語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『荒れ野』 ~藤沢周平の見事な詐術~

2010年07月12日 | 小説・戯曲
 『闇の穴』は、武家を描いた2編、町民を描いた4編、僧侶を主人公とする1編、計7編の短編をおさめる。
 藤沢周平作品として一風かわっているのは『荒れ野』。小説のストーリーは、次のようなものだ。

   *

 山を越えれば陸奥というあたりで道に迷い、若い僧侶の明舜は野原に座りこんでしまった。日は暮れ、懐中に食物はない。
 そこに忽然とあらわれた女の澄んだ声に導かれ、村里を離れた一軒家に泊まった。粟飯に生き返る。
 女の懇切なもてなしに、あと一日の養生が、ずるずると伸び、たちまちひと月たってしまった。
 女は寡黙だが、夜は乱れた。
 食膳にのぼる干肉は美味であった。力が漲る思いがした。

 そろそろ出かけなくては、と思いつつ、女の住居をぶらりと離れること幾許か。10軒たらずのを見つけて近寄った。
 無人であった。
 人骨がひとまとめに積み重ねられていた。
 ちょうどそこを通りかかった武士が、ぽつりと言った。「あれはこのあたりに棲む鬼女の仕業じゃ」「ここは油断ならぬ土地じゃ。ご坊も喰われぬようにいたせ」

 翌朝、女が畑へ向かったのを見はからい、明舜は旅装束をつけ、忍びでた。下の別れ道までもうひと息。
 そこを女が追いかけてきた。
 白髪の老婆の形相であった。無惨にしゃがれた声、顔は痩せほそり、眼光は爛々と。口は耳元まで裂けている。空を蹴る脛(すね)は銅(あかがね)のように赤黒く痩せている。
 明舜は必死に駆けた。
 ようやく別れ道にたどり着き、ふりかえると、鬼女は台地に立ち止まっている。人影を認めて諦めたようだ。
 明舜は助けを求めて叫んだ。
 馬に乗った武士は従者に鋭い声で命じ、すばやく弓に矢をつがえた。しかし、武士はやがて不審そうな声で言った。
 「鬼とは思えぬがの。あれは百姓女ではないか」

 以下、原文をそのまま引用しよう。
 「明舜は眼をあげた。台地の上を、一人の女が背を見せ、うなだれてとぼとぼと立ち去るところだった。女の肩は丸く、髪は黒く、裾から出ている脛は日の光をはじくほど白かった。/背に悲しみを見せたその後姿が遠ざかるのを、明舜は従者に促されるまで、茫然と見送った」

   *

 見事な、賛嘆おくあたわざる結末である。
 福島県安達郡の安達太良山東麓の原野、安達ケ原の鬼女の伝説にのっかるがごとき進行なのだが、最後にうっちゃりをくわされる。
 ひとの言葉をうのみにすると、幻覚が生じ、恐怖が生まれる。恐怖にとらわれると「銅のように赤黒く痩せている」ように見えた脛は、矢をつがえた頼りがいのある武士とともに見直せば、「日の光をはじくほど白」いのである。
 かくて、明舜は安住の地を失い、ふたたび放浪の身に戻った。
 じつに寓意性に富む短編である。

□藤沢周平『荒れ野』(『闇の穴』、新潮文庫、1985、所収)
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