語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【大岡昇平ノート】『野火』とレイテ戦(4) ~注(2)~

2010年07月17日 | ●大岡昇平
【注】
(22)「ビサヤ内海の静かな水が拡がっていた。岸に迫った岬から、蝉の声が湧いて水にこだました。その連続した音は、依然として沖のどこかを渡るらしい、米軍の内火艇の音によって破られた」(「16 犬」)

(23)「扇状に拡がって、ゆるく海へ傾いた斜面は、三十軒ばかりのニッパ・ハウスによって占められ、一本の道路が真直に降りていた」(「16 犬」)

(24)「殊に彼等は屍体であること既に永く、あらゆるその前身の形態を失っていた。彼等の穿った軍袴のみ、わずかに彼等の人間たりし時の痕跡であったが、屍汁と泥で変色し、最早人間の衣服の外観を止めていなかった。周囲の土と正確に同じ色をしていた」(「17 物体」)

(25)「私は音を立てた。話声がとまった。私は立ち上り、銃で扉を排して、彼等の前に出た。/二人は並んで立ち、大きく見開かれた眼が、椰子油の灯を映していた。/「パイゲ・コ・ポスポロ(燐寸をくれ)」と私はいった。/女は叫んだ。こういう叫声を日本語は「悲鳴」と概称しているが、あまり正確ではない。それは凡そ「悲」などという人間的感情とは縁のない、獣の声であった。人類は立ち上って胸腔を自由に保たないならば、こういう声は出せないであろう。/女の顔は歪み、なおもきれぎれに叫びながら、眼は私の顔から離れなかった。私の衝動は怒りであった。/私は射った。弾は女の胸にあたったらしい。空色の薄紗の着物に血斑が急に拡がり、女は胸に右手をあて、奇妙な回転をして、前に倒れた」(「19 塩」)

(26)「私は私の犠牲者がここまで来た理由に好奇心を起し、室に彼等の行為の跡を探した。床板があげられ、下に一つのドンゴロスの袋が口を開けていた。中に薄黒く光る粗い結晶は、彼等人類の生存にとっても、私の生存にとっても、甚だ貴重なものであった。塩であった」(「19 塩」)

(27)「ふむ。仕様がねえ奴だ……もっともお前も」と傍の上等兵を顧みて「ブラウエンで落しちゃったな」」(「21 同胞」)
 【補注】12月1日、マリトボにあった26師団は、脊梁山脈に分け入った。ほとんど司令部だけの行軍だった。当時、26師団の実質は2個大隊にすぎなかった。先遣重松大隊(独歩13聯隊第三大隊)は、すでに半月山中にあって戦力を消耗しており、井上大隊はダムラアンでさんざん叩かれた欠損部隊だった。砲をもたず、斬りこみ程度の効果しか発揮できそうもなかった。12月5日、方面軍派遣田中光祐少佐はルビの軍戦闘司令所に着き、周辺を視察してぞっとした。「密林の山中にこもって、飢餓に瀬している泉兵団の兵たちは、いずれも眼ばかり白く凄みをおびて、骨と皮ばかりである。まるでどの顔も、生きながらの屍である。地獄絵図のような悽愴な形相である。その上丸腰で、武器をもっていないために、全く戦意を喪失していた」。師団主力は12月1日にマリトボを出発する時、少なくとも5日分の食糧を携行していたはずなので、これは先遣重松大隊の傷病兵か井上大隊の状況でなければならないが、やがてブラウエン作戦が中止、退却に移ってからは全軍似たような状況に陥る。12月6日未明、16師団の150名が、同日夜、26師団の一部が斬り込んだ<二十一 ブラウエンの戦い>。12月7日の米軍のオルモック上陸により、ブラウエン作戦は中止。12月16日現在、タリサヤン川上流の河原がやや広くなった地点に、26師団の約600が集結<二十 ダムラアンの戦い>。

(28)「「班長殿達はパロンポンへ行かれるのでありますか」/「おめえ、まだ知らねえのか。レイテ島上の兵は尽くパロンポンに集合すべし、って軍命令が出ている。お偉ら方もやっと、とてもいけねえと気がついたらしい。どの隊もみんなそっちへ退却中だ。パロンポンから大発で、セブへ渡してくれるって話だ――ははあ、その命令を知らねえから、こんなとこでうろうろしてやがんだな」」(「21 同胞」)

(29)「希望が生れていた。昨日からの出来事は、悪夢の名残のように、後頭部についていたが、この時パロンポン集合という一片の軍命令に要約された生還の希望を、私が信じ込んでしまった速さを考えると、中隊を出て以来、私の奇妙な経験と夢想が、すべて私が戦場で隊から棄てられたという、単純な事実に基いていたことがわかる」(「21 同胞」)

(30)「さらに二、三本を倒して根芋を取り、僚友にならって、被甲の中身をすてて、そこにも収めると、我々は出発した。/伍長が先導した。私が最初この畠へ上って来た道を逆行して河原へ降り、暫く流れに沿って下ってから、最初の屈折点で、別の丘へ取りついた。/北を目指すべきであった。東西両海岸の米軍の連絡は既に成っていたが、オルモック街道がリモンの北で二つに分れ、一つがパロンポンに向っている地点がある。そこから半島に入ることが出来るであろうという、伍長の判断であった。/二つの丘と二つの川を杣道で越した後、牛車の通れるくらいの幅の道に出た。/「飛行機に気をつけるんだぞ。道はねらって来るからな」と伍長がいった。/米機が道をねらうのはもっともであった。三々五々連れ立った日本兵が、丘の蔭、叢林から不意に現われて、道に加った。そしてやがて一個中隊ほどの蜒々たる行軍隊形になった。/道が草原に露出しているところでは、列は道を外れて林に潜り、先でまた林に入って来る道を捉えた。そういう林中の道は、時々都会の鋪道のように雑沓した。/兵達の状態は、見違えるように、悪くなっていた。服は裂け、靴は破れ、髪と髯が延びて、汚れた蒼い顔の中で、眼ばかり光っていた。その眼は互いに隣人を窺ように見た。/パロンポンへ、パロンポンへ。彼等はそれぞれ飢え、病み、疲れた体を引きずって、一つの望みにつながり、人におくれまいとして、一条の道を歩いて行った。上り坂の両側は休む、或いは倒れた兵の列であった。(「22 行人」)

(31)「夜が明けると、林に入って眠り、夕方行軍を開始した。夜道の方が爽やかで、被爆の危険がなかったからであるが、月が、細く暗くなるに及んで、昼間の行軍に返った」(「22 行人」)

(32)「或る日私は、病院の前で別れた二人の病兵に会った。今では歩けないのは安田であり、若い永松は元気になっていた。彼は通行の兵士に煙草を薦めていた」(「22 行人」)

(33)「それから雨になった。生物の体温を持った、厚ぼったい風が一日吹き続けると、雨が木々の梢を鳴らし、道行く兵士の頭に落ちて来た。レイテ島は雨季に入ったのである」(「23 雨」)
 【補注】『俘虜記』に、レイテ島の雨季は10月から、とある。
 「フィリピンワークキャンプ2002」によれば、レイテ島のアルブエラはカリガタナン村の気候は、熱帯モンスーン気候に属し、気温は年間を通じてほぼ26~27度で、乾季の12~5月と雨季の6~11月に分けられ、最も涼しいのは11~2月であるよし。

(34)「雨のため頭上に飛ぶ米機が減ったかわりに、敗兵の列は自働小銃を持つゲリラによって、側面から脅かされた。道はレイテ島を縦走する脊梁山脈の西の山際に沿っていたが、そういうゲリラの攻撃によって、我々はさらに山奥の杣道へ追い込まれた。/川もいくつか越えねばならなかった。水嵩を増した濁った流れが、飢え疲れた兵士の足をさらって、呆気なく川下に運んで行った」(「23 雨」)

(35)「オルモックの町の灯を左後にした頃から、山脈は低くなり丘と谷が錯綜して来た。磯波のようにまくれ返った頂上を並べた低い丘が、海岸方面に連り、道はその裏側を廻った。丘と脊梁山脈の前山との間は、出水の後の泥のような、平らな原が埋めていた。/丘と原は雨に煙っていた。雲がさがって、丘の頂の木を包み、突然吹く風に、低く遠く吹き散らかされた。その度に野を蔽う雨の条に、縞が移動した」(「23 雨」)

(36)「濡れた兵士の歩みは遅く、間隔は長くなった。濡れた靴と地下足袋はどんどん破れて、道端に脱ぎ棄てられた。しかし「履けない」という判断は人によって異るとみえ、それ等脱ぎ棄てた靴を拾って穿き、次に棄てられた靴を見出すと穿き替え、そうして穿き継いで行く者もあった。/私が原駐地以来穿いていた靴は、山中の畠を出た時既に、底に割れ目が入っていたが、或る日完全に前後が分離した。私は裸足になった」

(37)「地勢は、脊梁山脈が東タクロバンから北カリガラに到る平地になって尽きるところ、西へ耳のように張り出した半島から成立っている。脊梁山脈とは別の山系に属するらしい低い山脈が半島を南北に走り、南に長く突出して、オルモック湾を抱き、湾の底部の、いわば耳朶の附根に、オルモックの町を位置させている。/平行した二つの山脈の間は湿原で、その中をオルモックから北上する国道、所謂オルモック街道が北岸カリガラに通じ、海岸沿いに脊梁山脈の北を迂回して、東の方タクロバン平原に降りている。/米軍の東西の連絡は成り、リモン、バレンシヤ等、沿道の要地は尽くその手に落ちていた。国道には、絶えず戦車やトラックが走り、各所にゲリラの屯所があって、この国道を突破するのが、半島の西南端パロンポン集結の軍命令を受けた、レイテ島の全将兵の重大問題であった。リモン北方でパロンポンへ向う一道が分れているところ、通称「三叉路」附近が、それから先の湿原の行程を楽にするという意味で、特に敗兵達によって窺われた地点であった。/戦闘の初期、タクロバン平原から脊梁山脈を迂回しようとした米軍と一時対峙した精鋭部隊が、この辺に多少の部隊体形を保ちつつ残っていた」(「24 三叉路」)

(37)「地勢は、脊梁山脈が東タクロバンから北カリガラに到る平地になって尽きるところ、西へ耳のように張り出した半島から成立っている。脊梁山脈とは別の山系に属するらしい低い山脈が半島を南北に走り、南に長く突出して、オルモック湾を抱き、湾の底部の、いわば耳朶の附根に、オルモックの町を位置させている。/平行した二つの山脈の間は湿原で、その中をオルモックから北上する国道、所謂オルモック街道が北岸カリガラに通じ、海岸沿いに脊梁山脈の北を迂回して、東の方タクロバン平原に降りている。/米軍の東西の連絡は成り、リモン、バレンシヤ等、沿道の要地は尽くその手に落ちていた。国道には、絶えず戦車やトラックが走り、各所にゲリラの屯所があって、この国道を突破するのが、半島の西南端パロンポン集結の軍命令を受けた、レイテ島の全将兵の重大問題であった。リモン北方でパロンポンへ向う一道が分れているところ、通称「三叉路」附近が、それから先の湿原の行程を楽にするという意味で、特に敗兵達によって窺われた地点であった。/戦闘の初期、タクロバン平原から脊梁山脈を迂回しようとした米軍と一時対峙した精鋭部隊が、この辺に多少の部隊体形を保ちつつ残っていた」(「24 三叉路」)

(38)「草原が巾着の底のように、丘に囲まれて行き止ったところから、一方の丘に上ると、頂上に兵達が群れていた。繁みに身を潜め、稜線の彼方を窺っていた。/前は湿原が拡がり、土手で高められた一条の広い道が、横に貫いていた、これが国道であった。/湿原は左側に開け、孤立したアカシヤの大木を、島のように霞ませつつ、遠い林まで到っているが、右側は道の向うに木のよく繁った丘が岬のように出張り、さらに裾から低い林を、磯のように、湿原の上に延ばしていた。/林の上に遠く、一つの岩山が雲をかぶっていた。半島山脈の主峰カンギポット山は、敗軍の首脳部によって「歓喜峰」と呼ばれていたが、その年老いた鐘状火山の山容は、レイテの敗兵にとって、「歓喜」よりは「恐怖」をもって形容されるに、ふさわしかった。/右手、視野のはずれの国道上に、少しばかり人家のかたまったところが、「三叉路」だということである。パロンポンへ行く道は、そこから分れ、ほぼ「歓喜峰」に向って、前方の丘裾の、林の中を廻って行く」(「24 三叉路」)

(39)「雨は依然として湿原を曇らせつつ、次第に暗くなって行った。まず遠い「喜峰」が消え、アカシヤの木が消え、次いで前面の林が消えて、やがて何も見るもののない闇となった。米軍の車輛の往来もとまった」(「25 光」)

(40)「頭を下げると、国道の土手の線が前方の闇を横に長く切って、ほのかに空と境しているのが見えた。それが目標であった。しかしなかなか近くならない。/泥はますます深く、膝を越した。片足を高く抜き、重心のかかった他方の足が、もぐりそうになるのをこらえ、抜いた足で、泥の上面を掃くように、大きく外に弧を描いて前へ出す。その足がずぶずぶと入る勢に乗って、後に残した足を抜き、同じように前へ出す。/私は疲れて来た。もし前方の泥がこれ以上深ければ、完全に動けなくなる。そしてそのまま夜が明けてしまえば、私は泥から上半身を出した姿で、道を通る米兵に射たれねばならぬ」(「25 光」)
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