語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【震災】「戦後」の終わり、「災後」の始まり ~東日本大震災復興構想会議~

2011年04月17日 | 震災・原発事故
(1)関東大震災との違い
 関東大震災における「帝都復興院」に相当する「東北復興院」構想で問題になるのは、後藤新平にあたる人物があらわれるか、その復興方式が現在もふさわしいかどうか、だ。後藤新平は、政党を否定し、薩長藩閥の雄をパトロンに据えたうえで、それを背景に国家プロジェクトを実現していった。植民地の台湾や満鉄経営は、それで成功した。帰国してからも、郵便、電信・電話、鉄道、さらには東京市長として帝都改造計画など大きな事業を数多く手がけた。政治的には失敗したが、技術的には成功したところがあった(功罪半ば)。政党政治とデモクラシーに行く手を阻まれたパトロンとプロジェクト型によって今後の東北復興が可能か、懐疑的だ。
 また、帝都復興とは異なり、(a)今回被災した地域は格段に広範囲に及ぶ。しかも、(b)平地だけでなく山あり谷ありと起伏に富む。さらに、(c)津波で流されてしまって最初から造り直さなければならない地域もある。加えて、(d)被災したのは農業や漁業といった第一次産業の盛んな地域であり、震災前の産業を再生するのか、別の産業に転換するのかが議論となるだろう。
 関東地方の電力供給にさまざまな影響が生じることを考慮すれば、東北のみならず東京も、ひいては日本全体の産業構造やエネルギー構造の転換も迫られるだろう。
 しかも、原発災害はとどまるところを知らず、人が住めない地域を作り出すかもしれない。国土再建、被災者の生活再建に長い時間が必要となる。移住(近代初の「民族大移動」)もあり得る。
 今後の国土計画は「新しい国づくり」だ。大胆なテーマ設定と柔軟な構想力が必要になる。

(2)阪神・淡路大震災との違い
 (a)阪神・淡路大震災では、被災地域がある程度限定されていた。(b)阪神・淡路大震災では、建物の倒壊と火災による被害が大きかった。(c)帝都復興とも共通するが、阪神・淡路大震災では、「復旧」に近いものだった。10年経てば復興の雰囲気を味わうことができた。今回は、まちがいなく10年を超える長期計画とならざるを得ない。
 阪神・淡路大震災でも復興院設置の動きがあったが、結局は首相の諮問機関、1年限定の「阪神・淡路震災復興委員会」が設置された。委員長の下河辺淳元国土庁事務次官が培ってきた個人的ネットワークを使って復興策を提言した。
 今回、このような委員会程度で復興が実現できるか、疑問だ。自治体が地元の声を汲み上げるのは当然として、その枠を超えて、新しく創設される復興組織がある程度オールマイティに「選択と集中」を行う必要がある。危機管理体制下においては、国家主導と地方分権とを弾力的に考えていかざるをえないだろう。

(3)戦後復興との違い
 戦後、名古屋では碁盤目のような都市計画を実施し、100メートル道路を設けた。しかし、東京はそうならなかった。空襲前と同じ狭い道路沿いにバラックが建っていって「復旧」されたのである。各地域が別々に復旧・復興していった。
 今回は、被災地域一体で、被災していない地域とのバランスを考慮して「新しい国づくり」を行わなければならない。
 空襲はある程度予想がついたが、地震は来襲する時期・規模の点で予想がつかなかった。この点でも異なる。
 敗戦時には、軍国主義や15年戦争からの「解放感」があり、それが明日への希望につながった。今回は、解放感も希望も、どこにも見いだせない。悲観論、シニシズム、新・新宗教が前面に出てくる可能性もある。

(4)「戦後」の終わり、「災後」の始まり
 15年戦争は、日本の内外で日本を語る際の基軸になった。「戦後」は終わらず、延びていくばかりだった。「戦後」が終わるためには、次の共通体験が必要だった。そこに容赦なく「3・11」がやってきた。
 「3・11」が今後日本人の共通体験となるのは、天災と人災の複合した形だった点が大きな理由だ。地震・津波は天災だが、福島第一原発事故は人災の側面が大きい。直接の被害は大きくなかった東京を始めとする地域でも、電気・ガソリンなど、空気のように享受してきたものが現実に止まったり無くなったりすることが実感されて、多数の人がかなりのショックを受けたはずだ。しかも、食料や物資の供給お不安定な状態は、今後相当長く続くだろう。
 こうした状況で、日本人の基本的なものの考え方や行動様式を、長期的には大きく変える契機となる。「3・11」の後に「災後」という新しい時代が始まると考えるゆえんだ。
 ただし、実はすでに日本社会の実態がそれを求めていた点において、「偶然的必然」だったことに留意したい。近代化路線はすでに限界を見せていたが、新しい社会像への自己変革はとうてい実現できなかった。現状維持の力はそれほど強く働くものなのだ。「日本社会の閉塞感」「日本人の内向き志向」は、外圧でも内圧でもなく、自然災害によって否応なく変わらざるをえなくされてしまった。

(5)「災後」の社会
 これまでの日本人は、時間厳守で勤勉に外と張り合ってきた。国際化・情報化によって、さらなる変革・進歩という強迫観念に追いつめられてきた。
 日本は今後、GDPで世界第一位になることはないし、数値で表される指標は右肩下がりで落ちていくのは間違いない。かかる認識を前提に、「スローライフ」的な生き方がますますはっきりと受け入れられるようになるだろう。IT化進展の一方で、高齢者のもつ経験や知恵が評価されて、高齢化と無理なく共存する社会をめざすことになろう。東北新幹線に「はやぶさ」が登場して1週間で運行できなくなった事実は、従来のようなスピード重視を象徴的な意味で問い直す契機になった。
 政党再編は必至だ。世界に伍していくイデオロギーを生み出し、国際化を全面的に引き受ける政党が必要になる。他方、「ガラパゴス」化をよしとする政党も現れるだろう。
 「災後」には、近隣各国をはじめ、世界が日本という存在と自国との関係について再考することになろう。たとえば、核疑惑のある北朝鮮は、核開発と核管理がいかに困難なことかを認識したはずだ。また、安全保障における米国の位置づけが大きくなるだろう。
 アラブ世界の民主化革命と日本の自然災害においてツイッターなど新しいツールの実験が行われた。このことが今後の世界のあり方に与える意味は小さくはない。

(6)政治のあり方
 政権交代後の1年半、政治の劣化がますます進んだ。「3・11」は、政治の劣化にビンタを張った。本質的でないことにエネルギーを使っている余地はない。リーダーシップを確立し、政治的意思決定とその実行のスピードアップを図らねばならない。スピードアップのためには、もうひと工夫もふた工夫も必要だ。
 今後は、これまでと異なり、リーダーシップを発揮しやすい状況になるはずだ。これまでは、目前にありとあらゆる課題があり、そのなかから優先順位をつけて政策を絞りこみ、意思決定・実行するという段階で失敗してきた。今後は、ともかく「新しい国づくり」が最優先かつ最大の課題だ。票集めのための無駄な政策を実行しないで済むはずだ。さまざまな問題点を整理して大きなビジョンを描き、そのビジョンを実行するために政治力を結集していく。それによりリーダーシップの確立がはかられていく。ただし、そのためには後藤新平的“異端的人材”を選び抜かねばならない。かかる人材がいるのか、いないのか。
 「3・11」からの復興に真剣に取り組まねば、この国は本当に滅んでしまう。「災後」社会は、「最後」社会になりかねない。既成事実が積み上がって一体的な復興策がとりにくくなる前に、震災から100日以内に復興に向けた知恵を出し合う場を作るべきだ。

 以上、御厨貴「『戦後』が終わり、『災後』が始まる」(「中央公論」2011年5月号)に拠る。
 なお、4月14日に初会合のあった「東日本大震災復興構想会議」の議長は五百旗頭真・防衛大学校長、議長代理は安藤忠雄(建築家)および御厨貴・東京大学教授である。
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