語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『二人で少年漫画ばかり描いてきた -戦後児童漫画私史-』/『トキワ荘青春日記』

2016年05月18日 | ノンフィクション
 藤本弘と安孫子素雄は国民学校時代の同級生である。少年期に出会った映画と漫画、ことに手塚治虫漫画に決定的な影響を受けて、二人は漫画家を志した。
 上京して2畳の部屋に二人して下宿するが、ほどなくトキワ荘に移った。
 当時としては高額な敷金3万円を置いていく、という手塚治の好意のおかげである。
 同宿の先輩、寺田ヒロオはじつに面倒見のよい人物だったらしい。彼の傘下に同じ志をもつ者同士が集まり、「新漫画党」を結成した。
 アニメに手をだして失敗した。
 青年コミックに進出するが、読者のひとことから児童漫画に回帰する。

 二人の作品だけではなくて、他の漫画家による主な作品も紹介している(巻末に年表を付す)。
 昭和34、5年を境にテレビ受信機が急速に普及し、同時期に貸本店が衰退して(昭和37年の後半に終焉)、貸本漫画家が週刊誌へ進出した。
 こうした文化史的証言もふくんでいて、興味深い。

 知覚心理学者が喜びそうなデータもある。
 たとえば、影になって見えないはずの部分も詳細に描く、といった少年漫画の特徴。あるいは、「おばQ」の主人公は当初は頭の毛が10本、太りじしだったが、連載5、6回目には頭毛は3本に減少し、贅肉をおとしてスリムな体型となった。ゲシュタルト心理学の簡明化の法則を思わせるではないか。

 かにかくに、『二人で少年漫画ばかり描いてきた -戦後児童漫画私史-』は、戦後の少年漫画史の貴重な資料である。それ以上に、漫画ひと筋のまじり気のない情熱がさわやかだ。

   *

 『トキワ荘青春日記』は、昭和29年から昭和36年まで、二人が20歳から26歳まで、トキワ荘で過ごした7年間の記録である。大学ノートで20冊を越える日記に加えて、欄外面白付録と称する頭注がある。登場人物や雑誌の解説や昭和40年の物価一覧(ラーメン40円ほか)である。写真もある。当時と現在の。さらに「トキワ荘の同窓生」たちとの鼎談、漫画家略伝、カットや作品のさわりが挿入されている。
 ただの日記がじつに豪華な本に変貌している。

 新書版である。豪華というのはなかみのことだ。
 金銭的な豪奢のことではない。むしろ生活はじつに貧しく、慢性的な金欠病と呼んでもよかった。何度も書き直しを要求されたり、注文をこなしきれずに穴をつくってその後一時干されたりもした。
 順調満帆ではなかったにもかかわらず、「毎日がお祭りのような、ぼくたちの黄金時代」だったのは、個性的で活発、暖かみのある同業者との付きあいがあったからだ。

 トキワ荘は木造2偕建て、全22室。各室とも4畳半。
 手塚治虫が転居した後、二人はその部屋を借りた。入居当時「スポーツマン佐助」や「背番号0」を描いていた寺田ヒロオがいたし、やがて鈴木伸一、森安なおや、少し遅れて石森章太郎、赤塚不二夫が加わった。さらに、トキワ荘の住民ではなかったが、永田竹丸、つのだじろうが日参した。
 勤務時間に縛られることなく(ただし締切日に縛られ)、各自やりたいことをやって、楽しく充実していたらしい。
 管理社会の、しかも21世紀にはいってタガの緩んだ管理社会の片隅に棲息する者は、羨望の吐息をつくだろう。

□藤子不二雄『二人で少年漫画ばかり描いてきた -戦後児童漫画私史-』(毎日新聞社、1977)
□藤子不二雄『トキワ荘青春日記』(カッパブックス、1981)
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