== F R A G M E N T S ==

日常の断片

ゼン

2014-11-29 23:39:46 | 読書
井筒俊彦という思想家はすごい人だ。

「禅仏教の哲学に向けて」という本を読んでいるのだけど、
ページをめくるごとに、その言葉の切れ味に痺れる。

ところで、
禅が、仏教という一つの宗教の枠に収まらない、
現実に根ざしたものなんだろう、という勘は昔から持っていた。
けれど、「悟る」とか「心」については、よく分かっていなかった。

その片鱗でも知りたいと思い、読んだわけ。
でも、禅というのがこの本に書いてある通りのものであるとしたら、
僕はけっこう大きな勘違いをしていたことになる。

僕は仏教の教えが先にあって、禅体験はそれに先立つモノではありえないと
思っていた。
でも、そうではないみたい。


ここから書くことは、その本には一言も書かれていないけれど、、、

仏陀が昔見たのは、おそらく「真実」だった。
真実を見ることが、彼の悟りという体験だった。

その真実を神話的に語ったものが、例えば仏教なのだ、ということ。
そう見れば、仏教は別に宗教でも何でもない。
ほんとうの事を例え話で語った、言葉の塊だ。

その意味では、他の宗教だって、そのように言えるかもしれない。
真実をイエスさんが神話的に語ったのがキリスト教で、
真実をムハンマドが神話的に語ったのがイスラム教で、、、といった具合。

この文脈での禅とは、「真実に到る過程をメソッドにしたもの」となるんだろう。
なので、形は非常に特殊であるものの、禅がある一面で哲学である、ということは事実だ。
そんなわけで「禅仏教の哲学」というタイトル。

全くもって、なるほど、という感じがする。


ところで、そのメソッドを知りたいと思う私は、
いずれ悟れるものなら悟ってみたい、とも思っていた。
思っていたのだけれど、事はそう甘くないようだ。

悟りというのは、簡単にまとめてしまうと、
「言葉を覚える前の状態」という、思い出すことが不可能な過去を、
体験し直すようなものであるらしい。

一方で、別の思想家が言うように「言葉とは価値である」ことを思い出すなら、
悟るという体験は、今私が価値だと思っている全てをひっくり返す、ということになる。
これは、「生きたまま死ぬ」ような、ものすごく大変な変性だと思う。

本当に禅を知りたい、と欲するということは、
ほとんど社会的に自殺したい、と言ってるようなものなわけだ。

それでも真実を見たい、世界の本当の姿を知りたい、と言うなら、
きっと禅は、最も最初に取り組むべきメソッドなんだろうと思う。


昔、大学の先輩が禅寺に通い詰め、お坊さんに「座禅をさせてくれ」と頼み込んだことがあった。

その時、お坊さんは、
「やめておきなさい。大学で勉強を修めて、色々経験して、それでもまだ興味があるなら、
 その時またおいでなさい。」
と答えたらしい。

今なら、そのお坊さんの答えの意味が、少しだけわかる気がする。

孤独ということ

2014-11-06 23:56:22 | 日々雑感
スマホ依存症とか、グーグルグラス依存症とか。

ディスプレイに触れていなければ不安なのは、SNSのチェックや
LINEの着信が気になってしまうからだという。

世の記事では、人は誰かと繋がっていなければ不安なのだと、
この依存症が孤独に対する恐怖の裏返しであるかのように言う。


別の記事では、さいきんシェアハウスが徐々に増えてきたと伝えている。

今は28~29歳くらいを中心に、若い人たちがシェアハウスに住まうのだという。
安く済むとか、共用部分に高い家具を置けるだとか、
色々メリットはあるけれども、一番大きなメリットは、
シェアする人たちと時間と空間を共有できることだと。

記事では、今後“おひとりさま”の中高年層や元気な老人層にも広がっていくだろうと、
「孤独であること」の救世主であるかのように、文章を締めくくっている。


また別の記事では、「ハグしてくれる椅子」という、介護用具について伝えている。
要介護者の孤独を癒やすツールとして、椅子が人形のように象られていて、
そこに座ると「ハグされているようになる」という椅子だ。

それを見た海外の反応が、「無生物に癒やしを求めるなど虚しい」というもので、
日本とは温度差がある、などと伝えている。


分かっていたことではあるけれど、
孤独であることは「問題」であり、「癒されるべきもの」であり、
「悪いこと」だ、というのが普通の感覚なようだ。


でも、孤独であることは、そんなに問題だろうか。
孤独感に耐えられないと感じるのは、なぜなのか。
孤独の中で、それについてじっくり考えたことは、あるのだろうか。
孤独とは何だと、しかと見つめたことは、あるのだろうか。


人間が、一人で生まれて一人で死んでいくのは、
恐ろしく当たり前のことではなかったか。

端的に、誰もが孤独ではないか。
誰もがそうならば、「問題」でも「悪」でもないんじゃないか。


『いや、問題なのは孤独感なのだ』と言う人が居るかもしれない。
しかし、孤独感とは、孤絶しているという「感じ」だ。
「感じ」とは、その字のごとく、その人がそう感じているという、それだけのこと。

「感じ」が問題なら、その根っこは内面にある。
にも関わらず、解決を外に求めるのは、間違いではなかろうか。

間違いの結果が、依存症。
間違いの結果が、無生物の癒やし。
間違いの結果が、老後のシェアハウスの夢。
孤独感を紛らわせる手段が、複雑か単純かという違いはあれど、
結局紛らわせているだけなので、孤独感は消えないだろう。
それらによって孤独でなくなるわけではないからだ。


ところで、本来孤独とは豊かなことであると言ったのは、誰だったか。

つまらぬ他人、気の合わぬ他人と、ただ孤独感を紛らわすために居るよりも、
独り内面を見つめる時間のほうがよっぽど豊かである、と。

この豊かさを知れば、孤独感というものに実体がないということは、
あっという間に喝破できてしまう。
そしてその豊かさは、きっと精神を育てるだろう。

孤独を問題として扱うことは、簡単で分かりやすい。
「ストレス」という言葉と同じくらい、便利で共感しやすい。
でもそれは、何かを言った気になるけれど、何も言ったことになっていない。

この形式に気づくか気づかないかは、
結構大きな差だと最近感じている。

あのバーの話

2014-11-02 10:20:59 | 日々雑感
あの芸バーなるものの問題は、単純に質が低く中途半端に映った、という、この一言に尽きる。

題材がゲイだったとか、シモネタだったとか、それは二次的なことで、
この話にLGBTあたりの団体が出てくること自体がお門違いだし、
話をややこしくしただけの話だ。
差別する側も、差別に抗議する側も、突き詰めれば個人差でしかないものを
一つの言葉に押し込めて議論していることに関しては、やはり差別の
枠組みの中にしか居ないのであって、何の違いもないからだ。

そうではなく、芸バーなるものが良くなかったのは、ああいうことで金を取って
商売をしている人達への敬意や理解が足りていなかったことじゃないのか。

格好や名前を少し真似してみたところで、あれらプロへの足元にも及ばない。
夜の商売の真骨頂はもてなしの技術にあるのに、その部分など完全に無視して、
格好や名前のウケ狙いに走った、薄っぺらく浅ましい催しにしか見えなかった。
出来が拙く、中途半端だった。

もし彼らが、たとえ一週間でも本物のゲイバーや女装スナックに通い、
プロに話を聞き、その仕事の片鱗でも学んだならば、受け取られ方は
多少違っていただろう。もしくは、違う催しに変更しただろう。

ふざけるのは良いが、単に馬鹿をするだけなら内輪でどうぞ。
学園祭として公衆の面前に出るならば、真面目にふざけろ。
それが出来てなかったから、しょーもないLGBTの団体などに
難癖つけられるような失態に繋がるんだから。

たとえ出来たものが、プロと比べて質が見劣りしても、そこに真剣さや
やってることへの愛情が垣間見えるから、学園祭というのは楽しく輝く。
要はそれだけの話だ。