今朝7時、母からメールがきました。
「お父さんと、いまが一番幸せって、デニーズで話してた。あの頃はよかったなーじゃなくて、いまが一番幸せって言えるのっていいよね」と。
娘として、とても嬉しいメールでした。両親はデニーズで朝7時(出勤前)、ごはんを食べるのが大好きなんです。デニーズでコーヒーを飲んでいるときが一番の幸せなんですって(なんでか、デニーズ好き・・・)
母とのことを書こうと思います。長く長くなります。そして、結構、重い内容。しかも、熱い。余裕があるときに(苦笑)お読みください。
***
今では本当に自分の娘のようにかわいいなあと思っている母のこと。子どもの頃は完全に憎んでいました。小学3年から19歳まで、本当に本当に生きずらさを抱えて生きていました。生きることってなんて難しいんだろう。なんて、なんてつらいことなんだろう、と。ずっとずっと思っていました。
摂食障害にもなり、高校を出るか出ないかの間には、かなり精神科にお世話になる日々。薬もだいぶ飲んでいました。
母は、かなり裕福なおうちの末っ子として、かわいがられて育ったようでした。周りにTVなど持っている人がいない時代に家にはTVがあって、近所の子や皆見に来ていたようです。
いわゆるお嬢様でほとんど苦労することなく育ち、父と結婚。父は結婚前に事業を興し、まだまだ軌道に乗る前だったので、商売上は苦労したのでは、と思いますが、いいとこの出の母にはあまり苦労させぬよう父が精一杯努力したこともあってか、世間知らずのお嬢様、という人でした。
姉はとても優秀で、前にもブログに書いたとおり、小学校から中学卒業するまで、ずーーーーーっと、オール5。勉強だけでなく、体育や美術に音楽も4をもらったことがない、というので驚きです。
勉強の出来だけを言えば自分も公立の学校内(電池切れを起こした中学の夏まで)で3番以下になった記憶はなく(小・中の友人がこれを読んでどう思うか・合ってるよね?)、その点においてコンプレックスは(ほとんど)ないのですが(若干、昔はあったかな・・・)、生活面、というかな。性格、というかな。そこには姉と違って、バッテンがいっぱいつけられていました。
姉は几帳面で神経質。とっても真面目な性格です。夏休みの宿題も7月中に終わらせてしまうタイプ。
私は大雑把でずぼら、いわゆるちゃらんぽらんのおっちょこちょい。宿題なんて、9月に入ってからやるタイプ。
何につけても「あんたはダメネー」と言われ続けていたように思います。
怒られると外に出される我が家でしたが、今でも話しに出てくるのは、私だけがいかにしょっちゅうしょっちゅう外に出されていたか。私は全然、母の言うことを聞かない娘だったと思います。
母も几帳面で神経質。とっても真面目な性格。
すごく目障りだったと思います。「目障りなのよ」と言われたことも、記憶にあります。
宿題も言われるまでやらない、言われてもやらない。とにかくギリギリまでやらない。っていうか、やらないで平気な顔して登校。
姉は言わないでもやる。
何をやっても、ちゃらんぽらんで、大雑把な私はすぐま、いっかーです。母から見たら、全然、まーよくない!!!
私が男の子だったら諦めもついたでしょうが、女の子だし!あまりにも大雑把すぎるし!と思ったことでしょう。
なにより私を認めることは、自分を否定することに繋がると思っていたんじゃないか、といまなら私も理解できます。
母と姉が好きなショッピングにも私は無関心。本ばっかり読んで、女の子を育てる面白みもなかったことと思います。
新聞ひとつとっても、二人が見るのはTV欄。私はTV欄以外。小さい頃から新聞を読んでは、父と政治や経済について話をするのが大好きな子ども。母親から見てちっともかわいげのない子どもだったことと思います。
いつもいつもダメだダメだと言われていて、自分の中にも自分はダメなんだということが刷り込まれていました。自己肯定感、めっちゃ低かったと思います。
ついに破綻がきたのが、短大に入ってから。ま、その前にも何度も危険信号は出ていたのですが。
本当に苦しくて苦しくてどうしようもなかったです。
精神科に行き、薬を飲み。
私の口から出てくるのは、あのときこうしてほしかった、あのときこうしてくれなかった、そんな言葉ばかり。
精神科ではとにかく母を連れてくるように、母と向き合うように言われましたが、お嬢育ちで苦労知らずの母に、それだけはさせてはならぬ、と必死で母なしで、越えようと、何通も何通も出せない手紙を母宛てに書き、捨て、悩み苦しむ日々を送りました。
とことんとことんしんどい思いを味わい尽くして、時に当時もう付き合っていたクワさんとも精神科に行ったりしながら、ほんとになんと表現していいか、なんとかなんとか、生き抜いた・・・
苦しい思い出しかなかった、と思っていた子ども時代。だからこそ、子どもにこんな思いはさせられない、と付き合い始めに「私は子どもを絶対に産みません」「子どもを持つ気はありません。それでもいいですか?」と宣言しました。(結婚の話など出ていない10代の話・笑)
本当に本当に苦しく長い長いトンネルでした。
それらを抜けて、いまがあります。
これを書いていても、まったく涙が出ません。
「ママイキ」で30ページに及ぶ自分振り返りをしてみても(これは勝手に私がしたこと。)、しんどいこともいっぱいいっぱいあったはずなのに、ひとつも一滴も親の「恨みつらみ」のことでは涙が出ません。(むしろどれだけ親が頑張って育ててくれたか、という点においては涙が出ます)
もう越えた、出来事。
でもこの越える作業は、本当にしんどいものでした。
3月23日追記
あれ、↑途中で切れてる(涙)・・・
この後もかなり長かった気がするのだけれど。
また追記しますー
「お父さんと、いまが一番幸せって、デニーズで話してた。あの頃はよかったなーじゃなくて、いまが一番幸せって言えるのっていいよね」と。
娘として、とても嬉しいメールでした。両親はデニーズで朝7時(出勤前)、ごはんを食べるのが大好きなんです。デニーズでコーヒーを飲んでいるときが一番の幸せなんですって(なんでか、デニーズ好き・・・)
母とのことを書こうと思います。長く長くなります。そして、結構、重い内容。しかも、熱い。余裕があるときに(苦笑)お読みください。
***
今では本当に自分の娘のようにかわいいなあと思っている母のこと。子どもの頃は完全に憎んでいました。小学3年から19歳まで、本当に本当に生きずらさを抱えて生きていました。生きることってなんて難しいんだろう。なんて、なんてつらいことなんだろう、と。ずっとずっと思っていました。
摂食障害にもなり、高校を出るか出ないかの間には、かなり精神科にお世話になる日々。薬もだいぶ飲んでいました。
母は、かなり裕福なおうちの末っ子として、かわいがられて育ったようでした。周りにTVなど持っている人がいない時代に家にはTVがあって、近所の子や皆見に来ていたようです。
いわゆるお嬢様でほとんど苦労することなく育ち、父と結婚。父は結婚前に事業を興し、まだまだ軌道に乗る前だったので、商売上は苦労したのでは、と思いますが、いいとこの出の母にはあまり苦労させぬよう父が精一杯努力したこともあってか、世間知らずのお嬢様、という人でした。
姉はとても優秀で、前にもブログに書いたとおり、小学校から中学卒業するまで、ずーーーーーっと、オール5。勉強だけでなく、体育や美術に音楽も4をもらったことがない、というので驚きです。
勉強の出来だけを言えば自分も公立の学校内(電池切れを起こした中学の夏まで)で3番以下になった記憶はなく(小・中の友人がこれを読んでどう思うか・合ってるよね?)、その点においてコンプレックスは(ほとんど)ないのですが(若干、昔はあったかな・・・)、生活面、というかな。性格、というかな。そこには姉と違って、バッテンがいっぱいつけられていました。
姉は几帳面で神経質。とっても真面目な性格です。夏休みの宿題も7月中に終わらせてしまうタイプ。
私は大雑把でずぼら、いわゆるちゃらんぽらんのおっちょこちょい。宿題なんて、9月に入ってからやるタイプ。
何につけても「あんたはダメネー」と言われ続けていたように思います。
怒られると外に出される我が家でしたが、今でも話しに出てくるのは、私だけがいかにしょっちゅうしょっちゅう外に出されていたか。私は全然、母の言うことを聞かない娘だったと思います。
母も几帳面で神経質。とっても真面目な性格。
すごく目障りだったと思います。「目障りなのよ」と言われたことも、記憶にあります。
宿題も言われるまでやらない、言われてもやらない。とにかくギリギリまでやらない。っていうか、やらないで平気な顔して登校。
姉は言わないでもやる。
何をやっても、ちゃらんぽらんで、大雑把な私はすぐま、いっかーです。母から見たら、全然、まーよくない!!!
私が男の子だったら諦めもついたでしょうが、女の子だし!あまりにも大雑把すぎるし!と思ったことでしょう。
なにより私を認めることは、自分を否定することに繋がると思っていたんじゃないか、といまなら私も理解できます。
母と姉が好きなショッピングにも私は無関心。本ばっかり読んで、女の子を育てる面白みもなかったことと思います。
新聞ひとつとっても、二人が見るのはTV欄。私はTV欄以外。小さい頃から新聞を読んでは、父と政治や経済について話をするのが大好きな子ども。母親から見てちっともかわいげのない子どもだったことと思います。
いつもいつもダメだダメだと言われていて、自分の中にも自分はダメなんだということが刷り込まれていました。自己肯定感、めっちゃ低かったと思います。
ついに破綻がきたのが、短大に入ってから。ま、その前にも何度も危険信号は出ていたのですが。
本当に苦しくて苦しくてどうしようもなかったです。
精神科に行き、薬を飲み。
私の口から出てくるのは、あのときこうしてほしかった、あのときこうしてくれなかった、そんな言葉ばかり。
精神科ではとにかく母を連れてくるように、母と向き合うように言われましたが、お嬢育ちで苦労知らずの母に、それだけはさせてはならぬ、と必死で母なしで、越えようと、何通も何通も出せない手紙を母宛てに書き、捨て、悩み苦しむ日々を送りました。
とことんとことんしんどい思いを味わい尽くして、時に当時もう付き合っていたクワさんとも精神科に行ったりしながら、ほんとになんと表現していいか、なんとかなんとか、生き抜いた・・・
苦しい思い出しかなかった、と思っていた子ども時代。だからこそ、子どもにこんな思いはさせられない、と付き合い始めに「私は子どもを絶対に産みません」「子どもを持つ気はありません。それでもいいですか?」と宣言しました。(結婚の話など出ていない10代の話・笑)
本当に本当に苦しく長い長いトンネルでした。
それらを抜けて、いまがあります。
これを書いていても、まったく涙が出ません。
「ママイキ」で30ページに及ぶ自分振り返りをしてみても(これは勝手に私がしたこと。)、しんどいこともいっぱいいっぱいあったはずなのに、ひとつも一滴も親の「恨みつらみ」のことでは涙が出ません。(むしろどれだけ親が頑張って育ててくれたか、という点においては涙が出ます)
もう越えた、出来事。
でもこの越える作業は、本当にしんどいものでした。
3月23日追記
あれ、↑途中で切れてる(涙)・・・
この後もかなり長かった気がするのだけれど。
また追記しますー
うちは、母は父を置いて亡くなってしまって、
結局母が若くして泣くなったことから、父との
生活を向かえることのきっかけとなったのですが、10年以上も勘当されていて、戻るのはつらかったです。
似たような親をもつ人と話したことがあって、
いつか親を許すことが出来るなんてよくいうけど、「許す」なんてことはまずは出来ない。では何をするか。
許すことが出来なくて、自分の子供に同じことを繰り返してしまう親がなんて多いことでしょう。
振り返って、向き合って、あの時こうだったと
真正面から言えて、今を生きることが大切ですよね。
このプロセスに、私はバッチフラワーが後押ししてくれました。今はあんなに嫌いだった父が(好きだからわかってもらいたかった)大切で大事にしております。もちろんケンカもするけど。親にとって子供はいつまでも子供。
かわいい娘でありたいと思います。
コメントありがとうございます。
桜のママさんの、お父様へのひたむきさ、ママイキ期間ずっととても感じていました。
介護にこそママイキエッセンスを、とお話されていた、と見たとき、本当にそう、必要だな、と思いました。
親兄弟のことって一筋縄ではいかないけれど、いかないからこそ、そこを越えるとすごくいろんな気づきがあるし、人生明るくなる^^
続きは・・・お花見で
ママイキのワークでもお伝えしましたが!
「ま、いっかぁ」は、強みですよ~!!
その性格、大好きです
お花見で直接お話ししたいなぁ
私も、今ではすごく母のことが好きだし、頼りにしているけど、やはり同じくらいの年頃のとき、母との関係に悩んでいました。
私も几帳面な母からみて「だらしのない子」で
毎日ダメダメ言われてましたね。
でも、私にとって良かったのは、同居の祖母(やはり大雑把な性格)という逃げられる場所・甘えられる場所があったことと、大学進学を機に一人暮らしになったことです。
すごく子供好きそうで母性にあふれたGYOGYOさんが、どうして「子ども産まない宣言」をしていたのか、意外だったのがやっと腑に落ちました。
私も、子どもの頃嫌だった想いは絶対子どもたちにさせないし、愛情だけはたくさんたくさん注いで育てようと決めています。
そうだ!強みのワーク、かぽりさんとやったねーあの時自分の強みは、「いい加減」「良い加減」を筆頭に挙げていたっけ。乗り越えてなかったら、強みにはなってなかっただろうなー
かぽりさんの、ゆるやかーな中にとても真面目な面があるところ、もすごい強みだよね
お花見、楽しみだねー
ちょっと遠くからになってしまうけど、気をつけてね。
ぴーまちゃん
わ、一緒だね。几帳面な母とだらしない娘、の構図ー。大雑把なおばあちゃんの存在、ステキ現代はそういう存在がなくて、逃げ場がなくなってしまうケースが多そう・・・
子ども産まない宣言、意外だった?ものすごい宣言してたよー
ぴーまちゃんも、大変なときもあるだろうけど、愛情たくさんたくさん注いでいるの伝わるよー。ステキです