疲れてるねと言われて、そうか疲れてるのか、と気づく程度には、
気が張っている昨今。
どうも仕事が途切れず、気持ちも強張ったままだ。
マジメというか不器用な質で、ひとつのことに捕らわれていると、
他のことに気が回らない。
むかし、まだ働き出す前に
「あなた、仕事人間になるよ」と言われたのを今さらながら思い出す。
そういうつもりは無いのだけれど、
気付けば頭のなかには仕事のことがグルグル。
それが良いことか悪いことなのか。
------------------------------------------------------------------------
いずれにせよ、今年度に入って、仕事に対する考え方が変わった。
変わらざるを得ない状況に追い込まれた。
1年がかりの研修を受けているのだけど、
この、実践を伴う教育は「思想の叩き込み」に近い。
経済学の本を沢山読まされていく。
これがまた、(私には)不幸なことに面白い。
本を読み込み、咀嚼して、戦略を立てて、
どうやったら商品が売れるのか、お客さんに刺さるのか、そんなことを考える。
お客さんに聞きに行く。また考える。これが延々と続く。
「アレ、僕って研究者じゃなかったっけ?」
そんな疑問が頭を過ぎるけど、研修の前では風に吹かれる灰のごとく。
この研修、本当に大変で、かなり理不尽な働き方を強いられている思う。
そんな理不尽な扱いを受けていても、
「これが正しい」と信じてしまえば、
なんとなくそれで良いという気がしてしまう。
論が通ってしまえば、無理でも納得してしまう理屈屋の性だ。
この研修は、兵士の育成に似ている。
僕が一番キラいな「体育会系の精神」だ。
オエッ。
------------------------------------------------------------------------
ところで、経済学なんて言うのは、哲学なんかに比べると、
だいぶ下に見ていたというのが正直なところ。
実際にある世界を、モデルに当てはめて、便利なフレームワークに落としこむ経済学が、
そもそも世界がなぜ在るのかを根っこから考える哲学より面白いはずが無いと、
そう思っていたわけだけど。
経済学もなかなか面白いと気付かされたのが、ここつい2ヶ月ほどのこと。
なぜ面白いと気づいたか。
そのキッカケは、経済や社会や会社などというものが、
やはり人の考えの中にしか無いと気づいたことによる。
つまり、つい先ほど言った「実際にある世界」というのが、
実は「考え」であることに気づいたということ。
誰が、その掌の中に、「経済」や「社会」や「会社」を持つことができるだろう。
そういう物理的な存在としては、これらは存在しない。
あくまでそれらは、概念で、考えで、
人々の頭のなかで、存在すると「信じられて」いるものだ。
とすれば、古典とされるような経済学、今も常に人々に参照される経済学の考えというものは、
単なる考えではありえない、ということになる。
例えば、マイケル・ポーターのファイブフォースやバリューチェーンは、
当時の人達に大きなインパクトを与えた。
あの本を読んで感動した人たちは、
経済とはまさに、この通りの構造をしている!と思っただろう。
でも、そもそも事業や戦略などというものも、人の頭の中に在る「考え」だった。
ならば、時代を席巻する経済学こそが、経済そのものになってしまうのではないか。
この、学と現実の関係があるからこそ、その経済学を知ることが面白さになる。
現実が確かにその通りである、と感じさせる経済学は、
人が学ぶからこそ、より現実になっていく。
これが、僕が気づいた面白さだ。
人の考えが経済を産み、その経済学がまた人の考えを変える。
僕らはそんなマッチポンプの中にいるということになる。
------------------------------------------------------------------------
とは言っても。
生きるための経済なのか、
経済のために生きているのか。
この問いには経済学も、資本社会も答えない。
だけど、ここを考えないことには、おかしなことになる。
例えば、ブラック企業。
この言葉が定着してから久しい。
なぜあんな企業が出てくるのか。
生きるために働いているはずなのに、働くのが辛くて死んでしまう人が出る企業。
これは一体何なのか。
結局、その企業は、なりふり構わず成長し、存続するためだけに存在しているんだろう。
望むか望まないかに関わらず、ブラック企業はそのように自身を定義する傾向があると思う。
そんな無目的な存在理由のために、そこで働く人は、働くために生きてしまって、
実は生きるために働いていたんだということを、うっかり忘れてしまうのだと思う。
そうは言ってみたものの。
「生きるために働く」
これはこれで分からない言葉だ。
その理由は、何を以って「生きる」なのか、ここがよく分からないからだ。
結局はここに辿り着く。
「そんなこと考えてたらマトモに生きていけないよ」
と言われるかも知れないが。
その「生きていく」ことの何たるかを問うわけだから、
「生きる」の枠組みの中にいては考えられるはずもないのは道理だ。
経済学の面白さも、ここまでは届かないようだ。
「生きる」ということが何なのかもわからないのに、
「生きるため」に行う経済活動や、そこで勝つための戦略にかまけるの?
そんな声がどこからか聞こえてくる。
この声を、いつも手放さないようにしなければ、
いつしか本末転倒に陥る。
本末転倒に常に陥らない人というのが実は意外に少ないのだと、
反省しないと気付けないのが、歯がゆいところではあるが。
気が張っている昨今。
どうも仕事が途切れず、気持ちも強張ったままだ。
マジメというか不器用な質で、ひとつのことに捕らわれていると、
他のことに気が回らない。
むかし、まだ働き出す前に
「あなた、仕事人間になるよ」と言われたのを今さらながら思い出す。
そういうつもりは無いのだけれど、
気付けば頭のなかには仕事のことがグルグル。
それが良いことか悪いことなのか。
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いずれにせよ、今年度に入って、仕事に対する考え方が変わった。
変わらざるを得ない状況に追い込まれた。
1年がかりの研修を受けているのだけど、
この、実践を伴う教育は「思想の叩き込み」に近い。
経済学の本を沢山読まされていく。
これがまた、(私には)不幸なことに面白い。
本を読み込み、咀嚼して、戦略を立てて、
どうやったら商品が売れるのか、お客さんに刺さるのか、そんなことを考える。
お客さんに聞きに行く。また考える。これが延々と続く。
「アレ、僕って研究者じゃなかったっけ?」
そんな疑問が頭を過ぎるけど、研修の前では風に吹かれる灰のごとく。
この研修、本当に大変で、かなり理不尽な働き方を強いられている思う。
そんな理不尽な扱いを受けていても、
「これが正しい」と信じてしまえば、
なんとなくそれで良いという気がしてしまう。
論が通ってしまえば、無理でも納得してしまう理屈屋の性だ。
この研修は、兵士の育成に似ている。
僕が一番キラいな「体育会系の精神」だ。
オエッ。
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ところで、経済学なんて言うのは、哲学なんかに比べると、
だいぶ下に見ていたというのが正直なところ。
実際にある世界を、モデルに当てはめて、便利なフレームワークに落としこむ経済学が、
そもそも世界がなぜ在るのかを根っこから考える哲学より面白いはずが無いと、
そう思っていたわけだけど。
経済学もなかなか面白いと気付かされたのが、ここつい2ヶ月ほどのこと。
なぜ面白いと気づいたか。
そのキッカケは、経済や社会や会社などというものが、
やはり人の考えの中にしか無いと気づいたことによる。
つまり、つい先ほど言った「実際にある世界」というのが、
実は「考え」であることに気づいたということ。
誰が、その掌の中に、「経済」や「社会」や「会社」を持つことができるだろう。
そういう物理的な存在としては、これらは存在しない。
あくまでそれらは、概念で、考えで、
人々の頭のなかで、存在すると「信じられて」いるものだ。
とすれば、古典とされるような経済学、今も常に人々に参照される経済学の考えというものは、
単なる考えではありえない、ということになる。
例えば、マイケル・ポーターのファイブフォースやバリューチェーンは、
当時の人達に大きなインパクトを与えた。
あの本を読んで感動した人たちは、
経済とはまさに、この通りの構造をしている!と思っただろう。
でも、そもそも事業や戦略などというものも、人の頭の中に在る「考え」だった。
ならば、時代を席巻する経済学こそが、経済そのものになってしまうのではないか。
この、学と現実の関係があるからこそ、その経済学を知ることが面白さになる。
現実が確かにその通りである、と感じさせる経済学は、
人が学ぶからこそ、より現実になっていく。
これが、僕が気づいた面白さだ。
人の考えが経済を産み、その経済学がまた人の考えを変える。
僕らはそんなマッチポンプの中にいるということになる。
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とは言っても。
生きるための経済なのか、
経済のために生きているのか。
この問いには経済学も、資本社会も答えない。
だけど、ここを考えないことには、おかしなことになる。
例えば、ブラック企業。
この言葉が定着してから久しい。
なぜあんな企業が出てくるのか。
生きるために働いているはずなのに、働くのが辛くて死んでしまう人が出る企業。
これは一体何なのか。
結局、その企業は、なりふり構わず成長し、存続するためだけに存在しているんだろう。
望むか望まないかに関わらず、ブラック企業はそのように自身を定義する傾向があると思う。
そんな無目的な存在理由のために、そこで働く人は、働くために生きてしまって、
実は生きるために働いていたんだということを、うっかり忘れてしまうのだと思う。
そうは言ってみたものの。
「生きるために働く」
これはこれで分からない言葉だ。
その理由は、何を以って「生きる」なのか、ここがよく分からないからだ。
結局はここに辿り着く。
「そんなこと考えてたらマトモに生きていけないよ」
と言われるかも知れないが。
その「生きていく」ことの何たるかを問うわけだから、
「生きる」の枠組みの中にいては考えられるはずもないのは道理だ。
経済学の面白さも、ここまでは届かないようだ。
「生きる」ということが何なのかもわからないのに、
「生きるため」に行う経済活動や、そこで勝つための戦略にかまけるの?
そんな声がどこからか聞こえてくる。
この声を、いつも手放さないようにしなければ、
いつしか本末転倒に陥る。
本末転倒に常に陥らない人というのが実は意外に少ないのだと、
反省しないと気付けないのが、歯がゆいところではあるが。