ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

我が家に今、夏の花(タカサゴユリ)が咲いています

2019-01-31 10:37:08 | 風景

 

    我が家に今、夏の花(タカサゴユリ)

 散歩中に、いろいろな時に、いろいろな風景を見つけます。下の平荘湖のタカサゴユリも、そのひとつでした。

 「しかし」なんです。タカサゴユリは夏に咲く花のはずです。下の平荘湖の文を書いたのも、2017年8月23日です。

 それがなんと我が家の庭に、いま花をつけているのです。(今朝:1・31日の撮影)

 寒いでしょうね。がんばれよ・・・わたしも頑張るからな・・・・

  平荘湖には白いユリがよくにあう

     *2017年8月23日の「ひろかずの日記」の転載(一部)

 いま、平荘湖の遊歩道ではで白いユリの花が見事に咲いています。

 自宅でも同じ種類のユリが咲いていますが、ビオトープ状態の我が家のユリはあまりきれいとは思いません。

 でも、平荘湖の湖面を借景にした白いユリは絵になります。

 期間限定の風景ですので是非、お出かけください。

 平荘湖にはユリがよくにあうようです。

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「高砂染」の人気じんわり

2019-01-30 09:36:04 | ぐるっと高砂

 今日(1/30)の神戸新聞の東播版に「高砂染」が大きく取り上げられています。掲載させていただきました。

 それにしても、きのうの夕方、江戸時代「高砂染」を始められた尾崎さんのご子孫の尾崎高広さんとひとしきりお話をしたんです。偶然です。   

    「高砂染」の人気じんわり

 江戸時代には幕府への献上品にもなった「高砂染」が昨年春に再現され、今年1月上旬には帝国ホテル(東京)で展示された。再興に取り組む兵庫県高砂市高砂町の企業「エモズティラボ」は本格的な製造・販売を目指しており、「高砂の名を全国に広めたい」と意気込む。

 高砂染は約400年前に生まれた。「高砂神社の相生の松」をモチーフにし、繊細な松枝柄に吉祥紋を型染めで重ねる。謡曲「高砂」に歌われる祝いの精神を表現しているという。

 約90年前に衰退したが、同社代表の寄玉昌宏さん(33)らが古布を調べて技術を研究。2017年にエモズティラボを立ち上げ、昨年4月に再現した。

 同10月には、中東のアラブ首長国連邦(UAE)の展示会に浴衣などにして出展。帝国ホテルの展示会では、初めて高砂染を知った客から「日本の正月にふさわしい着物」などと高い評価を得たという。今年秋には姫路市内で公開する。

 現在は展示用の2枚だけだが、本格的な製造・販売が目標。高砂染の創業家の一つとされる尾崎家の17代目当主で、同社相談役の尾崎高弘さん(52)は「時代に合った高砂染を作り、未来に伝え続けたい」と話している。(本田純一)

 

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ふしぎなご縁

2019-01-29 08:26:18 | 歴史・文学

           ふしぎなご縁

 いま「ひろかずのブログ」では、「三宅周太郎さんのこと」、そして[豊沢(加古)団平さんのこと]を纏めています。

 正直にいうと最初、「加古川の住民であるから一応はとり上げなければ…」と思い、本を読みながら連載を始めました。

 私が読者なら、最初の段階で、「読まない」と決めたかもしれません。

 それほど、地味なテーマですが、不思議なものですね。

 いま、もう少し探ってみたくなっています。最近、三宅周太郎さんの偉大なお仕事が少しだけわかってきました。

 そして、人形浄瑠璃(文楽)のことも少しだけですが、分かってきたような気分になっています。

 このテーマに、私が想像していた以上のアクセスがあります。

 

 以下は余話です。

 もう2年前になります。友達の加古さんが癌で亡くなりました。彼は野球が得意でした。

 その加古さんこそ豊沢団平さんの御子孫のおひとりだったことがわかりました。不思議なこともあるものですね。

 *写真:スイセン(我が家の近くで咲く今朝のスイセンです。本文と関係がありません)

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雪がふる・・・・

2019-01-27 21:16:32 | 風景

           ファンタジーの世界

 26日、昼頃加古川でも少しだけ雪がちらつきました。

 ちょうど、孫と一緒の時でした「アッ…雪」と喜んだのですが、すぐに消えてなくなりました。

 少しだけでもよいから降ってほしかったね。

 ですが、三木市では結構降ったみたいです。

 きのうの神戸新聞の東播三木版では、ファンタジーのような写真が掲載されていました。

 こんな写真を撮ってみたいですね。

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コーヒーカップ

2019-01-26 20:16:36 | 余話として

 

      コーヒーカップ

 起床と同時に、ポットのスイッチを入れて湯を沸かします。

 その湯の沸くあいだに洗顔と歯を磨きます。

 それからインスタントコーヒーを飲みながら新聞を読みます。

 その日の気分でコーヒーを飲みながら、新聞を読む前にその日のブログをいれたりしています。

 いずれにせよ、(インスタント)コーヒから一日が始まります。

 コーヒーをよく飲むことを知っているのか、お土産等でカップをよくもらいます。

 

 そのため、コーヒーカップを自分で買うことはほとんどありません。

 きよう、午前中ある公民館へ出かけました。

 ちょうど、趣味の会の作品展の日でした。たくさんの作品が出品されています。そして、一部販売もされていました。

 

 コーヒーカップを初めて買いました。少し底が安定しないのですが、それも味です。

 今(8:00)、買ったカップで飲んでいます。

 いつものコーヒーですが、一味違いますね。しばらくこれを愛用することにします。

 よい一日が始まりそうですから・・・

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ぐるっと高砂 高砂通運旧本店

2019-01-25 10:51:08 | ぐるっと高砂

 今、神戸新聞ではシリーズ「ぐるっと高砂」で「高砂町」を紹介しています。

 おもしろいです。

 「ひろかずのブログ」では、史料として、この記事を転載していますが、今後「ひろかずの日記」で紹介させていただきます。

   ぐるっと高砂(1)・高砂通運旧本店

 高砂銀座商店街(兵庫県高砂市)にある国登録有形文化財「高砂通運旧本店」(高砂町鍛冶屋町)が今年、建築から80年を迎える。昭和初期のモダンなデザインで親しまれ、4年前から2階部分を資料館として公開。海運で栄えたまちの歩みを伝える。

 高砂通運の旧本社屋で、1939(昭和14)年5月に完成した。木造2階建てで、れんが壁の下地に、赤褐色で縦模様のスクラッチ風のタイルを貼った外観が特徴。角張った出窓など欧州の洋館に見られるキュービズム(立体派)の様式が、ひときわ目を引く。

 72年まで使われていたが、老朽化のため同社は高砂町南本町に本社を移転。旧本社屋は整備され、17年に国の文化財となった。

 2階の資料館には、高砂町や高砂通運の歴史をまとめたパネル10点を展示。工楽松右衛門や憲法学者美濃部達吉ら、高砂ゆかりの人物の功績を紹介する。大型スクリーンも設置し、市の歴史や名所を写した映像を放映する。1階は貸店舗になっている。

 同社の担当者は「外観は当時の面影を残したまま。1世紀近くたっても色あせない魅力に触れてほしい」と話している。

 入館無料。午前11時~午後4時。木曜休み。高砂通運TEL079・443・5151

(津田和納)

*写真:「高砂通運旧本店」(高砂町鍛冶屋町)

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豊沢団平(5)  団平の死

2019-01-24 09:50:29 | 歴史・文学


             

             団平の死

 明治31年4月1日。場所は大阪の稲荷座。

 その日、義太夫三味線の名手、豊沢団平の音色は、ことのほかさえ、聞き入る人々を魅了していました。

 九分どおり済んだと思われた時である、団平は、ハタとバチを落とし、前のめりにガックリ肩衣のまま倒れました。

 意識不明のまま団平は、病院に運ばれる途中絶命しました。71歳でした。

 三味線界300年の歴史を通じて、その右に出るものなし、とまでいわれた団平の死は、いかにも、この人らしい終末を飾る劇的な風景でした。

 彼は、本名を加古仁兵衛(かこにへえ)といい、加古家は団平から数代前に粟津から寺家町に移転して、醤油醸造を家業としていました。

 粟津の常徳寺が加古家の菩提寺であり、団平はこの境内に眠っています。

 友達の理髪店に行きました。理髪店の裏が常徳寺です。

 *写真:常徳寺の団平の墓

 

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豊沢団平(4) 団平さんのこと:余話二題

2019-01-23 08:18:21 | 歴史・文学

       団平さんのこと:余話二題

 この辺で「三宅周太郎さんのこと」を追えますが、最後に余話を二つばかり付け加えておきます。

   その1:「豊沢団平生誕之地」の碑は残っていた

 たしかに団平さんの碑があったことを覚えています。

 場所も覚えています。

 だれかが、「むかし団平さんという人いて、その人はここで生まれたんや・・・」と教えてくれたからです。

 いつ・だれに聞いたかすっかり忘れました。

 その碑は小さな碑でした。

 文楽の研究家の「三宅周太郎さんのこと」を連載しながら、気になっていました。

 21日(月)の午後、その場所に出かけることにしました。

 場所は、加古川中央公民館の玄関から寺家町商店街への道があますが、商店街の道の10㍍ぐらい手前の左(西側)です。

 「もう50年以上前に見た小さな石碑ですから、もうないだろう・・・」とダメ元で出かけたのです。

 が、なんとあったではありませんか。感激でした。

 今は駐車場になっており少しだけ移動しているようでした。フェンス沿いにありました。

 団平さんの影を見つけました。

 はっきりと「豊沢団平生誕之地」(写真)と読めます。

    その2:幻の「団平羊羹」のこと

 団平について思い出がもう一つあります。

 小学生の時でした。たしか「団平羊羹」がありました。

 味は忘れたが、「ダンペイ」という言葉の不思議な響きが残っています。

 もちろん、その当時は「ダンペイ」が人の名前だとは知りませんでした。

 今も団平羊羹は製造されているのでしょうか。

 あったら、団平羊羹を食べながら、『一の糸(有吉佐和子)』を、もう一度読み返したい・・・

 *写真:「豊沢団平生誕之地」の碑


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ロウバイかぐわしく・加古川円照寺で見ごろ

2019-01-22 10:21:15 | 風景

 

 先日、円照寺のロウバイを取りに出かけました。

 今年は、暖かなせいか2週間ほど前でしたが満開でした。

 今日の神戸新聞にも掲載されていましたので、転載させていただきます。

   ロウバイかぐわしく・加古川円照寺で見ごろ

 「花の寺」として知られる円照寺(兵庫県加古川市志方町広尾)で、マンゲツロウバイが見頃を迎えている。早春の花とされ、寺を明るく彩っている。2月上旬まで楽しめる。

 中国原産の落葉低木。同寺では上月義宗住職(72)が約40年前に3株を植えた。丸みのある花弁が特徴で、高い枝は約5メートルにまで成長する。暖冬のため開花は例年より3週間ほど早く、昨年末から咲き始めたという。

 花の大きさは2センチほど。透き通るような黄色の花が甘く上品な香りを漂わせ、訪れた人を楽しませている。高砂市から写真を撮りに訪れた女性(69)は「艶っぽくて、ろう細工みたい。とても愛らしく、何回も見に来たくなる」と満足そうだった。

 上月住職は「寒い日が続くが、ロウバイをめでながら春を待って」と話した。円照寺TEL079・452・2067

(津田和納)

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豊沢団平(3) 団平は、文楽義太夫節三味線、日本一の名人

2019-01-22 09:23:33 | 歴史・文学

      豊沢団平(3)

    団平は、文楽義太夫節三味線、日本一の名人

 周太郎の「団平」調査は続きました。

 団平を預けられた千賀太夫は、幼少の力松を旅芸人の三味線弾きにする程度の考えで、当時の三味線の名人三代目豊沢広助の門に入れました。

 つまり、親は資産をなくし、なまじ浄瑠璃の為に一生を犠牲にした結果、子を三味線弾きにしたものの、その至難さを身に沁みて知る故に、せめて「旅稼ぎ」でも出来ればと思う程度でした。

 この消極的に、三代目広助の門へ入れられた力松が、親が全く期待もしないのに、後年の名人団平に成長したのです。

 しかも、広助の眼は高いものがありました。

 幼少の力松をただ者でないと見て取り、「旅稼ぎ」などは、もっての外とばかりに、直ちに力松を本場の文楽へ入れて修業せしめたのです。力松12・13の頃と思われます。

 18才にして才能を現し、早くも数人の門人さえ持ち、28才の若さで当時の最高権威竹本長門太夫の三味線を弾くまでに進歩したのでした。

     三宅周太郎のこと

 三宅周太郎は、戦後ずっと京都市内桂野に定住し、劇評一筋の道に精進しましたが、すでにこの界の権威としての不動の地位を確立しました。

 そして、かつての母校・同志社普通部の旧知の人達からの懇請によって、ある日母校での講演会に出席しました。

 それは多感な青春の日を想い浮かべ、ひとしお感興にひたりつつ、その演題は「文楽について」として、文楽の前途を憂いつ、多年にわたる独自の研鑚を傾けたもので、列席の人達に多くの感銘を与えました。

  また、昭和35年7月、加古川市市制十周年記念祝典には、かつて父祖の所有地であった寺家町の旧公民館で、郷土の人達を前にしての特別記念講演にも「豊沢団平について」と題しての文楽ものでした。

 加古川市が生んだ不世出の名人芸の真髄を披れきしたものだったのです。

 *写真:三宅周太朗(京都南座を背に・昭和39年2月26日撮影)

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豊沢団平(2) 団平のルーツ

2019-01-21 10:14:48 | 歴史・文学

 

 豊沢団平は、「ひろかずのブログ」とおなじ記事です。

  豊沢団平(2) 団平のルーツ

 *以下、周太郎の文章は、文体を変えています。

 周太郎は、あるところで次のように語っています。

 

 「・・・浪花女(なにわおんな)の団平は、近世では、芸を命とした第一人者であったことは論を待ちません。それは、人形浄瑠璃の方では既定の事実です。

 しかし、これを知っている人は、インテリと文楽ファンのみといえる程少数でしょう。

 その現在に、何十万何百万の一般人に見せる映画として、近世における「芸を命」の代表者・豊沢団平をあいまいながらも映画として紹介したことは、我々人形浄瑠璃に関心を持つ者には大きな嬉です。

 ・・・・

 (また、ルーツについては)「団平の本名は加古仁兵衛、文政11年(1828)3月の生まれで、団平の先祖は武士でした。

 それが、後に織田の配下の秀吉の中国征代に蚕食せられ、三木城の別所小三郎の部下として寵城すること数ヶ月、討ち死と決心して乳母に蓄えの金と男の児とを託し、附近の筒井家へ送り、そこで乳母が遺児を養育し、その子が町人となり生長して加古川のすぐ隣の粟津村(現:加古川町粟津)へ移住して老年に及び、当時廃寺となっていた同村の常徳寺を起し、自ら出家して復興しました。

 現在の常徳寺は、改築せられたものですが、この寺は名人団平の先祖が復興した寺に当るわけです。

 この後、引続いて粟津村に四代ほど居住し、五代目に当る加古安次郎の代になって、隣なる加古川町内へ移転しています。

 そして、その安次郎の子が後年の豊沢団平のようです。

 この安次郎の生家は、大きな松の木のある寺がある常住寺でした。(*常住寺は、現在加古川中央消防署の近くへ移動している)

 その常住寺から西ヘ一丁程の所に、数年前まで「玉岡」といった資産家の呉服店がありました。

 その家は立派な大きな家で、古くから加古川町の資産家では五本の指に入る家でした。

 その家が実は安次郎氏が初めて加古川へ来て住んだ家、そして団平が生れた家です。

 団平は幼名力松、この安次郎が芸好きであって、いわゆる旦那芸として浄瑠璃を習い、それがこうじて、元来武家出身の名門加古家のこととて裕福であったのですが、ついに家計が傾き、資産を蕩尽するまでに浄瑠璃に打込む結果になりました。

 結局、一家は離散し力松は大阪の叔父に引きとられました。そして、力松は間もなく大阪の竹本千賀太夫の手許に身を寄せたのでし」と書いています。

  *写真:常徳寺の山門横にある「碑」(豊沢団平菩提所)

 

 

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豊沢団平(1) 映画・浪花女

2019-01-20 09:46:45 | 歴史・文学

 今回の主人公、豊沢団平・三宅周太郎はともに加古川寺家町生まれであることを念頭にお読みください。

 なお、今後4回(予定)も、「ひろかずのブログ」と同じ内容になります。ご了解ください。

     豊沢団平(1) 浪花女

 昭和15年9月10日の午後でした。

 その日、朝遅くから伊豆半島を横切った豆台風は、東京の街にも豪雨を伴って走り去ろうとしていました。

 (三宅)周太郎は市電を乗りすて、パラソルの柄を両手でしっかり握りしめて、市の中心部のある文化ホールへ急いでいました。

 そこでは、松竹映画「浪花女」の封切上映に先立って製作関係者、芸能雑誌記者、映画・劇評家等数十名を招待した試写会が催される事になっていたからです。

 周太郎はこの「浪花女」に、期待と幻滅とを相半ばした予想を立てて会場へ着きました。

 試写が始まりました。これは映画界の中でも芸術性を追求して「凝り屋」との異名のある溝口健二の監督によるもので、主演は当時売出しの阪東好太郎・田中絹代で、大阪の文楽の再興に大きく寄与した、三味線弾きの名人、二代目豊沢団平とその妻女千賀との夫婦の純愛を扱ったもので、もちろん団平には好太郎、千賀には田中絹代、他に人形遣いの文吉には高田浩吉、浄瑠璃の越路太夫には浅香新八郎という豪華キャストでした。

 そのストーリーは大阪の小さな商家の娘として育った千賀は、子まであった団平の後妻になろうとして周囲の反対に出会いました。

 それを千賀が押切って年の多く違う団平の後妻になった理由は、ふとした事から団平の病気看護をしている中に、徐々に団平に感化されて義太夫の真価を覚えるようになり、ついに彼女は周囲の反対を押切って団平の女房になりました。

 このようにして女性ながらも千賀は団平の影響で義太夫の真価が判った上、義太夫を愛したのです。

 また、千賀は当時の女としては珍しく「ものを書く才分」をもっていました。

 千賀は、有名な義太夫の「壷坂」を創作したことでした。

 それを読んで団平は彼女の才分に驚き、その作の妙に打たれると共に、その場で節づけの「作曲」をしたのです。

 ・・・明治31年4月、稲荷座の舞台の床の上で三味線をひいている中に倒れ、かすかに「お千賀を呼んで・・・」といって息切れるのです。

 団平は、一代の名人でいながらまさに赤貧洗うが如き無欲な人で、この映画でも千賀が団平の家へ嫁に来た時は、あばら屋でぼろぼろの障子や畳だけといっていい程、家財類は皆目なかったといいます。

 この様に団平は「人形浄瑠璃」の最もさかんな時代に生き、さらにそれを盛大にして「文楽」の大御所的存在になりながらも、金銭に執着心がなく、文字通りその日暮しでした。

 「浪花女」は、最初の情痴本位の日本映画との予想は全くひっくり返り、それは最も関心をいだいていた完全な「文楽映画」でした。

 さらに溝口監督だけに「文楽」なり人形浄瑠璃の考証や考察が充分に行届いているのに、周太郎はいたく感激しました。

 *写真:映画「浪花女」の溝口健二監督

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文楽に興味のなかったのですが・・・

2019-01-19 08:26:32 | 歴史・文学

        文楽に興味のなかったのですが・・・

 いま「ひろかずのブログ」では「三宅周太郎のこと」を書いています。

 周太郎は演劇評論家であり、文楽の研究家です。

 ただ単なる分析家ではありません。

 文楽は、一時衰えました。

 そんな時、周太郎は立て直しに情熱を注ぎました。また、厳しい分析と批判もしています。

 現在の文楽があるのは三宅周太郎のお陰と言える人物です。

 その周太郎が加古川出身であり、また、人形浄瑠璃の三味線では右に出るものがいないといわれた豊沢団平(とよざわだんぺい)が、これまた加古川の人であるなら、文楽に興味がなかろうと関心を持たざるを得ません。

 いま、文楽とは、全く縁のない私でさえ周太郎の『文楽の研究』を読んでいます。

 また、先日も紹介した団平をモデルにした有吉佐和子さんの小説『一の糸』を読んでいます。もう少しで、読み終わります。

 お勧めしたい一冊です。

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小説『一の糸』(有吉佐和子著)を読みませんか

2019-01-17 09:06:53 | 歴史・文学

   小説『一の糸』(有吉佐和子著)を読みませんか

 いま「ひろかずのブログ」では、「三宅周太郎さん」を取り上げています。

 三宅さんは、歌舞伎・文楽の研究家(批評家)です。彼は加古川の寺家町に生まれました。

 *三宅周太郎さんは加古川名誉市第1号です。

 いよいよ、「ひろかずのブログ」は、これから周太郎さんの研究もお借りして、文楽の三味線弾き・豊沢団平さんを紹介します。

 なんと、豊沢団平も加古川の出身です。本名は加古さんです。

 そして、団平さんをモデルにして小説家・有吉佐和子さんは、小説『一の糸』を書いておられます。

 

 『一の糸』の時代設定は、少しだけずれていますが、明らかに豊沢団平をモデルにして書いておられます。

 団平の最後は、舞台で演奏中に亡くなりました。

 『一の糸』は、大正から戦後にかけて、芸道一筋に生きる男と愛に生きる女を描く波瀾万丈の一代記です。

 『一の糸』はずいぶん前に買った小説です。きのう約1/3ほど読み返しました。

 加古川市は、三宅周太郎さん。豊沢団平さん等すごい人物を輩出すごい街なんですね。

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とんでもない意見

2019-01-16 08:56:10 | 経済

      まさに、国民を無視した少数意見

          「原発再稼働どんどんやるべき」 

 経団連の中西宏明会長(写真)は15日の会見で、東京電力福島第1原発事故後に停止している原発について「再稼働をどんどんやるべきだ」と述べました。

 原発の新設や増設も認めるべきだとの認識を示し、エネルギー政策の在り方を巡り国民的な議論を呼びかけました。
 

 議論とは、より建設的な意見をまとめるために行うものなんでしょう。

 経団連の意見は、国民の安全を全く無視した意見ですね。

 世界の常識に挑戦した意見です。まさに、世界の少数意見です。

 黙っているわけにはいけません。非難の大声をあげましょう。

 *写真:中西宏明、経団連会長

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