デンマークで子どもを育てるにあたって大切なことのひとつは、子どもの自立心を育てること-これはとてもすばらしいことだと思います。が、今回ある場面を見て、果たしてこれはどうなのか?と、私はちょっととまどい、考え込んでしまいました。
ある日、フリーランズミュージアム Frilandsmuseet (Lyngby) に行き、遊具コーナーでのこと。ショウミーとジジが遊ぶのを眺めながら立っていると、上から釣り下がったロープに髪をからめてしまった女の子と、それを取ろうとしているもう一人の女の子が目に入りました。2人は小学校の2年生と3年生くらいに見え、私はどうかなと思って様子を見ていました。からめてしまった女の子の顔がゆがんで必死に痛みにこらえているのですが、どうしても取れないようでした。取ってあげている女の子のほうもどうしたらよいのかとても困っており、私は自然に「ちょっと見せてね」と近づきました。髪はどうしたらこんなふうにからめられるのかというほど、一束がきつくきっちりとからまっており、時間をかけて少しずつ、痛くないように外していきました。
ようやく取れると、女の子は小声でやっとありがとうを私に言うと、一目散に先生のところに走っていき、大泣き。子どもなのでどうしたらいいかもわからず、どうなっちゃうんだろうと、きっと相当こわかったのでしょうね。さて、その間、先生方はどうしているかというと、ペチャクチャお喋りをしながら向こうのテーブルでコーヒーを飲んでいました。日本だったら、先生はいつも子ども達を気にかけていて、何かトラブルがあったときにはとりあえず飛んでくるだろうに、あんなに女の子は追い詰められた気持ちになっていたのに、どうして放っておけるの(あるいは気づいてないの)?と私は愕然としてしまいました。
ねぇ、ちょっと今のはおかしくない?と夫と話し合いつつ(親としての経験は日本でのみなので、このあたりの感覚はかなり夫は日本人化している)、その場を移動しようとしていたところ、今度は5歳くらいの男の子のすごい泣き声が・・・。その子は耳をひどく打ったらしく、小さな手で耳を押さえながら大泣きしています。私はもう落ち着かなくなって、「ちょっと見せてごらん」とと飛んでいきたいのを堪えて見ていると、その男の子は途中、少し大きい子に誘導されながら先生のところまで大泣きしながら歩いていきました。そして先生に嗚咽で途切れ途切れになりながら、状況を説明し、そうしてやっと先生に耳を見てもらったのでした。
私は一人、ぐったりと疲れを感じ、デンマークの先生はどこまでひどい状況になれば来てくれるのかと思いつつ、その場を去ったのでした。そういえば、今まで何の気はなしに、通りがかりに、夫が通っていたという保育園を覗いたものだったけど、覗くたびにいつも先生たちは建物の入り口のテーブルに座って、コーヒーを飲んでいたなあ、と思い出しました。
それは学校の教室の中でもそうだと聞いています。何があっても、生徒が自分で言わなければいけない、先生から気を回してあれやこれや言ってくることはないそうです。どんな状況でも自分できちんと自分はこうなのだと表明する、その訓練をこうして行っているのでしょう。また友人の話では、保育園ではあまりアクティビティが用意されてなく、一日、「自由遊び」として子どもの自主性に任せているそうです。
日本の幼稚園や保育園などではどうでしょう。両者は管轄が文部科学省と厚生労働省に分かれているので、教育方針やプログラムなども違うと思いますが、どちらにしても、先生方はきめ細かい指導(食事のマナー、集団生活のルールなど)、子どもの安全面での徹底的なケア、そして子どもの心身の成長のためのアクティビティなどが求められており、先生方もそれに精一杯応えてくれているように思います。何より、子どもが何か怪我をしたり困ったりしているときに、まず子どものところに飛んでいき、やさしく対応してくれるということが、日本の園では自然に行われていることと思います。
今回、こういった場面を見て、私はこうして「デンマーク人」ができあがるのかというものを見せつけられた気がしました。自立心を養うためには、それなりに厳しい体験も積まないといけないのか、誰も助けてくれないという状況から、自分だけが自分を守れることを覚え、自分ということについて自覚を持つのかなと。一方、大人から何につけても手を差し伸べる日本は甘いのか、だから日本人にはいつまでたったも自立が身につかないのかな、などとも思わないでもありません。
でもこうして育つ両者の間に、とにかく、大きな隔たりができることは明らかだと思います。あくまで一般論ですが、実際、大人になったデンマーク人は、他者よりもいつも自分、自分で、関心は自分にあり、ものすごい自己責任を負っています。ストライキでも騒がなかったのも、最後は自己責任という自立心があるからではないでしょうか。他人と自分を決して混同しないこともできますし、したがって他人に振り回されることもないと思います。とてもクールで、相手のせいにして理不尽に怒ったりすることもないわけです。日本人は反対に、自分よりも他人や社会オリエンテッドなところが多く、自分で変革しなくてはというよりも、社会や他者のせいにすることも少なくありません。そして自分の価値基準を持ちにくく、自分の思い通りにやるのではなく、社会や他者の考えを慮って行動することが多いと思います。
いつものように両者はいい面と悪い面があるのですが、私の印象の、「他人に関心の少ない冷たいデンマーク人、温かみの少ないデンマーク人」というものは、子どもの頃からこうして鍛えられて次第に確立されていく、と今回思いました。その個人主義や自立心はやはりすばらしいのだけど、困っている他者を思いやり、やさしい言動を取るというものも、同じくすばらしいものだ、と思ったのでした。
ある日、フリーランズミュージアム Frilandsmuseet (Lyngby) に行き、遊具コーナーでのこと。ショウミーとジジが遊ぶのを眺めながら立っていると、上から釣り下がったロープに髪をからめてしまった女の子と、それを取ろうとしているもう一人の女の子が目に入りました。2人は小学校の2年生と3年生くらいに見え、私はどうかなと思って様子を見ていました。からめてしまった女の子の顔がゆがんで必死に痛みにこらえているのですが、どうしても取れないようでした。取ってあげている女の子のほうもどうしたらよいのかとても困っており、私は自然に「ちょっと見せてね」と近づきました。髪はどうしたらこんなふうにからめられるのかというほど、一束がきつくきっちりとからまっており、時間をかけて少しずつ、痛くないように外していきました。
ようやく取れると、女の子は小声でやっとありがとうを私に言うと、一目散に先生のところに走っていき、大泣き。子どもなのでどうしたらいいかもわからず、どうなっちゃうんだろうと、きっと相当こわかったのでしょうね。さて、その間、先生方はどうしているかというと、ペチャクチャお喋りをしながら向こうのテーブルでコーヒーを飲んでいました。日本だったら、先生はいつも子ども達を気にかけていて、何かトラブルがあったときにはとりあえず飛んでくるだろうに、あんなに女の子は追い詰められた気持ちになっていたのに、どうして放っておけるの(あるいは気づいてないの)?と私は愕然としてしまいました。
ねぇ、ちょっと今のはおかしくない?と夫と話し合いつつ(親としての経験は日本でのみなので、このあたりの感覚はかなり夫は日本人化している)、その場を移動しようとしていたところ、今度は5歳くらいの男の子のすごい泣き声が・・・。その子は耳をひどく打ったらしく、小さな手で耳を押さえながら大泣きしています。私はもう落ち着かなくなって、「ちょっと見せてごらん」とと飛んでいきたいのを堪えて見ていると、その男の子は途中、少し大きい子に誘導されながら先生のところまで大泣きしながら歩いていきました。そして先生に嗚咽で途切れ途切れになりながら、状況を説明し、そうしてやっと先生に耳を見てもらったのでした。
私は一人、ぐったりと疲れを感じ、デンマークの先生はどこまでひどい状況になれば来てくれるのかと思いつつ、その場を去ったのでした。そういえば、今まで何の気はなしに、通りがかりに、夫が通っていたという保育園を覗いたものだったけど、覗くたびにいつも先生たちは建物の入り口のテーブルに座って、コーヒーを飲んでいたなあ、と思い出しました。
それは学校の教室の中でもそうだと聞いています。何があっても、生徒が自分で言わなければいけない、先生から気を回してあれやこれや言ってくることはないそうです。どんな状況でも自分できちんと自分はこうなのだと表明する、その訓練をこうして行っているのでしょう。また友人の話では、保育園ではあまりアクティビティが用意されてなく、一日、「自由遊び」として子どもの自主性に任せているそうです。
日本の幼稚園や保育園などではどうでしょう。両者は管轄が文部科学省と厚生労働省に分かれているので、教育方針やプログラムなども違うと思いますが、どちらにしても、先生方はきめ細かい指導(食事のマナー、集団生活のルールなど)、子どもの安全面での徹底的なケア、そして子どもの心身の成長のためのアクティビティなどが求められており、先生方もそれに精一杯応えてくれているように思います。何より、子どもが何か怪我をしたり困ったりしているときに、まず子どものところに飛んでいき、やさしく対応してくれるということが、日本の園では自然に行われていることと思います。
今回、こういった場面を見て、私はこうして「デンマーク人」ができあがるのかというものを見せつけられた気がしました。自立心を養うためには、それなりに厳しい体験も積まないといけないのか、誰も助けてくれないという状況から、自分だけが自分を守れることを覚え、自分ということについて自覚を持つのかなと。一方、大人から何につけても手を差し伸べる日本は甘いのか、だから日本人にはいつまでたったも自立が身につかないのかな、などとも思わないでもありません。
でもこうして育つ両者の間に、とにかく、大きな隔たりができることは明らかだと思います。あくまで一般論ですが、実際、大人になったデンマーク人は、他者よりもいつも自分、自分で、関心は自分にあり、ものすごい自己責任を負っています。ストライキでも騒がなかったのも、最後は自己責任という自立心があるからではないでしょうか。他人と自分を決して混同しないこともできますし、したがって他人に振り回されることもないと思います。とてもクールで、相手のせいにして理不尽に怒ったりすることもないわけです。日本人は反対に、自分よりも他人や社会オリエンテッドなところが多く、自分で変革しなくてはというよりも、社会や他者のせいにすることも少なくありません。そして自分の価値基準を持ちにくく、自分の思い通りにやるのではなく、社会や他者の考えを慮って行動することが多いと思います。
いつものように両者はいい面と悪い面があるのですが、私の印象の、「他人に関心の少ない冷たいデンマーク人、温かみの少ないデンマーク人」というものは、子どもの頃からこうして鍛えられて次第に確立されていく、と今回思いました。その個人主義や自立心はやはりすばらしいのだけど、困っている他者を思いやり、やさしい言動を取るというものも、同じくすばらしいものだ、と思ったのでした。