碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

長谷川テル・長谷川暁子の道 (115)

2020年05月08日 17時16分07秒 |  長谷川テル・長谷川暁子の道

ebatopeko②

         長谷川テル・長谷川暁子の道 (115)

           (はじめに)

 ここに一冊の本がある。題して『二つの祖国の狭間に生きる』という。今年、平成24年(2012)1月10日に「同時代社」より発行された。

 この一冊は一人でも多くの方々に是非読んでいただきたい本である。著者は長谷川暁子さん、実に波瀾の道を歩んでこられたことがわかる。

 このお二人の母娘の生き方は、不思議にも私がこのブログで取り上げている、「碧川企救男」の妻「かた」と、その娘「澄」の生きざまによく似ている。

 またその一途な生き方は、碧川企救男にも通ずるものがある。日露戦争に日本中がわきかえっていた明治の時代、日露戦争が民衆の犠牲の上に行われていることを新聞紙上で喝破し、戦争反対を唱えたのがジャーナリストの碧川企救男であった。

 その行為は、日中戦争のさなかに日本軍の兵隊に対して、中国は日本の敵ではないと、その誤りを呼びかけた、長谷川暁子の母である長谷川テルに通じる。

 実は、碧川企救男の長女碧川澄(企救男の兄熊雄の養女となる)は、エスペランチストであって、戦前に逓信省の外国郵便のエスペラントを担当していた。彼女は長谷川テルと同じエスペラント研究会に参加していた。

 長谷川テルは日本に留学生として来ていた、エスペランチストの中国人劉仁と結婚するにいたったのであった。

 長谷川テルの娘である長谷川暁子さんは、日中二つの国の狭間で翻弄された半生である。とくに終章の記述は日本の現政権の指導者にも是非耳を傾けてもらいたい文である。

 日中間の関係がぎくしゃくしている現在、2020年を間近に迎えている現在、70年の昔に日中間において、その対立の無意味さをねばり強く訴え、行動を起こした長谷川テルは、今こそその偉大なる足跡を日本人として、またエスペランティストとして国民が再認識する必要があると考える。


 (十三) 武漢から長沙、桂林を経て重慶へ

 1938年10月中旬、武漢が陥落し国民党政府は重慶に移る。

 テルと劉仁は、はじめは重慶市内の大田湾というところに住み、日本人の反戦作家、鹿地亘夫婦と隣り合わせに住む。

 1939年夏、テルと劉仁は、日本軍の激しい爆撃をさけ、第三庁のひとたちとともに郊外の頼家橋の金剛村に落ちつく。

 テルはその年の9月、「失した二つのリンゴ」を書いた。

 テルのこの詩には、祖国を愛し、遠く離れている母を思う気持ちがあふれている。

 身内からさえ強気で強情で我が儘と言われ、日本の新聞からは「嬌声売国奴!」と罵られても敢然と頭を上げているテルである。だがその心の内では、病身の母を思い、反戦放送のマイクの前に立てば、思わず「お母さん!」と呼びかけたくなると、哀しく切ない気持を余すことなく書き表している。それでも彼女は

たいせつなおかあさん わかってほしいのです

この大陸で 日本で 世界で

紅いリンゴが永遠に美しく実るようにと

ときならず落ちた無数のリンゴのうちの

たった二つだけだ ということを!


 と終章に書く。
 あくまでも長谷川テルの不屈の意志は変わらない。

 1940年、第三庁は「文科工作委員会」に改組され、テルと劉仁は郭沫若のもとで引き続き対日宣伝活動に従事する。

 (不明) ・・・・石川達三『生きている兵隊』 悪魔の囁き』を「中国報道社」から出版している。

 1941年7月27日、文化工作委員会が「郭沫若帰国参加抗戦記念」の行事を行い、二人はこの会に参加した。

 この時の記念写真が重慶紅岩博物館にあり、郭沫若、馮内超、などとともに、劉仁の姿がみられる。

 そしてこの年劉仁とテルに男の子が生まれ、劉星と名を付ける。

 不明(耳みっつ)長林いう人の『続「幻の建国大学」抗日曲折行ー建大を出てから』(不明)長林記・岩崎宏日文校訂)という本がある。

 不明(耳みっつ)長林の1938年、長春に日本政府によって建てられた「建国大学」に1940年に入学し、1943年末に脱学し山海関を出て(旧満州国から脱出)、1944年末、重慶にたどり着き、日本が敗北してから東北に帰り着くまでの経験をまとめたものである。

 この人は重慶で長谷川テル、劉仁が編集長をつとめる雑誌「反攻」の出版に携わる。彼は新中国成立後「人民日報」の記者として日本で働いており、北京に健在である。

 この本によって私たちはテルと劉仁の重慶での戦いと暮らしの一端を知ることができた。また1945年、日本が無条件降伏した後、国民党が第二次世界大戦終了後の中国の政治の主導権を握るため、内戦を引きおこそうと画策し、治安が乱れ経済も大混乱をきたし、騒然とした中を、幼い劉星を連れ、故郷の東北へ 向かう二人の姿を知ることができた。

 
 引用が長くなるがお許し願いたい。
 
 「1944年の夏、第二次世界大戦の形成(形勢?)が急激に変化した。世界反ファシズム戦争は、勝利の曙光がもう間近に迫っていた。

 周恩来は高崇民、閻宝航らに抗日戦争勝利後の準備のため「東総」を基礎に政治団体を作るように指示した。

 この指示に基づき「東北民主政治協会」が組織された。1944年秋、まず「反抗」を復興させることにした。

 そのため劉砥方(劉仁)と緑川英子(長谷川テル)夫婦が起用され、私と孫恵勲に声がかかった。

  劉砥方が編集長で、孫恵勲と私は編集の仕事に当たった。

 緑川はエスペラントで「戦う中国にて」を書いて「反抗」に連載していた」とあり「私が着いたとき、一緒に生活していく人は、高崇民、王桂珊夫婦とこども一人、劉砥方(劉仁)と緑川英子(長谷川テル)夫婦とこども一人、白振鐸、孫恵勲、私と料理人一人、計11人であった。」と書いている。

 聶(じょう)長林、孫恵勲、白振鐸、は建国大学の学生で、日本語がよく話せ、また三人は東北の出身者である。

 ここに高崇民という人の名前と「反抗」という雑誌が出てくる。

 この人は劉仁とまことに深い縁のある人のようだ。

 「高崇民(1891~1971)は遼寧省開原県の出身で、1919年、日本の明治大学を卒業した。帰国後北京、瀋陽でジャーナリスト、教職、商工会、農会の指導者を勤め、日本が大連、旅順の租借地を延長するのに反対し、満鉄支線建設に反対する大衆運動を指導した。

 「九・一八事変(日本でいう満州事変)」後、「救国会」、「復東会」、「東総」東北民主政治協会など、東北関係の救亡団体の主な責任者として活躍したほか、国民党左派が建てた中国民主革命同志会、三民主義同志会と、国民党の一党独裁に反対する中国農工民主党など、いわゆる「三党三派」および無党派者からなる中国民主同盟にも加わって、断固として、抗日と民主のために、日夜奮闘してきた。

 「復東会」が併呑されて後、高崇民は西安に赴き、蒋介石のそそのかしで張学良と楊虎城とが仲たがいしているのを調停して、「西安事変」の勃発を促した。

 事変発生後、東北軍と西北軍との歩調を合わせるために、ブレーングループとして「設計委員会」を設置し、高崇民がそのその主任の職に任ぜられた。

 日本が投降してから、東北に帰り、中国共産党に加わった。」と聶(じょう)長林は書いている。

 読者諸氏は、「劉仁がまだ東北大学の学生の頃、高崇民、閻宝航、陳先舟など東北地方の進歩的知識人が組織した「東北民衆抗日救国協会」が北平(現在の北京)に成立しこの組織の呼びかけに応え、1931年の夏休み以前に東北大学を離れ実践的活動に参加したことからもうかがえる」と筆者が第四項で書いているのを思い出されているだろう。

 つまり劉仁はこの高崇民の指導する抗日救国団体と学生時代にすでに関わりをもっていたことになり、重慶では直接この人の下で「反攻」の編集長として働くことになったのであった。

 さらにもう一人の指導者、閻宝航(1895~1968)は、同じく、聶長林によると「遼寧省海城県出身で1918年、師範学校卒業後、貧民救済に身を捧げた人である。

 貧民児童学校を創立しその校長となり、同時にキリスト教青年会を拠点として、愛国運動を展開した。この間張学良と親友となり、1927年にイギリスに留学した。『9・18事変』後高崇民たちと共に抗日運動に携わる。

 1936年、周恩来と知り合い、共産党に加わった。経済界や文化界との関わりも深く、1946年に東北解放区に入り遼北省主席に任命され、新中国成立後は外交部鞭公庁主任(官房長官に該当)、中国人民政治協商会議常務委員などを歴任した」

 テルと劉仁がともに仕事をしたこの人たちは、「愛国主義から共産主義に進んで、後共産党に加わった」と聶長林は述べており、高崇民が共産党に加わるのも日本の投降後、東北に帰ってから後のことであった。
                     
 雑誌「反抗」は1938年に漢口で創刊され、月二回の発行であった。「反抗」という題字は郭沫若の筆である(郭平栄女史による)。

 主な内容は、抗日運動を呼びかけ、東北抗日義勇軍、抗日連軍の抗日闘争の実情を宣伝するものであった。東北で有名な作家粛軍たち何十人もが編集委員として招聘され、青年の間に大きな影響力をもっていた。

 1944年当時「反抗」の編集部と印刷所は、重慶の嘉陵江北岸、町外れの猫児石李家坪にあった。テルと劉仁と息子の劉星を含む11人の生活は実に貧しく、誰も給料も手当も一銭もなく、皆がひとつの釜のめしを食べ、おかずは市場で手に入るものの中で一番安い菜っ葉「空心采」と「紅莧菜」しかなかったという。

 やがて1945年8月15日、日本政府はついに無条件降伏をした。

 テルは日本を離れて8年、中国人民と肩を並べ抗日、反ファシズムの戦いを戦い抜いた。その心の中はでんなであっただろうか。

 聶長林が日本語の通訳として働くため、一足早く重慶を離れることになった。その時までテルは自分の家については一言も口にしなかったが、初めて自分の日本の家のことを聶長林に話し、弟のことを「弟は年齢からいって、たぶん召集されているだろう。

 もし捕虜の内に長谷川弘がいたら、長谷川テルが健在であると伝えて下さい」と頼んだと言う。

 テルが中国に渡るについて、激しく反対した弟であるが、やはり姉として弟の身を案じていた。またもし弟と連絡がついたなら、自分のことを心配しているに違いない母を安心させることができるという、一縷の望みもあったのだろうか。 

 1945年2月初め、テルと劉仁は息子の劉星を連れて漢口に着いた。
 
 周恩来、高崇民などの指示に従い、故郷東北に帰り解放後の仕事の準備をするためであった。

 この時漢口でテルと劉仁と劉星、孫恵勲の四人が写した写真がある。

 東京時代の劉仁のことを葉君健は「劉仁は言葉数は少ないが、感情豊富で、割合激興するタイプで、口を開き二言、三言しか話さないのに、額にはもう青筋が立ち、頬は真っ赤に染まり、何か胸のうちにあるものが、喉の出口の所を塞いでいるかのように見えた」と書き、

 さらに「彼は十言を一言で言い表そうとするかのようで、強い東北訛りが一層その印象を強めていた」と言うが、この写真の劉仁はもうすっかり落ちついた、穏やかであるが鋭い眼差しをした大人と言う印象がする。

 劉仁の腕にしっかりと抱かれていた劉星はまだ四歳だ。可愛い顔をしている。賢いこどものようだ。

 隣のテルは中国式のブラウスの上に濃い色の上着を着ている。髪は耳の下あたりで切り揃えられており、豊かだった頬はすっかり痩せ、顎が尖っている。だがその眼は相変わらず真っ直ぐ前を見ている。

 東京時代のテルより、ずっと綺麗になったいる。中国での八年余の困難な生活が、彼女の中産階級のお嬢さま的な雰囲気や、なにか余分なものをすっかり取り払って、静かな、凛とした中に温かさのある素晴らしい女性に変えたようだ。

 重慶では経済的に極度の貧しさに加え仕事が忙しく、体を壊し、テルも劉仁も結核に倒れている。

 この頃劉仁もテルも健康を回復したのだろうか。

 漢口では劉星が国民党の特務に誘拐されるということがあり、幸い一週間で取り戻せたが、危険が迫っていることは明らかであった。

 同じ東北に帰る聶(じょう)長林、孫恵勲、金沛霖(きんはいりん)と
劉仁夫婦と劉星はこの後上海、秦皇島(しんこうとう 注:秦始皇帝を名称の由来とする。始皇帝が不老長寿の仙人を求めた地という。万里の長城の東端の山海関にあたる)を経て1946年2月上旬(旧正月の元宵節の二日後と聶長林は記している)に瀋陽に到着した。

 劉仁にとっては12年ぶり、テルには初めての東北瀋陽(旧称奉天)であった。ここで同年四月、娘の劉暁嵐(現長谷川暁子)が生まれた。


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