井筒俊彦という思想家はすごい人だ。
「禅仏教の哲学に向けて」という本を読んでいるのだけど、
ページをめくるごとに、その言葉の切れ味に痺れる。
ところで、
禅が、仏教という一つの宗教の枠に収まらない、
現実に根ざしたものなんだろう、という勘は昔から持っていた。
けれど、「悟る」とか「心」については、よく分かっていなかった。
その片鱗でも知りたいと思い、読んだわけ。
でも、禅というのがこの本に書いてある通りのものであるとしたら、
僕はけっこう大きな勘違いをしていたことになる。
僕は仏教の教えが先にあって、禅体験はそれに先立つモノではありえないと
思っていた。
でも、そうではないみたい。
ここから書くことは、その本には一言も書かれていないけれど、、、
仏陀が昔見たのは、おそらく「真実」だった。
真実を見ることが、彼の悟りという体験だった。
その真実を神話的に語ったものが、例えば仏教なのだ、ということ。
そう見れば、仏教は別に宗教でも何でもない。
ほんとうの事を例え話で語った、言葉の塊だ。
その意味では、他の宗教だって、そのように言えるかもしれない。
真実をイエスさんが神話的に語ったのがキリスト教で、
真実をムハンマドが神話的に語ったのがイスラム教で、、、といった具合。
この文脈での禅とは、「真実に到る過程をメソッドにしたもの」となるんだろう。
なので、形は非常に特殊であるものの、禅がある一面で哲学である、ということは事実だ。
そんなわけで「禅仏教の哲学」というタイトル。
全くもって、なるほど、という感じがする。
ところで、そのメソッドを知りたいと思う私は、
いずれ悟れるものなら悟ってみたい、とも思っていた。
思っていたのだけれど、事はそう甘くないようだ。
悟りというのは、簡単にまとめてしまうと、
「言葉を覚える前の状態」という、思い出すことが不可能な過去を、
体験し直すようなものであるらしい。
一方で、別の思想家が言うように「言葉とは価値である」ことを思い出すなら、
悟るという体験は、今私が価値だと思っている全てをひっくり返す、ということになる。
これは、「生きたまま死ぬ」ような、ものすごく大変な変性だと思う。
本当に禅を知りたい、と欲するということは、
ほとんど社会的に自殺したい、と言ってるようなものなわけだ。
それでも真実を見たい、世界の本当の姿を知りたい、と言うなら、
きっと禅は、最も最初に取り組むべきメソッドなんだろうと思う。
昔、大学の先輩が禅寺に通い詰め、お坊さんに「座禅をさせてくれ」と頼み込んだことがあった。
その時、お坊さんは、
「やめておきなさい。大学で勉強を修めて、色々経験して、それでもまだ興味があるなら、
その時またおいでなさい。」
と答えたらしい。
今なら、そのお坊さんの答えの意味が、少しだけわかる気がする。
「禅仏教の哲学に向けて」という本を読んでいるのだけど、
ページをめくるごとに、その言葉の切れ味に痺れる。
ところで、
禅が、仏教という一つの宗教の枠に収まらない、
現実に根ざしたものなんだろう、という勘は昔から持っていた。
けれど、「悟る」とか「心」については、よく分かっていなかった。
その片鱗でも知りたいと思い、読んだわけ。
でも、禅というのがこの本に書いてある通りのものであるとしたら、
僕はけっこう大きな勘違いをしていたことになる。
僕は仏教の教えが先にあって、禅体験はそれに先立つモノではありえないと
思っていた。
でも、そうではないみたい。
ここから書くことは、その本には一言も書かれていないけれど、、、
仏陀が昔見たのは、おそらく「真実」だった。
真実を見ることが、彼の悟りという体験だった。
その真実を神話的に語ったものが、例えば仏教なのだ、ということ。
そう見れば、仏教は別に宗教でも何でもない。
ほんとうの事を例え話で語った、言葉の塊だ。
その意味では、他の宗教だって、そのように言えるかもしれない。
真実をイエスさんが神話的に語ったのがキリスト教で、
真実をムハンマドが神話的に語ったのがイスラム教で、、、といった具合。
この文脈での禅とは、「真実に到る過程をメソッドにしたもの」となるんだろう。
なので、形は非常に特殊であるものの、禅がある一面で哲学である、ということは事実だ。
そんなわけで「禅仏教の哲学」というタイトル。
全くもって、なるほど、という感じがする。
ところで、そのメソッドを知りたいと思う私は、
いずれ悟れるものなら悟ってみたい、とも思っていた。
思っていたのだけれど、事はそう甘くないようだ。
悟りというのは、簡単にまとめてしまうと、
「言葉を覚える前の状態」という、思い出すことが不可能な過去を、
体験し直すようなものであるらしい。
一方で、別の思想家が言うように「言葉とは価値である」ことを思い出すなら、
悟るという体験は、今私が価値だと思っている全てをひっくり返す、ということになる。
これは、「生きたまま死ぬ」ような、ものすごく大変な変性だと思う。
本当に禅を知りたい、と欲するということは、
ほとんど社会的に自殺したい、と言ってるようなものなわけだ。
それでも真実を見たい、世界の本当の姿を知りたい、と言うなら、
きっと禅は、最も最初に取り組むべきメソッドなんだろうと思う。
昔、大学の先輩が禅寺に通い詰め、お坊さんに「座禅をさせてくれ」と頼み込んだことがあった。
その時、お坊さんは、
「やめておきなさい。大学で勉強を修めて、色々経験して、それでもまだ興味があるなら、
その時またおいでなさい。」
と答えたらしい。
今なら、そのお坊さんの答えの意味が、少しだけわかる気がする。