碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

『生田長江詩集』を覗く (24)

2017年03月09日 13時52分03秒 |  生田長江


      ebatopeko

 

 

            『生田長江詩集』を覗く (24)


 

  (はじめに)

 先日、米子市立図書館で『生田長江詩集』を手に取った。「白つつじの会」生田長江顕彰会が発行したものである。生田長江については、鳥取の生んだ偉大な文人で、明治から昭和の初めにかけて活躍した人物である。生田長江顕彰会は詳しい「年譜」を出しておられる。それも引用しながら、生田長江が浮かび上がれば幸いである。

 生田長江についてはまた、荒波力氏による『知の巨人 評伝生田長江』が五年前の2009年に刊行されている。

 また鳥取県立図書館による『郷土出身文学者シリーズ⑥』で、生田長江が取り上げられている。大野秀、中田親子、佐々木孝文の各氏による生田長江の再現が嬉しい。

 生田長江については、私もかってブログの「三木露風を世に出した生田長江」①、②で記したことがある。→ 2009・3・13~14

  今回上記『生田長江詩集』の編集をされておられる河中信孝氏の「解題」に沿って、今や忘れられんとする明治~昭和にかけての、鳥取の生んだ「知の巨人」生田長江を知りたい。

 彼の文人(評論家、翻訳家、創作家ー小説、詩、短歌、戯曲)として、また当時の論壇の中心であったその一端を紹介し、「白つつじの会」のご活躍をお祈りしたい。


 私は、散文や歴史などは少し読んだことはあるが、詩にはまったくと言ってよいほど縁がなかった。

 それで、図書館で『生田長江詩集』を見たとき、生田長江がどんな詩を書いているのかを知りたくて借りてみたのである。しかし案の定その詩は難解で、それを味わう、観賞する能力など私にはなく、ブログのタイトルを『生田長江詩集を覗く』とせざると得なかったのである。   

 そこで、私は生田長江がこの詩集の中で、何を訴えようとしているかわからないままに、私の目についたいくつかの詩を「覗いて」みたい。


    
   (前回まで)

             『自筆ノート『玉石混淆(ぎょくせきこんこう)』
      不蔵私怨  常楽公争(注:これについては、河中氏による説明がある。以下引用する。

 ノートの表紙と、P1に、同趣旨の漢文がつづられている。「私怨を蔵(かく)さず」については、晩年の弟子藤田まさとに読むように勧めた「法句経(ほっくきょう、注:最古の仏教教典)」に「不怨」の教えがある。

これが後年藤田まさとの作詞した「明治一代女」の歌詞「怨みますまい、この世のことは、仕掛け花火に似た命・・」に結実していると思われる。また、佐藤春夫の弔詞にも「身を泣かず人を怨みず」とあり、長江は常々弟子たちにこのことを言っていたと思われる。

 「常楽公争」については長江の言葉に「どんな場合にも喧嘩両成敗」になることが「公平」と思われている今日では、「公平」な仲裁をするよりも「正直」な喧嘩をしたいと思う」と言っている。

文壇という公の場で、論争を収めるような折衷的な態度をとるより、思いきりの議論を心掛けていた。1914(大正)3年、『反響』創刊号P115消息後書き )

P1

 不蔵私怨(私怨ヲ蔵(かく)サズ)

 常楽公争(常ニ公争ヲ楽シム)
 爽如新月(サワヤカナルコト新月ノ如ク)
 與長江流(長江ト流ル)


P2

 長江訳

  病める薔薇(さうび)

 花薔薇(はなさうび)、はなさうび
 汝(な)は病めり。飛ぶかげの
 見もわかぬ夜の蟲(むし)の、
 風さゆる闇にして
 深紅(しんく)なる歓樂(よろこび)の
 汝(な)が床を見出でたり。
 そのくらく密なる戀(こい)に
 戀(こい)にしも汝(な)は死なむ。

   (注:生田長江は、東京帝国大学在学中から翻訳に力を入れており、『ニーチェ全集』全10巻(1916~29)は「ツァラトゥストラ」をはじめ彼の生涯最大の結果である。また日本で最初に『資本論』を翻訳したことでも知られる。
 ここでは、
花薔薇(はなさうび)深紅(しんく)なる歓樂(よろこび)の、戀(こい)にしも汝(な)は死なむ、という表現が印象的である)


 (泰西(たいせい、注:西洋・西洋諸国の意)名詞名訳集』中

 

 

  (以下今回)


  P3  一九一一、八月六日(明治四十四年 長江 二十九歳)

  愚かなる物語よみて

  いたづらに泣きしむかしを思ふ。

 今かくはみみづから

 悲しき事に遭(あ)へども涙なし。

 

  一九一一、六月頃

 さびしさよ

 つゆのまの ややはれしひも 

 ふぢだなのふぢのかげより

 かへでより さるすべりより

 

  P4  一九一三、五月十一日(大正二)

おなじ少女の我が家に花ひとつあらぬを あはれがりて帰りけ                       れば

わがいへは はなはなけれども をりをりに

きみのきませば はなやかにあり

みこころを きたのそらなる ほしとあふぎ

くらきたびぢも やすらかにゆく


なみだはも まひるをはづる ものゆえに

ただごといひて わかれけるかな 

 

P5  五月十三日


   讃美の歌


在天の父なる神は

地上の子等にさまざまの

げにさまざまの善き物を與(あた)へたまへり

あるひは黄銅のごとくたくましきかひなを

あるひは日輪のごとくほがらかなるひとみを

あるひはすぐれたる韻律の天賦を造形の老朽を

あるひは名を富をよき地位などを

それぞれになくて かなはぬものを與(あた)へたまへり


在天の父なる神は

その子の一人なる此我にも

ひとつの善き物を與(あた)へたまへり

 

P6

すべての時と すべての事とに

兎も角もして堪へ行く不思議なる強さを

ゆくゆくは正しき人ヨブの試みに 否

歴代の預言者殉教者達の

如何ならむ哀み苦みに置かるるとも

かたくなに黙して忍び得べき力を

この我に無くてかなはぬものを與(あた)へたまへり

 

P7

謝すべきかな

神は善き物を與(あた)へたまへり

キリストはくしくも言ひたまへり

 

重き病にありて歌へるものの歌

霊肉一にして二ならず

我等身に病あるは心に病あればなり

願わくは我等もまづ

この穢れたる心をきよらかにし

この弱き魂をすこやかに強くして

いにしへの聖等(ひじりら)の人々の上に行ひたまひし

いと大なる不思議のわざを


 

  P8

我等自らの上になさむかな

 

  P9  一九一六年六月六日(大正五)


幸福に                          

一日の労役からゆるされた奴隷は、

夜深く硬いベッドへ退いて、

思ひを遠く故郷の家へはせようとした、

いたましき過去でもあり、

より いたましき未来でもあるその家に。

けれども奴隷は労(つか)れていた。

その心が如何なる形をも 

いななる姿をも描き出せない前に、

重い瞼(まぶた)がすべての物に、

さうだ、すべての物に幕を下ろしてくれた、

昨日のごとく、一昨日のごとく幸福に。

 

P10   六月六日


愛と報酬

私はお前を愛しているーその私が、

お前からも愛して貰ひたいのは何故か?

愛するお前を、より多く愛し得る事の為めなのだ!


報酬を求めない愛は あり得ない。

 

P11   六月六日


別れ行く人々よ

別れ行く人々よ、

別れ行くときの涙を惜しめ。

互いに涙を見せ合うことも出来ぬ、

本当の淋しさの来たとき泣く為めに。


自分ひとり忘れずにゐると思ふ

その哀しさに、その嬉しさにはじめて泣く為めに。

 


P12   一九一六年八月十九日  

かのひとも いきてこのよに・・・

ひややかにみづをたたへて・・・


P13

おもひでのふるきをたづね・・・

たちつくしものをおもへば・・・

    以上四篇 詩文省略

 

P14~15


恋人をその恋人は 

イスラエルの子等のエホバ神を恐れしごとく、

愛すべき未開の民の

偶像を拝し、庶物を拝したるごとく

恋人はその恋人をかしこみ恐れて 

まのあたり見たることなし 

しみじみと見たることなし 

ー恋人をそのこいびとは。


うらわかきこひのをはりに 

よきほどのなみだながしつ 

はらからになれといはずば 

をみならもかしてからまし


ふるきさけのかめにあるより 

ふるきこひのむねにあるより 

よきはなしよろしきはなし


 

P16~17

みこころをはかりうべくは 

やまぶきのみにおぼえなき 

とりさたもあれかしとこそ


よりちかくあるをねがはず 

やがてまたとふのき(遠のき)たまふ 

きみゆえにきみとしるゆえに 

うたがひのあめふりしきる 

よひやみはこひのみかさも 

いやまさりまさりゆくかな 


あひらぬ めでたきひとの 

おもかげをまぼろしにみる 

わかきもののわかきこころに 

わかがへりきみをきみをまちけり


 

 P18~19

おろかなる巡礼

とり返しがたき こしかたのごとくなづかしきもの 

善き人の犯せる美しき罪悪のごとく美しきもの、

なまめかしき婦人の整はぬ一部分のごとく心をひくもの

誘惑の水に自負心の心の姿をうつす 

牡鹿の角のごとくよろこばしきもの 

かりそめの病と快癒期の軽き痛みと、

小さく愛らしき物を眺めてながす甘き涙と、

またうら若き死とのごとく慕はしきものを、

いたづらにこれらのものを求めて

やや老いし我等の心もなほ おろかなる巡礼の途上にあり。

 


  ありしひを              


(注:前に長江の詩「永久の悪夢」についての河中信孝氏の解説で記させて頂いているが、今一度紹介したい。詩の中で「さっさと行ってしまった彼女のあとに・・」について推測すれば、

長江は1909年明治四十二年一月から、成美女学校の生とであったS嬢と文通を交わす。

この年八月、和歌山・新宮の講演旅行先から、生田春月にあてた手紙に「東京の留守宅のことを思ふと、残酷極まることをして来たやうに感じて、慄然とすることもある。

・・(妻・藤尾を)愛していることは千枝子よりもSよりも、その数層倍も深く愛して居る。と、少なくとも今は思ふ。しかしながら此愛は殆ど純粋なる兄妹の情となって了った。僕は永久に恋をして居たいのである・・・」と述懐している。

およそ五ヶ月続いた文通は、プラトニックのまま長江がS嬢を喩(さと)し自らを葬る形で終わった。これらの詩を見ると、それが長江の人生に何らかのかげをおとしているように思える。またハンセン病ゆえに抑鬱を余儀なくされた苦悩が綯(な)い交ぜになっている。

(なお、与謝野晶子が最後まで生田長江をそのハンセン病を理解した上で支持してくれたことを、彼が深く感謝していたことを記している)

しかしこれらが同時に、原動力になって、翻訳に、評論に、創作に、後進の発掘に邁進(まいしん)するエネルギーとなったと考えられる。

なお、この一連手紙のやりとりで、S嬢が成美女学校最後の卒業式後、両親のすすめで結婚したことが判明する)


ありしひをかへりみすれば

ゆきじろのしろきうなじに

くろかみのくろきをなびけ 

みをよせてなくことのほか

しなばやといふことのほか

すべしらぬをとめのこひの 

かにかくにやすかりしかな

(『新潮』第二十六巻第一號大正六年一月 『寒燈秘抄』にもあり)


 (注:かな文字のみの心惹かれる詩の数々、そのロマン的な表現の美しさ、いくら味わっても尽くせないものがある。その底にプラトニックに最後まで終始した「S嬢」との愛。

さらにその奥にに「ハンセン」病に蝕まれた自らの肉体と、その深き奥に見つけ出した生田長江の限りなき深い心を見ることが出来る。そしてそれらを包括した上で、長江を温かく見まもった明治女性与謝野晶子の素晴らしさを味わうことが出来る。

そのころ長江が日本で最初に『資本論』を翻訳したのを、これを「らい」の『資本論』とさげすみ駆逐した高畠素之と比較すると、与謝野晶子という人物のスケールの大きさを心底から驚嘆をもって感じ、その偉大さを賞賛したいのである)



1 コメント

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ブログを作っていただき深謝 (河中 信孝)
2017-04-02 09:24:53
 お恥ずかしながら、最近、貴ブログを拝見。誠に嬉しく存じました。
 「生田長江詩集」をを精読いただき、さらに、碧川方と三木露風、音羽信子や因幡二十士など、顕彰すべき多くの方々に触れていただいています。
 おそらく、長江セミナーにもお出かけいただいたこともおありのお方とも損じますが、もし、お名前などお教えいただければ、「白つつじの会=生田長江顕彰会」の発行しました本など、お目通しいただければ幸いです。 特に「生田長江評論選集」で、「近代の超克」に関して私が一知半解の解釈にもとづき、長江が超克しようとした「近代」に我流の展開を試みていますので、ご批正いただければと存じます。
 どうか、このメールが無事お目に留まりますように。
officesk@chukai.ne.jp 河中信孝〒689-3553鳥取県西伯郡日吉津村日吉津1512-27
長文失礼いたしましたm(_ _)m
 

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