今回の主人公、豊沢団平・三宅周太郎はともに加古川寺家町生まれであることを念頭にお読みください。
なお、今後4回(予定)も、「ひろかずのブログ」と同じ内容になります。ご了解ください。
豊沢団平(1) 浪花女
昭和15年9月10日の午後でした。
その日、朝遅くから伊豆半島を横切った豆台風は、東京の街にも豪雨を伴って走り去ろうとしていました。
(三宅)周太郎は市電を乗りすて、パラソルの柄を両手でしっかり握りしめて、市の中心部のある文化ホールへ急いでいました。
そこでは、松竹映画「浪花女」の封切上映に先立って製作関係者、芸能雑誌記者、映画・劇評家等数十名を招待した試写会が催される事になっていたからです。
周太郎はこの「浪花女」に、期待と幻滅とを相半ばした予想を立てて会場へ着きました。
試写が始まりました。これは映画界の中でも芸術性を追求して「凝り屋」との異名のある溝口健二の監督によるもので、主演は当時売出しの阪東好太郎・田中絹代で、大阪の文楽の再興に大きく寄与した、三味線弾きの名人、二代目豊沢団平とその妻女千賀との夫婦の純愛を扱ったもので、もちろん団平には好太郎、千賀には田中絹代、他に人形遣いの文吉には高田浩吉、浄瑠璃の越路太夫には浅香新八郎という豪華キャストでした。
そのストーリーは大阪の小さな商家の娘として育った千賀は、子まであった団平の後妻になろうとして周囲の反対に出会いました。
それを千賀が押切って年の多く違う団平の後妻になった理由は、ふとした事から団平の病気看護をしている中に、徐々に団平に感化されて義太夫の真価を覚えるようになり、ついに彼女は周囲の反対を押切って団平の女房になりました。
このようにして女性ながらも千賀は団平の影響で義太夫の真価が判った上、義太夫を愛したのです。
また、千賀は当時の女としては珍しく「ものを書く才分」をもっていました。
千賀は、有名な義太夫の「壷坂」を創作したことでした。
それを読んで団平は彼女の才分に驚き、その作の妙に打たれると共に、その場で節づけの「作曲」をしたのです。
・・・明治31年4月、稲荷座の舞台の床の上で三味線をひいている中に倒れ、かすかに「お千賀を呼んで・・・」といって息切れるのです。
団平は、一代の名人でいながらまさに赤貧洗うが如き無欲な人で、この映画でも千賀が団平の家へ嫁に来た時は、あばら屋でぼろぼろの障子や畳だけといっていい程、家財類は皆目なかったといいます。
この様に団平は「人形浄瑠璃」の最もさかんな時代に生き、さらにそれを盛大にして「文楽」の大御所的存在になりながらも、金銭に執着心がなく、文字通りその日暮しでした。
「浪花女」は、最初の情痴本位の日本映画との予想は全くひっくり返り、それは最も関心をいだいていた完全な「文楽映画」でした。
さらに溝口監督だけに「文楽」なり人形浄瑠璃の考証や考察が充分に行届いているのに、周太郎はいたく感激しました。
*写真:映画「浪花女」の溝口健二監督