二人のピアニストに思う

gooニュース、注目のトピックスで「フジ子ヘミングがNHK斬り」を見て自分でもブログを作り、発言したくなった。

昔のダンスホール(5・A)

2007-06-12 17:13:22 | ダンス
昔のダンスの話を書いて、
昔のダンスホール(1)
昔のダンスホール(2)
昔のダンスホール(3)
で話は終わった心算でいたのに、往年の映画「哀愁」を見て、
    大切な事が一つ欠落、していたのに気が付き、
昔のダンスホール(4)
   を書き足した。
今度こそ、これで終わりだと思っていたが、「おや」と思うような話題が二つ出てきたので、再度の追加エントリーを加えることにした。

但し、二つの話題を一つに纏めると、
  記事が長くなり過ぎて、読み手に不便であること、と、
  内容的にも異質な話題であるので、  別の記事として、
    ▲昔のダンスホール(5・A)、 及び、
    ▲昔のダンスホール(5・B)、
に分けることにする。


話題の第一というのは、思い掛けない新聞記事: (2007/6/7)の毎日新聞、「夕刊とっておき(あの日に帰りたい)」の頁である。

此処に、何と、以前に私が、(★昔のダンスホール(1))、に書いた
大阪ミナミのダンスホール、「メトロ」の内部、の1951年8月撮影の写真
が載っている。

私の記憶の通りの、懐かしいフロアの写真である。
写真には、「当時、東洋一の規模を誇った・」、と説明があり、床に立つ3本の椰子の木が天井に届いている姿が写っているが、
読者には、あの広さが実感出来ないのではないか。

客席の配置だって、奥行きの半分以下しか写っていない。
カメラの位置をあまり後ろに据えれば、フロアが見えなくなってしまうからであろうが、行った事のない人には、その事は分からない。

「当時、東洋一の規模を誇った・」という写真の解説も、知らない人に対する説明としては、不十分である。
私がブログ記事に書いたように、
「ダンサーの数、1000人を擁した」
と、書いたほうが、読者には訴えた、と思う。

 或いは、ワルツ一曲の間に、ホールの外周を一周しないで終わった
と説明すると、フロアー面積の巨大さが、理解して頂けるかも知れない。

ホールの記憶は、私の頭の中には鮮明に残っているが、写真は持っていないので、これは誠に貴重な映像で、嬉しく思って切り抜いた。


★そして、この新聞の記事文面としては、

今は、作家、作詞家として知られる、山口洋子氏の文章が、掲載されている。
彼女がミナミのホールの求人広告に応募をして、不採用になった、思い出話である。


彼女は、その後から名古屋のダンスホール“ダイヤモンド”で採用されたが、サービス係りにしかなれなかったので、早くダンサーになろうと、レッスンに通った話などがある。

この名古屋のホールも、私には懐かしいホールである。

或いは私は、若かりし日の山口洋子氏の手を握った事があるのかも知れない。


私は昔の“ダンスホールの客“の話を主として書いてきたので、ダンサーの側の話はあまり書いていない。
客の方だって、遠藤周作氏だとか、先代・神田山陽氏などの話を、未だ書いていない。


矢張り、もう少し頑張って、『昔のダンスホールの話』を書き足す必要が有りそうである。

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