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日常の断片

「考えること」と「発想すること」

2017-09-07 18:29:47 | 愚考
日本企業は、けっこう苦しんでいるらしい。

うちもご多分に漏れず、年々縮小していく市場に慄きながら、
少しでも食い扶持を稼ごうと「新しいことを考えろ!生み出せ!」ということで。

特に、私のように研究部署に居る者は、新しく何かを始めることが仕事のような
ものなので、「考えろ」「生み出せ」という命令を耳にすることが多い。

で、ブレストだの、アイデア出しだのと言った催しが頻繁に開かれ、
突拍子も無い、脈絡もない思いつきがポンポンと生み出されては消えていく。

成果は残らず、疲ればかりが残る。
どうも、組織として良くないスパイラルに陥っているように思う。

ここは一つ、そもそも「考える」とは、「生み出す」とは、
どういうことなんだろうか、と立ち止まる時期なのではないか、
という気がしてくる。

そもそも、実行しようとしていることがどういうものなのかを知らないのに、
実行することは出来ない、というのが道理だと思うのだが。

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考えるというのは「当たり前を積み重ねること」ではないかと思っている。
1+1が2で、2+3が5で、という風に、論理から外れずに道を進むことが、
「考える」ということだと思う。

一方で、「アイデアを出す」「発想する」というのは何だろう。

それは、「異なる分野の常識を借りて考える」ということではないか、と思っている。
結局は「考える」ということなのだが。


例えば。
音楽の分野で新しい作曲法を発想するのに、数学の知識・常識を導入してみるとか、
新しいウェディングケーキの形を発想するのに、建築の知識・常識を入れてみるとか。
異なる分野からの「論理」を入れた上で、やはり「当たり前を積み重ねていく」ことが、
「発想する」ということではないか、と思う。

世にいう、融合だとか、クロスオーバーというのは、
恐らくこの辺りのことを言っているのではないか、という気がする。

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下手な鉄砲は数を打っても当たらないのが最近の世の中ならば、
やはり「考える」しかない、というのが最近の結論、、、というか覚悟でもある。

むやみに当てずっぽうをしないで、論理的に考えるということの“ムダの無さ”を
もっと皆で大事にして良いのでは、と感じながら、
またブレストに呼ばれて、やはり徒労に終わる日々を送っている。

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