私にとって叔母は子どもの頃から大きな存在の人でした。華があって、芸術が好きで、彼女のやることは憧れでした。私の母の妹ですが、2人は仲良くしょっちゅう行き来していて、叔母も私を一番かわいがってくれていたと思います。そんな叔母も昨年、定年を迎えました。
定年後の叔母はとてもアクティブです。それまで時間を裂けなかった趣味の着物や絵を習ったり教えたりに忙しく、高校時代から続いているというお友達と小旅行やら歌舞伎やらとこちらも忙しく遊んでいます。彼女は3人の子ども達と2人の孫がいるのですが、皆、車で15分以内というところに住んでいますし、一番下の娘は同居しているので、家でも一人の時間は少ないようです。
一見、忙しく充実した定年後を彼女が過ごしているように見えるのだけど、なんと言うのでしょうか、ときどき彼女の寂しさが見え隠れすることがあります。ちょっとしたことで私に電話をしてきたり、仕事や子育てがなくなっても「ちっとも寂しくないわよ」と言ってみたり、今までは忙しくて先延ばしにしがちだった会う約束を、即座に手帳を取り出して「いつにする?」と言うあたりに、なんとなく、寂しいのかな、どこか心に穴が空いたような気持ちなのかなと思うのです。
彼女は今までいろいろな肩書きの中で生きてきました。子ども達も優秀だったので、進学校のお母さん、国立大学の、その後は国立大学院のお母さん、看護婦のお母さん、彼女自身の出世した肩書き(部長クラスでしたか?)、そして彼女の夫の出世による社長の奥様という肩書きもまだあります。が、そういうものが外れていく中で、最後に彼女自身に何が残るかということに今、向き合い、とまどい、ほんの少しもがいている感じがするのです。
一方、夫の母、義母は対称的な定年後の生活をしているように思います。基本的に彼女は「生活」をしていますが、あまりアクティビティはしていません。つまり、毎日の普通の生活、食べて、掃除をして、テレビを見て、クロスワードパズルをして、タバコを吸ってコーヒーを飲み、編み物をし、買い物や支払いのための銀行に行く、という毎日を過ごしています。そして時折孫のために何かを買いに行ったり、クリスマスや孫の誕生日前には大きなプレゼントの箱を送ったり、誰かのバースデーパーティーに呼ばれたり、ピンセの昼食会に行ったりします。
一人でヒュゲをしてコーヒーとタバコを楽しみながら、窓の外の悪い天気を見ている義母に、毎日予定を立ててあちらこちらに出かけない義母に、私は正直言って、最初はちょっと面食らってしまいました。私にとって、毎日はプランの連続で、いろんなことが詰め込まれているもの。もし何もしなければ、時間を無駄にしてしまったと後悔してしまいます。
でも叔母が定年後の心の穴を埋めようとしているのを見て、ふと気付きました。義母はきちんと自分を持っているのだと。義母は寂しさを受け入れ、孤独を受け入れ、その中で生きていく潔い心構えを持っているのだと思いました。それは非常に強いということで、彼女の場合は何の肩書きがなくても、何の仕事がなくても、ただのそのへんの普通に見過ごされるおばあさんという存在であっても、自分は自分なのだという尊厳が彼女の中にあるのだということに気付きました。
それがデンマーク人という個人主義の徹底した国民性からきていることもあるでしょう、西洋人のプロテスタント的な考え方からきているということもあるでしょう。ゆりかごから墓場まで国家が見てくれるけれど、内面の部分では自分しかいないのだという長年の訓練が、今の義母を作っているのかなとも思いますが、私も最近になって、そういった義母を誇りに思うようになってきました。私はどちらかというと叔母のタイプなので、義母のことをはじめは理解できなかったのですが、今は私にとって学ぶことが多い女性だと思っています。
それからちょっと面白いなと思うのが、2人の孫に対する姿勢の違いです。叔母は自分のスケジュールの空いているときに、孫の相手をします。義母は何を差し置いても、孫とのことが優先されます。このへんからも義母の潔さ、自分にとって大切なものを選び抜いて満足しているところと私は見ています。
私自身は2人を足して2で割ったような定年後が理想です。何者でもない自分をありのままに受け入れ、自分との対話の中で生きている義母と、いつも目標や、他者との関わりの中で生きている叔母、どちらの要素もあるといいなと思っています。
定年後の叔母はとてもアクティブです。それまで時間を裂けなかった趣味の着物や絵を習ったり教えたりに忙しく、高校時代から続いているというお友達と小旅行やら歌舞伎やらとこちらも忙しく遊んでいます。彼女は3人の子ども達と2人の孫がいるのですが、皆、車で15分以内というところに住んでいますし、一番下の娘は同居しているので、家でも一人の時間は少ないようです。
一見、忙しく充実した定年後を彼女が過ごしているように見えるのだけど、なんと言うのでしょうか、ときどき彼女の寂しさが見え隠れすることがあります。ちょっとしたことで私に電話をしてきたり、仕事や子育てがなくなっても「ちっとも寂しくないわよ」と言ってみたり、今までは忙しくて先延ばしにしがちだった会う約束を、即座に手帳を取り出して「いつにする?」と言うあたりに、なんとなく、寂しいのかな、どこか心に穴が空いたような気持ちなのかなと思うのです。
彼女は今までいろいろな肩書きの中で生きてきました。子ども達も優秀だったので、進学校のお母さん、国立大学の、その後は国立大学院のお母さん、看護婦のお母さん、彼女自身の出世した肩書き(部長クラスでしたか?)、そして彼女の夫の出世による社長の奥様という肩書きもまだあります。が、そういうものが外れていく中で、最後に彼女自身に何が残るかということに今、向き合い、とまどい、ほんの少しもがいている感じがするのです。
一方、夫の母、義母は対称的な定年後の生活をしているように思います。基本的に彼女は「生活」をしていますが、あまりアクティビティはしていません。つまり、毎日の普通の生活、食べて、掃除をして、テレビを見て、クロスワードパズルをして、タバコを吸ってコーヒーを飲み、編み物をし、買い物や支払いのための銀行に行く、という毎日を過ごしています。そして時折孫のために何かを買いに行ったり、クリスマスや孫の誕生日前には大きなプレゼントの箱を送ったり、誰かのバースデーパーティーに呼ばれたり、ピンセの昼食会に行ったりします。
一人でヒュゲをしてコーヒーとタバコを楽しみながら、窓の外の悪い天気を見ている義母に、毎日予定を立ててあちらこちらに出かけない義母に、私は正直言って、最初はちょっと面食らってしまいました。私にとって、毎日はプランの連続で、いろんなことが詰め込まれているもの。もし何もしなければ、時間を無駄にしてしまったと後悔してしまいます。
でも叔母が定年後の心の穴を埋めようとしているのを見て、ふと気付きました。義母はきちんと自分を持っているのだと。義母は寂しさを受け入れ、孤独を受け入れ、その中で生きていく潔い心構えを持っているのだと思いました。それは非常に強いということで、彼女の場合は何の肩書きがなくても、何の仕事がなくても、ただのそのへんの普通に見過ごされるおばあさんという存在であっても、自分は自分なのだという尊厳が彼女の中にあるのだということに気付きました。
それがデンマーク人という個人主義の徹底した国民性からきていることもあるでしょう、西洋人のプロテスタント的な考え方からきているということもあるでしょう。ゆりかごから墓場まで国家が見てくれるけれど、内面の部分では自分しかいないのだという長年の訓練が、今の義母を作っているのかなとも思いますが、私も最近になって、そういった義母を誇りに思うようになってきました。私はどちらかというと叔母のタイプなので、義母のことをはじめは理解できなかったのですが、今は私にとって学ぶことが多い女性だと思っています。
それからちょっと面白いなと思うのが、2人の孫に対する姿勢の違いです。叔母は自分のスケジュールの空いているときに、孫の相手をします。義母は何を差し置いても、孫とのことが優先されます。このへんからも義母の潔さ、自分にとって大切なものを選び抜いて満足しているところと私は見ています。
私自身は2人を足して2で割ったような定年後が理想です。何者でもない自分をありのままに受け入れ、自分との対話の中で生きている義母と、いつも目標や、他者との関わりの中で生きている叔母、どちらの要素もあるといいなと思っています。