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日常の断片

「喪の日記」(ロラン・バルト)

2015-09-23 01:20:25 | 読書
個人的な本だと思う。

バルトの作品として出版されるべきだったかどうかも分からない。
余りに個人的だ。
よって、感想もどうも纏まらない。


これを買った理由は、2つある。
一つは、近く「明るい部屋」を読みなおそうと思っていて、
そこに繋がるバルトの思いを見てみたくなったから。

もう一つは、大切な人を失った人のグリーフワークを
見てみたかったから。
僕も、母を10年前に失って以来、けっこう長い間
「喪」に苦しんだ。

だから、結果としては、2つ目の理由のほうが、
この本を読む動機としてしっくり来たんだと思う。

大切な人を失った経験のある人が読めば、
共感でき、また、心を抉られるような言葉が沢山紡がれている。

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「言葉」。
それが重要なんだと思う。

一般化する作用を持つとともに、唯一無二の伝えるべきことを
伝える作用をも持つ、そんな「言葉」。

 「私の悲しみが還元されること-一般化されること-には耐えられない。
  まるで剽窃されているみたいだ」

「母の死」という言葉を眺めるなら、
人生のあるタイミングにおいて、多くの人が経験することであり、
その意味では「ありふれた」「一般的な」できごとだ。

しかし、誰ひとりとして、同じ経験をする訳ではない。

それは、単に母という役目を担う人を失ったということではなく、
母が一人の人間であり、人格を持っており、それを愛していたから
一緒にいた、ということだからだ。
そんな唯一無二の存在を失った悲しみは、やはり唯一無二で伝えようのないものだろう。

そんな風に、経験している本人にしか分かりようがないはずのものなのに、
言葉になると、どういうわけか、追体験するように心に染み入ってくる。

一般的でありながら、個人的でもある、
直接心に訴えかけてくる“インクの染み”。

言葉は、不思議なものだ。
語りえないものを語る。

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バルトは苦しむ。

悲しいことに苦しみ、もう最愛の人が帰ってこないことに苦しみ、
その悲しみでさえエゴイスティックであることに、苦しむ。


 「愛していた人がいなくなっても生きられるということは、
  思っていたほどは愛していなかったということだろうか・・・」

しかし、やはりエゴイスティックにしかなり得ない。

 「かつては母に認められていた。しかしもう母がいないのだから、
  わたしはもういちど人に認めてもらわねばならない」

 「わたしが帰ることのできた場所にいた彼女は、もうどこにも居ない。
  わたしは自分の場所を探している」

悲しいのは、母の不在なのか、母の居ない私の人生なのか、
何が悲しいのか分からなくなってきて、景色は灰色の中に沈んでしまう。

バルトにとっては「私のロラン!」という声。
僕にとっては、母が手を振るのがバックドアのガラスから見えた光景。
断続的に立ち上がる「涙の発作」。

ほとんど、悲しむことだけに縋って何とか生きるような時間が過ぎていく。

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そしてバルトは、写真に行き当たる。
母の若い時の写真。

彼が語らなければ、いつしか母が居たという記憶さえ、消え去ってしまう。
モニュメントが必要だ。

 「記念碑を作る必要がある
  彼女ガ生キタコトヲ忘レルナ」

この日の日記を境に、弱々しくも「明るい部屋」の構想が動き始める。


バルトは立ち直ったのだろうか。

恐らくそうではないだろう。
大切な人を失った悲しみから、立ち直ることなど出来ない。
そもそも立ち直るとか、立ち直らないとか、そういう類のものではない。


でも、そこからまた新しく何かを始めることは出来る。

というより、それ以外にやりようがない、という仕方で、
いつしか何か始めざるを得ない。

大切な人を亡くしたあとの時間を生きる、ということは、
結局そういうことなんだと思う。

もっと言ってしまえば、「生きる」ということの外側には
ぜったい抜け出せない、という当たり前な事実の中にいるってことだ。


それが、最も近しい人の死によって、裸の状態で浮かび上がってきた、
ということではないか。

さて、ならば「生きる」とは、どういうことなんだろうか。

続けて「明るい部屋」を読み進めば、
バルトなりの「生きる」がどういうことなのか、
透けて見えてくるだろうか。

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つまりこの本は結局、まだ何も語っていない。
悲しみの多面的な言語化。

でも、だからこそ、渇いた喉で水を飲むように、読むことが出来た。

「女装して、一年間暮らしてみました。」(クリスチャン・ザイデル)

2015-09-16 23:22:59 | 読書
ドイツのとある男性の体験記。

テレビ業界やジャーナリズムで活躍していたドイツ人男性が、
交通事故を切っ掛けに内面の充実を大切にした生活に切り替える。

そんな生活を続けていた肌寒い日、女性用ストッキングに出会う。



ずっと「男」として生きてきた筆者が、防寒具としてのストッキングとの出会いから、
女装に興味を持ち、実験として一年間、徹底して女装をし始める。

女装と言うと、どうしても性的なものを最初は思い浮かべてしまうが、
そういうフェチズムの本ではない。全く違う。
どちらかと言えば、ジェンダーの話かな。それとも少し違う気もするけど。

女装がエスカレートするのに比例して、周りの反応がどんどん変化していき、
女装している本人の心もどんどん変化していく。

もっとキレイになりたい、もっとオシャレを楽しみたい。
男として社会に生きることの息苦しさから開放され、
水を得た魚のように「女性」としての自由を謳歌する・・・かのように見えた。
ところが・・・といった、なかなか読ませる内容。

奥さんとの関係の移り変わりも、とても一言で言い表せない味があるし、
女装するまでは深い仲でなかった男友達との友情も、読ませるものがある。

外見でなく、中身でちゃんと見てくれているテコンドーの先生との逸話も、
結構グッと来るものがある。

なかなか奥深い体験記だった。


語り口こそ、コミカルで優しいものの、
現代の「男女」が抱えるアレコレの本質を
抉り出していくようなスリルもある。

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何が凄いかって、ジェンダーの壁を自分から跨ぎにいったという、正にこの点だと思う。
そして議論は、男だって女だってみんな一緒だ、みたいな安易な方向に流れることもない。

本を読みながら、筆者と一緒になって読者も、
「そうは言っても、男って何?女って何?性別って何?」と考えてしまう。

そして、知らない間に「男」であることを期待され、あるいは男であることに縛られ、
拘っている自分にも、思い当たってしまう。
確かに社会には、目に見えない網目が存在するのだろう。

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ところで、この本を読んだ一つの教訓は、比較的前向きなものだった。

「もっと自由に、色々楽しんでみても良いんじゃない?」ってこと。

だからと言って、僕は流石に女装はしないと思うけど。
そうだなぁ、髪型を変えたり、楽しんで服を選んだり、もっと刺激を求めて外に出たり。
そういうことをしてみても良いかもしれない。

筆者にとって、心の開放のキッカケが「性別の殻」を破ることだったように、
僕には僕の「○○の殻」があるのかも知れない。
その○○を、時間をかけて探してみようかな、と。

優しい人間

2015-09-07 11:28:33 | 日々雑感
優しい人間になりたいと思う。
昔からずっと言っている気がする。

ある特定の人には優しいと思う。
父であったり、重病を患った時の親友であったり。

でも、その優しさの範囲はとても狭い。
誰にもというわけではない、という範疇を遥かに下回り、本当に特定の人だけに向いている。


これは、ひょっとしたら欠陥なのではないかと思う。
もう少し言い様や遣り様があったんじゃないかと、あとから後悔する。

こんなこと10代の時から言っていた。
二倍歳を喰っても同じなら、なんと成長していないことか。