Hucking today !! 『墓の友』

これは、東洋史界に一大「墓ブーム」を巻き起こそうと画策するHucker1号の記録である。

Hucker1号、またもや専門学校に復帰!

2008年04月18日 | 『墓の友』 2004
2004 04/28

   きわめて間違った情報によると、2004年4月からHucker1号ことT氏が、かねて潜伏していた豊島区にある専門学校の講師にちゃっかり復帰していた。これについて、経営者サイドでは「本当にほかにいなかったのか?」と懸念を表明している。昨年同様、T氏が担当する科目は異文化コミュニケーションである。それをいいことにT氏は「墓との対話」や「Huckingの瞬間速度と摩擦係数について」などと、まさに異文化な授業を展開しつつあるとのうわさである。
 


Hucker1号、またもや危機一髪!!

2008年04月14日 | 『墓の友』 2004
2004 03/23

 一部あやふやな情報によれば、「天縁」が閉店していたことにショックを受けたT氏は、翌日直ちに大理州魏山県へ赴いた。T氏はここ半年間に何と3度もこの地に訪れたことになる。巍山到着後、T氏は「ここにくるのに日本から4日かかるんですよ。完全にいかれてますね」と不満をぶちまけた。今回の渡雲の目的は、前回安全を図るためにおいてきた思茅地区の拓本をもって帰る事であった。しかし、C.D教授はT氏に「せっかく行くんですから、前回巍山で取れなかった拓本を取ってきて下さい」と指示。やむなく巍山県に赴いた。巍山県に到着するとやはりホテルの受付のお姉さんはT氏を覚えていた。半年に3回もくれば当然であろう。彼女の目には、T氏が「よほどの巍山好き」に見えたにちがいない。


T氏は、巍宝山の道観(道教のお寺)である青霞観に突撃、道観の責任者に許可を得て、すぐさま作業に取り掛かった。前回、青霞観で見てきてわかっていたことであったが、今回拓本を取ろうと考えていた石碑は、長年の線香の煙により汚れがひどく、そのままでは拓本を取れる情況ではなかった。また大きさもまともではない。このため、まずT氏ら二人で、この石碑の清掃を行なった。しかし大のおとな二人が、3メートルもある石碑にはりついて、歯ブラシ(!)を使って清掃に2日半を費やすという光景は間抜けかつ悲惨でもあった。T氏の目には菜の花咲き乱れる美しい巍山盆地も、巍宝山から望む雄大な景色も全く映っていなかった。








清掃が無事終わり、3日目にはようやく拓本を開始することができた。そして午後にはこれら作業が終わり、あとは紙をはがすだけとなったそのとき、事件は起こったのである!おりしも巍宝山ではお祭りの時期であったため、観光客はもとより、公安・政府の関係者もこの地に訪れていた。幸いにもこの石碑は屋内に保存されていたため、T氏ら2人は扉を閉めて作業を行なっていた。しかし、このとき明らかに政府の関係者はT氏が作業している建物に大挙して近づいてきた。前回Pアル県で「ご厄介」になり(最新『墓の友』1月分参照)、多少過敏になっているT氏らは、扉につっかえ棒をして石碑の後ろに隠れた。しかし彼らはそれをものともせず、強引に押し入ってきたのである。このときT氏らはヘッドランプにゴーグル・マスク、作業服にエプロン腕当てといういでたちであり、とても「観光客とは呼べないシロモノ」であった。さらにまずいことに、今回も日本の某研究所と雲南大学との調印が延びてしまったために、T氏らは「お墨付き」も持ってきていなかった。中国ではいくら、道観の責任者と当地の文物管理所にきちんと、ひとこと言っておいたところで、政府関係者が気まぐれに証明書を見せろといったらそれまでである。





とにかく、彼らが大挙して建物に入ってきたとき、何とT氏は石碑の裏にうずくまり息を潜めるという積極的手段によって対抗した。彼らが話す内容から、この建物にこの石碑があることはして知っていたようで、彼らが政府関係者であるのは明らかであった。幸運にも彼らは、石碑に張り付いていたままの拓本について理解していなかったらしく、石碑をしばし眺めながら数分で帰っていった。今回ばかりはまさに危機一髪であった。実は、T氏が息を潜めて隠れていた石碑の裏面にも碑文はあり、彼らが裏面の碑文の存在を知っていれば、おそらくまたもやご厄介になっていた可能性がある。


今回の事件直後、T氏は「いや~、びっくりしました。それにしてもムチャムチャ近くで隠れてるのに、結構気付かれないモンですね」と多少ハイになっていた。それにしても30歳も過ぎて、上述のありえない格好のまま、石碑の裏側でうずくまる男T氏、大丈夫だろうか?これで見つからなかったというのはほとんどドリフの世界である。事件から数日後、この点について、さらにT氏に質問を浴びせると「もう墓やめたい…」とつぶやき、夜の巍山に消えていった。そのT氏の後姿を見つつ、本誌記者は「この男から墓を取ったら、何も残らないだろうに…」とつぶやいた。


衝撃の事実!?さらば「天縁」!

2008年04月13日 | 『墓の友』 2004
2004 03/15

 すでに述べたように、チェンマイ経由での移動中、衝撃の事件に激しくショックを受けたものの、依然としてT氏の頭の中は、昆明に到着後、直ちに雲南大学付近の圓西路にある「天縁」に突入、千張肉を食べることに支配されていた。昆明到着後、T氏は取るものとりあえず、嬉々として圓西路に向かった。しかし、このT氏の野望はもろくも崩れ去ったのである。

何と、そこにあったはずの天縁の姿はすでになく、天縁があったその場所には、無味乾燥なコンピューター店があったのである。これについてT氏は「天縁は私の青春でした。私が過ごした圓西大廈もつぶれてしまった今、私の唯一のよりどころだったのです。それがつぶれてしまうとは…。昆明にとって私はすでに過去の人間なのかも知れません」と沈痛な面持ちで語った。しかし次の瞬間「で、一体どこで千張肉食べりゃいいんですか!?」と本紙記者に対して逆ギレしたのであった。

Hucker1号、再び雲南へ。

2008年04月11日 | 『墓の友』 2004
2004 02/12

 一部信用におけない情報によると、Hucker1号ことT氏は、鳥インフルエンザで騒がれているにもかかわらず、2月18日‐3月5日の間、またもや雲南に行くことが明らかになった。


 この暴挙に対し、周囲の人々は少々引き気味であったが、当の本人もあまり行きたくないらしい。それもそのはず、今回の雲南遠征は、C.D教授に有無を言わさず「行って来てください」といわれたので行くだけで、テンションは下がる一方である。おまけに、その目的地は大理の巍山、すでに前回、前々回にも調査した地区である。これについてT氏は「2~3ヶ月おきに3回も大理の片田舎に行く日本人もそういないでしょう。しかも日本から…」と、さらにテンションを下げた。


 さらにいえば、すでに述べたようにT氏は前回、「ご厄介」になっている身でもあり、さすがにT氏も「できれば、雲南遠征は間を空けたい、しかも鳥インフルエンザなんか流行っちゃってる時期に、C.D教授は何考えてんでしょうね、やっぱりこれはHucker撲滅作戦ではないでしょうか」と、久々にひどい疑心暗鬼に捕われながら、関係のない本紙記者に不満をぶつけてきた。本紙記者の見方によれば、おそらくT氏は鳥インフルエンザを恐れているわけではなく、インフルエンザを理由に、移動中にいろいろな所でチェックを受けることを恐れているのだろう。さすがは、すねに傷を持つ男T氏である。

  
 しかし、どうゴネようと雲南には行かなければならないことは、T氏自身が一番よく知っていることである。このT氏と雲南との呪われた関係について、本紙記者がさらに聞き出そうとすると、T氏はこれをさえぎり、「初めからわかってましたから…」と、つぶやいて夜の船橋に消えていった。


このあと、いったいT氏はどうなってしまうのか!



衝撃のスクープ!!在雲南時期のT氏の文章を発見!

2008年04月08日 | 『墓の友』 2004
2004 01/14

   新年早々、本紙記者は衝撃のスクープに直面した。ことの起こりは、本紙編集部に送られてきた匿名の封筒からであった。この封筒の中には一枚のフロッピーが入っており、同封の便箋には「T氏の留学中に書かれたと思われる文章を見つけました」と書かれていた。
 

   このフロッピーは、ワープロの文章ファイルだったため、本紙記者はこれをWord文書に変換。解読を試みた。そしてそこに書かれた二編の文章に驚愕を禁じえなかった。従来、T氏が雲南大学に留学していた事実は本紙の取材からも明らかであった。しかし、留学中の彼の動向については一切知られていなかった。今回紹介する文書は、T氏が留学中に自らかいたであろうということは間違いない。なおかつこの文章により、今まで謎が多かったT氏の留学中の行動の一端が明らかになるのである。この意味において、今回の報道は非常に意義がある。では以下に、この文書の全文を紹介していこう!

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試論白族の族流問題

白族は中国雲南省の大理を中心に約159万人(1990年)いる民族である。この民族の祖先は南詔国・大理国時代の白蛮であるとされている。しかし、これ以前については詳しいことは未だに明らかにされていない。一節によれば、白族の祖先は漢代四川周辺の[棘人]人(ほくじん)であるとする。また最近では、H氏が白族の祖先は元来シ耳海周辺に居住していたシ耳海人であったとしている。 しかし、筆者の度重なる大理での調査によって驚くべき事実が明らかになった。

 白族の祖先は明らかに外地から移住してきた民族である。しかも、その現住地というのは、地球を遥かに離れたM78星雲である可能性が高い。 この事実は、現在学界で唱えられている学説から見ると些か奇異に聞こえる説であるということは十分承知である。 しかし、以下に示す数次の調査によって筆者の提唱する説は紛れもない事実である事が知られるのである。 まず、彼らの服飾の方面から見ていくことにしたい。言うまでもなく、ウルトラマンを示す色使いとしては赤と白(あるいは銀)の二色である。 ここに示す、写真は筆者が大理の喜洲を訪問調査した時のものである(写真は紛失している―本紙記者注)。ここからも明らかなように、白族の若い女性は特にウルトラマンが用いる二色を好んで自分の服装に使っていることが分かる。 また、筆者がこれらの白族の若い女性に写真撮影を求めたところ、みな自らの腕を交差させるポーズをとった。 このポーズは明らかにウルトラマンのスペシウム光線を繰り出す場合にとるポーズであり、この事からも彼女たちがウルトラマンの末裔であることが知られる。


  次に彼らの神話から考察していきたい。彼らの伝説によれば、かつてシ耳海(アルハイ)には悪龍が住んでおり、人々を苦しめていた。この悪龍は後に白族の若者によって退治される。そして、その若者の姓は「段」姓であったとされる。 これは、彼らの神話にすぎないので、これをそのまま歴史事実とする訳にはいかない。 しかし、この神話が彼らの過去の事実を反映しているものであることは明らかである。即ち、悪龍とはウルトラマンと戦う怪獣の反映であることは間違いない。 では、段姓の若者とは一体何を表したものであろうか。ここに於いて筆者は、大胆ながら一つの仮説を提唱することができる。 即ち段姓の若者とは諸星ダンが神話の形に変化していったものに大過あるまい。 姓である段とウルトラセブンのダンは音が同一であり、この神話はウルトラセブンが白族の間で相当の力を擁していたことを表している。 また、大理国王の姓も「段」であったことからも、ウルトラ一族が白族の祖先であったことは否定できない。


  さらに言語面から彼らがウルトラマンを祖先にもつことを明らかにしたい。 筆者が大理を調査した際に、白族語の中に「シュワッチ」という語があることを発見した。 この語自体は、すでに意味を失っているらしく、白族自身も何故このような語があるのかも理解していないらしかった。 しかし、筆者が調査で明らかにした事は、彼らが馬に鞭を入れる際にこの「シュワッチ」なる語を使用していたことである。 「シュワッチ」という語を動物に鞭を入れる際に使用している事からみても、この語が彼らが怪獣と戦っていたときの名残であったことが知られるのである。


  以上の如く見てきたが、白族がウルトラマンの末裔であることは明かな事実であり、これを否定することは難しい。しかし、いつごろ彼らが大理に現れ、その本来の能力を失っていったかについては定かではない。 これについては別稿
に譲ることにして多くは述べない。
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Hucker1号、四川大学と決裂!奨学金を放棄!!

ある筋からの情報によると、雲南大学(以下雲南大)留学生のT氏は中国政府の奨学金の試験を合格したにも関わらず、自ら奨学金を放棄していたことが明らかになった。
 

 原因は奨学金留学生の受け入れ大学が四川連合大学(以下四川大)であったことが問題であったらしい。 T氏の合格通知書には四川大と明記されていたが、T氏をはじめ、雲南大学関係者も、この受け入れ大学というのは名義上のものであると考えていた。

 しかし、四川大側の解釈によれば、四川大に於いて学位を取得する以外では奨学金は支給できないと言い放った。しかも、雲南大は国家重点大学である四川大よりもレベルが低いので、今までT氏が雲南に於いて研究を続けた年数は数に入れないと宣言した。(即ち一年からやり直せと要求。) 雲南大関係者は、この屈辱的な要求に対しても、T氏の経済情況から見て四川行きはやむを得ないと判断、T氏が四川大学で研究をすること許可した。


 この雲南大の判断に対して、なんとT氏は「成都では本も買えて、パンダもみれたのでもう帰る。」と、ほざいて四川から帰ってきてしまった。 しかも、四川大には「雲南大で退学の手続きなどを済ませてからまた来ます。」などと、しゃあしゃあと嘘をついて四川大から帰ってきたことが、たまたま現地に居合わせたK氏の報告によって明らかになっている。
 雲南を調査訪問していた四川大に詳しいT京外語大学のC.D教授はこの事件に対して、「雲南大に常に対抗意識を燃やしてプライドが高いだけの四川大の歴史系にこのような事をすれば、それは向こうも渋い顔をするでしょう。」とコメントした(本当)。

 この、T氏の自ら首を絞めるような行為は早速、自らにはね返ってきたようである。 四川から帰って来たT氏は今まで住んでいた圓西大廈を経済的な理由から出ることになり、江岸小区のK氏邸に転がり込んだようである。 しかし、当のT氏はバカのためか、あまり事の重大さを理解していないらしく、相変わらず自分で背負えないほどの読むんだか読まないんだか分からない本を買い込んで、ご満悦であるらしい。

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以上が、今回発見した文書の全文である。以上の文書から、当時の空気の薄い昆明にあってT氏のテンションの高さ、そしてヒマぶりが窺われる。それと同時に、なぜT氏はあそこまで四川を嫌がるのかという従来の疑問が解決したのである。