ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

大晦日の銭湯

2013年12月31日 20時22分49秒 | ペタンク爺さんの一日
第2の故郷室蘭輪西町、札幌で云うと四丁目十字街的商店が密集した下町だった我が家は昔四条中通り十字街に位置し東を背にしていた左に向かって道路を挟んで仕出し屋、八百屋それに銭湯が四つ角に陣を取っていた、我が家は私が衣料品店を開業していた時代で、長男が生まれたばかりの頃だったが、目の前の銭湯は10歩も歩けば届くほどの距離と思っているが親父は毎日のように一番風呂に孫を抱っこして入りに行っていた、早々と上がってくると我が家の方に道路越しに声を掛けてきた其れを合図に妻や妹たちが赤子を受けとりに行っていた、そんな映像が強烈に残っている故郷の出来事だった。
大晦日となると、除夜の鐘が鳴っても雨戸一枚あけ商売は続けていた、商売していると向いの銭湯もお終い風呂が多かった、入浴中に風呂掃除が始まることもしばしばで、銭湯との関わりが物凄く多かった。

今日久しぶりに銭湯の終い風呂に行ってくる、と云っても大晦日は午後7時で終わりで、ぎりぎり午後6時を過ていた終了時間10分位前から、ほたるのひかりの音楽が館内に流れだした。
あ~今年も1年が終わったと感じた銭湯月見湯のひと時だった、嬉しい事に5.6月頃48キロまで落ちた体重が今日は63キロまで増えていた、まだ本格的なトレーニングはまだまだ無理だが前途に光が差して来たように感じる。

何も作らないと云っていた妹、と云っておきながら大晦日には立派なおせち料理が出来上がってしまった、お昼に豊平の更科そば店で年越しそばを食べる、近頃は早々と昼間に年越し蕎麦を食べるようになった、帰りしな東光の一心で握り寿司を買う、物凄い混みようだった。

年越し蕎麦は更科そば



おせち料理も出来上って

故郷は懐かしきかな

2013年12月30日 19時25分02秒 | ペタンク爺さんの一日
1926年(大正15年)父(22)と母(20)で結婚していると憶測しいいる、翌年長男が誕生し二つ違いで姉が生まれている、この後5年(1934)後に私が誕生したが姉との間に次女が誕生していたが2歳で他界している、父母が結婚し私が誕生するまでに世界状況はめまぐるしく変わっている、1910年今もめている日韓関係で日韓併合があった、1915年第1次世界大戦に日本参戦、1923年関東大震災があり1926年治安維持法発布、私が生まれる前の年に日本は国連を脱退している。

そんな時代背景の中父は母親との確執で家を出て行く道を選んだ、家督は次男に移り長男と長女は祖父に託し私(3歳)と妹(1歳)を背中に4人で北海道に移住してきた、此の辺りから私の中の歴史の一辺が記録されていることになる、室蘭市内の市営病院の直ぐ目の前の魚屋の二階に間借りしていたことを覚えている、朝私を幼稚園に預けると妹を背中にしたまま大工の父のテコ仕事の共稼ぎをやっていた。

此のころ父は34歳と母は32歳ころと若い父母だった、生れ故郷の記憶は小学校1年の時の夏休みに兄と二人で帰省した数日間が故郷五ヶ浜の全てだった。
今みたいに海岸通りは開通していなかったりトンネルも無く陸の孤島であった、乗り物は無く峠下から森の中を歩いて五ヶ浜峠までくると小さな故郷の家々の屋根が見えて来た、短い夏休みの楽しい記憶として生涯私の心の支えとなった。

母は父母の葬儀で故郷を訪れているが、父は32歳の時に故郷を捨ててしまったのか二度と戻ることは無かった、余程のことがなければと推察するだけの息子です。
60歳に生れ故郷を訪ねた時に父の遺骨の灰を散骨して廻ってきた、母の兄弟とは行き来はあったが、父の兄弟とは一切なかったし今は縁も切れている。

砂浜から故郷と山々を望む

日韓併合とは
明治43年(1910)8月22日調印された日韓併合に関する条約によって、 日本が韓国を完全にその支配下におた。日露戦争後、日本の朝鮮支 配は急速に露骨となり、 明治37年(1904)2月京城において、 日韓議定書 を締結した。
第一次日韓協約では、財政 ・外交その他の顧問の採用を認 めさせ、 第二次では韓国保護条約を結ばせ 韓国外交権をにぎり、第 三次では韓国の内政権をも支配下に置き 韓国の警察権を 日本の憲兵 によって完全に握った。また明治43年(1910)にはじまる土地調査事業は、 朝鮮人の土地を大規模に取り上げる結果になり、 日本に対する抵抗運動 が 根強くつづけられたが、日本はこれらを徹底的に弾圧した。 明治42年 伊藤博文が、ハルピンで安城根に 射殺されたことを口実に、 韓国内閣 と交渉を進め、 日本軍の示威と警戒のもとに調印を完了した。


男の料理三品

2013年12月29日 16時09分31秒 | ペタンク爺さんの一日
今年も明日明後日の二日間で2013年も終る、如何やら前厄年のであったのかと思っている、厄年は男は25歳、42歳、61歳がクローズアップされているがこの後はもうないのかと思っていたら、厄年でもない今年に降りかかって来た、もの心ついたときから我が家には暮れ正月になると高嶋暦があったことを覚えている、親父はその暦を大事にし一年の計を立てていたように思えてならない、時には私もその暦を覗いて新しい年の運勢等もみていたがその場限りで忘れていたことが多かった。
現在も暦に縁があり、毎年お寺から似たような暦が配布されていた、生れた歳で運勢が書かれているが同じ年の人間が同じ運命なんてありえない、生年月日が同じとしても同じこと、丸っきり信じるわけにもゆかない、参考資料として頭の隅にと仕舞い込むだけだ。

その暦をひも解くと今年は矢張り厄年のようだった、年が明けてからの一年間は開運の年となっている、参考としか云えないが期待が大きくなるのも仕方がないのかな。

此のところ、大晦日はお昼に年越しそばを食べる習慣に、夜は東急の一心の握りずしが定番になっていた、今年も変わり映えしない同じパターンかとおもっている。
未だ、世間で云うオセチ料理は用意してはいないが、妹には最低のお雑煮の材料だけは準備してもらっている、我が家にも神棚と仏壇があるのでこの方の準備は欠かせない年の瀬で、明日一気に準備することにしている。
オセチ料理とは程遠いが、今日は男の料理三品を仕上げる、最近は漬物はしなくなったが代って酢漬け料理が出てきた、今日は野菜のピクルス2品と山菜の山蕗の煮つけ、昆布の佃煮再チャレンジをして三品完成させる。

明日は豆料理にチャレンジしようかなと思っているが、31日に小さなおせち料理セットを買って正月を迎えようと思っている。

山菜の山蕗の煮つけ
今日の昆布の佃煮は味は合格

20歳から働き初めて

2013年12月28日 20時05分36秒 | ペタンク爺さんの一日
20歳から働き始め最初の10年は結婚と子供の誕生だった、次の10年は舞台は札幌円山地域に変わり時代背景は東京オリンピック1968年にはGNP世界2位になり1ドル360円の固定相場が変動相場になったのは1971年だった、この年に札幌オリンピックが開催され親子3人でスキーチームを結成し、1974年親子で旭岳夏山キャンプを決行する、このあとアルペンスキー界にどっぷりと浸かってゆくことになった。
この後の10年は藻岩レーシングクラブ創設と12年間の歩みとなって行った、スタート時は我が子の為の環境作りが大きな目的だったがクラブが成長して行くにしたがって、もう一個人の組織ではなかった、振り返ってもみても人生で最高に充実した時期であったと感じている。
この後クラブは発展的に解散し、長年生業としていたタクシードランバーを辞めてプロのスポーツイベント会社創設に役員として参加していった。
50歳から定年60歳までの10年間は、今までと違った厳しい環境の中であったが沢山の勉強も出来違った意味での充実した期間だった、此の頃生涯スポーツとしてのペタンクに出会い組織の創設運営と、途中様々なアクシデントもあったがペタンクは25年も続いている。

60歳時には会社を退職していて年金もこの年から貰うことになる、病院の夜警を三年間くらい勤めた後仕事に付いたことは無かった、ただアルバイト的に春の山菜採りと秋のきのこ採りをして市場に出荷しペタンク大会の遠征費や組織運営費の補てんに充てていた。

今年はとうとう春の山菜採りは出来ないでしまったが、秋のきのこ採りのたった二日間だったが沢山のならたけの採取が出来た。

今年蕗の採取が出来なかったので、塩蔵蕗もないと思っていたら昨年の塩蔵蕗が出て来て早速蕗の煮つけを作る。
雪が降ると出てくる我が家の越冬食料で欠かせない山菜です。
もうリタイアしてからもう20年も経過している、計算通りとして90歳まであと10年しかない。

今日もダッチオーブン
野菜の方が多い鍋の中

男の料理・昆布の佃煮、味は?

妹の作品・蒸し饅頭は美味しい

ブレーパークて?









昭和は遠くなりつつ

2013年12月27日 20時06分25秒 | ペタンク爺さんの一日
テレビに三丁目の夕日が放映された時代背景と、私が20歳から30歳頃の時代と重なり本当に痺れるような感傷にも引き戻された。
其の頃もう私は故郷輪西で衣料品店を立ち上げ商人になっていた、糸編景気で物を仕入れてくると飛ぶように売れて行った、仕入れは主に大阪、岐阜で、ふた月に一度は仕入れのため当時は青函連絡船に乗り青森から汽車で往復していたが東京までで24時間も掛かっていた、まだ遊郭もそんざいしていたし映画勝新太郎の悪名と彼の生き様は私の人生に物凄く影響を与えたと思っている。
三丁目の夕日の10年近くは、一国一城の主となり結婚し子供も授かりそのうえ店の倒産(かまど返し)を経験し社会の裏社会も覗き見したり大変な経験を30歳をまえに経験した。
繁華街の街中をを一日一度はやくざが固まって闊歩していた町だった。
家を借金の抵当に入れていたので、とうとう朝鮮人のやくざ見たい人が日本刀を持ち込んで我が家に乗り込み居座ってしまった。
今だら通報するとたちまち逮捕されるが当時の敗戦国の戦後の日本では、戦前バカにしていた朝鮮人にも頭が上がらなかった。
両親も同居していて長男が誕生するとすぐ病死する、私の倒産時には親父は再婚し札幌に転出し釣具店を構えていた。
今振り返っても凄い10年間だったと思っている、脛に傷を持ってしまい大商人の夢はあっさり諦めたと思う、その後は札幌に移り住み円山地域で子育て時代に入って行く。

昭和時代が少しづつ消えてゆく、個人商店も増々少なくなったタバコ屋もなくなった其れに何処にでもあった街中の銭湯の廃業が進んでいた、何か特色がないと固定客も増えることもないので此れからもへりつづけると思っている。

久しぶりにススキの近くの山鼻温泉屯田湯に出向く、昔からの銭湯そのものだが今は温泉を掘り当て温度は低いが天然温泉なのだ、此処の銭湯の特色は入浴料は銭湯料金で他では見られない刺青の入った人たちでも入れる銭湯で、昔は近くに組み事務所がありやくざがいて出入りもあったと聞いている、現在でもその筋の人達もてい此の銭湯を利用しているが、今日久しぶりに銭湯の中で一緒になる、親分には刺青が入った若衆が二人付き必死に世話をしている姿を真近でみる此方も自然に緊張してしまった。

嬉しい事に銭湯の必需品の台場秤で体重を測ると52キロを超えていた。

骨董品に近い台場秤


サンルームは28度に

五区公園プレーパーク実践中


自治会新年会の小道具製作完了、久しぶりにこよりを作る。



2013ラストダンス&つきさっぷ

2013年12月26日 19時51分41秒 | ペタンク爺さんの一日
今年最後の予定していた行事日程を消化する、午前中は定期検診が入っていた押迫ったせいか患者さんが少ないように思えた、何時もより30分は早く終わった、悪くなっている気配は感じられないようで遅々としてはいるが回復していることは感じ取られる診察結果だった。

退院後抗がん剤治療を継続しながら、体力回復のため歩くことから始めていた、本来なら地下鉄を利用しきたえ~るのトレーニング室に通いたいところだったが、まず行き帰りの歩行距離がこの時期には4.5キロにも感じられジム通いは不可能としていた。
退院後直ぐ用意した物が杖だった、両脚で立っていることすら負担に感じられ倒れそうになる杖が絶対必要状態だった、あらゆる筋肉が無くなっていることに気が付かされる。
それでも行動範囲を広げるため、車の運転は何の障害も感じられず何処でも出て歩いていたので、スパーなどの買い物に出かけ手押し車に掴まりながら歩いてたた、惨めな姿だった。
それでも平静を装い、近くへの外出は出歩いたが時速にすると2キロ程度の歩行で他人と歩調を合わせて歩くのは出来ない相談だった。
ただテンポが遅いが杖も使わず動けるようになったので、復帰1番は8月のカーリングだった、真夏だったので避暑も兼ねられると思っていたが、動くペースは自分でコントロールできるが氷の上を走って歩くことが出来ず、ダウンの上下を着込んでいても寒かった、体の皮下脂肪が無くなっていて寒さへの抵抗力が無くなっていたことに気付かされる。

10月にダンスサークル復帰を決行したが、2時間のレッスンに耐えられなくなりひと月少しで辞めてしまった、それでも諦めきれずダンス教室の個人レッスンに切替へ一回30分弱のマンツーマンレッスンでとうとう復帰を果たしてしまった。
と云っても、ダンス入門程度でルンバ、ジルバ、ブルース、をようやく踊れる状態になっただけ、その他のワルツ、タンゴ、等のステップは全部忘れてしまっている、抗がん剤治療が終わる春ころにはダンス中級に復帰して行きたいと思っている。

目標は、何処のダンスパーティに誘われても踊れるようになる事だ。
兎に角ダンスはハードなスポーツだと思い知らされる、今日26日はダンスの踊り納めとなった。

冬のつきさっぷ風景


サンルームの中は春の花

明日の朝のパンが焼きあがる

二人だけのクリスマス

2013年12月25日 19時53分44秒 | ペタンク爺さんの一日
妻に先立たれ独居生活を覚悟し呆然としていた時に、七つ下の妹が同居を申し出てくれた、覚悟はしていたが男やもめは惨めなものだ、地獄で仏とは此のことと思うと共に先立った女房と可愛がってくれた母親があの世からコントロールしてくれたと思わずにはいられなかった。
同居を始めて4年は過ぎた、妹は母親似で辛抱強さも母親譲り決して自分を主張せず大和撫子的面を持ち合わせている女性だが思い切った決断もする芯の強い女性でもある、嫁ぎ先の舅と折り合いがつかず独立し市立病院の賄いをしていた、二人の子供達は女の子でそれぞれ嫁いで行ったが其のうち娘夫婦の世帯に同居したこともあったが、長続きせずその後独身を貫いていた、賄い業を長年続け年金生活が出来る環境なので贅沢は出来ないが人並みの日常が約束されていると思っている。
現在ただ一つの趣味の染めサークルに通い続けているが、毎回毎回自作製品が溜まっているのですくなかざる心配すると、あまり歳の離れていない姉や妹にあげて喜ばれていると話してくれた。
先生は、全国的な活動されているその道では有名な先生らしく生徒さんも大勢いて全国を飛び回っているらしい。
そんな妹と、二人だけのクリスマスパーテーになる肉料理とワイン(ノンアルコール)で乾杯し始る。
4時に帰って来て5時半には夕食は出来上がっていた、手早いのも彼女の特技でお袋の味に近いかなと思っている。

今日、月寒公園フアンクラブの今年最後の会議がサッポロ珈琲館月寒店で開かれた、昼の日中の1時30分年の瀬も迫った25日には現役世代は出席不可能で出席者はノージグループの全員の6名が主体だった、そのほかは3名で9名での会議になったが本筋から外れることが多く最後は2時間30分にも及んだ。

今日の話し合いで年明けからの活動指針が示されただけたったが、沢山の情報が共有出来たことで月寒フアンクラブへの思いを新たにした会議になったと思っている。
1月の集りは20日過ぎと決まる。
ワイン(ノンアルコール)で乾杯

昨夜は海老天でした



ミニプレーパーク実践編

2013年12月24日 16時51分57秒 | ペタンク爺さんの一日
札幌市内に既存のプレーパーク10ケ所もあることが判った、行政が直接運営している訳でなく地域住民が主体となって運営に関わるのが特徴で公園の一角を使って地域の実情や活動団体の考え、体力に合わせての活動形態があり。行政と地域住民の二人三脚を目指している。

プレーパークも現在活動している月寒公園フアンクラブの趣旨と重なるところが多く、大きな傘の下での共同体と云ってもいいと思う、平成28年の公園完成時を待たずしてプレーパーク組織を立ち上げても良いと思うまで至った。
周りには沢山の協力者もいてことを進める潮時とも思えてくる、会の創世期にひと活躍する舞台が整いつつあるようにも思えてくる、未だに生かされているのはまだ私の役目が残っているのだろうかと勝手に想像している。

午前中自治会のデスクワークをこなす、昨日までの大雪も安定したので道路一本挟んだ五区公園の子供達の遊び場を整備しようと、スノーシューとストックを持ち出し出かけて行く。
お天気が良かったが最初から最後まで一人のこどもも姿を現さなかった。
五区公園のグランドは20センチ以上の雪で埋め尽くされていて、冬の遊び場の月山へ向かって足跡が何本も付いていた、無論近くには小山は無く公園の月山を利用してそり遊びをしている近くの子供達、幼児から小学低学年が主だった子どもだが、一人で勝手に集まって来て遊んでいる風景を何時も眺めていた。

大雪の後は、雪踏みをしてコース作りから始まらなければならないのだが小さな子供達には荷が重すぎるのではないかと、お節介爺さんがスノーシューで月山を始め周りを踏み固める勤労奉仕を2時間ほどする。
勝手に五区公園プレーパークと名乗って活動開始した、月山の斜度があり過ぎるのでクニックに雪を積み上げ緩やかな斜面にする青写真を頭の中に、暇を見てお節介爺さんが出動することになる。
冬休みには、エコソリの試乗会も考えている。

月寒五区公園





団地裏雪山は残念だが遊びは禁止

大雪で飛行機飛ばず冬至夜

2013年12月23日 19時30分22秒 | ペタンク爺さんの一日
昨日一日中降り続いた雪は一夜明けいも止まなかった、細かい雪に混じって時折アラレが降っていた子供の児童唱歌の雪はコンコンアラレやコンコンが直ぐ思いだされた。
昨日は朝から夜遅くまでプレーリター研修会で缶詰め状態だった、用意していた冬至カボチャを食べる暇がなかった、今年はとうとう一日遅れの冬至日となった。
雪のため飛行機が飛べず千歳空港には600名の乗客が毛布に包まって一夜を明かしたとテレビで伝えていた、自然の脅威になすすべもなし。

未だ夜が明けぬ前から、自治会のバケット除雪車が動き出していた、本格的な稼働は今日が初めてと思う、道路側の駐車場スペースの雪を集め裏の公園の一角に積み上げていた、大雪を想定してか今年は公園の奥から順序よく積み上げていた、ダンプに換算するともう20台以上が積み上げられていると思ってい。
午後からダンス教室があった、帰り道スパーに立ち寄るのが身についてしまい、卸売センター、とっぷす、最後は八紘学園直売所を廻ってきた、最近は主婦の目に限りなく近づいているように思っている。

今回の大雪で近くの山々もすっぽりと雪に埋まっているように見える、昨年買った藻岩山ロープウエーのシーズン券が30日で切れる、雪が落ち着いた日を選んで今年初めての藻岩山滑走を決行しょうと思っている、同時に白旗山ルートの札幌台もトレッキングも何回か通うつもりだ。
26日から一週間は抗がん剤治療がお休みになっているので、ここらが積極的に活動できると最良週刊と今から楽しみにしている。
それにホームグランドの月寒公園のそり山にも顔を出さねばと思うと天候に合わせ綿密な日程調節も必用になると心配が尽きない。

月曜も売店開く

大活躍するバケット



冬至カボチャ

洋風に


プレーリダー研修の嶋村さんと

2013年12月22日 20時47分33秒 | ペタンク爺さんの一日
日本でフレーワーク&プレ―リーター組織が形成され出したのもつい最近の事と思う、ヨーロッパの先進国の追従をしていると思うが、日本でも早くからそんな考えがあっても実現するまでに年月が必要だったと想像できる。
今回のプレーリダー研修会に講師として嶋村仁志氏が来札して来てくれた、氏は1996から職業プレイワーカーとしてスタートしている、2003年に日本冒険遊びの場づくり協会理事、2010年にTOKYU PLAYを設立し代表になっている。
プレーパークの草分け的人材と推測しているが氏も50歳代を間もなく到達する年齢になっているが、表現が悪いが悪がきがそのまま大人になったように見え今でも少年の心を持ち合わせていることが伝わってくる人で、今回の出会いですっかり嶋村氏のフアンになってしまった。

兎に角専門的な分野なので、新しく作り出して行くことも多いと想像できる子供達の感性は幼児期から小学生低学年くらいで決まってくる、学校や家庭では得られない所をサポートするにはプレーパーク組織の役割は貴重な存在と思う。
子供達を見守るプレーリーダの存在が増々必要化されてくる時代が到来していると思いを新たにしている。

奇しくも、今日の研修終了後に札幌市長からの修了書がひとりひとり担当課長から手渡される、札幌市の期待の大きさも伝わって来ていた。
今日の研修は午後3時には終了していた、朝から降り続く雪は日が落ちても止まりそうもなかった、今夜の会食はすすきのだったので一度家に帰り車を置いて地下鉄で出て行く、もう1年以上ススキノに出ていなかった、今年初めての大雪日と思うが日曜日の夜だが相変わらずの賑わいを見せるススキノだった。

研修会修了書が市長から届く

研修風景




プレーリダー研修会に参加

2013年12月21日 21時37分13秒 | ペタンク爺さんの一日
月寒公園再整備計画のプロジェクトに些か関わり出して三年も過ぎていた、月寒の住人になって20年を超えた、月寒公園再開発が動きだし我々住民の要望を吸い上げてもらうためにもと会議に参加していった、新しく出来上がる公園内の一部に最少スペースでもいい本物の常設ペタンクコートを作ってもらうことが目的だった、バークライフウイークエンドでは親子ペタンク教室、二年目は折り紙飛行機大会を企画運営した。
それに区のイベントのとよひらスノーパークに参加し手作り橇教室と競技大会を大学生グループの協力を得て企画から運営たまでやっている、イベントは動画を撮り編集しネットで世界に発信している。
三年目の今年は、8月に月寒公園に仮設インホメーションセンターが立ち上がり同時に月寒公園ファンクラブを立ち上げ私たちのシニア大学同期生を巻き込んでフアンクラブ立ち上げに参加し幾つかのイベントにも積極的に参加した。

仮設小屋なので管理小屋は10月いっぱいで撤去された、何れ仮設小屋の三倍以上の管理センターが出来ることになっているが、使いやすさと要望を沢山上程し今年の活動は終わった。
来年のこの辺の計画はまだ正式には発表されていない、どうなる事か心配の種だ。

前年度やったとよひらスノーパークの橇教室と橇大会のイベントは2月19日開催が決定していて準備段階だが私の橇作りの仕事はもう終わっている。
12月に入って突如プレリーダー研修会があるので参加しないかとのお誘いを受けたが、もうこの歳で参加もと躊躇していたが、何となく引寄せられるように参加申し込みした、募集人員20名で圧倒的に若い女性が多く昭和一桁時代の爺さんがひとり参加していったので少し浮いた感じがあったが、若いリーダー達の考えも良く分って来て有意義な会議であったと思っている。
明日もう一日10時から17時まで講義やデスカッションがある。
夕食は有志だけで侍スープカリー店に、初めて訪れた店だがもう一度来てもいいと思える店だった。

10時から17時まで講義

プレーパークとは

プレーパークポスター




夕食はスープカリー



2013カーリング最終日

2013年12月20日 19時00分54秒 | ペタンク爺さんの一日
8月から始まったカーリングのリーグ戦は月に3~4試合消化するリーグ戦が続いている、日本の女子チームがホームグランドにしている北海道銀行コートでレーンが5つつあって、毎日のように入れ替わって練習している我々シニア組は毎日が日曜日なのでコートが使われたてない所で一日2時間くらいのスケジュールでリーグ戦が展開されている、カーリングの普及活動の一環として用具も貸し出してコートの使用料もかかっていない、始まって四ヶ月も経過して来ているので曲りなりにもそろそろ初心者を脱皮していると思っているが、試合結果を評価するとまだまだでそんな優しいスポーツなどと云える物でないと思っている。

私は、ペタンクで20年を超えるキャリアを持っている、カーリングと違って三人で1チームで、投球はカーリングと同じで2球づつ投げ合う、ポワンツゥール、ミリュー、ティルールの役割があります、経験豊かなポワンツゥールが試合の流れをつくり、ティルールが試合の流れを変え、ミリューが試合を決めるという役割があります、この役割に適材適所があり人間性と性格が大きく関わってきます。

今の所、カーリングでは殆んどトップを引き受けていて的の真ん中でなくガード役でストーンを前方の斜めに置くようにしている、此れはペタンクの作戦のひとつで後の流れを有利にするためのパーターンを実践していて、この頃は6割くらいの成功率になっていると思っている。

今日2013最終試合が12時から開始されることになっていた、どうしても街中に行く用事が出来店の10時の開店に合わせて出かけてくる、用件を済ませるとデパ地下でお昼の弁当を買い込み帰宅、直ぐ昼ご飯を済ませると12時近くになっていた、今日の最終戦の私の採点は60点くらいしか付けられない、それに女子組のセカンド、サードの出来が悪く50点以下、4人が4人とも出来が悪かった。
それでも、スコアは6対3で終わっていたので調子が良かったら勝てたチームだったと思って、次の試合の糧にする。

札幌の各リーグ戦

我々のサニーリーグはまだここには入れない。

手書きのカーリング新聞



新聞記事



お正月を迎える準備

2013年12月19日 21時58分34秒 | ペタンク爺さんの一日
子供の頃年の瀬も迫った頃、父と母の正月の準備をしていた姿を今でも思い出せる、商売をしていたので鏡餅が主役になるので店の土間辺りで28日頃が餅つきと決まっていた様に思っている、最初は餅つきは親父が主役だったが中学生頃には私も加わるようになっていった、お供えの丸もち、それに伸し餅が主体だったが、母は小豆で餡子を作り大福餅を毎年作っていた、子供達には大好評でアッと云う間に無くなっていたと思う。
我が家には神棚と仏壇があり正月飾りは家長自らの行事で真剣に執り行っていたことを思い出す、門松しめ縄を店や玄関や裏口まで飾りつけていた。
幾ら忙しくてもギリギリの31日には一夜飾りは厳禁とされていた、だたい30日には正月準備は終わっていた。
大きな鏡餅を作り11日の鏡開きに下ろしてきて、硬くなった餅をカナジツで小さくしてかき餅にして食べていた、どんど焼き、小正月があってこの辺で正月が終わっているのが日本の正月風景で、近年は省略され行事も少なくなった、第一門松松飾りしめ縄など行っている家庭は少なくなっている、我が家でも団地マンションなので玄関を飾ることもなかった、無論餅つきもなくなり出来たものを用意するだけ、ただ家の中に手作りを含め正月飾りを飾りつけ正月気分を盛り上げるようにしている。

今日早々と、正月準備の飾りつけが始まった、我が家流のかざりで同じ飾りつけをする所は無いと思う。
あと何回正月飾りが出来るか、一年一年を精いっぱい生きることにしている。

ベランダの外は雪か少なく、まだスキーも出来ない、隣りの一軒家が取り壊されたと思ったら新しい建物が作り出していた、前は庭付きの家だったがそこへ三軒のマッチ箱みたいな建物があっという間に出来つつあった、一階は車庫で居住地は二階三階に、若い世代には向いている建て方なのかと思っている、昨年同じような建て方が建てた分譲住宅は、建てた後には居住者が決まっていた。
生活環境が良いのか、近くにこの様な建売住宅が多くなっていることに時代の流れと変化を感じている。

雪が無いのでスキーが出来ない我が公園


隣りに出来つつあるマッチ箱住宅群





暖冬が何時まで続くか

2013年12月18日 19時22分29秒 | ペタンク爺さんの一日
今年の師走は今の所道路には積雪ゼロと云っていいほど、初雪からこれまでに適当に降っていると思うが厳冬の期の粉雪でなく本州の裏日本で降っている湿雪が北海道でも普通になって来ているのではないかと、思える節がある。
北海道のスキー場でもパウタースノーの状態で滑れる期間は段々限られてきていると思う、札幌市内のスキー場では年に数回あるだけと思う、少子化で小学校のクラスが各年数クラス、私が小学校時代は10クラスほどあってで定員も70名をほどと思っている、現在は一クラス35名くらいと聞いている。
一昔前は、子供は国の宝と云われていた、今も変わらないと思うが内容が変わってしまっていると思う。

学校が終わりそれぞれ帰宅してからの行動は、我が町内会の子供達の中で塾通いは皆無と思っている第一塾は存在せず、少し上の中学生が勉強の面倒を見ていた時代だった、自宅で予習復習は全くなしで子供は遊ぶことが仕事と思っていた、町内全体が個人商店と云ってもよく屋根は付いていないが現在のスパーでコーナーごと担当者が直接対面販売をしている繋がりがある町内だった、それゆえ学校から帰ってきた子供達は自然に集まり出しグループ遊びをしていた、兄弟のグループも多く背中に妹や弟を背負って遊び仲間に入っていたことを思い出す。
子供達の中にはいまで云う絆らしいものもあり、隣りの町内会子供グループとの軋轢があるときなど結束して行動していた、子供の喧嘩には親は出てこない時代だった。
そんな時代は、小学校卒業で終わっていたと記憶している。

現在凧工房での作業が続けられているが、手が空いている時間だけなので真剣に凧作りととなっていないが、年明けの自治会の新年会に参加する人達に寄贈するミニ凧作りをしている、此のところ正月の恒例になって来ている。

目の前に1時間一本のバス亭があり
バスダイヤル時間

今年も年賀状作りました。

2013年12月17日 20時01分44秒 | ペタンク爺さんの一日
何時のころから年賀状を作り始めたのかもう、記憶は定かでない、年々年賀状の存在感が薄れているのは通信手段がPCやダブレット、スマートフォン、携帯等間口が広まって選択肢も増えてしまった。
時代の流れを止めたり簡単に変えられない、年賀状を書かなくなった人も増えていると思っている、私も多くは一年一回の消息確認も年賀に託されていると思って続けている、リタイヤしてから時間流れが早く感じられるようになっていたが80歳にもなると増々ハイスピードで加速されているように感じられてくる。
数年前から、妹の年賀を含め100枚程度にしていてパソコンで製作するのでデザインさえ決まってしまうとあっという間に出来てしまう、私も12月も半ばを過ぎたので潮時と思いはがきを買ってきて作ってしまった。
明日一日もあれば、チェック済の宛名を印刷し完成させる事は終わっていると思っている。

午前中は今年最後のリーグ戦が組まれていて、楽しい一日と思っている、カーリングは兎に角団体戦のスポーツで参加メンバーの総合力てチームの強さが決まってくる。
今の所、殆んど私はトップを務めスタート時点での戦略を有利に展開出来る確立が高くなってきているので、オール黒星から脱却でき勝つ楽しさも増えていると思っている。
いよいよ年の瀬も迫ってきたが、山の降雪状況が安定せず折角降った雪も全部でないが雨で消えてしまい雪待をしているスキーヤー達をガッカリさせている。

この間から即席麺の検証をやっていたが、夕食時に最後まで残っていた日清のどん兵衛生そば食感を試食した、乾麺即席麺を含め一番生そばに近いと思った、お腹の空いたときにもりそばにして食べてみようと思っている。

何といっても手打ちそばが一番だか、此れだけ生に近づいて来ている食文化に未来が明るい。

今晩の食卓はハンバーグと即席麺でした