碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

長谷川テル・長谷川暁子の道 (108)

2020年01月25日 10時26分42秒 |  長谷川テル・長谷川暁子の道

 ebatopeko②

         長谷川テル・長谷川暁子の道 (108)

        (はじめに)

 ここに一冊の本がある。題して『二つの祖国の狭間に生きる』という。今年、平成24年(2012)1月10日に「同時代社」より発行された。

 この一冊は一人でも多くの方々に是非読んでいただきたい本である。著者は長谷川暁子さん、実に波瀾の道を歩んでこられたことがわかる。

 このお二人の母娘の生き方は、不思議にも私がこのブログで取り上げている、「碧川企救男」の妻「かた」と、その娘「澄」の生きざまによく似ている。

 またその一途な生き方は、碧川企救男にも通ずるものがある。日露戦争に日本中がわきかえっていた明治の時代、日露戦争が民衆の犠牲の上に行われていることを新聞紙上で喝破し、戦争反対を唱えたのがジャーナリストの碧川企救男であった。

 その行為は、日中戦争のさなかに日本軍の兵隊に対して、中国は日本の敵ではないと、その誤りを呼びかけた、長谷川暁子の母である長谷川テルに通じる。

 実は、碧川企救男の長女碧川澄(企救男の兄熊雄の養女となる)は、エスペランチストであって、戦前に逓信省の外国郵便のエスペラントを担当していた。彼女は長谷川テルと同じエスペラント研究会に参加していた。

 長谷川テルは日本に留学生として来ていた、エスペランチストの中国人劉仁と結婚するにいたったのであった。

 長谷川テルの娘である長谷川暁子さんは、日中二つの国の狭間で翻弄された半生である。とくに終章の記述は日本の現政権の指導者にも是非耳を傾けてもらいたい文である。

 日中間の関係がぎくしゃくしている現在、2020年を間近に迎えている現在、70年の昔に日中間において、その対立の無意味さをねばり強く訴え、行動を起こした長谷川テルは、今こそその偉大なる足跡を日本人として、またエスペランティストとして国民が再認識する必要があると考える。

 そこで、彼女の足跡をいくつかの資料をもとにたどってみたい。現在においても史料的な価値が十分あると考えるからである。


 このような若年の結婚の例は非常に多い。例を挙げよう。

 郭沫若の例をあげる。


  (七)郭沫若のこと
 
   郭沫若は、1892年11月16日、中国四川省成都平原楽山市沙湾区の中等地主兼商人の家に生まれた。

 郭沫若は、今の若い人には知らない人が多いと思いますが、偉大な政治家で中華人民共和国の副総理にもなった。1963年には中日友好協会名誉会長にもなり、1972年には田中角栄首相を迎え日中国交回復につとめた。また文学者でもあり、詩人、考古学者としても大きな業績がを残している。

   
 郭沫若は親の決めた女性(実は彼女は纏足であったという)と結婚式を挙げたものの、この時20歳の高等学校の学生で、経済的にはすべて父親に依拠しており、封建的な家の重さに押しつぶされそうに感じていたのである。

  「母親は最後にわたし(郭沫若)が親不孝だと責め、父が私の結婚費用や準備のために、あれこれと走り回り、この二、三日どんなに忙しかったか。それがやっと終わり、ほっとする間もなく、私がこんなことをして父を悩ませる。これは息子としてするようなことではないし、人間としてもしてはならないことであると言った」と自伝で述べている。

 実は郭沫若は生涯3回結婚している。最初の結婚は親によって決められたもので、彼は20歳であった。しかし彼は寝を共にせず5日で家を出た。そして日本に渡ったのである。

 そして、彼の苦衷を見かねた兄と、偶然兄を訪ねてきた兄の親友の助けで日本へ留学するにいたる。そして旧制東京一高等学校予科(現在の東大教養部)で日本語を学んだ。官費留学生であった。

 1913年12月末、日本に留学し東京第一高等学校予科(今の東大教養部に当たる)で日本語を学び、旧制六高(今の岡山大学)に進んだ。

  郭沫若は、日本語を学んだあと旧制六高(現在の岡山大学)に進学したのは、1915年9月であった。下宿は岡山市国富であった。同宿人には4人の留学生がいたという。

 3年間の六高時代は彼にとって印象深いものであったという。

 そして卒業まで三年間を過ごすことになる。その間、東京で同郷の友人を見舞った「聖路加病院」で、看護婦見習いであった佐藤お富(をとみ)という女性と偶然出会い、その中国人にはない職業婦人としての溌剌さに惹かれ、恋に落ち互いに愛し合うようになった。

  彼女は宮城県の生まれで、柳生流の指南役であった藩士の家系であった。彼女の父は日清・日露戦争に従軍しており、のち横浜の神学校を出て牧師をしていた。

 彼女は多くの結婚の話を蹴り、単身東京にでて聖路加病院看護婦の見習いの応募をして自活していた。彼女は英語も話せたという。

 そしてそこで劇的な出会いがあったのである。それが郭沫若であった。岡山にもどった郭は4~5回の手紙のやりとりのあと、決心し岡山市弓ノ町に居を構えた。彼女を迎えるためであった。こうして同居生活が始まり彼女の妊娠をきっかけに、1916年に結婚した。      

 
 戦後、1955年冬、当時の岡山大学学長、清水多栄先生らに案内されて後楽園を見物した郭沫若は、通訳ぬきで(彼は青年期に10年、壮年期に10年と都合20年間も日本での生活をしている)「38年前、この園内を通って六高に通学した。操山、旭川のボートなど何もかも懐かしい」と、嬉しそうに言ったと言う(『山陽新聞』)。 


 さらに1919年、九州帝国大学(現在の九州大学)医学部に進学している。
六高を卒業したあと、彼は九州帝国大学(現在の九州大学)医学部に入学した。 

 その在学中1921年に在日中国人らとともに『創造社』を創設し、革命的文学活動に参加する事になる

 1923年九州帝国大学を卒業したあと、中国に渡り国民党に参加し、国民党の政治総括主任となり「北伐」の政策にも加わり党の実力者になった。しかしのち蒋介石と対立し、共産党に入った彼は蒋介石に追われ1928年日本に亡命することになった。

  
 郭沫若自身の書いたものに、とみ夫人が出て来るのは「創造十年」以降で、貧しい留学生活の中でのとみ夫人の「糟糠の妻」ぶりがよく描けている。

 創造社時代の彼は、時にはとみ 夫人や、子どもを連れ、時には単身で何回も日本と中国を往復した。彼が国民革命軍総政治部主任として北伐に従軍した時、とみ夫人と子どもは広東に残ってい た。

 「佐藤をとみ(お富)」のことは、意外に知られていないような気がするが、彼女は「長谷川テル」とおなじく中国人と結婚し、日中戦争さなかの難しい時代に日中間の橋渡しをした人物として、もっと取り上げられるべき人物だと思う。


 そして1927年4月、蒋介石の反共クーデターをおこなった。郭沫若は追われ各地を転戦し、散り散りになった少数の一隊で山中を潜行した。ようやく小さな漁港から香港に脱出したが、この潜行の時に安琳という女性がいっしょだった。のちに彼女が彼の第三番目の妻となった。


 郭沫若は、なかなか印象的な女性として彼女にも、同志という枠をややはみ出た感情を抱いたらしい。

 郭沫若は後の文章の中で、こう書いてい る。彼が香港から上海にもどってとみ夫人等とも落ち合い、日本へ行く準備をしていたころのことである。このころ 安琳も上海に来ていた。

 私があなたがたの邪魔をしているのね」夫人アンナ(安娜=妻「をとみ」のこと→アンナカレーニナからとったものという)は、郭沫若を自由 にすると言った。

 私 はそれ以上は話さなかった…」(「上海を去るまで」)安琳との仲は、これきりになった。1928年、郭沫若は夫人と子どもを連れて日本に亡命し、市川に隠棲して甲骨文、金石文など 古代史研究ぼに没頭した。

 市川市での亡命は10年間におよんだ。男の子が一人ふえて、息子四人 娘一人になっていた。その五人の子どもととみ夫人とを残して、祖国の危機にかけつけた心境は「日本から帰る」に記されたいる。

 しかし1937年7月、彼は盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発すると、密かに日本を脱出し、国民政府の中で対敵宣伝部、第三庁の庁長として働いた。、子どもと妻を残して帰国したのである。


 劉仁と長谷川テルは1937年12月に広州に着き同じく広州にいた郭沫若に助けを求め、彼の推薦により漢口で対日宣伝放送に参加することとなる。 

 国民政府の重慶移転後、郭沫若は「文化工作委員会」の長となる。

 ここで長谷川テルがエスペラントで書いた多くの文章が中国語に翻訳され、テルの代表作である『嵐のささやき』として出版された。 

 1911年の辛亥革命から始まった中国の近代化の波は青年の自我を目覚めさせた。

 自覚した若者たちは、男子は辮髪(べんぱつ)を切り、

(注:辮髪または薙髪とは、古来アジア北方諸民族の間で行われていた男子特有の髪型。後頭部を除く頭髪を剃り上げ、残した頭髪を長く伸ばして編み、背後に垂らす。時代や民族により相違がある。清代に西洋人は(pig tail=豚のしっぽ)と呼んだ。北方民族が中国を支配した際、中国でもおこなったが、その徹底を図ったのが清朝であった。

清朝では17世紀前半、薙髪令を出し、違反者を厳しく罰した。このため、清代を通じ一般的習俗となったが、清代末批判勢力が台頭し、辛亥革命の断髪令(1911)により廃止された)

 女子は纏足をしなくなっていくが、纏足の習慣は辮髪を切るように簡単にはいかず、完全になくなるには相当の年月を要した。

 辮髪を切り、清朝の崩壊を目前にし、時代の変化を敏感に感じ初めた青年たちが、自由な恋愛と結婚を切望するようになっていったのは当然のことである。


 劉仁の結婚について、あれこれの説があるので、ここで郭沫若の例をあげて、郭沫若の結婚とその概要を記してみたい。

  郭沫若は親の決めた女性(彼女は纏足であったという)と結婚式を挙げたものの、この時20歳の高等学校の学生で、経済的にはすべて父親に依拠しており、封建的な家の重さに押しつぶされそうに感じていたのである。

 郭沫若の母親は「纏足は解き放てばよい、それに大切なのは性格と素質。私が礼儀を仕込むから」(郭沫若研究会報 2004.5.30)より。
 
 2006年四月、私(木田)は近年交流をつづけている著名な文学者・政治家の郭沫若の娘、郭平英女史を北京の郭沫若記念館に訪ねた。

 訪問の目的の第一は、彼女にこの本への寄稿を依頼するためであった。

 私はこの本の出版の目的や内容を詳しく説明し、うれしいことに郭平英女史は原稿を書いてくださることになった。

 この話し合いの過程で、私が「劉仁と長谷川テルの恋愛と結婚」について書く予定であると話した。

 さらに日本で心ない一部の人間が、「劉仁はテルを騙した」とか「重婚である」とか書いていること、ひいては「テルの流産手術は、劉仁に妻がいたことがいることが判り、そのような人間の子どもを生みたくないとの考えからなされたものである」などと発言もし、文章にもされていることを説明した。

 このことが長谷川テルと劉仁のイメージを損なっており、劉仁がテルを騙した悪者のような感じで書かれていることに納得できないし、娘の長谷川暁子さんの気持を傷つける行為であると思うので、私は、この本の出版に際し、事実は事実としてきちんと書き、その上で、テルと劉仁の結婚がいわゆる「重婚」には当たらないことを証明したいと考えていることを女史に話した。

 女史は「日本の方は当時の中国の封建制度下の婚姻の風習や実態を知らないからそんな見方があるのでしょう」と言い、「もしあなたの文章の役に立つなら、私の父のことを例にして説明をしたらいいですよ」と言ってくれたのであった。


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