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日本国民として見ておくべき場所を訪れてこなかった―歴史観の欠如

2017-06-26 17:02:04 | Weblog
いい歳になっていながら、日本人、いや日本国民として一度は見ておくべき場所を訪れていない。

若い時分だったとはいえ、倉敷や宮島は訪れたのに、広島の原爆資料館を訪れなかったのが悔やまれてならない。
振り返ってみると、仕事以外の旅行は物見遊山に終始していたように思う。
負の遺産から目を背けていたことは否めない。

筆者の育った時代は、『もはや戦後ではない』と言われた時代だが、それでも十分に戦後だった。
観桜会ともなれば、黄ばんだ白シャツにニッカボッカ、ゲートルを巻いた足の反対側は義足、あるいは両腕や両脚を失った傷痍軍人が地べたにゴザを敷いて、ハモニカを吹きながら物乞いをする姿は、祭りの定番だった。
しかし、戦争を体験した世代の人々は、出来れば忘れ去りたい、何を今さら、という気分だったのだろうか、子どもながらに大人のそんな気配を感じた。

今年、『しょうけい館(戦傷病者資料館)』(厚労省援護局)と靖国神社、『遊就館』を訪れた。
筆者の目には、靖国神社も『遊就館』も軍国主義賛美とは映らなかったし、A級戦犯を合祀しているから怪しからん、という批判にも即座に同調する気にはなれなかった。本当のことを言うと、判断を下すほどの知識がないからだ。
『A級戦犯』の合祀は1978年で割と日が浅いのだが、かつての敵国に攻撃の口実を与えることになるのは容易に予想がついたはずだ。
『A級戦犯』とは連合国側がいわゆる東京裁判で認定したものだろうが、降伏を決断できなかった日本の軍部や指導層が責任を問われるのは、敗戦国ならば、致し方あるまい。
『決められない』、一旦方向性が定まると、他の選択肢をとることができない、なんとなく風潮に押し流される日本人の国民性は変わらない。なかなか変えられるものでもないが、ご意見番のいない今の時代、この国民性に不安を感じる。

伝えられる歴史、その裏に隠された事実を知ること、事実以上の真実に迫ることは気の遠くなるような作業が必要だし、研究者でもない一般人には無理だろう。
そこまでしなくとも、とにかく若い時から、広く歴史的記念物に接することが大切な歴史教育の一環であるのは間違いない。

長崎の原爆資料館を訪れたのはもう二十年近く前のことだが、その惨たらしさに衝撃を受けた。降伏するのは目に見えている瀕死の国の民間人に対するこれ以上ない非人間的な行いは米国人に正しく伝えられるべきだと心から思った。
この時から、いつか広島にも行かねば、と思いながら過ごしてきた。

随分前になるが、香港マカオを旅行した際、抗日戦勝記念シーズンにあたり、街は抗日ポスターと電柱バナーフラッグで溢れかえっていた。正直「悪い時に来てしまった」と思ったものだ。
マカオ博物館では『抗戦時期的澳門』展が催されており、思い切って入ってみた。日本人観光客とおぼしき人間は見当たらなかった。
幼小児向けコーナーに差し掛かると、べニア板に描かれた銃剣を構えた旧日本兵がセンサー仕掛けで飛び出してしてくるのには閉口した。
一言も言葉を発せず、地味な格好で荷物も持っていなかったにもかかわらず、やはり日本人と判るのか、立ち見で満杯のミュージアムシアターでは「何しに来た」と言わんばかりの鋭い視線を周囲から注がれた。
この辺りの感情はきっと複雑なもので、「知るべきだ」と言いながらも、日本人が知るために行くと非難の視線を向けたくなる人が多いのだろう。


いくらでもチャンスはあったのに筆者は戦争について知ることをどこか避けてきたように思う。
日本の歴史教育は誤っていると、中国や南北朝鮮の国営メディアからあれこれ非難されるのは気分の良いものではない。
しかしながら、筆者自身について言えば、歴史教育と名の付く教育を受けたとは言い難い。試験対策の年号を記憶するだけの教育だったし、掘り下げて調べることも殆どなく、議論することもなかった。社会に出て以降も、自分なりの歴史観を培ってきたとは到底言えない。

遅まきながら、見聞きする機会を作ろうと思う今日この頃なのである。

現在、広島平和記念資料館(原爆資料館)本館はリニューアル中で、2018年7月再開予定らしいが、展示はしているので、あと1年と言わず、この8月には広島を訪れたいと思っている。
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