登坂車線

ピギィ

6日目

2020年04月27日 22時48分40秒 | 夏合宿
朝、始発列車のディーゼルエンジンの起動音で目が覚めた。浦さんが丁度この列車に乗っていたらしく駅横で立てていたテントを目撃されていた。そんな事を知るはずもなく、適当にパスタを作って食べた。


真横


この日のルートは足の痛み次第で決めることにした。完治していたらオロロンを小樽までひとっ走り、少し和らいでいたら深川付近まで輪行で戻って適当に走る、全く改善してなかったら病院行ってフル輪行。結果的に昨晩サロンパスを貼ったことが功を奏して大分痛みはマシになったが、流石に140kmは長いなということで輪行しながら小樽を目指すことにした。




留萌本線は見てもらうと分かるようにかなりのローカル線だ。それも廃線が以前から噂されるというかJRは早く切り捨てたい意志を示しているレベルだ。最初9時発のやつで輪行しようと思ったが、新神戸事件のように何をしでかすか分からなかったので8時の列車に乗ることにした。




テントを片すのにも慣れていたので余裕を持って輪行の準備ができた。留萌駅には若い駅員さんが2人いていきなり配属されたのがここなら大変やろなと勝手に哀れんだ。それでも音威子府とか知床斜里みたいな駅よりはマシかもしれない。JR北海道は苦しい経営状況(らしい)ながらも随所に手の込んでいる箇所が見受けられて、僕が好きな鉄道会社の一つだ。北海道に住んでいる訳でもないが、この留萌本線だけでなく他のローカル線も魅力しかないので何とか存続させて欲しい限りである。話を戻して若い駅員の片方に18切符を発行してもらい列車に乗り込んだ。乗客は僕の他に3人だけで色々と察するものがあった。ちなみにこの18切符を使って夏休みの間に本土最南端まで行くことになる。


指が邪魔や

40分ほど輪行して石狩沼田という駅で降りた。ここで降りた理由としては、どうしても新十津川という街に行きたかったのとホクレンが近くにあったので昨日のリベンジを果たすべくというものだ。ここから新十津川まではさほど遠い道のりではないので足も耐えるだろうということで40kmばかり走ることにした。



北竜町の道の駅


無事に赤フラッグも揃えこの時点で3色揃った。無駄に金がかかっているが誰もいない道の駅に寄りながら南に進んでいった。



道中で信号待ちしている間に突然おばちゃんに話しかけられなんやと思ったらひまわりを突然渡され「頑張ってね!」とだけ告げられ去ってしまった。おばちゃんが歩いていった方向には店先にたくさん花を並べたお花屋さんがあった。今まで無かった体験だったが心が温まった瞬間だった。


今調べたら酒屋さんだった。



死んでるんかと思ったら寝てるだけやった

馬が放牧されていた。次の日にここを走った重政さんもこの馬の写真を撮っててシンパシーを感じる。




やはり1晩サロンパス貼っただけで捻挫は完治するもでく徐々に痛くなっていった。無理せずゆっくり進もうと思いちんたら漕いでいたら、だんだんいくら踏み込んでもスピードに乗らなくなっていった。まさかと思い止まってみると後輪がパンクしていた。僕はこの時まで1度も走っている最中にパンクなどした事がなく、引退までこれを続けて文集の自慢欄に「合宿中のパンク0」を堂々と書きたかったのにその夢が潰えた。それでも治さないと先に進めないので川の土手の上でパンク修理し始めた。

しかし修理している間にどんどん雲行きが怪しくなってきて後輪に空気を入れている間に降ってきた。周りには雨を凌げるような建物は一切なく、このままでは風邪を引くと思いすぐに出発した。ところが雨はどんどん勢いを増し、顔に雨水がかかりすぎて本気で死にそうになった。水中でもないのに人は溺れることがあるのだと学んだ。流石に危ないと思い暫く立ち竦んだ。

局所的すぎん?

ひまわり貰ったばかりなのにパンクするわ雨に打たれるわ散々だった。この時は生花だと思っていたが何日経っても枯れないのでよく見たら造花だった。10分ぐらい経つとさっきまでの悪天が嘘のように晴れ出したのでやっと走り始めた。



ここから数キロ走って新十津川の街に出た。ここには留萌本線と同じく北海道を代表するローカル線の一つである札沼線の終着駅があり、去年来れなかったので今回是非とも訪れてみたいということで寄ることにした。








写真にもあるようにこの路線(正確には1部区間)は廃線が決定しており、つい先日実際に消えてしまった路線だ。本数も1日1本という極限の路線で逆に有名になっていた。濡れた体を駅舎のベンチで暫く休ませ駅を後にした。



昼飯

もう15時を回っていたのにも関わらずまだ飯にありつけていなかったので滝川の山岡家に滑り込んだ。この時のラーメンは本当に身に染みた。1回の頃学校終わりにクロスで名古屋行った時深夜11時に大津で食べた天一よりも染みた。腹一杯になりすぎて動けず1時間ぐらいしてから店を出た。


去年榊原がチャリを治してもらった自転車屋さん

足が痛くなったのと時間も大分経ってしまったのもあって砂川から輪行することにした。砂川の駅前にはランドリーがあったのでプレ中1回も洗濯していなかった僕は着ていた服も全部脱いでぶち込んだ。(1回も着ていないパーカーと水着を着た)しかもこのランドリーの素晴らしかった点はシャワーが付いていてちゃんと10分間浴びることができた。浜頓別以来風呂に入っていなかったので助かった。


砂川からは普通列車で札幌を目指した。この区間を輪行するのは2日目以来だ。


道庁


わざわざ北海道道庁に行くためだけに札幌駅で途中下車してチャリを組み立てた。次の日も札幌に来る予定だったが荷物どうするか面倒くさかったのでまた輪行して小樽に向かった。



1年振り

フェリー組を迎えるべく小樽に来た。彼らには何も言わずにフェリー乗り場に向かった。


やあ

フェリーは丁度着いたタイミングで直ぐにチャリが大勢降りてきていた。自分と同じような装備のチャリばかりだったがこいつは降りてきた瞬間に分かった。再会した瞬間は本当に嬉しくて、僕が犬なら尻尾を振りすぎて腱鞘炎になるレベルだった。行く場所も決めていなかったのでとりあえず小樽駅に行くことにした。



札幌にチャリを置いてきた北澤氏

無事に5人揃ったので写真を撮りまくっていた。1人の時でも割と撮っていたがここからはペースがまるで違う。ソロプレ(と言っても複数人での行動多め)の醍醐味はこの時の為にあるのではと錯覚してしまう程みんなの存在は大きかった。この後なか卯に行きお互いのここまでの道中の思い出を語り合った。



フェリー乗り場近くのセコマにとりあえず寄った。店がワンオペだったにも関わらずポイントカードを作る男達。





その後オスパの露天風呂で一生喋ってた。何を話していたか詳しくは覚えていないけどずっとテレビを見ながら浸かるのと出るのを繰り返していた。休憩室で夜を明かそうと思ったが真っ暗で入るのを躊躇ったので去年48期の先輩らと寝た公園に行くことにした。





この時点で夜1時半だったが疲れを忘れて寝ることさえ惜しく感じられた。翌日から3週間以上行動を共にするのにも関わらず何かしら話したかった。寝ようと思ったがカモメがうるさすぎて結局みんな寝れなかった。




























5日目

2020年04月22日 21時22分31秒 | 夏合宿
どうやら翌朝の写真を見た限り、ちゃんと神楽岡公園でテントを張って寝ていたらしい。なんせここに泊まるのは2日ぶりだったので記憶がごっちゃになっているのだが、夜トイレに行く時にふと振り返るとキタキツネが後ろを付いてきていてので追い払った。西川さんがパッキングロープ片手に猫を追いかけ回したエピソードを思い出した。別に札幌でも熊は出没するし旭川でキツネが出ても何もおかしくないなとか考えた。もう北海道も5日目。何が起きても動じぬ精神を知らぬ間に鍛えている気がした。



結局仙台まで天気の子は先送り


翌朝。起きるのが遅すぎて他にも数機あったテントはひとつも残っておらず僕だけ取り残されていた。わんちゃん先日話しかけてくれたおっちゃんがまた通らんかなとか淡い期待をしながら米を炊いて作った。



お手の物

この日の行先は全く決めていなかったので、Twitterのアンケート機能を使って決めることにした。その結果留萌まで行くことにした。本来オロロンを走ったら留萌に出る予定だったので、実質計画が一日が早まった。



こうして2日(初日もほぼ敷地内で寝たので3日)お世話になった神楽岡公園を後にした。全国各地で野宿をして回っているが、2回以上止まったことがある地点はもうもう実質実家のようなものだ。リストアップしてみると、小樽の海沿いの公園、天童、大津、甲山、御前浜、淡路、尾道、別府。これらはいずれも語り草となっているような由緒正しき場所ばかりだ。特にこの神楽岡公園については初めてテント泊をした補正もあるのだが自信を持ってオススメしたい。それぐらい思い入れのある場所になってしまった。そもそも旭川という街が好きすぎて永住を希望したい。ななみんにも会えるかもやし。そうして去年の思い出を回収しながらやっと青森に向け南下を始めた。以下写真集






LINEのカバー画像




イオンの駐輪場






終わらない終わらせない発祥の地



ふじえんから石狩川の土手を下流に向け走り始めた。旭川から札幌方面に出るには必ず神居古潭という渓谷を通ることになる。ここは自然地理的にも鉄オタ的にも魅力の詰まった場所である上にサイクリングロードもあるので、僕にはこれ以上ない最高の場所だ。去年のプレでも訪れた場所なので当然立ち寄ることにした。

入口










函館本線の旧線と旧神居古潭駅がこのように整備されており、往年の雰囲気を偲ぶことが出来る。更には昔のトンネルが残っていてそこを自転車で走ることができるのでここを通らない手は無いだろう。全国的に廃止なった線路をサイクリングロードとして整備している場所は多いが(鹿児島の吹上サイクリングロードもこれ)、ここは景色の良さも相まって僕は最高に好きだ。



数十分程でサイクリングロードは終わりそのまま深川の街まで進んだ。久々にすき家があったので昼飯にしたが高校生バイトの態度が悪すぎて笑ってた。彼は元気にやっているだろうか。更生してクビになってなければいいけど。慣れしたんだ味をあっという間に平らげ留萌に向けまた走り始めた。

ノスタルジー

深川から留萌までは50km。間に軽い峠を挟むだけの1本道だ。前日の100kmに比べたらなんてことないだろうと思っていたのがフラグだった。フラッグのエリアが変わっていたので秩父別という町のホクレンに買いに行ったが断られてしまった。これに関しては無理もない。本来ライダー向けに始めたキャンペーンなので、こんな意味のわからん装備のチャリに乗った何処の馬の骨かもわからん奴に売っていただけるでもありがたい。だが買えなかったのは初めてだったので少ししょげた。


秩父別から15km進んだところから峠に入った。この時点で左足首に少し違和感を感じていたが足だけは丈夫やし大したことないやろと言い聞かせ登り始めた。交通量も少なく道も広いので特に気にする事はなかったのだが、ペダルを回すにつれ足首の違和感は痛みに変わっていった。そして頂上に着く頃には激痛のあまり路肩に倒れ込んでしまった。

留萌市に入った

考えはいくつかあった。幸い道沿いには留萌本線が通っていたので留萌か深川まで輪行、無理矢理自走、もしくは吉川さん理論で乗っけて行ってもらう。まず人見知り陰キャな上におじさん受けも良くない(知らんけど)僕には3つめの選択肢は消えた。輪行するか自走するか。この地点から留萌の街までは20kmちょっと、下り坂ならなんとかなるやろとなり走ることにした。しかし下りといえども全然スピードが出なかった。ペダルを全然回していないので当然っちゃ当然なのだが、余りにも進まないので無理矢理漕いだ。弱ペダのインハイで真波が羽を生やした場面ばりに回れと念じて進んだ。

なお翼は出ない模様


2時間程かけて街に出た。足は限界だったが半分以上下り坂だったのが幸いだった。真っ先にツルハドラッグに滑り込みサロンパスを買った。重政さんや浦さんほど過酷な道中だった訳ではなかったが、市街地に入った時の喜びはそう言葉にできるものではなかった。ここに最初に集落を作り始めたアイヌの人々にただ感謝した。たまたま浦さんが留萌のライダーハウスに同じ日に滞在していたが、ライハ童貞の僕は色々考え躊躇してしまった。今思えば転がり込んだ方が身のためではあったが多少はね。セコマで夜飯を買い日が暮れる前にもうテントをたてた。


この日のてんばは駅の横にある公園という野宿には最も不向きな場所だが、一刻も早く休みたかったのと公園が広すぎて別に邪魔にならんやろということで脳死でテントを組んだ。地元の人にも話しかけられたが優しい人たちばかりで串木野に似た雰囲気を持つこの街が一気に好きになった。

夕日

めし


飯も食い終わりダラダラしていると突然榊原から電話がかかってきた。あいつら今日出発よな、まさか僕が1日ミスったかと思いながらでると、まろの後輪にパッキングロープが絡まり取りたいのだが3人とも禄に後輪を外した経験がなくビデオ通話で助言をして欲しいとの事だった。2回にもなって後輪外せへんとはどういうことやねんと思いつつも、久々に声を聞けて嬉しかった。単純なのでね。結局同じ船に乗り合わせた通りすがりの高校生平田くんのおかげで彼らは無事に船に乗ることができたらしい。ありがとうございました。

ロープが取れた瞬間のまろにき



またしばらく経ってから重政さんからこんなクソリプ(失礼)が送られてきた。


先輩も疲れてるやなと在り来りな感想を覚えつつ自分も頑張ろうと思えた。1日留萌で待って先輩を出待ちして着いていこうかというカスみたいな考えが一瞬脳裏に浮かんだが、どうせなら青森で再会したかったのでやめといた。明日頑張ればみんなに会える、その言葉だけを信じて寝た。

















4日目

2020年04月19日 15時48分16秒 | 夏合宿
迎えた4日目。この頃になると野宿の生活リズムが完成され日の出と同時に目を覚ましても苦ではなくなっていた。この日も例によって5時半頃に目を覚ましてゴロゴロしながら時間を潰した。確か朝飯はこの時作らずに7時ぐらいには道の駅に人が集まってきたので片付けた。3人で写真を撮り、つむぐさんはこの風の中200km離れた紋別という町まで走るべく先に出発された。凄すぎます。僕らは朝飯を食べるためにセコマへ寄った。



ありがとうございました!


ここからはソロプレを一時解消してペアランで最北を目指すことにした。予めそうする予定だったのか、或いは目的が一緒やしどうせならという流れになったのか覚えていないが、久しぶりに誰かと走れることを僕は喜んだ。そうしてセコマを出発した。


今日のルートは浜頓別から宗谷岬経由で稚内まで走る至って単純な行程で、プレ初の輪行無しでちゃんと走る日だ。でも結局するんですけれどもね。走り始めてすぐにエサヌカ線に向かうべく細い横道に入った。



熊が出るぞ

正式名称は猿払村道浜猿払エサヌカ線と言うらしく、2018年度文集で高階さんが走った時の写真を載せていて行くしかねぇとなり通って見ることにした。どんな道かは写真を見てもらえたらそれだけでいいです。







地平線まで一直線に続く道、曇り空で横風(というか向かい風気味)が強く吹き付けるがまるでこの世とは思えない世界の中を走った。そう簡単に訪れることが出来ないからこそ、この景色は価値があるものだと感じることが出来た。



記念写真


ただバイクや車が結構な頻度(大体他県ナンバーかレンタカー)猛スピードで通過していくので行かれる際は気をつけてください。やがて猿払の街に出て道の駅に寄った。


トップお疲れ

猿払のセコマに旭川ナンバーのベンツが止まっていて、もしここでぶっ壊れたりしたら旭川のディーラーまで持っていかなあかんのか的な話をした。


遠すぎ

いよいよ最果てに向けここまでぽつぽつあった集落も殆どなくなり自然の中をただ進むことになる。相も変わらず風は強かったが、前に進むしかないのでラブライブを爆音で流しながらペダルを回し続けた。
以下写真集















そして午前11時50分、宗谷岬到達。丁度KiRa-KiRa Sensation! UMIMixが流れ終わったタイミングだった。当然達成感はあの時と同様に感じられたが、それとは別に去年とは違った色んな感情が最北の記念碑を見ると湧いてきた。上手く言語化出来ないけど兎に角来れて良かったという気持ちが1番強かったのは確かだ。一昨日は先輩と、去年は同回と来れたんで今年は後輩連れて行きたいですね。言葉にするには簡単やけど。

若い家族連れの方に撮ってもらいました。


昼の宗谷は観光客で賑わっていて全く違う場所のように思えた。駐車場もいっぱいやしバイクも勿論GIOSも1台止まっていて「朝田さんおるー」とか言ってふざけていた。土産物屋で最北端到達の証明書やステッカーを買い、食堂でホタテラーメンを食べた。

よじ登られた間宮林蔵ニキ

身に染みた。


この後は高台に登って暫く黄昏ていた。1時間ぐらいおってから再び稚内に向け走り出した。


ここから稚内の市街地に出るまで1枚も写真を撮っていない。何故なら死んでいたからだ。まさかとは思っていたがクソ向かい風だった。去年台風の中先輩と死にものぐるいで逆風の夜道を進んだ時は本当に永遠に感じられたし、大観峰の体感氷点下の下り坂よりもずっとしんどく心が何度も折れた(自分が無理矢理行きたいですって言ったのに)。今まで走った中で1番辛かった場所を、前回とは逆方向なのにも関わらず何でまた向かい風で走らなあかんのやとずっと考えながら進んでいた。ずっと俯きながら走っていたので前を走ってくれていた北澤はいつの間にか先にいってしまった。彼がもしこの事を気にしていたら逆に申し訳ないのだが、本当に僕は心在らずの状態だったので追いかける余裕もなかった。


結局2時間以上かけて稚内の市街地にたどり着いた。とりあえずマクドに入って何を思ったのかナゲットを15ピースも食べた。食べたら大分マシになったので青フラッグを買ったり、去年友達と野宿した防波堤ドームへ行った。

北防波堤ドーム

吉川さんが抱きついていたドナルド



本来は稚内で野宿して翌日からオロロンをひたすら下る予定だった。しかしたったの30kmでこんなにヘラった状態で濃霧の中をひた走るのは無謀すぎるし他の同回と合流できなくなるのではと思い立って当日中に旭川に戻ることにした。幸い初日に買ったフリーきっぷの期限がこの日までだったので特急を使って一気に帰ることができた。北澤も旭川に戻るとの事だったが彼は18切符しか持っていなかったので僕が先に行ってしまった。別に普通列車でも旭川に戻れたのだがいち早く神楽岡公園に戻りたかったので、今度は僕が置いていってしまった。結局彼と次にあったのは2日後の小樽だった。すまんかった。



最北端の駅


天塩中川辺りで去年一緒に稚内から舞鶴まで帰った小学校からの友達(彼もチャリダー)がしんやとまろと飲んでる写真を送ってきて鬱が加速した。早くみんなと合流したいと強く思った。


その時の自撮り

ここから写真を1枚も撮ることなく一日を終えた。本当に神楽岡公園に戻ったかどうかも覚えていないぐらい疲れていた。それでもソロプレでいちばん充実していた日だったのは間違いない。

















3日目

2020年04月18日 02時55分43秒 | 夏合宿
この日のテンバは昨日に引き続き旭川の神楽岡公園キャンプ場だ。ここは旭川駅近くの市街地に隣接するバカでかい公園の中にあるキャンプ場で、みんな大好きセイコーマートも近くにあるのでおすすめの場所だ。ただ夜に行くと真っ暗で何も見えない森の中をさまようことになるので注意。前日も疲れ切って思考停止で公園に突入したのでテントサイトを見つけるのに難儀した。やはりシーズンともあってサイトにはボーイスカウトの集団やライダーが数多くテントを張っていたので邪魔にならないように端でテントを建てて寝た。


快適


テント泊の落差に気付いてしまった。ソロプレやし流石にないと何が起きるかわからんので持ってきたが大正解だった。もうこれ無しで野宿できない体に1回使っただけでなってしまった。雨も防げるしね。

朝飯も米を炊きスープも作ってたいらげた。テントを片付けていると散歩していた地元のおっちゃんに話しかけられた。神戸から来たと言うと、わざわざ一旦家に帰ってからお菓子を持ってきてくださった。ソロプレは人と話す機会が本当に貴重なので、ものを頂けるのは勿論のこと会話をさせてもらえるだけでも大きな励みになるということを実感した。


まじでありがとうございました


そんなことをしつつキャンプ場を発った。この日の行程は音威子府まで輪行しそこから浜頓別まで走るという至って単純なルートだ。乗る予定の特急の時間まで余裕があったので、去年流された川や最後写真を撮った公園に寄りながら駅へ行った。


去年流された場所。草が生い茂っていて諸行無常を感じる。


旭川駅からは特急宗谷であっという間に音威子府へ。


去年のアフターで休憩したローソンが見えてエモくなる




音威子府駅

アフターで重政さんと北上したR40沿いを走って所々思い出の地を通り感傷にひたっていた。音威子府駅の構内には音威子府そばというご当地グルメ?がありそれを頂いてから出発した。こんな事を言ってしまえば失礼かもしれないが、こんな僻地の駅で採算を取れているのか勝手に心配していたが実際にはリピーターが多いらしく当分は大丈夫だろうね。


麺が黒いのが特徴。普通に美味しかった


ここから浜頓別までは一本道だ。R275はthe北海道と言ったような道が延々続くツーリングにはもってこいの道でアップダウンも多少ある走りごたえのある道だ。ただ途中に街が無さすぎて、浜頓別までは道の駅とセイコーマートが1個ずつあるのみなので走る際は気注意。音威子府を出てすぐに軽い峠があり、そこを抜けると若干追い風気味でクロスでもアベレージ30kmぐらいで走れたのであっという間に浜頓別に着いた。



標識が新鮮



浜頓別では北海道1周中のつむぐさんと合流する予定があったので待たせる訳には行かんぞと思い着いた頃には息が上がっていた。道の駅で無事に合流し早速温泉に連れて行ってもらった。温泉に入りながらお互いにこれまでの旅の苦労を労った。風呂から上がるとちわーすって感じで北澤が風呂に入ってきた。何だかんだで札幌以来の再会を喜んだ。


クッチャロ湖は風つよすぎる

風呂の休憩室で3人で延々話していたら気づけば夜だった。この日のてんばはキャンプ場にする予定だったのだが余りにも風が強かったので道の駅で建物の陰で寝ることにした。それでも風はあまり防げず飯を作る時にガス缶の火を絶やさないようにするのに苦労した。


米が上手くたけんかった

焼きそばを車キャンパーの人に頂く。


近くにセコマもあったのでつむぐさんにも奢っていただいておかずで米を食べた。1夏で僕が作った米の味がしてそこでも思い出話に花を咲かせた。47期の先輩方が1回生だった時の合宿の話が特に思い出に残っています。





この時点で夜も遅かったので寝ることにした。合宿スタイルで建物の際でテントをたてずに1列になって寝袋にくるまった。サイクの人が近くにいるだけで合宿がより一層恋しくなった。











2日目

2020年04月13日 19時22分35秒 | 夏合宿
流石に輪行袋では熟睡出来ず、寝たか寝てないかも分からないような状態で日の出と同時に目を覚ました。

やはり西日本に比べて北海道の夜明けは早い。この写真を撮ったのが4時23分だった。この季節でも上着がレインだけの短パン小僧には流石に寒さが応えた。始発までまだ時間があったため今夏初セコマをきめて時間を過ごす。


この日の予定は狩勝峠を超えて新得という町で緑フラッグを入手してまた旭川に帰ってくるというプランだ。しかし昨日の謎ムーブのせいで札幌滝川間を無駄に往復することになってしまった。まぁフリー切符なので多少はね。


ギリギリ

夜に旭川に戻るので、このようにロッカーに無理矢理オルトリーブ×2と銀マットをぶち込み軽装で輪行と峠越えに挑むことにした。
5時18分発 札幌行き特急ライラック2号で一路札幌へ。

この区間は去年のプレで走った道沿いに線路もあるので思い出が走馬灯のように浮かんできた。神居古潭、滝川のバグってる喫茶店、しんぺいがタイヤを騙されて買った自転車屋さんなどなど、あれから1年かとしみじみ思っているとあっという間に札幌に戻ってきた。


札幌駅でも待ち時間があったので写真撮るなりして時間を潰した。そしてこれに乗って富良野へ移動。


フラノラベンダーエクスプレス 富良野行き

昨日のガイジムーブはこれに始発駅から終着駅まで乗りたいというゴミみたいな動機により発生したものだ。車内は9割方中国人で圧倒的アウェーの中列車は今朝通った道を引き返す。





あまり多くを語るとオタクがバレてしまうのでやめておくが、バブル期に作られた車両ということもあって非常に豪華な作りの列車だった。2020年に引退するという噂を耳にしたので予定をねじ曲げて乗ることにした。




2時間程で富良野に到着。ここから去年の合宿で通ったルートを逆走して新得まで走ることになる。なので聖地巡礼も兼ねたプレだったとも言えるだろう。まず初めに藤井さんといった唯我独尊という癖の強すぎるカレー屋で写真を撮ってから進み始めた。


暑すぎる

荷物を全部置いてきたというのに全然前に進まない。初日でまだ足ができていないのに加え何せ暑すぎる。今年の北海道は暑さが去年とは比べ物にならなかった。正直寒い方が僕は嫌いなので野宿する点においては良点だったが、まさに試される大地とはよく言ったものだと痛感した。


これは2018年


こっちが2019


去年近江対金足農業の試合を見た道の駅で昼食を取ろうとしたが、有り得んぐらい混んでいたのでセコマで弁当を買って食べた。イートインがあったら最高だったのだがなかったので日差しを避けるべく近くの駅の駅舎に移動して冷やし中華を食べた。


ここからは狩勝峠が始まる。この峠は高見くんのディレーラーが破壊された因縁の峠で、傾斜自体は緩いが距離が長いので僕の嫌いなタイプだ。炎天下の中音楽を爆音で流し続け30分程で登りきることが出来た。






ここの頂上は晴れていれば十勝平野を一望できる絶好のロケーションを眺められる。運良くこの年もそれを味わえたので安堵した。自販機でコーラを飲みながら煙草をふかして一気に下りきった。


新得はてんばにもなった思い出の土地だ。無事にフラッグも入手して、去年飯を作った公園のトイレに行ったりして聖地巡礼を済ませた。この時点で16時だったので、元気があればまた峠を登って日が暮れるまで走ろうかと計画していたが当然そんな余力も持ち合わせているはずもなくフル輪行で旭川に戻ることにした。


しんとく~

この駅から途中の東鹿越という駅までは数年前の台風で線路が流さていてバス代行になっているのでそれを使って再び来た道を引き返すことになった。


乗客は3人だけ

途中駅に寄りながら進んで行ったが誰も乗ってこなかった。東鹿越の駅では折り返しで乗ってきた鉄オタが何人かと地元の高校生が乗ってきて少し賑やかになった。
東鹿越の駅舎


カラスに飯を食われたかなやま湖

東鹿越からは列車に乗って富良野まで進んだ。富良野でまた待ち時間があったので駅前を散策したら祭りをやっていて賑わっていた。祭りがあればどんな街でも人が集まってくるというのは全国で共通なんだなぁと串木野で毎年行われる祭りを懐かしんだ。


観光客もちらほら

富良野から旭川までは乗り換え無しで行けた。車内に有り得んほど中国人がおってずっとイライラしていた。旭川に着いたには20時過ぎそこからチャリを組み立て荷物を受け取りやっと完全装備となって銭湯へ行って疲れを癒した。まだ晩飯を食ってなかったのでキャンプ場へ移動してパスタを作った。普段なら絶対すき家か何かしらを食べていたところだが、このプレは1日2000円を目標に倹約していたので自炊した。今なら絶対むり。



サーモンなんたらパスタ


疲れはしたがソロプレの楽しさを知ってしまった1日だった。










1日目

2020年04月10日 23時53分41秒 | 夏合宿
迎えた初日。飛行機は17時発だったが朝8時ぐらいに目覚めた。楽しみすぎて寝られない遠足前日の小学生現象は避けられた分マシだと思いながら、1ヶ月間離れることになる布団との別れを惜しんでいた。ここであることに気づいた。

「搭乗券どこや...?」

割と飛行機とかそういう類の予約は昔から乗り慣れていて特に苦にする事はなかったのだが、今回は初めて利用する航空会社で勝手が分からないのと搭乗の2ヶ月以上前から予約をしていたので当時の領収書がどこにあるのか見当もつかない状態だった。兎にも角にも北海道に行かなければ4ヶ月もの間練りに練った計画が全ておじゃんになってしまう。そんな事を危惧しながら部屋を探しまくった。結局普段使ってるリュックの奥底に化石と化した状態で予約番号が書かれた領収書が見つかりことなきことを得た。僕と似たタイプの人ならわかると思うがレジュメ等がファイルに入れずカバンにぶち込まれてテスト前とかになってようやく発見される時の状態だった。早起きしてなければ確実に死んでいた。

そんなこんなで昼飯を食い儀式を済ませて出発した。儀式




 結構降ってる



始まりはいつも雨。僕は確実に雨男だ。でも雨は決して悪い天気ではないと思うし打たれない分には好きな方だ。アニメで天気は主人公の心境の変化を表すのによく使われているという話があるがまさにその状態なんやなぁとか考えながら出発した。初めてのソロプレ。よくよく考えてみればソロ野宿はあっても長距離ソロツーリングはこの時が初めてだった。やはり不安はあったが北海道は2度目やし余裕やろと自己暗示をかけた。




 母校に寄る


ポーアイなんにもない。1ヶ月後大事件が起こることをまだ誰も知らない。


家から1時間ぐらいで空港に着いた。ここには昔から何度も来たことがある場所だがこんなにちんけな建物だったのかと落胆してしまった。これなら地元の鹿児島空港の方が足湯もあるしもっと立派だ。この時点でまだ出発時間に余裕があったので無駄にぐるぐる走って時間を潰してから輪行の準備を整えた。



余裕すぎる


前日に重政さんから飛行機輪行の面倒くささについて教えてもらったばかりだったので何を言われるか身構えていたが、すんなりいけてしまい拍子抜けした。袋に穴が空いていたりそもそも前輪しか外しておらずサイズオーバーのはずなのに特に注意もされることなく手荷物として預けることができた。ただ時間と労力を消費するだけの18切符輪行がアホくさくなった瞬間だった。(それでもやるんですけど)



無事に手続きも終わったのでアマプラでけいおんを見ながら搭乗手続きが始まるのを待った。やはりシーズンともあって空港は休暇を楽しむ人達でごった返していたし何人か同業者の姿も見受けられた。






17時半離陸。本州とはしばらくの別れだ。勿論イヤホンから流れている曲はWonderful Rush。旅立ちに相応しい曲だ。そして離陸。


 圧巻

僕が飛行機が嫌いな理由の一つに景色が単調すぎるというものがある。陸地の上を飛べたら下を見下ろして人々の営みを想像したりできるが海の上だったりそもそも雲の上を行ってしまったら雲海を眺めるしかなくなる。だが今回のフライトでその考えは払拭された。出発の時のブルーな気分も忘れ、プレは必ずいい旅にできるとこの絶景を見て確信した。


 夕焼け

機内では北海道を紹介する動画がずっとループで流れていて気持ちが益々高まった。夕焼けを眺めているといつの間にか北海道上空に来ており、1週間後に走ることになる羊蹄山も雲海の中に見ることができた。そして着陸、1年ぶりの北海道。7月といえど新千歳は肌寒く、これもまた去年新日本海フェリーで小樽に着いた時を思い出させた。無事にチャリも受け取り一路旭川に向け電車輪行を開始。



この切符には期間中めちゃくちゃお世話になった。冗談抜きで4回分ぐらい元を取った。ひとまず新千歳から札幌に向かった。


あれ?

何か前後関係をよく覚えていないが札幌駅で普通に待ち合わせして普通に喋って普通に解散した。そもそも同じ日にプレを始めてるうえに目的地もほぼ一緒なのに別行動していたのは頭がおかしい。当初僕も彼と同じように札幌でネカフェに泊まる予定だったのだがノリで終電で旭川に行って寝ることにした。翌日の朝札幌に来なければ行けないのに本当にガ〇ジムーブをしてしたと今考えれば思う。


始まりの地

旭川に着いたのは日付が変わる直前。めちゃくちゃ移動したので疲れてしまい駅前の公園で寝ることにした。これもただの馬鹿エピソードなのだがネカフェに寝るつもりで計画していたため、寝袋を先に送った荷物の中に入れていたのでこの日は輪行袋を被って寝た。こうして1日目は終了。翌日はいきなり走ることになる。

団結式~0日目

2020年04月07日 17時36分16秒 | 夏合宿
  •   合宿はいつから始まりいつ終わるというのは永遠の議題であると考える。もちろん形式的には初日ホテルを出てそらつばを歌ってから最終日ホテルでミーティングして居酒屋行ってカラオケ行って終了というのが正解なはず。但し実際にはプレアフターに行く人間が昔から多いし、しかも2週間という本合宿と変わらない期間走る人もいる。こういう人達は僕がそうであるように、本合宿の期間だけでなくその前後の期間も含めて合宿であると認識しているもの(だと勝手に)考えている。更には有馬の下り道から既に夏合宿は始まるという考えも存在している。今回夏の思い出を綴ろうと思った中でどこから始めようかと思案しているうちにこのように長い前置きになってしまった。ひとまず題名にもある通り団結式から振り返っていくことにする。


7/20 神戸を発つ1週間前。この日はチャイ語テストからのルート説明会そして団結式と最高の流れの1日だった。部室の引越しが間近に近づいていたので惜別の意も込めて朝から居座った。


遠藤さんに合宿前会うのはこの日が最後の予定だったので何でもするから合宿に来てくれと懇願したのを覚えている。 そうこうしているうちに続々と人が集まってきて自然とルート説明会が始まった。

普段部室にこんなに人が集まることはないので、非日常を感じられ合宿がもう傍まで来ていることに胸を躍らせた。あとももちゃんと話したのはこの時が初めてだったが第一印象でこの子は着いて行けるとなぜだか確信した。

そして団結式の場所は去年に引き続き西北のピカロ。色々と伝説が新しく生まれた。しんやのゆかりの写真とかね。

7/21 どういう経緯でこうなったか覚えていないが、北澤くんと長田まで走っていた。

確か港川の24時間営業のマクドでなんの中身も無い話をした。あと凛っていう名前のお好み焼き屋を見つけて喜んだ。

7/22 家の掃除をした以外特になし

7/23 学割を取りに学校へ行ったら部室でしんぺいに会った。実はこの翌日が部室引越しの日だったのだが彼と僕はバイトで行けないのでこの日にやれるだけやっておこうとなり少し掃除をした。



その後家に帰って恒例の荷物まとめて写真撮るやつをやった。銀マットが懐かしい。

7/24 部室引越しの当日。行かないつもりだったがバイトが午後からだったので午前中だけでもと思い行くことにした。廊下まで荷物が出ていてそれを見ただけでやる気が削がれた。夜バイト終わりに実家にいった。


7/25 この日も結局ヘルメットを取りに学校へ行った。雲が綺麗で何枚も写真に収めた。重政さんがこの日出発でLINEでやり取りしているうちにモチベが最高潮に達してバイトの休憩中に叫んだ。






7/26 出発前日。ヤマトに寝袋とかぶち込んだ荷物を持って行ってからバイトに行った。帰ってから着替えて西宮に行きに西田さんと会談した。


とにかく合宿のことを延々と2人で語った。一貫していたのは西田さんが今から人生で1番楽しい時間を過ごす僕に対する羨望とそれに対する僕の使命感だった。ノートにも全てを書いてもらいこれで旅に出る準備は全て整った。