語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【佐藤優】青春の旅 ~プラハ・ワルシャワ~

2013年02月09日 | ●佐藤優
 (承前)

 エジプト航空機は年代物のボーイング707で、羽田空港を立ってから40時間、チューリッヒ空港に着いた。チューリッヒで一泊。ユースホステルでドイツ人のバックパッカーから勧められたシャフハウゼンの滝を見物し、この町(ドイツとの国境)に一泊。
 自分でも驚いたが、高校1年生1学期を終えただけの貧弱な英語の知識で、ドイツ人と政治情勢や日本文化に関する意思疎通ができた。これで東欧に入る不安が少し解消された。
 シャフハウゼンから2等列車でシュトゥットガルトまで行き、そこからプラハ行きに乗り換えた。乗り合わせたドイツ人女性(妹が同行)は、佐藤は後になって知るのだが、「プラハの春」に関与したチェコ人と結婚した人らしい。ワルシャワ5ヵ国軍の軍事侵攻によって潰された後、国際結婚をした知識人の出入国が難しくなり、外国人がチェコ人のパートナーを訪れることが多くなった。
 細部は省く。国境を越えてプラハに着いたのはよかったが、ホテルがとれない。ようやくその夜だけは泊まる場所を確保したが、その後の予約ができない。社会主義時代の東欧は慢性的なホテル不足で、特に観光シーズンの夏のプラハはホテルの予約をしないで訪れるのは無謀だった。
 翌日早朝、ワルシャワへ向うべく、国営旅行者「チェドック」で手続きした。カウンター前で半日待ち、21時発の2等寝台を買った。疲れ果ててベンチに座り込み、ひたすら列車がやってくるのを待った。

 プラハの印象は散々だったが、ワルシャワではプラハとまったく異なる愉快な生活が待ち受けていた。5日間滞在した。
 ワルシャワ市の中心にあるユースホステルは、ベッドはしっかりしているし、管理人は親切だった。管理人は、ハンガリーへ向けて出立するとき、有益なアドバイスをくれた。当初、列車で移動するつもりだったが、ハンガリーだけでなく途中経過するチェコスロバキアのオランジット・ビザを持っていなければならない。写真を4枚用意して、チェコスロバキア大使館に半日並んで書類を提出し、翌日、また半日並んでビザを受け取る。手数料を20米ドルくらい取られる。管理人は、東欧間は航空運賃が安いからブタペシュトには飛行機で行くように、と勧めた。手間と経費を考えれば、寝台列車で移動するのとほとんど変わらない。助言にしたがい、空港のポーランド国営航空に行くと、切符は簡単に買えた。代金は50米ドル足らずだった。
 さて、ワルシャワだが、物価がおそろしく安い。1日当たり10米ドルを強制両替させられるのだが、ユースホステル代が1泊3米ドル程度、食事もユースホステルに隣接する大衆食堂でとると1食1米ドル足らず。ワルシャワ唯一の中華料理店「上海飯店」で酢豚を食べても5米ドル程度。どうしても余る。出立の日に残った20米ドルは、親しくなった東ドイツの大学生にプレゼントした。
 ポーランド人は親日的で、とても親切だった。ユースホステルの隣の大衆食堂で食事をしていると、30歳代くらいの男4人から、たどたどしい英語で「日本人か」と話しかけられ、感じのよい連中なのでしばらく話を交わしていると、家に誘われた。少し不安だったが、思い切ってついていった。4人のうち一人に前日子どもが生まれ、奥さんは産院に残し、男たちでパーティをする、とか。新興団地の上階、80平米くらいの部屋で、日本の標準的な3LKDの団地よりずっとよかった。ショットグラスにウオトカをつがれ、飲み干した。外交官になってから浴びるほど飲むウオトカの初体験だった。男たちは、秘蔵のポルノ写真を見せてくれたり、ポーランドの古銭、バッジ、テーブルクロスを土産に持たせてくれ、20時過ぎにタクシーを拾ってユースホステルまで送り届けてくれた。
 この体験で、ポーランドに好感をもつとともに、東欧社会主義国は食料事情や住宅事情が日本よりもよい「豊かな国」だという印象を強くもった。
 外交官になってから実証的に調べたところ、ワルシャワ、プラハ、ブタペシュトなどの1970年代半ばの生活水準は、特に食に関しては西ヨーロッパより高かった。ソ連でも共通することだが、この頃、共産圏では一種の愚民政策がとられ、食品、酒などの供給を充実し、生活レベルで国民の不満が出ないようにしていた。ソ連・東欧でも共産党や公営企業の幹部は長時間拘束され、実によく働く。しかし、一般労働者は働かない。1日の実質労働時間は3~4時間で、土日には郊外の畑付き別荘で家族とゆっくり過ごす。夏の休暇は2ヵ月で、政府機関や国営企業の負担で、3食付きリゾートホテルのようなもの(「サナトリウム」)でゆっくり休養する。東欧では、共産圏内の海外旅行も当たり前になっていた。
 それは、イデオロギーに関心を持たず、日常生活の「小さな物語」を中心に生きていく安定した社会だった。東側が理想的な社会である、といった幻想を持っているわけではなかったが、西側のプロパガンダで言われているような、「圧政の下で呻吟する国民が自由を渇望している」わけではなかった。佐藤が今にして思えば、結局、人間は環境への順応能力が高い保守的動物なので、どのような体制にでも適応して、それなりに快適な環境を作っていく、ということなのだろう。そして、その環境から作られる文化に人々は愛着をもつ。東欧のマルクス・レーニン主義は、社会に根づく前にナショナリズムに飲み込まれてしまったのだ。
 佐藤は、チェコスロバキアでもポーランドでも、マルクスやレーニンの話は一度も聞かなかったし、肖像画も目にしなかった。彼らの肖像画を初めて目にしたのは、ハンガリーの、それも首都ではなくバラトン湖畔でのことだ。

 (続く)

□『私のマルクス』(文藝春秋社、2007。後に文春文庫、2010)
     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 【佐藤優】青春の旅 ~東欧... | トップ | 【政治】何事も学ばず、何事... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

●佐藤優」カテゴリの最新記事