hideyukiさんの、令和もみんなガンバってますね!笑み字も!Webにも愛と光を!

日々の楽しい話、成長の糧などを綴ります。
楽しさ、感動、知恵が学べる。
(^_^)私はとっても普通の人です。

相手にしない

2019-12-12 13:24:00 | 伝統的考え方
🌸🌸相手にしない🌸🌸


昨年(2018年) 10月に、「ジャポニズム2018」の企画で渡仏し、パリで坐禅会🌸や講演会🎤を行ってきた。

フランス🇫🇷の方々は実に熱心💓に坐禅をされていて、

講演会も満席🌸になるほどで、フランスでの禅に対する関心💓の高さに驚いた。😍

坐禅会の折には、質疑応答🌸の時間を設けることにした。

質問に対してこちらが禅✨の立場で答えるのであるから、禅問答と言えなくもない。

とある女性🌸からの質問を受けた。

その日の坐禅会では、数息観(すそくかん)という呼吸☁️を数えて心💓を調える方法🍀を教えたのだった。

それを受けて、

「今回教わった坐禅や数息観を、日常の暮らしにおいて、どのように活用🍀して取り入れたらいいですか」

という質問だった。

坐禅を今回限り⚡️ではなく、普段の暮らしに取り入れたいという思いが有りがたく感じ💓られた。

それに対して私は、

「坐禅をするのに1番いいのは、朝起きてすぐの時間と夜の寝る前でしょう。

朝起きて、ベッドの上で5分でもいいから静かに坐ってみることです。😊

夜も同じくベッドの上でいいから静かに坐るという習慣🍀をつけることが大事です。

数息(呼吸を数えること)は、簡単なようで、大きな効果🌸があります。

1番いいのは、感情的💓になってしまった時でしょう。

腹を立てて怒り💢の感情にまかせて、言葉🍀を発したり、行動したりすると、
よい結果🌸にはなりません。

感情的💓になっている時ほど、

少し落ち着いて自分の呼吸☁️を1から10まで数えて🔢みることです。

それだけでも感情💕はおさまっていきます」

と答えた。

すると、また別の女性🌸から質問を受けた。

「坐っていても次から次へと思い☁️が湧いて、あふれてきて⛲️仕方がない。

どうしたらよいのか😵」

という問いである。

その日は、坐禅会の会場🏛である日仏会館に行く途中、セーヌ川の畔を歩いて行ったので、

川の流れを譬(たと)えにお答えした。

「先ず、思いが湧いて☁️くるのは自然🍀なことだと受け入れることが大切です。😊

思い☁️や雑念🌀が湧いて、自分の坐禅がうまくいってないなどと、

自分を責める💢必要はありません。😊

例えば橋の上から川の流れ☁️をただ見て👀いるように、

静かに自分の思い☁️を見ていることがいいでしょう。🎵

決して自分の思いの中に入り込んでいったり、追いかけたりしないで、

ただ見ている👀のです。☀️

すると、どんな思い☁️であっても、

必ず湧いては消えて☁️行きます。

そして少し離れて見ていることだと思います。

思い☁️の波🌊にのみ込まれないようにして、

思い☁️をそれ以上増幅⤴️させないようにすることが必要🍀です」

と。

これは、坐禅を始めた人が、必ずといっていいほど直面⚡️する問題⚠️でもある。

雑念🌀が起きて仕方がない😵、どうしたらいいのかと。


和歌山県日高郡由良町にある興国寺🏯の開山である法灯(ほうとう)国師(心地覚心(しんちかくしん))は、

雑念🌀や妄想の起こる様子🌸を、

「晴れた空に雲☁️が湧くようなものだ」

と譬えられている。😊🎵

我々の心💓の本体は、青空☀️のようなものであり、

妄想🌀は空に浮かんだ雲☁️なのだ。

雲が湧いて浮かぶのは、自然🍀の様子であり、

元来それほど苦に😵するほどのものではない。😊🎵

無理に雑念🌀を無くそうとがんばってみても、

それは盤珪(ばんけい)禅師が

「血💕で血💕を洗うようなものだ」

と表現🌸されているように、

はじめについていた血💕が落ちたとしても、

洗った血💕が残ってしまって、

堂々巡り🔄になってしまう。😊

雑念🌀を無くそうという思い自体が、新たな雑念🌀となる。

坐禅中に、雑念🌀が湧いて仕方なく感じるのは、むしろ自然🍀なことだ。

普段から雑念🌀を起こして暮らしているのがお互いであって、

普段は雑念🌀にまみれて、雑念🌀が起きていることすら気がついていない😵だけだ。😊🎵

少し落ち着ついて坐ってみると、

よく心の様子🌸が見えるようになって、雑念🌀が気になるのだ。

湧いてくる雑念🌀を相手にする必要はない。

雲☁️の譬えでいえば、

浮かんでいる雲☁️は自然🍀の風景くらいに思って、

それよりも大空☀️を見つめるようにする。

心💓の本体に目👀を向ける工夫🍀をすることが大切である。

例えば、鏡✨にはさまざまな像が映るが、鏡✨の本体には何の汚れもない。😊

映画🎥のスクリーンも同じだ。🌟

どんな映像🎥が浮かんでいたとしても、スクリーン本体に汚れはつかないのだ。

だから、ただ浮かんでは消える様子🌸を静かに見つめて👀、

心の本体は、清らかなまま✨であると気がつく🌟ことだ。

雑念🌀の中に取り込まれてしまわないように、

腰を立てて呼吸☁️を調え、息を数える方法🌸が数息観🍀である。

雑念🌀を無くそうというのではなく、

相手にしない対処法🌸なのである。😊🎵

空に浮かぶ雲☁️は、浮かんでは消えていくだけのものである。

それと同じように、雑念🌀とて、相手にしなければ必ず浮かんでは消える。🌟

追いかけたり、相手にしないことが大事だ。😊🍀


(「致知」1月号 横田南嶺さんより)

悟りの四つの型

2018-05-19 18:14:09 | 伝統的考え方
悟りの四つの型


臨済禅師の語録である『臨済録』には、「四料揀(しりょうけん)」と呼ばれる独自の考えがある。

師、晩参(ばんさん)、衆に示して曰く、

「ある時は奪人不奪境(だつにんふだっきょう)、

ある時は奪境不奪人(だっきょうふだつにん)、

ある時は人境倶奪(にんきょうぐだつ)、

ある時は人境倶不奪(にんきょうぐふだつ)」。

と原文には簡単に臨済禅師の言葉が記されている。

四つの料揀(りょうけん)だが、
料ははかること、揀は選ぶこと、
四つの悟りの型といっていい。

臨済禅師の教えの1つに、
「随処(ずいしょ)に主となる」
というのがある。

どんな所でも自らの主体性を持てという意である。

主体性を実際にどうはたかせていくか、
そこに四通の型を臨済禅師は説かれたのだと受け止めている。

数学的には難しい問題である。

そもそもこの「四料揀」自体が、臨済禅師が直接解かれたものではなく、
後世につけられたという説もある。

しかしながら、ここでは、あまり難しく詮索するよりも、
お互いの人生を歩んでゆく道において、
そのよすがになるものとして学んでみたい。

あえて人間学的に学んでみようと試みる。

要は、人と境との関わりに四通があるということだ。

人とは主観であり、境とは客観である。

人は自分であり、境は外の世界だ。

お互いの生活は、この人と境との入り組みにすぎない。

自分と外の世界との関わり合いしか、ありはしない。

その自分と外の世界との関係を、臨済禅師は四つに分けられたのだ。

第一の、
「奪人不奪境(だつにんふだっきょう)」は主体を奪い、客体を奪わないという。

自分が無くなって外の世界だけになり切ることだ。

第二の、
「奪境不奪人(だっきょうふだつにん)」とは客体を奪い、主体を奪わない、
外の世界が無くなり自分だけになることだ。

この時、自分だけの天下になる。

第三の、
「人境倶奪(にんきょうぐだつ)」とは主体も客体もともに奪う。

自分も外の世界もともに無くなるのである。

第四の、
「任人境倶不奪(にんきょうぐふだつ)」とは、主体と客体ともに奪わない、
自分も外の世界もそれぞれがおもうがまま自由に振る舞うのである。


我々修行道場では、迷い苦しみ世界から脱しようと日夜修行に励んでいる。

毎年春になれば、大学を出たばかりの青年修行僧が、修行道場の門を叩く。
今も昔ながらの生活を守り、畑を耕し、薪わ割り、薪で煮炊きをして坐禅修行に励んでいる。

この修行の道に、四つの型を当てはめて考察してみよう。

修行道場に入門するには、まず第一の「奪人不奪境(だつにんふだっきょう)」が課せられる。
まず自分を完全に否定される。

今まで積み上げてきたつもりの自分というものを完膚なきまでに叩き壊してしまう。

入門にはに庭詰(にわづめ)といって、
玄関に二日間も頭を下げ続けることを課す。

これは今まで学んだもの、積み上げてきたものをすべて奪い取るのだ。

そして入門すれば、毎日毎日叱られ続けて、自分を完全に奪われ、無くしていく。

これが修行の大事なところで、教育でも同じことかと思われる。

初めから好きにどうぞと言っていたならば、わがままになるだけであろう。

まずは徹底して自分を否定し、修行道場なら道場の規則に、その伝統にはまり込むこと、
それこそ「奪人不奪境」であろう。


しかし、それだけで終わるのであれば、実に主体性の無い人間になってしまう。

規則通りにしか行動できなくなってしまう。

そこで次の、「奪境不奪人(だっきょうふだつにん)」がある。

私自身も道場に入門した頃に、ご指導いただいた老師から言われたことがある。

「今はまだ新入りで、座禅堂の中でも隅っこに座らされ、

毎日毎日先輩から叱られ通しであろうが、

座禅堂の座布団の上に座ったら、

たとえ隅っこで座っていても、

天下の主になったと思って座れ。

隅っこで小さくなって座ったらいけない」

と教えられて、大いに感動したことであった。

たしかに、どんな新人りであろうが、座布団にどんと座ったら、天下の主だ。


居眠りをしたら警策(けいさく)という棒で打たれるが、
しっかり座ってさえいれば、誰も指一本触れられはしない。

外の世界も、煩瑣(はんさ)な規則もない「天地の中に我一人」の世界だ。


しかしながら、そんなところにとどまっていては、
わがままな鼻持ちならぬ禅僧になってしまう。

それでは自由が効かない。

さらに12月に、臘八大摂心(ろうはつおおせつしん)という1週間を通して横にならずに座り抜く修行をする。
そこで自分も、外の世界もともに無くなったところを経験する。

臘八の摂心をやっていると、座禅堂も外の世界もありはしない、
座っている自分すら無くなってしまう、
「人境倶奪(にんきょうぐだつ)」の世界だ。

「我も無く 人もなければ 大虚空 ただ一枚の 姿なりけり」
と古人は詠っている。

この世界があるから、禅は尊い。

この人境ともに奪いきるところは、禅の修行の醍醐味であろう。

この世界があるから、禅は強い。

無に徹した者ほど強いものはない。

そして、それで終わるのではない。


最後には、「任人境倶不奪(にんきょうぐふだつ)」。

人も境ともに奪わずに活かす世界が開かれる。

修行道場で言えば、臘八の大摂心を終えれば、お風呂で背中を流し合う。

時には無礼講となって、お互い語り合って認め合う世界がある。

これがあるから、座禅堂で同じ釜の飯をいただいた者同士は、いつまでたっても、親しい間柄でいることができる。

道場の修行にはこの四料揀がきちんと具(そな)わっている。


実社会でも同じことが言えるのではないだろうか。

初めはやはり、「奪人不奪境」だろう。

自分を否定して、会社なり組織なり、その規則や習慣をひたすら身に付けねばなるまい。

初めから自分を認めて好きにするわけにはいかないであろう。

しかし、自己否定だけではいけない。

次には必ず、「奪境不奪人」であって、
大いにその人を認めて力を出させてあげることだ。


その人ならではの力を認めてあげて、引き出してあげる場を作ることが大事だろう。

否定の次は肯定である。

肯定されて終わっては、いい気になって増上慢(ぞうじょうまん)になってしまいかねない。

それでは、それ以上成長しない。

さらに、「人境倶奪」であって、
何か1つのことに打ち込んで、
自分も外の世界も一切忘れ去る世界を持つことだ。

一人山に登るのもよかろう。

広い道を汗を流して走るのもよかろう。

仕事に関係のない本を読みふけって我を忘れることもよかろう。

会社や組織のことも、自分すらも忘れる世界だ。

これがあると強くなれる。
そして最後が、「人境倶不奪」だ。


自分も生かし、会社や組織も生かしていく世界だ。

自分も心から楽しみながら、会社も栄えてゆくという理想の世界である。

要は、自己否定だけでもダメであり、
肯定するばかりでも行きづまるのだ。

臨済禅師はこの四つの型を説かれた。
四通りを自由に活用すればいい。

たとい自己を否定されて落ち込んだとしても、
今はそういう時なのだ、また肯定される時がくると思えば耐えられよう。

そして、
今は自己否定の時だ、
今は己を活かす時だ、
今は我も世界も忘れよう、
今は自分も社会もともに生かそうと、

それぞれの場に応じて自由に活動できれば、
もっと道を楽しんでゆけるであろう。

四料揀に学ぶものは大きい。


(「致知」六月号 横田南嶺さんより)

大祓の詞

2016-04-14 14:46:50 | 伝統的考え方
🌸🌸大祓詞(おほはらへのことば)🌸🌸


行の下に読み仮名を付けました😄

( )内を意味がわからなくても、読むと大祓いされますよ。


高天原に神留り坐す 皇親神漏岐 神漏美の命以て 八百萬神等を神集へに集へ賜ひ 神議りに議り賜ひ

(たかまのはらにかむづまります 
すめらがむつかむろぎ

かむろぎのみこともちて 

やほよろづのかみたちをかむつどへにつどへたまひ 

かむはかりにはかりたまひて)


我が皇御孫命は 豊葦原瑞穂國を 安國と平らけく知ろし食せと 事依さし奉りき 此く依さし奉りて

(あがすめみまのみことは 
とよあしはらみづほのくにを 

やすくにとたいらけくしろしめせと 

ことよさしまつりき かくよさしまつり)

し國中に 荒振る神等をば 神問はしに問はし賜ひ 神掃ひに掃ひ賜ひて 語問ひし 磐根 樹根立 草

(しくぬちに あらぶるかみたちをば 

かむとはしにとはしたまひ 

かむはらひにはらひたまひて 

こととひし いはね きねたち くさ)


の片葉をも語止めて 天の磐座放ち 天の八重雲を 伊頭の千別きに千別きて 天降し依さし奉りき

(のかきはをもことやめて

あめのいはくらはなち

あめのやへぐもを 

いつのちわきにちわきて
あまくだしよさしまつりき)


此く依さし奉りし四方の國中と 大倭日高見國を安國と定め奉りて 下つ磐根に宮柱太敷き立て

(かくよさしまつりしよものくになかと

おほやまとひだかみのくにをやすくにとさだめまつりて

したついはねにみやばしらふとしきたて)

高天原に千木高知りて 皇御孫命の瑞の御殿仕へ奉りて 天の御蔭 日の御蔭と隠り坐して 安國と平けく

(たかまのはらにちぎたかしりて 

すめみまのみことのみづのみあらかつかへまつりて

あめのみかげ ひのみかげとかくりまして

やすくにとたいらけく)


知ろし食さむ國中に成り出でむ天の益人等が 過ち犯しけむ種種の罪事は 天つ罪 國つ罪 許許太久の

(しろしめさむくぬちになりいでむあめのますびとらが

あやまちをかしけむくさぐさのつみごとは

あまつつみ くにつつみ ここだくの)


罪出でむ 此く出でば 天つ宮事以ちて 天つ金木を本打ち切り 末打ち断ちて 千座の置座に置き足

(つみいでむ かくいでば

あまつみやごともちて

あまつかなぎをもとうちきり

すゑうちたちて ちくらのおきくらにおきた)


らはして 天つ菅麻を 本刈り断ち 末刈り切りて 八針に取り辟きて 天つ祝詞の太祝詞を宣れ

(らはして あまつすがそをもとかりたち

すゑかりきりて やはりにとりさきて

あまつのりとのふとのりとごとをのれ)


此く宣らば 天つ神は天の磐門を押し披きて 天の八重雲を伊頭の千別きに千別きて 聞こし食さむ

(かくのらば あまつかみはあめのいはとをおしひらきて 

あめのやへぐもをいつのちわきにちわきて きこしめさむ)


國つ神は高山の末 短山の末に上り坐して 高山の伊褒理 短山の伊褒理を掻き別けて聞こし食さむ

(くにつかみはたかやまのすゑ ひきやまのすゑにのぼりまして

たかやまのいぼり ひきやまのいぼりをかきわめてきこしめさむ)


此く聞こし食してば 罪と言ふ罪は在らじと 科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く 朝の御霧

(かくきこしめしてば つみといふつみはあらじと 

しなどのかぜのあめのやへぐもをふきはなつことのごとく 
あしたのみぎり)


夕の御霧を 朝風 夕風の吹き払ふ事の如く 大津辺に居る大船を 舳解き放ち 艫解き放ちて 大海原

(ゆふべのみぎりをあさかぜ ゆふかぜのふきはらふことのごとく

おほつべにをるおほふねをへときはなち

ともときはなちて おほうなばら)


に押し放つ事の如く 彼方の繁木が本を 焼鎌の敏鎌以ちて 打ち掃ふ事の如く 遺る罪は在らじと 祓

(におしはなつことのごとく をちかたのしげきがもとを

やきがまのとがまもちて うちはらふことのごとく

のこるつみはあらじと はら)

へ給ひ清め給ふ事を 高山の末 短山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ 速川の瀬に坐す瀬織津比賣

(へたまひきよめたまふことを たかやまのすゑ 

ひきやまのすゑより

さくなだりにおちたぎつ はやかわのせにますせおりつひめと)


と言ふ神 大海原に持ち出でなむ 此く持ち出で往なば 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百會に坐す

(いふかみ おほうなばらにもちいでなむ

かくもちいでいなば

あらしほのしほのやほぢのやしほぢのしほのやほあひにます)

速開都比賣と言ふ神 持ち加加呑みてむ 此く加加呑みてば 気吹戸に坐す気吹戸主と言ふ神 根國

(はやあきつひめといふかみ もちかかのみてむ

かくかかのみてば 

いぶきどにますいぶきどぬしといふかみ ねのくに)


底國に気吹き放ちてむ 此く気吹き放ちてば 根國 底國に坐す速佐須良比賣と言ふ神 持ち佐須良ひ失

(そこのくににいぶきはなちてむ かくいぶきはなちてば

ねのくに 

そこのくににますはやさすらひめといふかみ もちさすらひうしな)


ひてむ 此く佐須良ひ失ひてば 罪と言ふ罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 天つ神 國つ神 八百

(ひてむ かくさすらひうしなひてば

つみといふつみはあらじと 

はらへたまひきよめたまふことを 

あまつかみ くにつかみ やほ)


萬神等共に 聞こし食せと白す

(よろづのかみたちともに きこしめせとまをす)


以上。

神拝詞(神社本庁蔵版より)


自分を試す三つの場

2016-03-18 15:38:47 | 伝統的考え方
自分を試すの三つの「場」


人生には、自分を試すの三つの「場」があります。

それは、

「修羅場」、「土壇場」、「正念場」。

自分を試す三つの「場」。


「修羅場」とは、

インド神話、仏教関係の伝承などで、
阿修羅と帝釈天との争いが行われたとされる場所です。

それが転じて、

激しい闘争の行われている場所、

あるいは、

そのような場所を連想させる戦場、または事件・事故現場といった状況のこと。

日本においては、

とくに争いの原因が、
「痴情のもつれ」である場合を指して用いられることが多いです。


「土壇場」とは、

首を切る刑場。

それが転じて、

物事が決定しようとする最後の瞬間・場面のことです。 


「正念場」とは、

歌舞伎(かぶき)などで、主人公がその役の性根(しょうね)、役柄を発揮する、最も重要な場面のことです。

それが転じて、ここぞ!という大事な場面・局面のことです。

この三つがあることを覚えていると、いいです。

人には、だいたい、何度かはあります。

そんな時も、周りに影響されず、普段と変わらず、
「本当の自分」、「あるべき自分」を持っていられるか?

神様は、そこを見てます。

自分を信じて行動すれば、

必ず「合格!」がもらえます。

「合格の印」というのは、
あなただけに解る変化、なのですが、必ずあります。
必ずきます。

それは、びっくりするくらいのことです。

それを、楽しみに、自分を向上させましょう。


「善をなすは、耕耘のごとし」

です。

江戸時代初期の儒学者

中江藤樹の言葉です。

「善をなすは、耕耘(こううん)のごとし」


この言葉は、

「善い行いというのは、

すぐに結果が返ってくるものではなく、

汗水を流して田畑を耕すようなものだ。

実りの時期を迎えれば、

豊かな収穫が得られるものである」

と言う意味です。

すなわち、

善い行いをしても、

すぐに報いを求めることの性急さを戒めたものなのです。

例えば、

相手に対して
「してあげたのに、」

とか、

「私の好意が、わからないか!」

などと、

人は、せっかくの善意に、恩を着せてしまうことが多いのです。

でもそれは、本末転倒なのです。

あなたの心が、

「相手が幸せに、なって、くれたら、それでいい」

という、明るく広い気持ちでいることこそが大切なのです。

このような謙虚さを持っていれば、

やがて、大きな収穫があります。

本来の収穫に、最大の利子をつけていただけ、

びっくりするくらいの豊かな収穫がいただけるものなのです。

「いただきます」の意味

2016-03-09 18:01:00 | 伝統的考え方
「いただきます」の意味


日本人は、台湾の教育にも変革を起こしました。

かつて台湾の人たちは読み書きの教育が与えられておらず、

同じ国であっても通じ合えない人がたくさんいました。

しかし日本の統治時代に行われた教育によって、

今の80歳以上の台湾人のほとんどが日本語を話せるようになりました。

言葉が通じ合えることで、互いの考えが分かり、「国」の意識が育っていったのかもしれません。

とにかく、

台湾の初めての共通言語は、日本語でした。

ただ、日本語を教えていくことは、

部族によって言葉が違う台湾において、とても大変でした。

台湾の人たちは、自ら望んで日本語を学ぶわけではないし、

ずっと外部の人間を信じなかった彼らにとって、
特に為政者に対しては、かなり反抗的だったことでしょう。

ですから日本人は、まずは、それぞれの部族の言語を学んで通訳者となり、

その文化や風俗、習慣まで事細かに学ぶところから始めました。

こうして25年ほど経つうちに、日本人に対する信頼が浸透していくようになったのです。


私の祖父母世代の人たちはこう言います。

「日本人は農業(食べ物)と水を与え与えてくれた。
これに勝るものはない」

「日本は一方的の搾取ではなく、
いろいろな技術を教え、

共に働き、台湾人も豊かになる共存共栄を目指し尽力した」

と。

僕が20歳のとき、テーブルいっぱいの食べ物を前に祖父が言いました。

「台湾は、今たくさんの食べ物があふれている。

でもこれは、どこから来たか知っているか?」

と。

さらに祖父が

「いただきます」

の意味について教えてくれました。

「天地(あめつち)の恵みと
多くの人々の働きに感謝して、

命のもとを慎んでいただきます、

と言うことだよ」

と。

中国には「飲水思源」という諺があります。

「水を飲む者は、その源に思いを致せ」

と言う意味です。

水がやってきたその源について考えなさいと言うことです。

祖父には、いまだに
「日本人に助けられた」

と言う大きな感謝の気持ちがあり、

それを僕たちに様々な機会を通して伝えようとしてくれます。


(「みやざき中央新聞」李久惟さんより)


たくさんの感謝をいただきます。