古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

吉野ケ里遺跡(鉄文化で栄える国と農耕で栄える国)

2016-10-12 16:27:02 | 歴史
BC57年 玄界灘湾岸の国 奴国は青銅、鉄の交易で栄えます。
遂には、倭国王として、大陸からも認められるようになります。

吉野ケ里は残念ながら朝鮮との直接の交易ルートがありません。
得意技を稲作に見出します。筑紫川周辺は今でも水田が沢山あります。
稲作は、玄海側より有明海側の方が気候的にも地理的にも有利だったでしょう。
九州各地に人が住みだすと吉野の地は交易としても有利だったはずです。
秋の間に収穫したお米を保管しておけば、各地から交換の品々が集まりました。
環濠内部の人々は絹の服を身につけたりできました。
ネットで見る限りですが、この服装が平安貴族に似ているような気がします。


玄海側の国々は、鉄器を中心に武力型の発展をする一方
吉野ケ里は稲作中心に環濠を造る防御型の文化都市に発展します。

2世紀に起こる 倭の大乱 は玄界灘の国同士の争いだったのでしょう。
争いに負けた一族が、有明海側に流れてきます。
環濠の周囲に住み着く人も増えてきて人口も増加します。
吉野ケ里の環濠はさらに大きく槍など加えるなどさらに強固な物なっていきます。

環濠内部では祈祷など祭りごとも始まり、身分の上下や役割分担、職業分担も出来てきます。
環濠内部に住んでいて人が上級階級で、周囲の人々が下級で、飯盒外部の人は内部を知ることも出来なかったはずです。
上級階級の人は死後に葬儀があり、甕棺に入れられ、集合墓地の丘にきちんと列をつくり
埋められていきます。
環濠の外で暮らす人々が有明海などで魚介を採り、環濠内の人々に渡していたでしょう。
勿論死んでしまえば、川や海に流されたと思います。

国造りには、上下の階級や貧富の差が必然と発生するのでしょう。
そしてゆとりを持つ上級社会では、祈祷や祭り、葬儀などの文化が出てきます。
鋳造の規模も大きくなりますが、はやり青銅文化で鉄器の入手は難したっかのでしょう。

ジャンル:
文化
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