お母さんとの想い出箱

OCNブログ人から引越ししました。
書きたいことはたくさんあるけど、時間がない…
でも、お母さんとの想い出は永遠

お母さーん

2012-01-25 18:50:25 | インポート

最近毎日お母さんを思い出して

涙がこぼれるようになりました

やっぱり一周忌が近づいてきたからかな?

3日後の28日はお母さんの誕生日

81歳になるはずです

お母さんが天国へ行ってから初めての誕生日ですね

ささやかなことが多かったけど

毎年プレゼントを送っていましたよね

ぬいぐるみの電報を送ったこともあったね

洋服を贈った時は

カラオケサークルへ着ていって

友達に自慢したって言ってたよね

私の中のお母さんは若くてはつらつとしてて

シャキシャキ歩く姿だけが残ってる

実際お母さんに会えてた頃は

元気印のお母さんだったから

ちょっと違うとは思うんだけど

寒くて滑る冬道を杖をついて歩くオバサン

見ていたら悲しくなりました

お母さんもいつかこうなったのかな?って考えたりしたの

どんな姿になっても生きていてほしかった

たぶんそれではお母さんが嫌だったとは思うけど

『おばあさん』って感じのお母さん見たかったな

好きで観ていた韓ドラが最終回で

娘とお母さんの登場人物

お母さんが死んでゆく場面は辛かった

お母さんを看取ってあげたかった

しっかり者のお母さんは最後までしっかり者だったね

誰にも迷惑をかけず

本当にひっそりスーッと居なくなったものね…

81歳の誕生日に直接「おめでとう」は言えなかったけど

今でもこれからも私の心にずっと生きてるお母さんに

心の中でお誕生日に「おめでとう」って言うからね

お母さん大好きです

これからもずっと…


ルンペンストーブ

2012-01-16 02:42:10 | インポート

お母さん地上はきょうとても寒いです

昼間なのにマイナス6度です

天国は暖かいでしょうか?

私が小さい頃から昭和の家に住み始めたころまで

家ではルンペンストーブ

円筒を通すタイプやそのまま載せるタイプの

アルミの湯沸しが載ってましたね

お母さんは湯沸しの継ぎ目あたりからお湯漏れが始まると

音別の板金屋さんへ湯沸しを風呂敷に包んで

修理に持っていったよね

でも湯沸しがないと顔も食器も洗えなくて苦労していたよね

ルンペンストーブは新聞紙を丸めてねじって

それに灯油をしみこませて着火

だいたい一日~二日かかって全部燃え尽きて

『あく』になったらストーブごと煙筒の差し込みから外して

外へ持って行き『あく』を捨てる

そして空になりロストルという中敷のすのこみたいなのを

捨てないように気を付けてそこへまた石炭を詰め

予備として物置にいれておく

それの繰り返しだったよね

特に冬の夜は微妙に『オキ』が弱くて

そのままだと朝までもたいない…って時は

お母さんは燃え尽きるまで待って

夜のうちに取り替えていたよね

たまに朝まで持たなくて朝になってからルンペンを取り替えた時は

ものすごく寒くてがたがた震えながら

ストーブの火が燃え盛るのを待ってた

パパは若い頃は夜勤もあったから

お母さんがあの頃か細い体で

よいこらせ!!って感じでストーブ運んでたね

ほとんどの朝は私も真由美も部屋が暖まってから起きてきて

お母さんの愛があふれてたんだよね

ぜんぜん寒さを知らなかった…

ストーブの中に豆炭を入れて

赤くなったところで行火にいれて布団に入れてくれたのも

覚えてる…

少し大きくなると自分のことは自分で…って感じで

燃え尽きた朝の豆炭は行火から外のあく捨て場に捨てる

ってこんな簡単なことでも小学校低学年くらいなら

『立派なお仕事』だった気がする

湯たんぽだった時もあったけど

行火の方が断然懐かしい

このルンペンストーブ『オキ』の存在が貴重な鍵だったよね

『オキ』がストーブの中で維持されている状態を保たなければ

完全に消えてしまう

下の窓みたいなものを開いたり閉じたりして調節

窓を大きく開いて暖かくしようとすると

ストーブの胴体は真っ赤になってた

あきらが生まれたころからはストーブガードが付けられたね

温度調節が難しいし

スイッチ押して消したり点けたりではないから

お母さんは出かける時なんかストーブの周りに気をつかっていたね

今でも覚えているのは十勝沖地震の時

まだ火をつけて間もないストーブを

外して外へ持って出たお母さんは

両ひざにやけどしたよね

大きな地震が起こると

お母さんは私たち姉妹に先に外へ逃げるように言って

自分はルンペンストーブを煙筒から外して外へ運び出してたね

厄介だったけど本当に芯から暖かだったルンペンストーブ

ずっと石油ストーブのうわべだけのような軽い暖めを嫌い

秋にひと冬分の太平洋炭を買って届けてもらい

それをパパの作った炭小屋(たんごや)に入れて

ルンペンストーブはだいたい3個を順番に使い

いつも炭をつめてスタンバイのストーブが物置に2個入ってた

ルンペンストーブの上に鍋を載せてジンギスカンも焼いたよね

南部鉄瓶が載っていて

デレキや火鋏が炉縁の所に置かれて

こんな今日みたいな寒い日は

あの体の内側まで暖かいルンペンストーブが懐かしい

私達に寒い思いをさせまいと

ストーブに関わる色々なことをしてくれたお母さん

ルンペンストーブの温もりはお母さんの愛だったんだと思います


お母さんのいないお正月を過ごして考えたこと

2012-01-09 00:00:47 | インポート

お正月を一緒に過ごしていた日々

と言うかお母さんにしょっちゅう会っていた頃

そうお母さんはずっと生きていて当たり前だって思っていた頃

お母さんが年を取って

そして天国へ行ってしまうなんて

心の隅にも考えたことがなかった

あまり会えなくなり

時がもたらす変化を見張ることもできず

お母さんが居なくなったという悪い結果になって初めて

人は誰もが年を取りいつか天に召される定めだと知った

それでも

全く運命に抗うことができなかった自分

運命の変化に気付かなかった自分に腹が立ち

運命自体の悪戯な流れも許せなくて

お母さんの死は受け入れられなかった

どこかへ帰りの切符を持って旅行に出かけた気がして

お母さん=おばあさん ってことも心が拒否していたの

だけど実際お母さんは天に逝き

もうすぐ一周忌がやってくる

去年の今頃は心身ともに弱っていたんだよね

危機感を覚えて気遣えなかった自分は今なお許せないけど

新年のシーンとした空気の中で

ぼんやり落ち着ける心境を見つけられた

お母さんは私にとっていつまでも若くて元気なイメージのまま

ボケることもなかったし

お母さんの好きな歌謡曲の表現を使えば『女の花道』を

お母さんの性格そのまま潔く歩いて舞台裏へと消えたんだな…

そう感じます

たぶん亡くなる少し前は体調も辛かったろうし

自分の不調とパパのことで未来が見えず悲観的になっていただろうし

自分勝手かもしれない、いいえたぶん自己満足でしょうが

『解放』されて天国の花園でくつろいでいてくれるなら

それがお母さんにとって幸せなことかもしれないと

少し安心した気持ちになれています

この世が辛い状態だったなら

その状態からは救ってあげたほうがよかったのだと思います

ただ現世のこの空間で二度と会えないのだと考えてしまうと

胸がつぶれる思いです

冠婚葬祭はお母さんに聞いてばかりで

喪中のお正月はどう過ごすのか…神棚の対応など困りました

サトクンと相談しました

パパに聞いても…少し不安だから

それと旨煮作ったよ

シオが「バーちゃんみたいに美味しくない」と言ってました

私はその答えでよかったと思っています

お母さんが作ったのより美味しいはずがない

お母さんを越えられない私でいいのですから


とうとうカウントダウン

2012-01-01 02:55:42 | インポート

私は去年の夏からこの時を恐れていました

お母さんの居ない大晦日

カウントダウンコール

ずっと毎年続けていたのに

今年は…できませんでした

去年の今頃は

同じ世界にいたのにね

いつもテレビのカウントダウンに合わせて

新年なりたての瞬間に電話して

「明けましておめでとうございます

 今年もよろしくお願いいたします」

って改まって言いましたよね

そしてすぐ互いに『若水』をヤカンや鍋にとり

「今年はいいことあればいいね」なんて

他愛もなかったけど

とても大切にしていた習慣でした

お母さんは居ないのに

その瞬間はやってきて

息がつまりそうで

寒いけどベランダに出ることにしました

写真を胸に抱き夜空の星を見上げました

遠くでどこかのお寺の除夜の鐘の音が聞こえていて

違う世界にいるお母さんに

「ホントに居ないんだね?」って訊いてみたら

涙で星が光っていました

お母さんは今どこから

こんな私の姿を見ているの?

お母さん

新しく始まるこの一年

毎日を大切に生きますね

お母さんに再会する時まで

お土産作りに頑張ります