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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 「蒲田いまと昔展」(梅ちゃん先生番組展)を見て大森・蒲田の昔を探るその2

2012年05月15日 | 大森町界隈あれこれ イベント
kan-haru blog 2012 昭和27年田園調布駅 
      
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大田区の戦前・戦後と復興期
大田区には、1938年(昭和13年)に転入し、当初は産業通りの事務所の2階の借家に住み、一時期茨城・栃木で学童疎開生活をし、灰燼の焼け跡に引き揚げてガス会社脇の間借り生活を経て、現在は大森町駅近辺の住宅で過ごしています。幼稚園、小・中・高校から大学に通い、1955年(昭和30年)代の復興期には、残業・休日出勤とがむしゃらに働き、世界2位の経済大国になった大田区で人生を送った当事者としては、「蒲田いまと昔展」を見て素直な気持ちにはなれないのです。今後も何時災害に遭うか分らない時代を、これからの世代のために、大森・蒲田の昔の出来事を出来る限り正確に伝えて行かなければならないと感じました。
蒲田いまと昔展の展示会場で、大田区での昔の生活を想い起しながら展示品を見て行きます。

 大田区の戦前・戦後と復興時の情景展示(:ようこそ蒲田への歓迎旗、:大田区の魅力再発見の展示コーナ、:大田区の学校行事、商業と農業写真)

1941年(昭和16年)12月8日に世界大戦に突入し、敗戦が濃厚となった1945年(昭和20年)4月15日の城南空襲(「大森町界隈あれこれ 大森町大空襲から67年 ガス会社、特殊鋼、森ヶ崎一帯を除いて一面の焼け野原その1」参照)と、5月に入り終戦までの17回の空襲により、大森・蒲田では8万戸以上が焼失し30万人以上が住む家を失いました。写真右の中央に薄く見えるのは、戦災被害をまぬかれた、大森ガス会社のガスタンクです。

 大森・蒲田の空爆戦災跡昭和20年(:戦災の矢口東小学校昭和20年5月、:戦災の大森東5丁目谷戸町会昭和20年4月、:大森6丁目の戦災昭和20年4月 石川光陽(大田区史下巻から))

前回ブログその1のトップ写真の大森ガス会社のガスタンクは、5歳で千住から転入した産業通りに面した借家での、物干し台から日常見られるガスタンクは、朝は満タンになり、夕方には消費されて減じたタンクの姿は、大森の戦前・戦中の少年時代のノスタルジアな風景でした。
幸いと、城南空襲では大森ガス会社とその北側にあった日本特殊鋼は、爆撃を避けられ被害を蒙らずに済みました。大森ガス会社は、1908年(明治41年)に建設され営業を開始して、1987年(昭和62年)に閉鎖されるまでは、大森町はガスタンクの見える街でした。
しかし、戦後の復興のため大森ガス会社のガスタンクは、羽田空港の空路の障害となるため大森第1小学校から南方の産業通り際に移転されましたが、今ではガスタンクは撤去され、大森町の光景であったガスタンクの姿は無くなりました。

 かっての大森町はガスタンクの見える街(:東5丁目の海苔業家とガスタンク、:空路障害のため移転したガスタンク、:大森警察署屋上から望む移転したガスタンク)

焦土と化した大森・蒲田も電柱が建ち、商店が並び復興が始まりました。食料品、衣料品などの生活に必要な供給が増加して、配給制度が1950年(昭和25年)から廃止されましたたが、道路などが舗装されていなく、雨が降るとぬかるみになります。戦後、10年が経過しても、駅舎などはバラック建てのままです。現在の京急平和島駅の前身は、学校裏という駅名であり、開業時には環7通りの南側の寄来尋常小学校(現在の大森第1・開桜小学校の前身)の裏に出来たので、付けられた駅名です。

 戦後復興が始まるの大森・蒲田(:復興が始まる蒲田駅東口昭和24年、:京浜急行学校裏駅昭和32年、:駅舎がバラック建ての東急蒲田駅昭和30年(昭和30年代の大田区から))

昔の展示写真を見て行くと、何点かの昔の実物の展示が出展されてありました。実物展示の1つは肥桶です。肥桶をご存知の方は、あまりおられないのではと思いますので説明しますと、昭和20年代以前のトイレは糞尿を瓶にためておく、汲み取り便所でした。糞尿が一杯になると汲み取りやさんが、柄杓で汲み取って肥桶に入れて担いで運び、複数の肥桶を専用のリヤカーで糞尿処理場まで運搬していたのです。昭和30年代の半ばになると、汲み取りの作業がバキュームカーとなり、現在では水洗トイレと進化したのです。

 汲み取り式便所の肥桶(:肥桶、:大江戸博物館で孫が肥桶担ぎに挑戦(2007年)、:肥桶運搬車昭和35年'(大津市歴史博物館から))

昭和時代の中流家庭でのお茶の間洋品には、衣服や小物などを整理する和箪笥と洋箪笥に小物箪笥、家庭用足踏みミシン、卓上電話器、ちゃぶ台、重箱、鉄瓶、食器膳、物入れ、そろばん、筆記具、火鉢、お釜やおひつなどが必需品でした。昭和20年代後半から昭和30年代前半の食事は、肉のおかずはまだ少なく、ご飯はかまどやガスで焚いていました。

 昭和の生活用品(:戦前の中流家庭でのお茶の間用品、:戦前の一般家庭での食事と食事用品、:昭和30年代一般家庭の夜の食卓(昭和30年代の大田区から))

行ってみよう博物館・記念館コーナーでは、大田区の博物館や記念館が紹介されていました。大田区では、大田区ミュージアムマップ(平成23年3月)を発行しており、「大田区ミュージアムマップ」とそのガイドの「大田区ミュージアムガイド」は、大田区役所ホームページ「大田区ミュージアムマップ(民間施設含む)」からダウンロードができます。(「大森町界隈あれこれ 大田区のミュージアム 民間ミュージアム(美術館、博物館)紹介展示会」参照)

 行ってみよう博物館・記念館コーナー(写真拡大)

おおたうまいもの紹介コーナーでは、大田区商連のお店のうまいものが展示してあり、新名物大田区限定品の「東京大田汐焼きそば」の幟が立っていました。また、展示会場の東方にある「梅屋敷商店街」の紹介コーナーもありました。蒲田周辺には19軒の温泉施設があり東京23区内では最多の場所がら、大田区のお風呂屋さんコーナーには、銭湯絵が展示してある他、銭湯の小道具などが並べてありました。

 おおたうまいもの紹介、お風呂屋さんコーナー他(:おおたうまいもの紹介、:梅屋敷商店街紹介コーナー、:大田区お風呂屋さんエリア)

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