語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【ウクライナ】と日本との歴史的関係 ~日本外交のジレンマ(1)~

2014年04月19日 | 社会
 (1)ウクライナは、欧州に回帰するかロシアに回帰するかでユーラシアの地政学が決まる、とさえいえる存在だ。今回の政変も、昨年11月に新ロシア路線を採るヤヌコビッチ政権がEUとの連合協定への署名を延期したことに反対するデモが発端だった。
 このウクライナを論じるとき、少なくとも2つの点を視界に入れておくべきだ。
  (a)極東ロシアにおけるウクライナ人の集積と日本との因縁。
  (b)「ユダヤ」。
  
 (2)(1)-(a)・・・・
 現在、極東ロシアに600万人のロシア人が生活している。その半分の祖先は「ウクライナ人」だ。
  (a)1860年、ロシアは清国からウスリー川の東側を割譲させ、太平洋への出口としての不凍港ウラジオストックの建設を始めた。ウラジオストックは、「東征」の意。ロマノフ王朝の極東への野心をむき出しにした都市名だった。ウクライナから農業開拓移民が行われ、19世紀中に6万人がウクライナから入植した。
  (b)ロシア革命(1917年)に際し、独立志向の強いウクライナ人は「王党派」として革命勢力に反抗を試みた(「白系ロシア」)。多くのウクライナ人が「シベリア送り」となった。
  (c)第二次世界大戦期、ヒトラーがソ連に攻め込んだ時、ウクライナの独立志向勢力はヒトラーと手を組んでモスクワを揺さぶった。逆上したスターリンによって、さらなるウクライナ人が「シベリア送り」となった。
  (d)(a)~(c)のウクライナ人の中には、人口の浸透圧で、日本の北海道や旧満州に移住する人もいた(横綱大鵬の父親もウクライナ人)。関東軍は、満州に流れ込んだウクライナ系ネットワークを使って、暗いな独立運動を支援する秘密工作を行った。1936年まで、ウクライナには日本領事館が置かれた(芦田均も外交官として勤務)。北のロシアの脅威を如何にして削ぐかは、明石元二郎・陸軍大佐以来の日本外交の埋め絵だった。

 (3)(1)-(b)・・・・
 ウクライナには歴史的にユダヤ人が多い(<例>「屋根の上のバイオリン弾き」)。それが、ウクライナの科学技術基盤と相関している。
 キエフ工科大学は、ソ連邦時代から科学技術を支える基点の一つで、宇宙開発が原子力分野において大きな実績を挙げてきた。チェルノブイリがウクライナにあったことは偶然ではない。
 ソ連崩壊後、「100万人超のユダヤ人がイスラエルに帰った」とされるが、主としてウクライナからだった。
 グローバルなネットワーク民族であるユダヤ人は、米国にも100万人のウクライナ系ユダヤ人が存在する、とされる。ソ連崩壊から「オレンジ革命」に至る「東欧の民主化」の背後にユダヤ勢力の支援が微妙に絡んできた。オバマ大統領のウクライナ政策にも、出身地のシカゴを中心にした中西部・東海岸のユダヤ勢力の影響力が見え隠れしている。

 (4)ソ連邦崩壊(1991年)で、ユーラシア大陸の41%(2,240平粁)を領有支配していたソ連から分離独立が進み、ロシアは532平粁の国土を失った。
 ソビエト連邦とは、ロマノフ王朝の膨張主義を継承した「社会主義イデオロギーで武装した大ロシア主義体制」だった。故に喪失感は深かった。
 2000年5月にプーチンが登場したころ、ロシアは昏迷の中にあった。ルーブルの価値は惨めなまで下落し、1985年の公式レートに比べ50,000分の1(デノミ要素を配慮すれば50分の1)になっていた。
 プーチンは、任期が切れた2008年、メドベージェフに大統領を譲り、4年後に再び大統領に返り咲くという荒技を繰り出して国際社会を仰天させ、「専制体制」を確立していった。

□寺島実郎「ウクライナ危機が炙りだした日本外交のジレンマ ~脳力のレッスン 特別編 145回~」(「世界」2014年5月号)
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