お母さんとの想い出箱

OCNブログ人から引越ししました。
書きたいことはたくさんあるけど、時間がない…
でも、お母さんとの想い出は永遠

今日は十五夜さん

2012-09-30 18:11:23 | インポート

お母さんは

いろんな行事をきっちりやって見せてくれましたね

こんな日のためか

私が小さい頃から

歳時記・風物詩を大切にして

四季折々の人間がなすことを

色々教えてくれながら

いっしょに過ごしてきました

だから

私も子供たちに対して

お母さんと同じようにやってみたつもりですが

理解の仕方や物の捉え方に

個人差があるせいか

環境や時代の違いのせいか

我が家の子たちはあっけらかんとして

特に関心が深い訳でもありません

私は一つ一つの行事をするたび

お母さんが元気な頃も

お母さんを思い浮かべていました

十五夜さんもその一つ

お母さんは枝のついた枝豆ととうきびとサツマイモを茹でて

りんご、梨、柿、ぶどう、月見饅頭と一緒に

大皿に盛りつけて

ススキとりんどうとほおずきと萩を花瓶に活けて

カーテンを半分開いて

お月様にお供えしましたね

私今年は

枝豆ととうきびはパス

サツマイモをレンジでチンして

巨峰と二十世紀梨をお供えします

お花は百円均一から買った

ススキと萩とほおずきと竜胆の造花を供えます

パパも実はお母さんと一緒に行事に参加してましたね

萩を見て「おはぎ」は秋、ぼた餅は春

呼び方が違うのには意味があるって言ってましたよね

ススキのない地方に住んでた時は

葦をススキの代わりに採って来てくれたのはパパでした

パパもお母さんのいた頃を思い出して

釧路の月を眺めるのでしょうね

札幌は今日の昼間は雨空でした

はたしてお月様は出てくれるでしょうか


19回目の月命日

2012-09-17 21:56:17 | インポート

今日は祝日でしかもお母さんの月命日

午前中のうちに写経を済ませましたよ

お母さんの兄にあたる雅生オジサンがお母さんと同じ命日というのは

偶然なのかな

写経の最後の箇所に『誰の為に』と書くところがあるから

お母さんの後に雅夫オジサンの名前を書いています

オジサンお母さんを可愛がってくれていたから

心配して呼び寄せたのかな?

私たち子供がしっかりしてなかったから

見ていられなかったのかな?

お母さんの環境を見るに見かねて連れて行ったのかな…?

とは考えたくないです

今となっては無力の私には想像することも悲しいな

昨日も今日も真由美と電話で話して

パパのあまりの悪ジジイぶりに

これならお母さんも絶望してしまう、という結論になったよ

私はそれでも苦しくてもお母さんにもう少し待っていてほしかったと思います

ひ孫も見せたかったし

可愛がっていた陽や史織の結婚式にも出て欲しかったし

親孝行が足りなかったし

せめてもう少しゆっくりお話しする時間が欲しかった

パパは本当にどこまでが芝居なのか

手に負えないです

8人兄弟の下から2番目で生まれて

家の中でもポジション取りが大変で

そのうち今の性格の基礎出来たのかなと哀れにも思うのですが

真由美が大変です

真由美が倒れやしないかと心配です

でもこのままパパまで居なくなったら

パパも可哀そうだし私たちも心残りです

だからお母さんパパが私たちと仲良く暮らしていけるよう

見守ってね

今週土曜日お墓に行きますね

今週はお彼岸だね

お彼岸お盆とお母さんは先祖の供養を欠かさず

実家と嫁ぎ先の区別もせず

私と真由美が妊娠中は祈願寺の観音菩薩様に

安産の祈願していたよね

お母さんそのものが私には観音様でした

姿なき今も私の心の中の観音様です


目から鱗の…レッツゴーヤング

2012-09-08 21:59:38 | インポート

十代の頃日曜の夕方6時になると

お母さんそっちのけでNHKの『レッツゴーヤング』観てたでしょ?

ごめんね…

お母さんが夕食の後片付けしてるのに

私はテレビに夢中だったね

今はテレビなんか観ないで「手伝いすればよかった…」って後悔してる

それでね

私はお母さんが天国へ行ったことも

まだまだ心の整理がつかなくて

私がもう少し思いやっていたら

お別れする日が先に延ばせたんじゃないかと

自責の念が拭いきれないの

「そんなことはありえない」と思わずに

もっともっと危機感をもって対面していたら…って

何もできなかった自分にガッカリして

私のせいで長生きできなかったと心が傷んでる

私の落ち度でお母さんを守れなかった

特別親不孝な人間で

予定通りにいかなかった運命を恨んでる

まさか自分にこんなことが起こるなんて…って

もう一度せめて2年前に戻りたい、やり直したいって

今も胸が痛い…

街角や道端で私とお母さんと同じくらいの年恰好の2人連れを見ると

羨ましくて悔しくて情けなくなるの

とにかく自分だけが不幸で運が悪かったって以外の何物でもないって感じでね

そしたら自分の心が狭くて成長できないままだったって反省する機会が

昨夜にありました

NHKBSプレミアムの『J-POP青春の’80 レッツゴーヤング』を

たまたま観たことなの

太川陽介、石川ひとみの司会陣とゲストの早見優、大場久美子、大沢逸美

他にもゲストがいたけど

この3人のゲストはそれぞれ私が観るべくして観たって感じで

神様が弱くて醜い私のウジウジした心を見かねて観せてくれたんじゃないか

独りよがりの都合のよい解釈と言えばそれまでだけど

観終わった後私の心はずいぶん変化があったの

最初懐かしい曲や歌声を聴いて当時の悩み無き時代を振り返っていたんだけど

そのうち

早見優は帰国子女で恵まれた家庭環境だった若い頃を過ぎて

1992年にお母さんを肝硬変で失くしてしまい

花嫁姿も孫の顔も見せられなくて

その上3年前にはお父さんも胆のうがんで失くしてしまっている…

可哀そうすぎると思った…

そして大場久美子は今は人生の伴侶も得て落ち着いたみたいだけど

39歳の時にお母さんを失くして

あまりの落胆から8年間パニック障害に陥ったと聞いている

きっと『まさか』が現実に起こったことで

私のように『嘘だ、嘘だ』と心が事実を受け入れなかったんだと思う

そして大沢逸美は

女優を続けながら11年間お母さんを介護して看取ったって

そして自分の仕事をセーブし婚期も逃したって言ってた

何ということだろうって自分が恥ずかしくなった

確かにお母さんを守れなかった私は不幸だし

もっと反省して落ち込んで楽しく暮らしてはいけないと思うこともあるの

でも3人を観て忘れていたことを思い出した

私と同じイヤより以上に親不孝で不運で

悔やみきれないかもしれないのに

一度しかない人生をまたやり直すかのように生き生きしている

せっかく産んでもらったのに

悔やみ恨み悲しみすぎて無駄に時間を費やすことが

お母さんにとって親不孝を重ねているかもしれない…そう反省

みんなそれなりの年相応の容姿になっていて

「みんなそうなんだ~!」って安心するような

今の私に少し芽生えた『女性進化』への諦めの気持ちが恥ずかしくなった

なんかねターニングポイントになったかもしれないの

もしかしたら三歩進んで二歩下がるかもしれないけど

何かこれまでの心についていたものが少し剥がれたような気がしたの

私もやがてお母さんの所へ行くのは確実でしょ

これまで強がりで口先だけで「お母さんに会う日のためのお土産」だと

日々の努力精進を心掛けたフリをしていたかもしれないな?って思った

私の人生の道程は下り坂であるのは間違いないけど

道の傍らに給水場がまだあったよ、お母さん

ココから少しこの気持ちを保ってみるね

パパのことも心から前向きに捉えるような考え方をしてみるね

そしてそれを真由美にも伝授できるようにしてみるよ

「また、好き勝手なことしてるよ、お姉ちゃんは…」って

笑ってくれる?お母さん…

もっとお母さんとの想い出も残して行かなければね…


大楽毛の最近

2012-09-02 16:04:54 | インポート

お盆に北斗霊園のお母さんのお墓にお参りした帰りに

大楽毛の祈願時へ寄る時に

大楽毛の街の中を通ったでしょ

そしたらあまりの変貌ぶりに

昔が懐かしく思い出されたの

米沢さんの家の横を通った時に

パパに米沢さんのご家族は元気かな?って話してたら

その一週間後くらいにオジさんが83歳で亡くなってビックリして

それから2,3日前には大西商店のお婿さんが亡くなり

少し思い出したところで

また大楽毛が遠くなって行くって感じたよ

板垣病院覚えてる?

大楽毛でも古い病院だったよね

私が生まれて5歳まで過ごして

中学1年の時に戻るまで

大楽毛は文字通りの故郷で

板垣病院は私が生まれる前からあった精神病院だったね

風邪とかひいても

「ヤブだから…」とわざわざ汽車に乗って鉄道病院へ行ったよね

板垣さんには悪いけど、当時の人達の噂話は辛辣だったね

それでも何度か行ったことを覚えてる

真由美がソフトボールの試合で

同級生が不注意で放ったバットで鼻の骨を折った時も

応急で診てもらったよね

その後田中病院に名称が変わり

それでも鉄格子のついた病室をもつ病院は

大楽毛の駅前からすぐのところで続いていたよね

そして今大楽毛駅前に精神病の専門大型病院として

9月1日に優心病院がオープンしたよ

大楽毛の駅前は小さい頃の盆踊りの会場で

私が中学生の頃は大きな円形の花壇を中心にした広場に変り

昭和に家を建てて引越しする頃まで記憶しかないよね

途中で少しずつ様子が変わったように感じながら

今では全く別の場所みたいだね

お母さんが元気なら

ゆっくり車から降りて見せて歩きたかった

パパとお母さんの念願の家がお母さんの終の棲家になったけど

狭い官舎暮らしをしていた頃が

幸せだったね

パパの生まれ故郷の大楽毛

パパのたっての願いで釧路市街勤務のパパが

年を取ったおじいちゃんおばあちゃんのために

越してきたところ

お母さんにとってはパパの親戚が集中するエリアに

少し気後れしただろうね

でも人情に厚いお母さんがとってた行動は

パパの親戚を常に思いやり、尽くしてたね

だからパパの姉達私の伯母さん達から

とても可愛がられていたよね

私のお母さんは本当に素敵な人だったって

今また思ってるよ

夕食を食べ片づけを済ませてから

黄昏の国道沿いの歩道を歩き

お母さんと腕を組んで買い物に行った『せきや』さん

今ふと思い出したんだけど

衣料品店の独特の匂いが蘇えります