で、そうした実験で放射線を監視したDavid.ブラッドリー医師は、実験チームが帰国した後に残されたものについて書いています。「放射線、汚染、破壊されたビキニの島々と、島を追われた、悲しげな目をした我慢強い人々。」太平洋での実験の後、長年にわたり、ユタやネバダの砂漠での更なる実験が続き、合計千回以上の実験が行われました。

 朝鮮戦争が1950年に始まった時、私はコロンビア大学の大学院生として歴史を研究していました。大学の授業は、どれ一つとしてアメリカのアジア政策理解に役立ちませんでした。けれども私は、I.F.ストーンの「ウィークリー」を読んでいました。ストーンは、朝鮮への派兵に関する、政府による正当化に疑問を呈した数少ないジャーナリストの一人でした。当時、アメリカの介入を促した原因は、北朝鮮による韓国への侵略ということよりも、特に共産主義者が中国で権力を握っている以上は、アジア大陸に確固とした足場が欲しいというアメリカ合衆国の願望であることが明白であるように思えたのです。

 何年も後に、ベトナムへの秘密介入は、大規模で暴虐な軍事作戦へと化し、アメリカ合衆国の帝国主義的設計は、私には一層明らかになりました。1967年に、私は「ベトナム:撤退の論理」という小さな本を書きました。その頃には、私は反戦運動に深く関与していました。

 ダニエル・エルズバーグが私に預けたペンタゴン・ペーパーを何百ページも読んだ時に、私の目に飛び込んできたのは、国家安全保障会議の秘密メモでした。東南アジアにおける、アメリカの利害関係を説明しながら、アメリカの動機は、「すず、ゴム、石油」の探索だったとあからさまに語っていたのです。

 米墨戦争での兵士の脱走、南北戦争時の徴兵暴動、世紀の変わり目の反帝国主義運動、第一次世界大戦に対する強い反対等々を含め、実際、アメリカ史上、ベトナム戦争反対運動の規模に達した反戦運動は皆無です。少なくとも、あの反対運動の一部は、ベトナム以上のものが危機にさらされているのだ、あの小さな国における暴虐な戦争は、より大規模な帝国設計の一部なのだ、という理解に基づいていました。

 アメリカのベトナム戦争敗北に続く様々な介入は、依然君臨している超大国が、強力なライバルのソ連が崩壊した後でさえ、至る所で支配的な立場を確保しようとする死に物狂いの欲求の反映であるように思えました。そこで、1982年のグレナダ侵略、1989年のパナマ爆撃攻撃、1991年の第一次湾岸戦争というわけです。サダム・フセインがクウェートを占領したことに、父親ジョージ・ブッシュは心を痛めたのでしょうか、それとも、彼はあの出来事を、喉から手がでるほど欲しい中東の油田地帯に、アメリカの権力をしっかりと打ち込む好機として利用したのでしょうか? フランクリン・ルーズベルトの、1945年のサウジアラビアのアブドゥル・アジズ王との取引や、CIAによる1953年のイランの民主的なモサデク政府の転覆にまでさかのぼる、アメリカ合衆国の歴史、中東の石油に対する執念を考えれば、この疑問を判断するのは難しいことではありません。

●帝国の正当化

 9月11日の冷酷な攻撃は(公式の9/11委員会が認めている通り)中東や他の地域におけるアメリカの拡張に対する、強烈な憎悪から生まれました。あの出来事の前ですら、チャルマーズ・ジョンソンの著書『アメリカ帝国の悲劇』によれば、国防省はアメリカ合衆国国外に、700以上のアメリカ軍事基地があることを認めていました。

 あの日以来、「対テロ戦争」が始まり、更に多くの基地が建設されたり、拡張されたりしてきました。キルギスタン、アフガニスタン、カタールの砂漠、オマーン湾、アフリカの角、そしてどこであれ賄賂を使ったり、強要したりすれば言いなりになる国々に。

 第二次世界大戦で、ドイツ、ハンガリー、チェコスロバキアや、フランスの都市を爆撃していたとき、道徳的に正当化するのは、議論の余地がない程単純明快でした。我々はファシズムの悪から世界を救っているのです。ですから、別のクルーの射撃手が、彼と私の共通点はお互い本をよく読むことでしたが、彼が、これは「帝国主義の戦争」だというのを聞いて大変に驚きました。いずれの側も、支配し征服するという野望に動機づけられているのだと彼は言ったのです。議論をしましたが解決はしませんでした。皮肉にも、悲劇的なことに、我々が議論をしてから間もなく、この戦友は撃墜され戦死しました。

 戦争では、兵士たちの動機と、彼らを戦場に派兵する政治指導者の動機との間には、かならず違いがあるものです。私の動機は、他の多くの兵士たちと同様、帝国主義的野望とは無縁でした。ファシズム打倒を押し進め、侵略や、軍国主義や、人種差別のない、よりまともな世界を生み出したいというものでした。

 アメリカ支配層の動機は、私の知り合いの航空射撃手が理解していたように、性格が異なっています。1941年という早い時期に、タイム、ライフ及びフォーチュン誌のオーナーで大富豪のヘンリー・ルースが、「アメリカの世紀」の到来として、それを描き出していました。彼は言ったのです。「アメリカ合衆国が、アメリカが適切と考える目的のために、アメリカが適切と考える手段によって、世界に対し、我々のあらゆる影響力を行使するべき時が到来した。」

 これ以上率直で無遠慮な、帝国主義政策の宣言を期待することはまず不可能です。近年、ブッシュ政権の知的侍女たちが、これを繰り返していますが、この「影響」の動機に悪意はなく、「目的」は、ルース風の処方であれ、あるいは、より今時の物であれ、高貴なもので、しかもこれは「本格派ではない帝国主義」だ、という保証まで付けています。ジョージ・ブッシュは二期目の就任演説で言いました。「世界に自由を広めることこそ…現代の使命です。」ニューヨーク・タイムズは、この演説を「理想主義が際立っている」と評しました。

 アメリカ帝国というものは、常に超党派プロジェクトであり続けています。民主党と共和党は、交互にそれを拡張し、称賛し、正当化してきました。1914年(彼がメキシコを爆撃した年)、ウッドロー・ウィルソン大統領は、海軍兵学校卒業生に、アメリカは「海軍と陸軍を…侵略の道具ではなく、文明化の道具として使ってきたのです。」と語りました。そして、ビル・クリントンは、1992年、陸軍士官学校卒業生に語りました。「諸君が学んだ価値観は、アメリカ中に、世界中に広げることが可能です。」

 アメリカ合衆国の人々にとって、そして実際、世界中の人々にとって、こうした主張は、遅かれ早かれ、嘘であることがばれるものです。最初耳にした時には、説得力がありそうに聞こえる論理も、もはや隠すべくもない恐怖によって、あっという間に圧倒されます。イラク人の血まみれの死体、アメリカ兵士のちぎれた手足、中東で、そしてミシシッピの三角州で、自宅から追い出される何百万もの家族。

 いわく、戦争は安全保障のために必要である、いわく、拡張は文明に必須である、という、アメリカ文化の中に埋め込まれた、私たちの良識を攻撃する帝国の正当化は、私たちの心に対する影響力を失い始めたのではないでしょうか? 世界の中に、アメリカの軍事力ではなく、博愛を広めるという、新しい暮らし方を受け入れる用意ができるような、歴史上の地点に、私たちは到達したのでしょうか?>

 
 『マスコミに載らない海外記事』:http://eigokiji.justblog.jp/blog/2008/08/post-e980.html

『陰陽五行説』から読み解く“お盆”

2008-08-13 11:44:52 | Weblog
 わが国では年二回、「民族大移動」現象が見られる。言うまでもなく「盆と正月」で、目出度いことがあれば「盆と正月が一緒に来た」などという。民族学者・吉野裕子(1916~2008.4.18)さんの“陰陽五行説”はたびたび取り上げてきたが、“お盆”に関しても独自の見解を披露している。

 日本の歳時習俗でもっとも重んじられてきたのが「正月と盆」といい、「正月」は祖霊や歳神を迎える“神祭り”、「盆」は祖霊を迎える“仏事”と解釈する。そして、正月神事と盆仏事を“陰陽五行”の視点から次のように解明している。

 正月は1月、盆は7月、十二支でみれば「寅」と「申」で、四季循環軸上では対極に位置する。これを“陰陽五行”でみれば次の三種の対立関係を導く。
(1)方局による対立
   寅  木気(春)の始  向陽
   申  金気(秋)の始  向陰
(2)三合による対立
   寅  火気(夏)の始  陽始
   申  水気(冬)の始  陰始
(3)『易』卦にみる対立
   寅  地天泰
   申  天地否

●木気・火気の始め、陽始の寅を正月として祀れば、それに対して、
●金気・水気の始め、陰始の申も同等の礼をもって祀る。

 “陰陽五行”の解説書である中国の『五行大義』にも、「寅、陽始トナシ、申、陰始トナス」とあるが、わが国の「正月と盆」の歳時習俗は、中国由来の一種の「宇宙循環論」である“陰陽五行説”から読み解けば、古来廃れることなく続く年中行事の謎も解けるというのが「吉野説」である。


 この“お盆”行事はいつ頃から始まったかについて吉野さんは次のように書いている。

 <『斉明紀』3年(657)秋7月15日条。
 「須弥山ノ像(カタ)ヲ飛鳥寺ノ西ニ作リ、且盂蘭盆会(ウラボンエ)ヲ設ク。」
 同 5年秋7月15日条。
 「群臣ニ詔シテ京内ノ諸寺ニ於テ盂蘭盆経ヲ勤講シテ七世、父母ノメグミニ報ゼシム。」
とみえ、また聖武天皇天平5年(733)7月には、
 「始メテ大膳職ヲシテ盂蘭盆ノ供養ヲ修セシム。」
の記事がある。これらは今から約1300年から1250年前のことであって日本における盆の起源は極めて古く、また明らかに仏教行事であることを示している。

 『盂蘭盆経』に説かれているところは、
 「仏弟子の目連が、その亡母の餓鬼道における倒懸(さかさずり)の苦しみを悲傷したとき、釈尊が、7月15日に七世の父母に百味の飲食を供養し併せて衆僧にも供養するがよい、と訓(さと)された。」
というものである。ウラボンというのが、この倒懸(さかさずり)の音訳ということはひろく知られていることである。>(以上吉野裕子著『陰陽五行と日本の民俗』/人文書院から)

 参考までに『盂蘭盆経』(http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/urabonnkyou.htm)をリンクしておく。

 暑い日差しの中で墓掃除を終え、「祖霊祭」としての先祖供養を行う。この時期は坊主の稼ぎ時でもあって、彼らは形ばかりのお経を読んで飛び回る。そんな坊主たちから『盂蘭盆経』の話などを耳にした人が、いったい、どのくらいいることやら……。