個人的な本だと思う。
バルトの作品として出版されるべきだったかどうかも分からない。
余りに個人的だ。
よって、感想もどうも纏まらない。
これを買った理由は、2つある。
一つは、近く「明るい部屋」を読みなおそうと思っていて、
そこに繋がるバルトの思いを見てみたくなったから。
もう一つは、大切な人を失った人のグリーフワークを
見てみたかったから。
僕も、母を10年前に失って以来、けっこう長い間
「喪」に苦しんだ。
だから、結果としては、2つ目の理由のほうが、
この本を読む動機としてしっくり来たんだと思う。
大切な人を失った経験のある人が読めば、
共感でき、また、心を抉られるような言葉が沢山紡がれている。
-------------------------------------------------------------------
「言葉」。
それが重要なんだと思う。
一般化する作用を持つとともに、唯一無二の伝えるべきことを
伝える作用をも持つ、そんな「言葉」。
「私の悲しみが還元されること-一般化されること-には耐えられない。
まるで剽窃されているみたいだ」
「母の死」という言葉を眺めるなら、
人生のあるタイミングにおいて、多くの人が経験することであり、
その意味では「ありふれた」「一般的な」できごとだ。
しかし、誰ひとりとして、同じ経験をする訳ではない。
それは、単に母という役目を担う人を失ったということではなく、
母が一人の人間であり、人格を持っており、それを愛していたから
一緒にいた、ということだからだ。
そんな唯一無二の存在を失った悲しみは、やはり唯一無二で伝えようのないものだろう。
そんな風に、経験している本人にしか分かりようがないはずのものなのに、
言葉になると、どういうわけか、追体験するように心に染み入ってくる。
一般的でありながら、個人的でもある、
直接心に訴えかけてくる“インクの染み”。
言葉は、不思議なものだ。
語りえないものを語る。
------------------------------------------------------------
バルトは苦しむ。
悲しいことに苦しみ、もう最愛の人が帰ってこないことに苦しみ、
その悲しみでさえエゴイスティックであることに、苦しむ。
「愛していた人がいなくなっても生きられるということは、
思っていたほどは愛していなかったということだろうか・・・」
しかし、やはりエゴイスティックにしかなり得ない。
「かつては母に認められていた。しかしもう母がいないのだから、
わたしはもういちど人に認めてもらわねばならない」
「わたしが帰ることのできた場所にいた彼女は、もうどこにも居ない。
わたしは自分の場所を探している」
悲しいのは、母の不在なのか、母の居ない私の人生なのか、
何が悲しいのか分からなくなってきて、景色は灰色の中に沈んでしまう。
バルトにとっては「私のロラン!」という声。
僕にとっては、母が手を振るのがバックドアのガラスから見えた光景。
断続的に立ち上がる「涙の発作」。
ほとんど、悲しむことだけに縋って何とか生きるような時間が過ぎていく。
---------------------------------------------------------------
そしてバルトは、写真に行き当たる。
母の若い時の写真。
彼が語らなければ、いつしか母が居たという記憶さえ、消え去ってしまう。
モニュメントが必要だ。
「記念碑を作る必要がある
彼女ガ生キタコトヲ忘レルナ」
この日の日記を境に、弱々しくも「明るい部屋」の構想が動き始める。
バルトは立ち直ったのだろうか。
恐らくそうではないだろう。
大切な人を失った悲しみから、立ち直ることなど出来ない。
そもそも立ち直るとか、立ち直らないとか、そういう類のものではない。
でも、そこからまた新しく何かを始めることは出来る。
というより、それ以外にやりようがない、という仕方で、
いつしか何か始めざるを得ない。
大切な人を亡くしたあとの時間を生きる、ということは、
結局そういうことなんだと思う。
もっと言ってしまえば、「生きる」ということの外側には
ぜったい抜け出せない、という当たり前な事実の中にいるってことだ。
それが、最も近しい人の死によって、裸の状態で浮かび上がってきた、
ということではないか。
さて、ならば「生きる」とは、どういうことなんだろうか。
続けて「明るい部屋」を読み進めば、
バルトなりの「生きる」がどういうことなのか、
透けて見えてくるだろうか。
---------------------------------------------------------------
つまりこの本は結局、まだ何も語っていない。
悲しみの多面的な言語化。
でも、だからこそ、渇いた喉で水を飲むように、読むことが出来た。
バルトの作品として出版されるべきだったかどうかも分からない。
余りに個人的だ。
よって、感想もどうも纏まらない。
これを買った理由は、2つある。
一つは、近く「明るい部屋」を読みなおそうと思っていて、
そこに繋がるバルトの思いを見てみたくなったから。
もう一つは、大切な人を失った人のグリーフワークを
見てみたかったから。
僕も、母を10年前に失って以来、けっこう長い間
「喪」に苦しんだ。
だから、結果としては、2つ目の理由のほうが、
この本を読む動機としてしっくり来たんだと思う。
大切な人を失った経験のある人が読めば、
共感でき、また、心を抉られるような言葉が沢山紡がれている。
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「言葉」。
それが重要なんだと思う。
一般化する作用を持つとともに、唯一無二の伝えるべきことを
伝える作用をも持つ、そんな「言葉」。
「私の悲しみが還元されること-一般化されること-には耐えられない。
まるで剽窃されているみたいだ」
「母の死」という言葉を眺めるなら、
人生のあるタイミングにおいて、多くの人が経験することであり、
その意味では「ありふれた」「一般的な」できごとだ。
しかし、誰ひとりとして、同じ経験をする訳ではない。
それは、単に母という役目を担う人を失ったということではなく、
母が一人の人間であり、人格を持っており、それを愛していたから
一緒にいた、ということだからだ。
そんな唯一無二の存在を失った悲しみは、やはり唯一無二で伝えようのないものだろう。
そんな風に、経験している本人にしか分かりようがないはずのものなのに、
言葉になると、どういうわけか、追体験するように心に染み入ってくる。
一般的でありながら、個人的でもある、
直接心に訴えかけてくる“インクの染み”。
言葉は、不思議なものだ。
語りえないものを語る。
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バルトは苦しむ。
悲しいことに苦しみ、もう最愛の人が帰ってこないことに苦しみ、
その悲しみでさえエゴイスティックであることに、苦しむ。
「愛していた人がいなくなっても生きられるということは、
思っていたほどは愛していなかったということだろうか・・・」
しかし、やはりエゴイスティックにしかなり得ない。
「かつては母に認められていた。しかしもう母がいないのだから、
わたしはもういちど人に認めてもらわねばならない」
「わたしが帰ることのできた場所にいた彼女は、もうどこにも居ない。
わたしは自分の場所を探している」
悲しいのは、母の不在なのか、母の居ない私の人生なのか、
何が悲しいのか分からなくなってきて、景色は灰色の中に沈んでしまう。
バルトにとっては「私のロラン!」という声。
僕にとっては、母が手を振るのがバックドアのガラスから見えた光景。
断続的に立ち上がる「涙の発作」。
ほとんど、悲しむことだけに縋って何とか生きるような時間が過ぎていく。
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そしてバルトは、写真に行き当たる。
母の若い時の写真。
彼が語らなければ、いつしか母が居たという記憶さえ、消え去ってしまう。
モニュメントが必要だ。
「記念碑を作る必要がある
彼女ガ生キタコトヲ忘レルナ」
この日の日記を境に、弱々しくも「明るい部屋」の構想が動き始める。
バルトは立ち直ったのだろうか。
恐らくそうではないだろう。
大切な人を失った悲しみから、立ち直ることなど出来ない。
そもそも立ち直るとか、立ち直らないとか、そういう類のものではない。
でも、そこからまた新しく何かを始めることは出来る。
というより、それ以外にやりようがない、という仕方で、
いつしか何か始めざるを得ない。
大切な人を亡くしたあとの時間を生きる、ということは、
結局そういうことなんだと思う。
もっと言ってしまえば、「生きる」ということの外側には
ぜったい抜け出せない、という当たり前な事実の中にいるってことだ。
それが、最も近しい人の死によって、裸の状態で浮かび上がってきた、
ということではないか。
さて、ならば「生きる」とは、どういうことなんだろうか。
続けて「明るい部屋」を読み進めば、
バルトなりの「生きる」がどういうことなのか、
透けて見えてくるだろうか。
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つまりこの本は結局、まだ何も語っていない。
悲しみの多面的な言語化。
でも、だからこそ、渇いた喉で水を飲むように、読むことが出来た。