お母さん地上はきょうとても寒いです
昼間なのにマイナス6度です
天国は暖かいでしょうか?
私が小さい頃から昭和の家に住み始めたころまで
家ではルンペンストーブ
円筒を通すタイプやそのまま載せるタイプの
アルミの湯沸しが載ってましたね
お母さんは湯沸しの継ぎ目あたりからお湯漏れが始まると
音別の板金屋さんへ湯沸しを風呂敷に包んで
修理に持っていったよね
でも湯沸しがないと顔も食器も洗えなくて苦労していたよね
ルンペンストーブは新聞紙を丸めてねじって
それに灯油をしみこませて着火
だいたい一日~二日かかって全部燃え尽きて
『あく』になったらストーブごと煙筒の差し込みから外して
外へ持って行き『あく』を捨てる
そして空になりロストルという中敷のすのこみたいなのを
捨てないように気を付けてそこへまた石炭を詰め
予備として物置にいれておく
それの繰り返しだったよね
特に冬の夜は微妙に『オキ』が弱くて
そのままだと朝までもたいない…って時は
お母さんは燃え尽きるまで待って
夜のうちに取り替えていたよね
たまに朝まで持たなくて朝になってからルンペンを取り替えた時は
ものすごく寒くてがたがた震えながら
ストーブの火が燃え盛るのを待ってた
パパは若い頃は夜勤もあったから
お母さんがあの頃か細い体で
よいこらせ!!って感じでストーブ運んでたね
ほとんどの朝は私も真由美も部屋が暖まってから起きてきて
お母さんの愛があふれてたんだよね
ぜんぜん寒さを知らなかった…
ストーブの中に豆炭を入れて
赤くなったところで行火にいれて布団に入れてくれたのも
覚えてる…
少し大きくなると自分のことは自分で…って感じで
燃え尽きた朝の豆炭は行火から外のあく捨て場に捨てる
ってこんな簡単なことでも小学校低学年くらいなら
『立派なお仕事』だった気がする
湯たんぽだった時もあったけど
行火の方が断然懐かしい
このルンペンストーブ『オキ』の存在が貴重な鍵だったよね
『オキ』がストーブの中で維持されている状態を保たなければ
完全に消えてしまう
下の窓みたいなものを開いたり閉じたりして調節
窓を大きく開いて暖かくしようとすると
ストーブの胴体は真っ赤になってた
あきらが生まれたころからはストーブガードが付けられたね
温度調節が難しいし
スイッチ押して消したり点けたりではないから
お母さんは出かける時なんかストーブの周りに気をつかっていたね
今でも覚えているのは十勝沖地震の時
まだ火をつけて間もないストーブを
外して外へ持って出たお母さんは
両ひざにやけどしたよね
大きな地震が起こると
お母さんは私たち姉妹に先に外へ逃げるように言って
自分はルンペンストーブを煙筒から外して外へ運び出してたね
厄介だったけど本当に芯から暖かだったルンペンストーブ
ずっと石油ストーブのうわべだけのような軽い暖めを嫌い
秋にひと冬分の太平洋炭を買って届けてもらい
それをパパの作った炭小屋(たんごや)に入れて
ルンペンストーブはだいたい3個を順番に使い
いつも炭をつめてスタンバイのストーブが物置に2個入ってた
ルンペンストーブの上に鍋を載せてジンギスカンも焼いたよね
南部鉄瓶が載っていて
デレキや火鋏が炉縁の所に置かれて
こんな今日みたいな寒い日は
あの体の内側まで暖かいルンペンストーブが懐かしい
私達に寒い思いをさせまいと
ストーブに関わる色々なことをしてくれたお母さん
ルンペンストーブの温もりはお母さんの愛だったんだと思います