昔のダンスの話を書いて、
▲ 昔のダンスホール(1)
▲昔のダンスホール(2)
▲昔のダンスホール(3)
で話は終わった心算でいたのに、往年の映画「哀愁」を見て、
大切な事が一つ欠落、していたのに気が付き、
▲ 昔のダンスホール(4)
を書き足した。
今度こそ、これで終わりだと思っていたが、「おや」と思うような話題が二つ出てきたので、再度の追加エントリーを加えることにした。
但し、二つの話題を一つに纏めると、
記事が長くなり過ぎて、読み手に不便であること、と、
内容的にも異質な話題であるので、 別の記事として、
▲昔のダンスホール(5・A)、 及び、
▲昔のダンスホール(5・B)、
に分けることにする。
★話題の第一というのは、思い掛けない新聞記事: (2007/6/7)の毎日新聞、「夕刊とっておき(あの日に帰りたい)」の頁である。
此処に、何と、以前に私が、(★昔のダンスホール(1))、に書いた
大阪ミナミのダンスホール、「メトロ」の内部、の1951年8月撮影の写真
が載っている。
私の記憶の通りの、懐かしいフロアの写真である。
写真には、「当時、東洋一の規模を誇った・」、と説明があり、床に立つ3本の椰子の木が天井に届いている姿が写っているが、
読者には、あの広さが実感出来ないのではないか。
客席の配置だって、奥行きの半分以下しか写っていない。
カメラの位置をあまり後ろに据えれば、フロアが見えなくなってしまうからであろうが、行った事のない人には、その事は分からない。
「当時、東洋一の規模を誇った・」という写真の解説も、知らない人に対する説明としては、不十分である。
私がブログ記事に書いたように、
「ダンサーの数、1000人を擁した」
と、書いたほうが、読者には訴えた、と思う。
或いは、ワルツ一曲の間に、ホールの外周を一周しないで終わった、
と説明すると、フロアー面積の巨大さが、理解して頂けるかも知れない。
ホールの記憶は、私の頭の中には鮮明に残っているが、写真は持っていないので、これは誠に貴重な映像で、嬉しく思って切り抜いた。
★そして、この新聞の記事文面としては、
今は、作家、作詞家として知られる、山口洋子氏の文章が、掲載されている。
彼女がミナミのホールの求人広告に応募をして、不採用になった、思い出話である。
彼女は、その後から名古屋のダンスホール“ダイヤモンド”で採用されたが、サービス係りにしかなれなかったので、早くダンサーになろうと、レッスンに通った話などがある。
この名古屋のホールも、私には懐かしいホールである。
或いは私は、若かりし日の山口洋子氏の手を握った事があるのかも知れない。
私は昔の“ダンスホールの客“の話を主として書いてきたので、ダンサーの側の話はあまり書いていない。
客の方だって、遠藤周作氏だとか、先代・神田山陽氏などの話を、未だ書いていない。
矢張り、もう少し頑張って、『昔のダンスホールの話』を書き足す必要が有りそうである。
▲ 昔のダンスホール(1)
▲昔のダンスホール(2)
▲昔のダンスホール(3)
で話は終わった心算でいたのに、往年の映画「哀愁」を見て、
大切な事が一つ欠落、していたのに気が付き、
▲ 昔のダンスホール(4)
を書き足した。
今度こそ、これで終わりだと思っていたが、「おや」と思うような話題が二つ出てきたので、再度の追加エントリーを加えることにした。
但し、二つの話題を一つに纏めると、
記事が長くなり過ぎて、読み手に不便であること、と、
内容的にも異質な話題であるので、 別の記事として、
▲昔のダンスホール(5・A)、 及び、
▲昔のダンスホール(5・B)、
に分けることにする。
★話題の第一というのは、思い掛けない新聞記事: (2007/6/7)の毎日新聞、「夕刊とっておき(あの日に帰りたい)」の頁である。
此処に、何と、以前に私が、(★昔のダンスホール(1))、に書いた
大阪ミナミのダンスホール、「メトロ」の内部、の1951年8月撮影の写真
が載っている。
私の記憶の通りの、懐かしいフロアの写真である。
写真には、「当時、東洋一の規模を誇った・」、と説明があり、床に立つ3本の椰子の木が天井に届いている姿が写っているが、
読者には、あの広さが実感出来ないのではないか。
客席の配置だって、奥行きの半分以下しか写っていない。
カメラの位置をあまり後ろに据えれば、フロアが見えなくなってしまうからであろうが、行った事のない人には、その事は分からない。
「当時、東洋一の規模を誇った・」という写真の解説も、知らない人に対する説明としては、不十分である。
私がブログ記事に書いたように、
「ダンサーの数、1000人を擁した」
と、書いたほうが、読者には訴えた、と思う。
或いは、ワルツ一曲の間に、ホールの外周を一周しないで終わった、
と説明すると、フロアー面積の巨大さが、理解して頂けるかも知れない。
ホールの記憶は、私の頭の中には鮮明に残っているが、写真は持っていないので、これは誠に貴重な映像で、嬉しく思って切り抜いた。
★そして、この新聞の記事文面としては、
今は、作家、作詞家として知られる、山口洋子氏の文章が、掲載されている。
彼女がミナミのホールの求人広告に応募をして、不採用になった、思い出話である。
彼女は、その後から名古屋のダンスホール“ダイヤモンド”で採用されたが、サービス係りにしかなれなかったので、早くダンサーになろうと、レッスンに通った話などがある。
この名古屋のホールも、私には懐かしいホールである。
或いは私は、若かりし日の山口洋子氏の手を握った事があるのかも知れない。
私は昔の“ダンスホールの客“の話を主として書いてきたので、ダンサーの側の話はあまり書いていない。
客の方だって、遠藤周作氏だとか、先代・神田山陽氏などの話を、未だ書いていない。
矢張り、もう少し頑張って、『昔のダンスホールの話』を書き足す必要が有りそうである。