2004 03/23
一部あやふやな情報によれば、「天縁」が閉店していたことにショックを受けたT氏は、翌日直ちに大理州魏山県へ赴いた。T氏はここ半年間に何と3度もこの地に訪れたことになる。巍山到着後、T氏は「ここにくるのに日本から4日かかるんですよ。完全にいかれてますね」と不満をぶちまけた。今回の渡雲の目的は、前回安全を図るためにおいてきた思茅地区の拓本をもって帰る事であった。しかし、C.D教授はT氏に「せっかく行くんですから、前回巍山で取れなかった拓本を取ってきて下さい」と指示。やむなく巍山県に赴いた。巍山県に到着するとやはりホテルの受付のお姉さんはT氏を覚えていた。半年に3回もくれば当然であろう。彼女の目には、T氏が「よほどの巍山好き」に見えたにちがいない。
T氏は、巍宝山の道観(道教のお寺)である青霞観に突撃、道観の責任者に許可を得て、すぐさま作業に取り掛かった。前回、青霞観で見てきてわかっていたことであったが、今回拓本を取ろうと考えていた石碑は、長年の線香の煙により汚れがひどく、そのままでは拓本を取れる情況ではなかった。また大きさもまともではない。このため、まずT氏ら二人で、この石碑の清掃を行なった。しかし大のおとな二人が、3メートルもある石碑にはりついて、歯ブラシ(!)を使って清掃に2日半を費やすという光景は間抜けかつ悲惨でもあった。T氏の目には菜の花咲き乱れる美しい巍山盆地も、巍宝山から望む雄大な景色も全く映っていなかった。
清掃が無事終わり、3日目にはようやく拓本を開始することができた。そして午後にはこれら作業が終わり、あとは紙をはがすだけとなったそのとき、事件は起こったのである!おりしも巍宝山ではお祭りの時期であったため、観光客はもとより、公安・政府の関係者もこの地に訪れていた。幸いにもこの石碑は屋内に保存されていたため、T氏ら2人は扉を閉めて作業を行なっていた。しかし、このとき明らかに政府の関係者はT氏が作業している建物に大挙して近づいてきた。前回Pアル県で「ご厄介」になり(最新『墓の友』1月分参照)、多少過敏になっているT氏らは、扉につっかえ棒をして石碑の後ろに隠れた。しかし彼らはそれをものともせず、強引に押し入ってきたのである。このときT氏らはヘッドランプにゴーグル・マスク、作業服にエプロン腕当てといういでたちであり、とても「観光客とは呼べないシロモノ」であった。さらにまずいことに、今回も日本の某研究所と雲南大学との調印が延びてしまったために、T氏らは「お墨付き」も持ってきていなかった。中国ではいくら、道観の責任者と当地の文物管理所にきちんと、ひとこと言っておいたところで、政府関係者が気まぐれに証明書を見せろといったらそれまでである。
とにかく、彼らが大挙して建物に入ってきたとき、何とT氏は石碑の裏にうずくまり息を潜めるという積極的手段によって対抗した。彼らが話す内容から、この建物にこの石碑があることはして知っていたようで、彼らが政府関係者であるのは明らかであった。幸運にも彼らは、石碑に張り付いていたままの拓本について理解していなかったらしく、石碑をしばし眺めながら数分で帰っていった。今回ばかりはまさに危機一髪であった。実は、T氏が息を潜めて隠れていた石碑の裏面にも碑文はあり、彼らが裏面の碑文の存在を知っていれば、おそらくまたもやご厄介になっていた可能性がある。
今回の事件直後、T氏は「いや~、びっくりしました。それにしてもムチャムチャ近くで隠れてるのに、結構気付かれないモンですね」と多少ハイになっていた。それにしても30歳も過ぎて、上述のありえない格好のまま、石碑の裏側でうずくまる男T氏、大丈夫だろうか?これで見つからなかったというのはほとんどドリフの世界である。事件から数日後、この点について、さらにT氏に質問を浴びせると「もう墓やめたい…」とつぶやき、夜の巍山に消えていった。そのT氏の後姿を見つつ、本誌記者は「この男から墓を取ったら、何も残らないだろうに…」とつぶやいた。