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薬師寺⑥

2017-09-17 15:39:58 | お話
🏯薬師寺🏯⑥


🔸小川、きょうは管主にぜひお聞きしたいと思ったのですが、

若いお弟子さんたちをどのように育てていらっしゃるのですか。

🔹村上、私たち薬師寺の修行は理屈を超えた世界ですから、

知識ではなく体で身につくように覚えなくてはいけません。

作法も生活態度もすべてそうです。

それをしたからといって急に世界が変わるわけではありませんが、

後になってそれが自分の肥やしになっていることに気づかされます。

例えば、お経あげたらお布施をいただけるというのが世の中の話ですけれども、

檀家を持たない薬師寺の僧には、損得を考えずにお布施をいただけないお経を、何十年と黙々と上げ続けられるだけの心の鍛錬が求められるんです。

それは小川さんがおっしゃる黙々と刃物を研ぎ続ける世界と同じですね。

そういう心構えさえできていれば、

僧としての基本の姿勢は、いつも変わることなく保てるのではないでしょうか。

弟子を育てる場合にも、そのような姿勢を体得させることが、まず最優先事項です。

理屈を言わず、まずは一所懸命コツコツと修行に励む子は、それだけ吸収も早いですね。

🔸小川、私たちの工場でも教えないで感じ取る、ということが大前提になっています。

もちろん、教えなかったらどこに行ってしまうか分からないわけですが、

そこには何となく学ぼうという雰囲気があればいいんです。

雰囲気さえつくっておけば、放っておいても弟子たちは仕事を覚えます。

🔹村上、雰囲気づくりですか?

🔸小川、はい。私は弟子たちと今も共同生活をしていますが、

最初は私は雰囲気をつくってあげたから弟子が育ったと思っていました。

でも、それは間違いでした。

学ぼうとする雰囲気は、私ではなく弟子たちがつくったんです。

そのことを弟子たちに仕事を任せるようになった10年ほど前に、ようやく気づくことができました。

私たちの工場では、新しく入ってきた子に最初にやらせるのは飯炊きと掃除です。

飯炊きをさせると仕事の段取りのよさが分かります。

掃除をさせるとその子の性格、仕事に向き合う姿勢が分かります。

しかも、うちの飯炊きの時間はわずか30分なんですね。

ということは、前日に買い物を済ませて夜に下ごしらえをしておかなくてはいけない。

それも訓練ですから、できるかどうかをじっと見るわけです。

幸い弟子たちがこれまでそういう雰囲気をつくり上げてくれましたので、

私が改めて何かを教えなくても、

皆で食事した後の雑談だけでも十分に伝えることができるんですね。

大勢で一緒に生活することが私にとっても弟子たちにとっても大変な面がありますけれども、

そういう我慢比べもいいんじゃないかと最近はよく感じています(笑)。

🔹村上、私も同感です。

🔸小川、ただ、今の子はみんな個室で育っていますでしょう。

中には

「アパートから通っていいですか」

と言ってくる子もいます。

そんな子には

「すぐに帰ってください」

と伝えるんですが、本当に驚いてしまいますね。

🔹村上、お寺の生活でも

「俺はこうしたい」

と自分というものを持ち出すのはいい時もありますが、

修行の世界に飛び込ませる上では、やはり妨げとなることが多いですね。

薬師寺が復興し観光客が増えてくると、

薬師寺という名前だけに惹かれて弟子入りを志願する人も増えてきました。

ある種のサラリーマン化というのでしょうか、

何もしない時代に、おいしいご飯さえいただけたら、それが1番の幸せと思って修行に打ち込んできた私にはちょっと理解できません。

🔸小川、先ほど村上管主は、理屈を言わずに修行に励む子は吸収が早いとおっしゃいましたが、

私がいろいろ弟子を見ていても、素直な子はやはり伸びるような気がします。

なぜ素直がいいかというと、話が直線的に入るんです。

素直でない子は屈折して入るから、伸びるのにも時間がかかる。

それに素直だと、教えるほうも教えられるほうも、ともに疲れることがありません。

やはり素直というものはいいものですよ。

何かの問題に直面しても、素直に物を見ていくことで解決できることがあります。

これ以上力が出せないという時も、素直に物に触れていくことによって、いいものがつくれる。

🔹村上、物をつくる上でも素直さが大事だということですね。

🔸小川、その通りです。常識的に考えたら、設計図もない時代に薬師寺の三十塔のような建物を建てられるなど考えられません。

屋根の相輪に取り付けられた4枚の水煙(すいえん)にしても、1枚が100キロあるんですから。

おそらく奈良時代の工人たちは何にも心がとらわれることなく、

素直に物事を捉えることで、あれだけの知恵を生み出したのでしょう。

それを再現しようと思えば、やはり自分を無にして昔の工人に心を合わすことが大事です。

そうすると

「つくってやろう」

というのではなく

「自然につくり上げていく」

という感覚が分かってくる。

私はこれまでの人生の中で、この素直さということをとても大事にしてきました。

🔹村上、私が自分で大事だと思うことを申し上げれば、

やはり世の人々のこと、お寺のこと、弟子のことを優先する生活態度が薬師寺の僧侶の生き方だと思って生きてまいりました。

その他に何もありませんし、

この年になってくると、そのことをより優先させなくてはいけないという思いを強くしております。

いまの世相を見ますと、三世代が一緒に暮らさない、

両親を大切にしない、先生を敬わない、

お墓にも参らない、お葬式もしないというように、

仏法からどんどん遠のいていくばかりです。

孝行や思いやりなど人生に必要な重石が失われていく中で、

仏法を知らせる僧侶の役割が大きくなってきていることを痛感しているんです。

🔸小川、重石が失われていくというご指摘、確かにそのとおりですね。

🔹村上、例えば、若い人に尊敬する人を持てと言ったところで、おそらく持てないでしょう。

実際にそういう出会いをして心から納得するという経験をしていないからです。

スマホをいくら見てもそのことは分かりません。

ですから、ただ頭で分かったつもりになるのではなく、

何事も自分の体で経験を1つずつ進んでいくことは、

特にこれからの人たちが人生で大成していく上で、

とても大切になってくるように思います。

仏教には「冷暖自知(れいだんじち)」という言葉がございます。

一杯の水でも、見ているだけでは、それが暖かいのか冷たいのか分かりません。

頭で考えて得られるのは知識だけです。

自分で体験し、心で理解すること仏様の知恵というのです。


🔸小川、管主の話を聞きながら感じたことですが、

最近の弟子は一昔前に比べて恩を感じるということが少なくなりましたね。

何年も一緒に生活していながら、独立した途端

「今どこで何をやっています」

というような連絡を寄こさないし、

そのまま離れてしまう子が多いのは実に残念です。

西岡棟梁は法隆寺で技を磨いて最後に薬師寺で花を咲かせられました。

もし棟梁が器用に振る舞うようなタイプの人だったらきっと西岡常一という名はなかったと思います。

だけど、弟子たちを見ていると修業をして一通りの技術が身につくようになると、それで終わりなんです。

本来なら、技術を身につけた上で、

与えられた予算の中でどうつくり上げるのか、

どのように弟子を育てるのか、

施主さんの信頼を得ていかに仕事をいただけるようになるか、

というところまで進まなくては、一人前の宮大工とは言えない。

そこまで考えることができるのは、

感謝の気持ちや視野の広さなど、人としての美的感覚を育てることができた子だけですね。

うちの弟子を見てもそういう子はまだまだ少ないのですが、

人間的なベースがないと宮大工としての大成は難しいと思います。

🔹村上、私たちのお寺でも真面目な子はいます。

だけど自分の修行のことしか考えていないから、

次の段階に進まないんですね。

人があって、社会があって、初めて仏教というものが存在するわけですから、

大きく言えば衆生救済、人々のために法を説くというところにまで思いは至らなくてはいけません。

その意味でも視野を広くする訓練というのは、とても大事ですね。

しかし、これは別に若い僧侶のことだけではないと思います。

今回のテーマは「自反尽己(じはんじんこ)」ということですが、

自分たち僧侶は、いつまでたっても修行、修行ですよ。

人に何かをして差し上げたとしても、なかなか思うようにいかないこともあります。

毎日が「ここは足らなかったな」

「こうすればよかったな」

と反省することの連続です。

しかし、自分を見つめ反省を繰り返しながらも人々の幸せのために力を尽くしていく。

薬師寺流の言い方をすれば、仏法の種まきをしていく。

そこに自分の心もまた磨かれていくように思います。

🔸小川、「自反尽己」という言葉について私の立場で申し上げれば、

棟梁は仕事の全責任を負うわけですから、決して言い訳できないんです。

職人の世界は厳しいもので、いくら口先で上手に話せるジェントルマンであっても、

技術が下手であれば、施主を感動させるものをつくることはできません。

言い訳ができないのは職人の世界であり、

それだけに自分を厳しく見つめて技を磨き続けなくてはいけないんです。

私のは鵤(いかるが)工舎を立ち上げて独立した時、

西岡棟梁が工場に来て、こんな言葉を書いてくれました。

「鵤工舎光の若者に告ぐ。

親方に授けられるべからず。

一意専心、親方を乗り越す工風を切磋琢磨すべし。

これ匠道(しょうどう)文化の心髄なり。

心して悟るべし」。

独立した以上、今度は親方を乗り越える努力をしろ、という教えです。

この言葉を指針に技を磨き、

弟子を育てて一途に匠道を歩んでいく覚悟でいます。


(おわり)

(「致知」10月号 小川三夫さん村上太胤さん対談より)

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