ひろじいのエッセイ(葦のずいから世の中を覗く)

社会と個人の関係という視点から、自分流に世の中を見ると、どう見えるか。それをエッセイ風にまとめ、ときには提案します。

責任の取りかた

2017年03月01日 | エッセイ-世間
第2章 個人の構造(個人は自立すべきか)
2節 日本の個人

2責任の取りかた
 わが国で大きくニュース報道されるような事故や不祥事が起きると、よく責任の所在が問われるけれども、うやむやになってしまうことが多い。近年の例で言えば、福島の原発事故などはその典型的な事例だろう。原発を日本に導入した政治家の責任、地震により事故が起きたときの対処の不手際に関する責任、冷却水が止まってしまうような事態を想定していなかったらしい原発設計者の責任などなど、数え上げればキリがない。そもそも原発行政の最高責任者が誰なのか、今もってはっきりしないし、誰も刑罰を受けるという形で責任を取っていない。
 こうした事例は、大小とりまぜてわれわれの周りに数限りなく転がっていて、多くの人はそれを困った事態だから何とか改善しなければ、とは感じていないらしい。高度経済成長期の頃アメリカの企業経営における責任を勉強したことがあるが、上に述べたような日本的責任は、アメリカ流の責任とは別種のものだと感じる。
 日本語の責任に相当する言葉はアメリカには2種類あって、一つはResponsibility(遂行責任)で、もう一つがAccountability(結果責任)である。遂行責任というのは、組織内で個人に割り当てられた役割(仕事)を果たすことであり、結果責任というのは、その役割を万全に果たさなかったとき、なぜ果たせなかったかを説明したり、罰を受けたり、何らかの形で償いをしたりすることである。近年Accountabilityを「説明責任」と訳すことが多いが、これでは十分な「説明」になっていないように思う。
 それはともかく、これら二つの責任はいずれも個人に帰属する。役割を果たすのは個人であり、上司が認めない限り、誰も手伝ってはくれない。その仕事をすることに対して、これだけの報酬を支払うという契約になっているから、当然のことである。
 何らかの事情で、その役割を果たせなかったとき、叱責を受けたり、償いをしたり、懲戒(最悪の場合解雇)されるのも個人である。日本の職場のように、同僚たちが「助言をしたり、仕事を手伝ったりしなかったわれわれにも落ち度がある」などとかばってはくれない。
 アメリカにある日本企業の工場で、日本人マネジャーが部下のアメリカ人に対して、本来その人の仕事でないことを、簡単なことだからと思って命じたら断られた、という話を昔よく聞いた。部下にしてみれば、契約上自分の仕事ではないのだからする義務はないし、万一間違いでもしたときには、その尻ぬぐいは誰がするのかと考えたら、断って当然なのである。
 アメリカ人にとって責任が基本的に個人の責任であるのに対し、日本人の感じている責任は、遂行責任にせよ結果責任にせよ、集団の責任であることが多い。企業や団体の組織で物事を決めるときに、しばしば会議を開く。会議で議論しているうちに、だんだん方向が固まって、その場に一つの空気が出来ることがある。
 そうなると結論が出たようなもので、細かいデータや明確な根拠があっても、それらは無視され、空気の強固な支配力によって物事が決まってしまう。その場の空気に逆らって反対意見を述べることは極めて難しく、あとから「あの場では、反対できる空気ではなかった」と言っても後の祭りである。
 ふつう事案の大小によって、決定権者は誰か決まっているものだが、決定権のある者は、自分の意志を通すことは控え、大方の意向を尊重するから、その事案は空気によって決められたことになる。
 こうなると、空気によって決めたことがうまくいかなかったときに、特定個人の結果責任を追及できなくなる。形式的意志決定権者は実質的な決定者ではないから、その人に全責任をかぶせることはできない。強いていえば、会議メンバー全員の責任になって、個人の責任は薄まってしまうのである。
 こんなとき、形式的意志決定権者あるいはそれに準ずる人が「それは私の責任だ」と言い出すことがある。周囲の人は「責任を自分で被ろうとしている。立派だ」と見ても、「では、この件によって生じた損害は、あなたが始末してください」などとは、言わない。もしそんなことを言えば、「あの人は自分の責任を認めているのだから、追及するな」と言われ、追及するほうが逆に非難される。動機が「善」であれば、結果が裏目に出ても大目に見る、というのが日本人の価値観で、「個人の責任を追及する」という考え方は雲散霧消してしまう。
 こういう責任追及の不徹底ないし甘さは、今に始まったことではない。1932年に日本海軍将校らが起こした五・一五事件で犬養毅首相が暗殺されたとき、犯人の動機が純粋であったことが知られると、三十五万通もの減刑嘆願書が寄せられたという。人々は「純粋人」とされた被告に対して、その行為自体は卑劣であろうと、「人間として立派」と認定して、減刑嘆願に動いたのである。
 アメリカで交通事故を起こしたようなとき「すぐ謝ってはいけない」とよく言われる。謝れば「それでは、あなたは自分のせいでこの事故が起きたと認めるのですね。賠償してください」となるからである。
 だからアメリカ人は仕事上何か間違いをしても、いかにそれが不可抗力であり、自分には責任がないと延々弁じ立てる。コロラド州の大学で日本語教育の手伝いをしていたとき、補習授業に遅刻した学生が自分のせいで遅れたのではなく不可抗力であると長々説明するのにうんざりしたことがある。
 私は中学生のとき「言い訳をするな。自分が悪かったことをすなおに認めなさい」と先生に言われた。くどくど言い訳するアメリカの学生の言動はその反対だが、これも個人主義社会で生きていくための一つの知恵なのであろう。
 いろいろ書いたが概括すると、アメリカ人の責任は個人責任であるのに対し、日本人の責任は一人が事故を起こしたような場合を除いて集団責任である。しかも「私の責任です」と言ったら、日本なら追求はそこで矛先が弱くなるのに対し、アメリカでは「自分の責任を認めるんだな。では責任をとってもらおう」となるのである。