◆100万ドルの夜景
六甲オリエンタルホテルは、六甲山の山頂近くにある。神戸から車でくねくねした道路を登っていくと、ホテルまでおよそ40分。大阪湾を見下ろすその眺めは素晴らしい。植田は、このホテルを使うときは必ず大阪側で、しかもなるべく上の階の部屋を予約することにしている。その方が夜景が存分に楽しめるから。こういう細やかな気配りが、自分の強みだと自負もしている。
車を駐車場に止めてロビーで受付を済ませ、二人はちょうど部屋にチェックインしたところだった。日が暮れてからそんなに時間は経っておらず、空は群青色に染まっている。大阪湾をぐるりと囲むように光り輝く、街の灯りがキラキラと美しい。
「ねえ、ここからの眺め、100万ドルの夜景ってよく言うじゃない、どういう意味か知ってる?」「知ってるよ、神戸生まれの神戸育ちだよ、ネイティブにそんな質問するなよ」、戦後間もない頃、六甲山から見える電灯の数が500万個近くなり、それにかかる電気代が1ヶ月で約4億円、当時1ドル360円の為替レートで計算すると、約100万ドルになったという話を、植田は貴美子に得意げに説明した。
「あのね、そうじゃないの」「ええっ、違うのかよ」「宝石箱の中にあるダイヤとかが、沢山の星のようにキラキラ輝いているってことよ、憶えておきなさい」「おかしいなあ、俺の話は信憑性あると思うけど・・・」「また何処か地元のお年寄りに聞いたんでしょ、ダメよ、そんな話にだまされちゃ」「・・・」「まあ、このクロスのペンダントは、その中のひとつってとこかなあ」「はあー?そんなにいっぱい宝石持ってるわけ?」「違うわよ、これから増えていくってこと、あはは」
植田は教訓を学んだ。女の勝手な妄想を受け入れられなければ、浮気をする資格はない。
「ねえ、旅行に行く話どうなった?」「ああ、あれか・・・」「忘れてたんでしょ?」「そんなことないよ、最近いろいろ忙しかっただけ」「それで・・・」「なんとか行けそうだよ、仕事が一区切りついたから、ちょっとはゆっくりできそう」「ゆっくりって、どのくらい?」「1泊2日かなあ」「ええーっ?1泊だけー、ぜんぜんゆっくりじゃないじゃない、なんて私もそのぐらいしかダメだけどね」
貴美子は、ようやく実現しそうな小旅行の話に、自然と顔がほころんだ。
「それじゃ、前に話した岡山の湯郷温泉でいい?」「ああ、いいよ」「それじゃ、来週の木金ぐらいでどう?旦那が出張なんだ」「それなら、ちょうどいいな、得意先へのシステム納入がその前に終わるから」「やったあー、いいな、いいな、嬉しいな」「ご主人の方はいいの?」「任せてよ、まあ出張だし、とにかく疑うことを知らないのよ、あの人」
貴美子はニコニコしながら窓から外を眺めている。上機嫌なのがよく分かる。胸元のペンダントから放たれるダイヤの妖しい光と、窓から見える街の灯りの色合いがよく似ていた。部屋のスピーカーからは、アール・クルーのアコースティック・ギターによるソロ、セルジオ・メンデスが作曲したバラード、”So many stars”がしっとりと流れていた。
Solo Guitar
◆芦屋市立美術博物館
真由美は、出張してきた片瀬を誘った。芦屋川沿いを散歩し、着いた所は美術博物館。十数年前に市制施行50周年の記念事業として建設された。隣りには谷崎潤一郎記念館もある。最近は市の財政難のため、民間への身売りも噂されていて、平日は訪れる客がめっきり少ない。
「この間の美術館に裸婦の絵があったでしょ、作者の名前憶えてる?」「いや・・・」「あれね、小出楢重っていう画家なのよ」「実はね、この近くに仲のいい友達が住んでいて、うちの近くにも、その画家の作品がたくさんあるよって教えてくれて」「お前気に入ったのか?」「違うわよ、片瀬さんでしょ、気に入ったのは、私のお尻に似てるって、じっと見入ってたじゃない」「・・・」
しばらく館内を歩いていると、小さなガラス絵が目に入った。絵の横には、「ソファーの裸女」(1930年)と書かれたプレートがあった。片瀬は、さっき真由美が話していた絵を思い出した。「前よりちょっと太ってるな」「失礼ね、言っとくけど、これ私じゃないからね」「ああ、ごめん、なんかヘンな錯覚をしたな」「まあ、ここに連れて来た私が悪いんだけど」
確かに似ている、同じ画家だ、同じモデルなんだろうか?真由美はここまで太っていない、ただ尻の形がよく似ている、そう思いながら、片瀬はまた絵にじっと見入った。
「その画家とこの博物館とどういう関係なんだよ」「聞いた話じゃね、もともと大阪出身らしいんだけど、芦屋が好きになって、晩年はこの近くに住んでいたらしいよ、すぐ隣りに再現されたアトリエもあるらしいから」「へえー」
「ところで、あの話どうなったの?奥さんに浮気させる話」「ああ、一応友達に頼んだ」「へえー、スゴイじゃない、ホントにやるとは思わなかったけど」「お前なあ・・・」「そんな、怒らないでよ、ただ感心してるだけ」「どうなるかは、よく分からん」「その友達ってどんな人?」「悪友だよ、昔の麻雀仲間」「へえ、堅物の片瀬さんにそんな友達いたんだ」「まあな・・・」
真由美の話を聞きながら、あせって広之に頼む必要はなかったかなと少し後悔した。真由美と一緒に博物館を出ながら、何が自分をそうさせてるんだろうと、自分に対する疑問がふつふつと湧いていた。いや、いいんだ、これで。
片瀬は教訓を学んだ。女の適当な欲望を受け入れられなければ、浮気をする資格はない。
「なんか興味湧いてきたなあ、今度さあ、その友達と奥さんが会っている所をこっそり見てみたいよ」「お前なあ、頭がおかしいだろ?」「何言ってんのよ、岩井志麻子よりましよ」「誰だよ、そのなんとかシマコって」「女流ホラー作家だよ、なかなか過激でぶっ飛んでんのよ」「知らないなあ、でもこっそり見るってどうやるんだよ」「えーとねえ、例えばさあ、二人が車で遠出した時に、こっちも後ろから尾行するとかね、ドライブと思えば面白いんじゃない?」「お前ヘンだよ、発想がヘン・・・」
片瀬は、真由美にそう言いながら自分もヘンだと思ったが、これまでに経験したことのない罪悪感が何故か妙に楽しくもあった。「それじゃ旅行とか誘わせてみるよ、俺は出張することにして」「すごい、だんだん乗ってきたじゃない」