ひろじいのエッセイ(葦のずいから世の中を覗く)

社会と個人の関係という視点から、自分流に世の中を見ると、どう見えるか。それをエッセイ風にまとめ、ときには提案します。

キャラ化する子どもたち

2013年09月11日 | 読書日記
キャラ化する / される子どもたち―排除型社会における新たな人間像 土井隆義 岩波ブックレット
 表題の「キャラ」の意味がよく分からなかったので、インターネットで調べてみた。これは英語のキャラクター(性格、特性、劇中の登場人物)という意味から少しずれて、若者の集団の中で生まれる、一時的なメンバーの役割ないし位置づけを意味しているようだ。「まじめキャラ」「バカキャラ」「へたれキャラ」「癒しキャラ」といった、その場限りの振る舞い方で、本来の性格とは必ずしも一致していない。キャラを演じるとは、その場で設定されている単純なコードに合わせて振舞うことである。
 近年学校では、同じクラスのなかに、スクール・カーストといって同質の子どもが集まっていくつかの小グループができ、質ないし格が違う他のグループは、関心の圏外になって交友関係を避ける傾向が生まれているようだ。
 この細分化された各々の小集団内部で、さらに個人に対して「いじられキャラ」などの具体的な役割が割り振られていくことを、著者はキャラ化する/されるといっている。
 各自のキャラは、ふだん行動をともにしているグループのリーダーやほかのメンバーといった他者から与えられ、あるいは自然発生的に生まれるが、場の空気による圧力として本人の意思とは無関係に強要されることもある。
 グループ内では、「ケチキャラ」「おやじキャラ」のような一見ネガティブな属性であっても、それをキャラとして捉え、ツッコミをいれて笑いに昇華することができれば、互いが傷つかずに親密な関係を保てる。
 ただし、人間関係の流動性が低い学校空間では、特定のキャラを強要する同調圧力が暴走して、いじられキャラがいじめられキャラになるといった弊害も起こりうる。また、衝突の回避を重視するキャラを介した人間関係は、希薄で脆弱なものになりがちである。
 さて、『個性を煽られる子どもたち』『友だち地獄』などで、子どもや若者の心性を分析した著者は、この本でキャラ化した子供たちの現状をどう分析し、どんな処方箋を書いただろうか。
 著者は、ケータイという小道具が子供たちや若者たちの生活あるいは心情をどのように変えつつあるかに着目し、要所々々でこのテーマを通奏低音のように繰りかえしている。
 最近の若者の多くは、ケータイが「圏外」表示になると、何ともいえない不安を覚えるという。ケータイで親しい友人とつねにつながっているはずの自分が、そこから排除されたように感じるからである。
 秋葉原事件を起こした犯人の青年Kも、ネット掲示板にケータイから書き込んだ自分のメッセージに、誰からも反応がないことに絶望したといわれる。ケータイは誰とでもつながることができる中立的な装置のはずだが、実際には自分に心地よい相手とのみ人間関係を築く道具になっている。そこで成立する親密圏は、異分子を排除しようとする働きと一体のものであり、排除される者の孤独や絶望を生み出し続ける。
 こういう親密圏のコミュニケーションを円滑に行うには、気配りと細心の注意が必要であり、他者を傷つけない「優しい人間関係」を演じる、深入りし過ぎない言動が求められる。そうした自我状況に対応するのが「キャラ」というわけだ。
 著者は、キャラを自分自身の中のゆるぎない自己イメージとしての内キャラと、周囲の状況(場の空気)に適応する形で演技的に振舞う外キャラの二つに分けている。内キャラとは、決して相対化されることのない準拠点のようなもので、アイデンティティの不安を解消するために必要であり、一方、状況に応じて様々に異なる「場の空気」に対応するためには、一貫性のあるアイデンティティを棚上げして、外キャラを用意することも必要となるという。
 しかしながら、著者の言う内キャラとは、確固とした一貫性のある自己のことであり、キャラの定義である「本来の性格や考え方から外れることがあっても、場の空気に合わせるために演ずる行動傾向」とは矛盾する。キャラを内と外に分けて分析を進めれば、いずれ破綻をきたすように思う。
 それはともかく、子どもたちの交友関係において、コミュニケーション能力が最重要となり、ケータイなどのネット環境が、この身近で同質なつながりをさらに強めている。著者は、こういう排除型の人間関係が育つのを放置せず、異質な他者と触れあう機会の多い包摂型社会の構築を説いているけれども、その方法論は示していない。