マスメディア型とネット型には、情報の社会的移動をめぐる特性の相違があった。
これとは別にもう一つ、マスメディア型とネット型との違いが、今回の原発事故をめぐって顕わになった。
「情報の価値」の考え方が、両者で大きく異なっているのだ。
(1)マスメディア型=「所有」
情報の送り手側は、社会的要請や社会的必要性によって情報を生産し、伝達する。
(a)マスメディア型情報において、多くの場合、「情報の価値」は「所有」という原理に左右される。情報を独占し、所有することが「商品」としての「情報の価値」を高める、という基本的な原理だ。その原理の下に、情報は序列化される。そして、どの情報を発信するかが決定される。情報の生産も、基本的に資本の論理に従っている。
<例>日本テレビ(の系列の福島中央テレビ)が撮影した福島第一原発1号機の爆発の映像は、他の局では一切放送されなかった。
「情報の価値」は「所有」にあるとする原則により、他局がその映像を使用することを認めなかった。著作権法に従うかぎり、それは正当な判断だ。しかし、その映像は日本テレビが独占すべきものだったか。誰もが見ることができる公共財ではなかったか。
(b)「所有」という「情報の価値」は、多くの場合、視聴率によって測られ、その数値によって、いかなる情報を発信するか、どのような形式で発信するか、が左右される。
<例>①政治的な論争点の説明、②政治家の失言をセンセーショナルな伝達・・・・のうち②のほうが視聴率を上げる有効な手段となり、経済的にも有利、とテレビ局が判断すれば、テレビの報道は②に傾きやすい。
(c)情報の生産と伝達は、①根本的原理(「伝えたいこと」「伝えねばならないこと」を伝える)と、②「情報の価値」を「所有」に定位する原理との間の微妙なバランスシートの上で実現される。マスメディア型の情報は、多くの場合、②に強く規定される。・・・・それは自明のことだ、と誰もが考えてきた。
(2)ネット型=「共有」
(a)福島第一原発事故に係るネット上の情報生産は、これまでの常識を覆した。(1)とは、まったく異なる原理や理念に基づいていたからだ。「情報の価値」の「共有」、つまり情報を「分かち持つ」こと自体に置いていたのだ。
<例>IWJの実践、OurPlanet-TVの活動、さまざまな分野の科学者の意見、海外のさまざまな専門家からのアドバイス、ジャーナリストの主張、市民からの現状報告や主張。
これらは、情報を多くの人に知らせ、多くの人と情報を分かち持ち、共有すること、そのこと自身に価値を見いだす中で、情報の生産・移動・受容・補完が行われた。
(b)そして、「共有」に「情報の価値」を置いたネット上の情報が、既存のメディアを圧倒するような存在感を示した。逆に、今回の原発事故報道をめぐってマスメディアが発信した情報が、「共有」されるべき価値のある情報だと見なされることはほとんどなかった。
(c)テレビとネット/マスメディア型、ネット型/「モル的」コミュニケーションと「分子的」コミュニケーション・・・・という対立軸は、歴史的に依存してきたテクノロジーの相違や、巨大組織を基盤にした活動と小集団/個人を基盤にした活動・・・・といった違いとは位相を異にするもう一つの対立軸を伴っている。「情報の価値」をどこに置くのか、というもっとも根本的な差異だ。
(3)市民の価値意識の変化から挑戦を受けるメディア
(2)-(c)の対立軸は固定的に考えるべきではない。マスメディアが発信した情報のなかにも「情報の価値」を「共有」において制作された番組は数多くある。それが口コミやネットを通じて評判になり、ネットの動画配信で繰り返し視聴され、「分かち合うべきもの」として多くの人々に「共有」される現象が見られた。
<例>NHKのEYV特集「原発災害の地にて ~対談・玄侑宗久VS吉岡忍」(2011年4月3日放送)。放射能汚染の実態を報じようとせず、企画を通さなかったNHKの上層部からの圧力をはね返すなかで放送されるや、この番組は世論の支持を集めた。世論の支持は、その後の、衝撃的な汚染の実態を調査報道のかたちで剔抉した「ネットワークでつくる放射能汚染地図」の放送につなげた。この2つの番組は、ネットの動画サイトにアップされ、多くの人々の共感と支持を集めた。指示の輪は広がり、再放送された。「情報の共有」という点で、テレビとネットが相互にコラボレートした典型的な事例だ。
マスメディアは、「情報の価値」を「所有」ではなく「共有」に置くことを積極的に求めて自らそれを実践する市民の価値意識の変化から、挑戦を受けている。
新自由主義政策は、資本の論理を極端なかたちで進めた。行き着いた先が経済的・社会的格差と分断、貧困だ。これが現代社会の根底にある。そこから脱却するカギとなるのは、「COMMON=共有」にある、とアントニオ・ネグリは主張する。現代資本主義【注】のなかで、自己のアイデアや感情を、そして他者とのコミュニケーションを、文字どおり「他者と分かち合う」共同の営みとして実践し、「COMMON=共同」を実現しようとし、その先に「来るべき社会」の基本原理を彼は展望する。
【注】ポストフォーディズムといわれる知識産業や情報産業そしてサービス産業へと転嫁し、アイデア、コミュニケーション、さらには気配りや表情といった感情的表現すら、高利潤を生み出す重要な資源としての資本の論理に組み込まれていく状況。
以上、伊藤守『ドキュメント テレビは原発事故をどう伝えたのか』(平凡社新書、2012)の「第7章 情報の「共有」という社会的価値」に拠る。
【参考】「【原発】社会的境界を横断するネット型の情報 ~3・11後の構造的変化~」
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これとは別にもう一つ、マスメディア型とネット型との違いが、今回の原発事故をめぐって顕わになった。
「情報の価値」の考え方が、両者で大きく異なっているのだ。
(1)マスメディア型=「所有」
情報の送り手側は、社会的要請や社会的必要性によって情報を生産し、伝達する。
(a)マスメディア型情報において、多くの場合、「情報の価値」は「所有」という原理に左右される。情報を独占し、所有することが「商品」としての「情報の価値」を高める、という基本的な原理だ。その原理の下に、情報は序列化される。そして、どの情報を発信するかが決定される。情報の生産も、基本的に資本の論理に従っている。
<例>日本テレビ(の系列の福島中央テレビ)が撮影した福島第一原発1号機の爆発の映像は、他の局では一切放送されなかった。
「情報の価値」は「所有」にあるとする原則により、他局がその映像を使用することを認めなかった。著作権法に従うかぎり、それは正当な判断だ。しかし、その映像は日本テレビが独占すべきものだったか。誰もが見ることができる公共財ではなかったか。
(b)「所有」という「情報の価値」は、多くの場合、視聴率によって測られ、その数値によって、いかなる情報を発信するか、どのような形式で発信するか、が左右される。
<例>①政治的な論争点の説明、②政治家の失言をセンセーショナルな伝達・・・・のうち②のほうが視聴率を上げる有効な手段となり、経済的にも有利、とテレビ局が判断すれば、テレビの報道は②に傾きやすい。
(c)情報の生産と伝達は、①根本的原理(「伝えたいこと」「伝えねばならないこと」を伝える)と、②「情報の価値」を「所有」に定位する原理との間の微妙なバランスシートの上で実現される。マスメディア型の情報は、多くの場合、②に強く規定される。・・・・それは自明のことだ、と誰もが考えてきた。
(2)ネット型=「共有」
(a)福島第一原発事故に係るネット上の情報生産は、これまでの常識を覆した。(1)とは、まったく異なる原理や理念に基づいていたからだ。「情報の価値」の「共有」、つまり情報を「分かち持つ」こと自体に置いていたのだ。
<例>IWJの実践、OurPlanet-TVの活動、さまざまな分野の科学者の意見、海外のさまざまな専門家からのアドバイス、ジャーナリストの主張、市民からの現状報告や主張。
これらは、情報を多くの人に知らせ、多くの人と情報を分かち持ち、共有すること、そのこと自身に価値を見いだす中で、情報の生産・移動・受容・補完が行われた。
(b)そして、「共有」に「情報の価値」を置いたネット上の情報が、既存のメディアを圧倒するような存在感を示した。逆に、今回の原発事故報道をめぐってマスメディアが発信した情報が、「共有」されるべき価値のある情報だと見なされることはほとんどなかった。
(c)テレビとネット/マスメディア型、ネット型/「モル的」コミュニケーションと「分子的」コミュニケーション・・・・という対立軸は、歴史的に依存してきたテクノロジーの相違や、巨大組織を基盤にした活動と小集団/個人を基盤にした活動・・・・といった違いとは位相を異にするもう一つの対立軸を伴っている。「情報の価値」をどこに置くのか、というもっとも根本的な差異だ。
(3)市民の価値意識の変化から挑戦を受けるメディア
(2)-(c)の対立軸は固定的に考えるべきではない。マスメディアが発信した情報のなかにも「情報の価値」を「共有」において制作された番組は数多くある。それが口コミやネットを通じて評判になり、ネットの動画配信で繰り返し視聴され、「分かち合うべきもの」として多くの人々に「共有」される現象が見られた。
<例>NHKのEYV特集「原発災害の地にて ~対談・玄侑宗久VS吉岡忍」(2011年4月3日放送)。放射能汚染の実態を報じようとせず、企画を通さなかったNHKの上層部からの圧力をはね返すなかで放送されるや、この番組は世論の支持を集めた。世論の支持は、その後の、衝撃的な汚染の実態を調査報道のかたちで剔抉した「ネットワークでつくる放射能汚染地図」の放送につなげた。この2つの番組は、ネットの動画サイトにアップされ、多くの人々の共感と支持を集めた。指示の輪は広がり、再放送された。「情報の共有」という点で、テレビとネットが相互にコラボレートした典型的な事例だ。
マスメディアは、「情報の価値」を「所有」ではなく「共有」に置くことを積極的に求めて自らそれを実践する市民の価値意識の変化から、挑戦を受けている。
新自由主義政策は、資本の論理を極端なかたちで進めた。行き着いた先が経済的・社会的格差と分断、貧困だ。これが現代社会の根底にある。そこから脱却するカギとなるのは、「COMMON=共有」にある、とアントニオ・ネグリは主張する。現代資本主義【注】のなかで、自己のアイデアや感情を、そして他者とのコミュニケーションを、文字どおり「他者と分かち合う」共同の営みとして実践し、「COMMON=共同」を実現しようとし、その先に「来るべき社会」の基本原理を彼は展望する。
【注】ポストフォーディズムといわれる知識産業や情報産業そしてサービス産業へと転嫁し、アイデア、コミュニケーション、さらには気配りや表情といった感情的表現すら、高利潤を生み出す重要な資源としての資本の論理に組み込まれていく状況。
以上、伊藤守『ドキュメント テレビは原発事故をどう伝えたのか』(平凡社新書、2012)の「第7章 情報の「共有」という社会的価値」に拠る。
【参考】「【原発】社会的境界を横断するネット型の情報 ~3・11後の構造的変化~」
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